僧侶Aの掲示板



〜月影の至らぬ里はなけれども 眺むる人の心にぞすむ〜
南無阿弥陀仏


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その気持ちをごまかさないことは正しい 投稿者:僧侶A  投稿日:11月14日(水)18時22分28秒

>こんな考え方、駄目でしょうか??

 駄目とか、正しいとか、そういうことではないんです。

「努力して真面目に生きていても、だらだらと生きていても、
 阿弥陀さまの前では関係ありません」

 このことは、そのときの聞く人の状態によって、いろいろに聞こえるのです。
 いまのかりんさんには、

   ほら救われた。
   ってなこと、あるかい!
   やっぱりがんばるしかないね。

…に近く聞こえているんでしょうかね?


すみません 投稿者:かりん  投稿日:11月14日(水)15時05分42秒

折角返信していただいたのに、お礼を言うのを忘れてしまいました。
どうも失礼致しました。
いつもわかりやすいお返事で、自分の身になります。
ありがとうございます!


なんとなく・・・ 投稿者:かりん  投稿日:11月14日(水)15時03分45秒

下の返信を読ませていただいて、素直な感想が
「おもしろい〜(^。^)」でした。
私の頭では、はっきりと理解する事は出来ませんが
なんとな〜く雰囲気がわかりました。
「救われたい」なんておこがましい心をもっている人間を
救っていただけるって事でしょうか??
下の返信を読むと、「救われたい」って思う心さえおこがましいものなんだなって感じました。
ん〜〜、でも人間の欲ですが、頑張った分、何か返ってきたらいいのになって思いますね。
その分、頑張って毎日を生活しようって言うやる気にも繋がるような気がするんですけど。
こんな考え方、駄目でしょうか??


単純な質問が難しい… 投稿者:僧侶A  投稿日:11月14日(水)14時18分37秒

「努力して真面目に生きていても、だらだらと生きていても、
 阿弥陀さまの前では関係ありません」

   それじゃ、がんばってもしょうがないな。
   がんばるの、やめちゃえ。
   だら〜り、だら〜り。

 それで救われるのでしょうかね。

   ほら救われた。
   ってなこと、あるかい!
   やっぱりがんばるしかないね。

 それで救われるのでしょうかね。

   えっさほいさ、えっさほいさ。
   これだけがんばったから、救われるかな。

「努力して真面目に生きていても、だらだらと生きていても、
 阿弥陀さまの前では関係ありません」

   そんなことない。
   がんばったから、救われるだろう。
   えっさほいさ。えっさほいさ。

「努力して真面目に生きていても、だらだらと生きていても、
 阿弥陀さまの前では関係ありません」

   なかなか、救われない…。
   何もしないから、救ってくれ〜。
   きぇ〜っ。とりゃ〜っ。

 それで救われるのでしょうかね。

   どんなにがんばっても、救われない!
   がんばらなくても、救われない!
   がんばれない! 救われない! たすけて!

「努力して真面目に生きていても、だらだらと生きていても、
 阿弥陀さまの前では関係ありません」

 そのときこれがどう聞こえるか、ということですかね。


単純な質問ですが・・・ 投稿者:かりん  投稿日:11月14日(水)10時54分58秒

不思議に思ったので、教えてください。
何者も救うって言う阿弥陀様のたてられた本願は前から存じ上げておりますが
(悪人正機と言う教えがありますものね)
努力して真面目に生きている人と、だらだらと生きてる人の違いはないのでしょうか?
結局、同じ極楽浄土に生まれ変わる、となると、
間違った(多分私のように)考えを持ってしまった人は
「それじゃ〜、頑張ってもしょうがないじゃん」ってなってしまうような気がしてしまいます。
本当のところ、もっと奥深い、詳しい教えがあるのかもしれませんが
ちょっとしか宗教をかじってない人間にはこう言う誤解が生じやすい教えかもしれません。
よかったら、この違いを教えていただきたいと思います。


おはようございます 投稿者:僧侶A  投稿日:11月14日(水)09時47分10秒

 そんな不感症だから、生死輪転する私だった。
 自分の懺悔では極楽に往けないから、阿弥陀さまのご本願があった。
 何にもナシで救ってやるぞという本願だった。
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…


東京から発信しています 投稿者:僧侶A  投稿日:11月13日(火)09時50分05秒

 六道輪廻する恐怖もない。実感もない。懺悔のこころも起きない。極楽に往けない。往けないと言われても、それでいいらしい。


(無題) 投稿者:nyorori  投稿日:11月12日(月)23時56分36秒

>僧侶Aさんや、nyororiさんの顔が見たいです
変な顔ですので(←見ない方がお互いのためのような・・)、ご勘弁くだされ〜〜〜っ(T_T)。


そうですね。 投稿者:坪内  投稿日:11月12日(月)14時08分01秒

本当にそうですね。私も懺悔する気持ちにはなれませんね。
こうしていろいろと相談にのってもらっていると、僧侶Aさんや、nyororiさんの顔が見たいです。僧侶Aさんもnyororiさんも早いことホームページ作って見せてくださいね。
僧侶Aさんは京都に住んでおられるのですか?浄土宗は京都が多いため。

http://www5.ocn.ne.jp/~saeko/public_html


おはようございます 投稿者:僧侶A  投稿日:11月12日(月)09時29分17秒

 からだもこころも、地獄・餓鬼・畜生でいっぱいだと懺悔している人がいるのに、自分にはどうして懺悔のこころが起こらないのだろう。



坪内さま 投稿者:nyorori  投稿日:11月11日(日)00時28分51秒

お久しぶりですね。
文字でしか、やりとりできない空間ですので、ご不満もいろいろあったでしょう。また、他人にはうかがい知れない一面のあることも、そうだと思います。

ですが、悩みの内容それぞれはみんな違っていても、これは僧侶Aさまもおっしゃるように、人間にはそれぞれに苦しいところや、醜いところがあるのですね(私もですが)。程度はいろいろとはいえ、人の苦しみは、他人にはなかなかうかがい知れない・・。そう考えると、自分には他の人の苦しみについて、よく分からないことも多々あるのですが、内容は違っても、やっぱり同じように苦しむものとしていたわりあいながら、仏さま(神さま)の救いにあずかりたいと思いませんか?

私はそう望んでいますが・・。

もうすぐ結婚ですね。お幸せに。


僧侶Aさま 投稿者:nyorori  投稿日:11月11日(日)00時18分27秒

こんばんは。若い衆とスポーツをしたので、手がふるえてます(笑)。最初は勝ってたのですが、徐々に負けて・・・(笑)。

僧侶Aさまは、本当にきれいなお心をお持ちなのですね。心の汚いところについては、私も似たようなものですよ。それに環境(が恵まれていて)によって、普段、自分の醜いこころに気がつかずにすんでるという部分も、多かれ少なかれ、人はあると思います。仏様から見れば、ちょっとばかり善人そうでも、悪人そうでも、どっちもそう変わらないのかもしれませんね。もっとも、その小さな違いを許すことは、いろいろな理由があったりして(理由をつけて?)人間にはなかなか出来ないのですけど・・。


つづき 投稿者:僧侶A  投稿日:11月10日(土)21時55分24秒

 いっちょまえ面していたけれども、きたないモノばかり食べて食べては、「こんなに食べてますぜ」と、不健康なからだを人に見せびらかせていたのでありました。吐いて吐いて、汚いモノを吐きつくしたい。まだまだ体の中に、きたないモノがたくさん残っている。


溜まっていたモノ 投稿者:僧侶A  投稿日:11月10日(土)21時45分35秒

 僧侶Aなどというのは、まったくもって恥ずかしい名前であります。自分は「僧侶」なんだという自己アピールと優越感、謙虚さをよそおい自信のなさを隠そうとする「A」の文字。浄土宗僧侶というのも同じでした。ほかの宗派の方々が真剣に求道なさっているのを横目に、うちの宗派ではあんな教義はないから、安心だ。救われている人と救われていない人がはっきりわからないから、安心だと、理屈をつけて自分を安心させている宗派根性。自分は浄土宗のお寺に生まれてしまったから、浄土真宗を信じてしまったら大変だ。あれは法然上人の教えを蓮如さんがねじまげてしまったんだと、浄土宗の本ばかり読んで、たくさんある真宗の本はわざと読まない。それでも気になって、のぞき見する。宗派根性。法然上人だの親鸞聖人だの、関係なかった。無宗派人間Aと名のるべきでした。
 お寺ネットに相談にくるみなさんは、自分のこころと真っ正面に向きあって、恥ずかしいところを書き表そう、書き表そうと、真摯に相談なさっております。私は恥ずかしいところを隠そう、隠そうとしております。これからは、相談にくるみなさんの文章を拝ませていただきたい。
 いまのところ吐き出せるのは、これくらいです。でも、まだまだ吐き出し足りない気がします。


阿弥陀さま 投稿者:僧侶A  投稿日:11月10日(土)17時48分04秒

 私には、阿弥陀さまがいっしょうけんめいに人を救おうとしているのが、見えます。かといって、仏像のような阿弥陀さまのすがたが見えるんではありません。

 たとえば、あるものを売っている。みんながそれを欲しがると、売っている方は「よし、もうけてやろう」と、値段をつりあげてきます。値段が上がると、「そんな高いんなら、いらないや」と、欲しがる人は減りますね。すると、売っている方も値段を下げます。不思議ですねえ。だから、値段は高くなりすぎないし、安くなりすぎない。欲しがる人も増えすぎず、減りすぎもしない。自動的にうまいところに落ち着きます。これを「神の見えざる手が、ものの値段を調節している」と表現した人がいるんです。神さまのすがたは見えないけれど、たしかに、値段をうごかす「はたらき」「しくみ」が存在しているんです。

 私に見える阿弥陀さまは、そんなものです。阿弥陀さまのすがたはまだ見えないけれど、たしかに、人間をたすける「はたらき」「しくみ」が存在しているんです。これに気づいたお釈迦さまや法然上人は、やっぱりすごい人だったと思います。


坪内さんへ 投稿者:僧侶A  投稿日:11月10日(土)17時34分56秒

 ごめんなさいね。がんばってみます。


おねがいします 投稿者:坪内  投稿日:11月 9日(金)21時08分59秒

いつも信仰について、本当にためになります、でも文章が堅苦しいので本当によみづらいです。もっと読みやすい文章でおねがいします。
http://www5.ocn.ne.jp/~saeko/public_html


輪廻ということ、勘違いしないで 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 9日(金)13時46分30秒

 前世や輪廻を科学的に扱っていると称する一連の人々がおられますが、私はそういったものは罠であると考えております。

 たとえばIan Stevenson博士などという方は、前世の記憶を持つと自称する人々の例をたくさん集めておられ、査読制度のある医学誌(つまりイイカゲンな論文を投稿できない学術誌)にたくさん発表されておられますが、論文上では決して輪廻を結論しません。博士の仕事は、たとえば「前世の記憶は、本人の思いこみや文化的刷りこみである」などという反論を、科学的根拠でもって否定していくことです。しかし、これをもって「輪廻は科学的に証明される」と結論するとすれば、これはoverdiscussionでありまして、博士もこれを科学界で行うことはできないのです。それをできるのは、査読制度のない一般の書物(イイカゲンなことを書ける本)だけになります。「輪廻」などという「科学界の常識」に反するものを仮定するくらいなら、たとえば「記憶が人から人へ感染する」などという仮説(これも常識には反しますが)も立てうるわけです。まあ、こういう意味での輪廻があろうとなかろうと、どうでもいいわけです。

 仏道において輪廻が意味をもつのは、そういう意味からではありません。仏道において輪廻説と離れてはならないのが因果応報の原理であります。この世がはじまって以来、迷いに迷いを重ねて、自分で自分を苦しめてきたこと、これから自分がどうなるかということ。その「自覚」という一点において、輪廻説は重要なのです。


おはようございます 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 8日(木)10時28分19秒

 生まれたときから、いやもっと前から、歩みは始まっているんだと思います。一人では生きてゆけぬ赤子であった私も、両親に命をつなぎとめてもらい、食事のとり方やことばや遊び方、何が悪いことで何が良いことか、数え切れぬことのほどを教わって、学校に入れてもらいました。両親の考えやまわりの風潮にも触発されて、良い学校に行けるようによくお勉強をし、お勉強の成果を社会に役立てるようにと、育てられてまいりました。その中で、ほんとうは何のために生きてゆけばよいのか、疑問をもつこともありました。それを道の歩きはじめと言う人もありましょうが、その問いを発生させる下地づくりの過程から、すでに道ははじまっていたと思います。それはどこまで遡れるかもわかりません。ほんとうにわかりません。

 無数の人やものごとによるお育てが実を結んで、私という人間という形の今この場において、仏法がこの目の前にあり、お念仏の教えがいまここにあるのでした。長かった道のりがやっと、ここでいったんの終結を見ます。すべてのはかりしれないお育ても、我がなしたすべてのことも、自他の善根はすべて、振りかえって見れば、私がここに到達することが目的でありました。その目的変更を確認することが「回向」であり、いまここに新たな目的を見出したことを「発願」と呼ぶ。私は善導大師の「回向発願心」をそう受けとめています。

 善導大師の『往生礼讃』の中に「回願往生無量寿国」とありますのは、これまでの歩みの目的がいったん死に、阿弥陀さまの無量寿の国に生まれるためであったと気づき、回して改めて往生を願うことでありましょう。これまた起死回生なのであります。


感謝。 投稿者:かりん  投稿日:11月 7日(水)10時53分36秒

僧侶A様。
わかりやすく、導いてくださって有難うございます。
本人(妹)は、ご先祖様から受け継がれたものを否定する形になるのではないか、
などと悩んでおります。
でも、今は悩むほうが、かえって妹にとってもいいのかもしれませんね。
「いい仏縁である」と言うお言葉に、私も妹の事ながら、本当に嬉しく思いました。
この掲示板をプリントアウトして、妹に見せたいと思います。
本当に、有難うございました。

この掲示板や、お寺ネットは私も大変勉強になります。
これからも、訪れさせてください。
有難うございました。



偽経・大乗非仏説論 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 7日(水)10時14分38秒

 偽経とは中国人や日本人が成立させた仏教経典。大乗非仏説論とは、お釈迦さま滅後数世紀の後に成立した大乗経典を仏説ではないとする論です。また、サンスクリットの原典が入手可能な現代、すべての経典は漢訳でなく原典を読むべきであると主張する人もおり、岩波文庫の経典などはこの立場で編集されているように思います。

 阿弥陀さまへのひるがえらない信仰心(深心)ということを、唐の善導大師はこうもおっしゃっています。すなわち、たとえ無数の仏・菩薩が目の前に現れて「念仏して往生するというのはウソである」と説いたとしても、心はひるがえらないというのです。ましてや一介の人間が「念仏往生はウソである」と説いたとしても、心がひるがえるはずがないというのです。これを敷衍すれば、たとえ浄土三部経が非仏説や偽経であったとしても、心はひるがえらないということです。

 真宗の清沢満之の弟子であった暁烏敏(あけがらす・はや)という人が、経典がニセモノであるかどうかが重要なのではなく、経典を契機に新しい自己を発見することが重要なのだとおっしゃったそうです。これを聞いてなるほどと思いました。いまの自分の中には、念仏して阿弥陀さまに救われるということが、はっきりとした真理として居座っています。文献研究が浄土三部経について何を言おうとも、私の中に生まれた阿弥陀仏の真理の価値は変わらないということです。これも、お釈迦さま一人をたよりとするのではなく、自らを灯明とし法を灯明とするということではなかろうかと思いました。


かりんさん 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 7日(水)09時43分28秒

 なるほど、妹さんは信仰に対して真剣でいらっしゃるのでしょう。信仰のことで真剣に悩めるというのは、うらやましいことです。その分だけ信仰が深まっていくと思うからです。こういうのはご本人が主人公となる問題ですから、周りのものとしてどうするか、難しいですね。
 実際的なところ、嫁ぎ先の信仰にうまく入れるか、これまでの信仰との葛藤に悩みつづけるか、それが原因で現実生活にまで影響がでてしまうか、ほんとうにわかりません。ただ心にまかせるしかありません。と言いますのも、「嫁ぎ先の信仰に合わせなければいけない」という結論・終着点(執着点)があらかじめ先に設定されてありますと、それが信仰の邪魔になってしまい、その方がよっぽど嫁ぎ先の信仰に入ることを妨げるだろうからです。
 仏法の整合性、偉大なる宗教者たちの整合性に賭けることです。私は信じております。表面上はお互いに否定し合っている宗派の教えも、奥ではつながっているのであろうということが、最近やっと信じられるようになりました。今の信仰をしばらく離れ、嫁ぎ先の信仰に入ると、表面上の違いでしばらくは悩むでしょうが、そこに留まっているうちは大切なものが見えていないのです。それに、違う宗派の信仰を体験しておられると、仏法の奥がつながっていることが、より見えやすいかもしれませんね。
 これはほんとうに良い仏縁であると思いますよ。


(無題) 投稿者:nyorori  投稿日:11月 6日(火)22時48分45秒

>にょろりさんにそう指摘されたような気がします

そ、そんなぁ、偉そうに指摘できるような身分じゃありません(^_^;)。いつも相手にかかわらず謙虚に接しておられること、よく存じております。謙譲な態度に頭がさがります。
本当に他人の言い様などに腹の立つことも、私のような経験も智慧も浅いものにさえもございますが、それもまた長い目で見れば如来様からの良い学習であったと思うこともございました。しかしながら、簡単に「勉強になる」などと申し上げましたが、お坊さんの苦労は大変なものですね。失礼しました。信仰を説くお坊さんであれば、また私どもとは違ったご苦労(中には信仰自体をあざ笑う人もおりましょうし)もたくさんあることと思います。今後とも、親しみやすい仏法のお話をいろいろなさってくださいますようお願いします。在俗ですが私も自分に与えられた場所で学んで行ければと考えています。


静秀さん 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 6日(火)22時33分26秒

 討論室では愚問さんをいさめていただき、お礼を言うのも変かもしれませんが、心のはげみになりました。お見苦しいところをお見せしてしまいますが、ああいうのも修行のひとつであろうかなと思ったりします。日蓮系の人はああいうののもっとすごいやつをいつもやっておられるわけでしょうかね。常不軽菩薩のような摂受・折伏、難しいですね。浄土の場合は最終的には極楽から還って神通力を駆使してそれをやる、という最終手段が残っているのですが、その意味がいまいちつかみ取れていない私です。
 愚問さんが礼儀を失しているかどうかは、私には冷静には判断できませんでした。私もカーッときているものですから、そう見えているだけかな、などと考えてしまいますとね。なんと動きやすい自分の心なんでしょうね。まあ人のいないところでいろいろ言うのもよくないので、これくらいにしておきましょう。


ありがとうございます。 投稿者:かりん  投稿日:11月 6日(火)22時32分07秒

くだらない質問にもご丁寧にお答えくださって、ありがとうございます。
何故、このような質問をしたかと申しますと、これは実は私の妹のことなんです。
私たち姉妹は、某宗派のお寺に生まれ育ち、妹は得度をしました。
私は、得度をせず、在家の人と結婚をし、今は主人が住職になっています。
そして、妹は私以上に宗門(?)や教学の勉強をしているのですが
そんな妹が、とある他の宗派のお寺の方と恋愛をし、結婚話が浮上しているんです。
そこで、妹なりに色んな葛藤があるみたいで、悩んでいます。
改宗することは、結婚すれば自然とせざるを得ないかもしれませんが
妹はその相手の宗派の勉強も始め、多少なりともその宗派の教えにも
僧侶A様がおっしゃるように、共感が必要になってくることから
多少なりとも、魅力なのか、共感なのか何かわかりませんが、その宗派なりの
教えにも惹かれていることは確からしいです。
でも、いざ結婚して、本当にその宗派の本尊をうやまい、信仰することが出来るのかどうか
やってみないとわからない事かも知れませんが、果たして出来るのだろうか?と
言った事を、悩んでいるようです。
私の主人は、在家出身ですが、今はうちの宗派の教えにかなり信仰を深めていますので
さすがに、主人にそう言ったあいまいな考えと言うことを相談できないようで
私に自分の気持ちを打ち明け、何かしら求めているようなのですが
私も、未熟な者なのでなんとも答えようが無く、ただ聞いてあげるしか出来ません。

相談室のほうで相談するものかどうか悩みましたが
僧侶の信仰問題にも関わると思いましたので、こちらでさせて頂きました。
やはり、なるようにしかならないって事なんでしょうか?
こちらの掲示板でこのような質問をさせていただいて、本当にすみません。
掲示板の目的と違っていますが・・・・。


討論室の御回答お疲れ様でした。 投稿者:静秀  投稿日:11月 6日(火)19時33分38秒

今回のお寺ネット討論室の御回答ご苦労様でした。
端で観ていて相当に僧侶A様は大変であったろうと思いました。
唯勉強にはなりましたが、愚問様は礼を失していると思いました。
人にモノを聞く態度に有るまじき行為・言動、さらには、自分が高位に立っての物言い。
教相判釈で有るなら、其れは其れのマナーが有ります。作法も有ります。
あれだけ御話になるのですから、教相判釈の作法を個存知のはずですし、
仮に御存知では無くとも、揚げ足取りの物言いにはその人の品性が疑われます。
しかしながら彼は、それらを全く無視して高位から下位に向かって言葉を投げつけるような言いようであったと観ました。
己の世界に確りとはまりこんでしまっている自らを見る心の余裕みたいなものを、
彼は忘れていることが良く見えました。

私も他山の石と心して反省材料と居たします。


そうそう 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 6日(火)18時43分34秒

 こういうところで宗教の話ばかりいくつもぶっていると、いかにも自分は宗教者であるというつもりになってしまい、おそろしく思っております。偉いところには立ちたくない。一信者であり、良き相談者であるような、そういう立場にありたいです。


にょろりさん 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 6日(火)18時12分47秒

 にょろりさんはいつも、厳しいことといいますか、どきっとするようなことをおっしゃいますね(これからもお願いしますという意味で)。ほんとうに私にはおもしろくないことが多かったです。ですがこういうことを通して、自分のことも少しは見なおせます。法華経の常不軽のつもりでがんばったのですが、心中にはどす黒い感情がうずまきどおしでしたね。そんなこんなで、あの問題意識をなかなかまっすぐに受けとめられない私でした。にょろりさんにそう指摘されたような気がします。
 私自身は、自殺したくなるような瀬戸際に立たされても、この信仰があれば生きつづけられるように思っているのです。もちろん、実際に確かめるチャンスはまだ訪れていないのですが…。そういうことで私は、まだまだ未熟者であります。
 ですからこれは想像にすぎないのですが、「念仏すれば極楽に行けます」と言われて、信じて極楽に行こうと思うならば、その瞬間に絶対の救済を自覚したということで、それはこの生が救われたということで、自殺を思いとどまることになるのです。そこのところばかり議論してしまいましたが、問題なのは「念仏すれば極楽に行けます」をすぐに信じられずに、その言葉を「死ね」と言っているように誤解する人がいないか、ということです。愚問さんもそう誤解したわけでしょう。その場合、その人は極楽に行こうとして死ぬのではなく、私にいじめられて死ぬことになります。ただ、浄土教以外の教えを窮地の人に説いて思いとどめてもらうことも、同じくらいに難しいことだと思うのです。心に届かない教えを説くばかりで自殺をとどめることにならないという点では、五十歩百歩のように思うのです。

 なんて想像ばかりですが…。自分に経験がないのが辛いです。だから私が一生懸命に生きていこうと思います。
 浄土宗のホームページ(www.jodo.org→「出版」をクリック)で買える本に、藤井実応大僧正の『病む人へのおとずれ』という、すばらしい一冊があります。自殺したいほどの苦しい病床で、念仏の教えがどう救いになるか、いろいろな方にお読みいただけると嬉しいです。


かりんさん 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 6日(火)17時28分09秒

 私がお世話になったご僧侶の一人に、もと真言宗の僧侶の方で、浄土宗に改宗なさったご僧侶がおられます。もっともその方は信仰の問題というより、浄土宗のお寺に婿養子に入られたため、改宗なさったそうですが。

 他宗派の教えに惹かれることも、キリスト教の教えに惹かれることもありますね。むろん、軽いレベルのものなのかも知れませんが。やはり他宗派・他宗教の教えにも興味がありますし、それを知ろうと思ったら、信仰のレベルでの共感が必要になりますからね。そういう他の信仰を垣間見るのは面白いのですが、いまの信仰が崩れてしまうかと思うとこわくて、深入りはできませんでしたね。最近はだいぶ自分の信仰が堅固になったと思うのですが、さてはて?


お疲れさまでした 投稿者:nyorori  投稿日:11月 6日(火)14時22分19秒

昨日は、討論室での議論、お疲れさまでした。僧侶Aさまには、おもしろくないこともあったかと思いますが、とても勉強になりました。途中から、浄土教(宗)の教えが正しいか間違ってるかという方向に話が流れ始めてしまったのは、いささか当初の問題意識とは外れてしまい残念でしたけれども、自殺しようとする人に対してどのように説くか、という問題意識は重要なものですし、愚問様のおっしゃることも、ややお話が当初と違ってしまったとはいえ、私にはそうずれたことととは思えない真摯なものでありました。あれらの問いは、自殺したいと思う方の問いでもあります(そして私にとっても重要な問題)ので、わたしもよく考えされました。決して不毛な議論ではなかったと思っています。いろいろな意見の方がおられての研鑽だと思っています。自殺したい人に、法然さんや親鸞さんなら、どう答えるかな?、あるいはお釈迦さまならどうだろ?と思って見ていました。議論に加わる能力はないのですけど・・。学びの機会を与えてくださってありがとうございました(学びの機会をあたえてくださったことは愚問様にも同様に感謝しています)。ほんと〜に、お疲れさまでした。



はじめまして。 投稿者:かりん  投稿日:11月 6日(火)10時36分36秒

いつもお寺ネットの方でご活躍を拝見させて頂いています。
突然のぶしつけな質問でカンに障ったら、すみません。
僧侶の宗派替えというのか、改宗というのかよくわかりませんが
そう言ったことは可能なのでしょうか?
僧侶によっては、宗派の選択を出来ない人もいらっしゃると思いますが、
(生まれた環境によって)そう言う方が、他の宗派の教えに惹かれるということは
ないのでしょうか??
変な質問でごめんなさい・・・・。


起死回生 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 6日(火)09時51分08秒

 阿弥陀さまのご本願を信じ、南無阿弥陀仏とおとなえするこころの一側面が、『観無量寿経』に説かれている「深心(じんしん)」です。これは深く本願を信じるこころでありますが、単に「信じる」ではなく「深く」信じるこころとは、いかなる意味でしょうか。
 阿弥陀さまの化身と仰がれた唐の善導大師の妙釈がこころに沁みます。これは絶対にひるがえらない信心ということです。なぜ絶対にひるがえらないか。それは、自分に深く絶望するからです。
 単に南無阿弥陀仏ととなえて救われようというだけでは、信心はひるがえります。それは、南無阿弥陀仏ととなえるよりも良いと思われることが、世の中に多くころがっているからです。そういうものを諸善と呼びます。
 我が身を懺悔し、諸悪を止め、諸善を修す。また諸悪を犯しては、懺悔し、諸悪を止め、諸善を修す。ついには悪を根源的にやめられないことが認識されます。悪を止め、善を修するたびに、悪なる自己の認識が深まります。ここまでくると、阿弥陀さまの本願にたよって南無阿弥陀仏とおとなえする以外に救われる方法はないと、深くうなずけるようになるのです。
 これが本願を信じるこころの「深い」という側面、すなわち「深心」であります。これは自己への絶望から転じて如来の救いがやっと確信されるという、起死回生の大転換であります。
 大転換とは申しますが、実際に何時何分何秒に大転換が起こったと記録できるような単純な風に、こころは出来ておりません。数々の念がうかんでは消える我がこころの、全体の傾向がいつしかそのようになっていた。振りかえって見て、わかるものだと思います。また、いったん生じた深心も、南無阿彌陀佛を相続する間に、もっともっと深まって行くものと思います。


自灯明・法灯明 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 5日(月)09時25分42秒

 お釈迦さまは、ご自分をたよりとしてきたお弟子に対して、自分の亡き後は自らを灯明とし法を灯明とせよ、とおっしゃいました。灯明とはともしび。暗い道を歩んで行く際、道を照らしてくれるもの。
 自らを灯明にするとは、お釈迦さまのあとを継ぐ二代目に追随するのではなく、弟子のひとりひとりに主体的な姿勢をうながされたものでしょう。
 法を灯明にするとは、仏のこころを我がこころとして生きることです。お釈迦さまのみおしえは、お釈迦さまが作ったもののようでもありますが、実はお釈迦さまの誕生以前から、宇宙のはじめから存在していた真理であり、それにお釈迦さまが気づかれたものであります。ですからお釈迦さまのご誕生以前も亡き後も、その真理は存在しつづけており、私たちに働きつづけています。それをともしびとして道を歩みなさい、ということです。
 これを、常にこころを仏にかけて生きる、といいかえたものが、お念仏のおしえではなかろうかと伺いました。仏をこころにかけるとは、私たち末法の者にとりましては、極楽へのお救いを胸に南無阿弥陀仏とおとなえする、ということでありましょう。


真宗の方が 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 4日(日)09時59分32秒

この掲示板を御覧になっていて、反論してくださったらよかったのですが、あまり多くの方が見ているのでもないのでしょうかね。


すいません。 投稿者:静秀  投稿日:11月 3日(土)18時57分11秒

↓の阿野はあのぅの書き間違いです。

 静秀 拝
http://www.otera.net/seiryuji/


nyororiさん 投稿者:静秀  投稿日:11月 3日(土)18時54分48秒

阿野ですね。北陸と御座居ましたのでしゃしゃりでました。実家の地ですので・・・

>黒塗りのいわゆるお位牌ではないですけども、お位牌の形をしていて、中に先祖の戒名と死んだ日を書いた木の名札みたいなやつが何枚か入れられる位牌みたいなのはあります。あれは、位牌とは違うのでしょうか?

繰り出し位牌と言います。命日が来たらその方の板を1番表に出して御参りします。
此のように北陸では位牌を使っているのですけどねぇ。

さて、御骨のことですが、当家は富山県砺波市に御墓が御座居ますが、骨壷に入れてとても大きな土饅頭型の御墓に先祖代々の御墓に納骨します。(中は無茶苦茶広い。麻雀卓が3個ほど組めます。)此処北海道紋別郡滝上町元町では其のままバラリと捲きますのを観て、骨箱に入れて安置するのだと教えています。何故なら(真言の場合)骨箱の表に戒名、裏には、梵字を書き入れその中が浄土で有るとの観念で納骨するからです。
又、骨箱であれば経年変化で徐々に朽ち果てて行くのですから、ばらまく必要もないのです。
此れはどうも地域性とともに、僧侶の考え方も影響しているように思えますが・・・


お位牌かどうか知りませんが。。 投稿者:nyorori  投稿日:11月 3日(土)18時04分45秒

こんにちは。

お位牌と言って良いのかどうか知りませんが、母方の真宗の家(私の実家は浄土宗、普通の黒塗りの位牌です)では、黒塗りのいわゆるお位牌ではないですけども、お位牌の形をしていて、中に先祖の戒名と死んだ日を書いた木の名札みたいなやつが何枚か入れられる位牌みたいなのはあります。あれは、位牌とは違うのでしょうか?

位牌の一種だとすると、地域も関係あるのかもしれません。
割り込みすみません。どうなんでしょう?あと、母方は、お墓の中に骨壺というのがなくって、みんな地面にそのまま置くのですが(壺ないのか、、と、ちょっとショックでした。あまりに気の毒ということで紙をくるむようにしましたけれども)、これは地域の習慣なのでしょうか?それとも宗義というやつでしょうか?北陸ですので、土地柄、仏事に金をケチっているというわけではないとは思いますが。


有難う御座居ます。 投稿者:静秀  投稿日:11月 3日(土)17時06分49秒

早速にに御意見を賜り有難う御座居ます。

基本的なところと言いますか、ほぼ私の考え方と同一で御座居ます。
もう一歩踏み込んで時代背景などを考えます折り、江戸時代ころでは真宗も位牌を使っていたはずです。
然し時代が近世へと変わりますに連れ御軸に法名を書込む形へと変遷していったと記憶しております。
果たして如何なる理由から此の如くに変化変遷したのか、家族・一族を1枚の軸に書込む効用であることは必然と考えます。


では私の考えはというと 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 3日(土)07時44分27秒

 これはずいぶん難しい問題ですので、試論ということになります。
 葬儀や年忌法要には、宗学から見て
(1)世間的な(非仏法的な)善行
(2)聖道門(自力門)的な善行
(3)雑行(非阿弥陀的な往生極楽の行)
(4)助業(称名念仏以外の阿弥陀的な往生極楽の行)
(5)正定業(称名念仏)
が、すべて含まれうると思います。あるいは、基本的に他者に対する行いであるから、自己の極楽往生を目的とする(3〜5)は含まれないかもしれません。
 いったん心底からお念仏に帰した身であれば、日常のすべての行いもまた、念仏のために生かされるわけです。そういう面から葬儀や年忌法要を見ますと、これは世事としての面が大きくはありますが、やはりお念仏を生かすものであるわけですから、そのまま行ってかまわないのではないか、ということになります。


静秀さん 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 3日(土)07時29分48秒

 私は浄土宗の僧侶ですので、真宗のことはよくわかりませんが、位牌はクライのフダとは考えたこともありませんでした。位牌は魂のヨリシロであるが、極楽に往生したはずの死者が位牌に宿るとは考えられないから、という方が良い説明の気がします。
 真宗では、生きている私たちが功徳を回向するというのは自分の力を信じる自力の営みであり、私たちのような凡夫には功徳を積むことは不可能、それを亡き人に回向するということはない。功徳は阿弥陀さまが一方的に積んで私たちにくださるもの。そう聞いたことがあります。だから真宗では、法要は追善ではなくて、故人を縁として阿弥陀さまの教えに触れる機会ととらえている、と聞きます。
 しかしそもそも葬儀、年忌、位牌、お墓などは、故人のために営むものであったのです。その体裁だけは保存的に扱っておいて、意義付けだけを変えることには、無理があるように感じます。年忌法要など廃止すればよいのです。むしろ、葬儀・法要なしでは維持できない 寺院運営の実態と、葬儀・法要を不要とする教えとの整合性をつけるために、無理をしているように思われます。しかし、真宗の教えを熱心に広めようとしている人々の中には、そういう後からの意義付けを熱心に信じて、本来の法要等をある意味蔑視する向きもみられるのではないでしょうか。というのが私の疑問です。
 かといって、従来の葬儀や年忌法要と念仏の教えの整合性に疑問を感じないわけではありません。真宗のような意義付けのやり方もひとつの方法ではあるでしょうが、そこには自己欺瞞が見え隠れするような気がするのです。



僧侶A さんへ 投稿者:静秀  投稿日:11月 2日(金)21時05分32秒

浄土真宗で位牌を使用しない理由は、として

>真宗で位牌を用いないわけがわかりました 真宗大谷派大阪教化センター通信より
に掲載されている 相談への答えの中にありました
位牌は位(くらい)の牌(ふだ)ということで、平等を解く仏教の精神に反するので、真宗では用いませんということだそうです 。

と私がある仏教系サイトにあるのを見つけました。
本当にそうなのですか?
御意見を御聞かせ下さいませんでしょうか。御願いします。


死の恐怖ということ 投稿者:僧侶A  投稿日:11月 2日(金)15時31分48秒

 死ぬのが本当に怖いという人は、そうそうはいないだろうと思います。ほんとうは怖いはずであろうということは、誰もが認めるところと思いますが、日常の生活の中ではぼやけてしまって、怖さを感じることはありません。
 タイタニックという映画を見て、客船が沈没していくシーンに出会いました。見てみなければわかりませんが、死を身近に感じる恐ろしさを、少しでも喚起してくれます。あるいは死にそうになる夢を見たとき。体がふるえ、こわばり、おそろしいものです。
 そういう怖さを感じたとき、死後の世界について、ひごろ呑気に思い描いていた空想など、みじんも想起されてまいりません。何もかも忘れて、ただおそろしい。昔から、死に際には狂乱する人は多いのです。
 そんなときに、果たして自分には、阿弥陀さまと極楽浄土のことが思い出されるのだろうか、と自問するときがあります。死後の世界については、いろいろな人々がそれぞれのやり方で、思い描いているだろうと思います。しかし死に際というのは、特殊な精神状態ですから、日ごろ自分が思い描いていたものが救いになるか、はなはだ疑問です。
 ひごろ申しおきたる念仏にて、阿弥陀如来は来迎したまい、私を狂乱から救ってくれる。私の力ではなく、阿弥陀如来のお力です。死に際のことは阿弥陀さまにまかせきって、今は南無阿弥陀仏です。
 はじめに、死の恐怖をふだんから感じる人は少ないだろうと申しました。それは「いま」という仮の状態を永遠に続くものと思っている、わたくし凡夫のしかたのない性なのだろうと思います。お念仏して阿弥陀さまに抱かれてゆく間に、そういう曇った眼も如来のお力で開かれてゆくのだと思います。


坪内さん、今晩は 投稿者:僧侶A  投稿日:10月31日(水)22時29分06秒

 大きな経験をなさったのでしょうか。そうですね、信仰心が大切です。

 業というのは、運命ではありません。そうではなくて、「善いこと」すれば喜びを得る、「悪いこと」をすれば心が病む、という真理がある。それを知らずに、「悪いこと」ばかりをやっていると、心が病んでくるのです。現実に悪いことが起こったら、自分がいけなかったのだと反省する。それは誰にでもある。これが「業」ということの意味です。だからみんな、私もあなたも、心が病むのです。悪いことがおこったら、反省のタネにするのです。これがひとつ。

 もうひとつは、信仰心を持てば、仏の力があなたの心にとどく。現実世界にではなく、あなたの心に届くんです。仏さまの「善いこと」のパワーをあなたの心にもらって、病んだ心をよみがえらせてもらう。すると現実世界がかがやいて見えてくるのです。決して、現実そのものは変わらない。あなたの心が変わるから、そう変わったように見える。世界はあなたの心のあらわれですから。これを信仰心と申します。


こんばんわ 投稿者:坪内  投稿日:10月30日(火)22時28分57秒

いつもアドバイスありがとうございます。
やはり人生山あり谷ありで、それを乗り越えるのには信仰が必要ですね。
それに信仰心があれば神仏はきっと助けてくれると言うことが分かりました。
業の無い人間はいない。うまくいっているように見えても人間界に生れてきた以上かならず業が現象化する時が出てくると思います。其の時に救ってくれるのが神仏ですね。でも信仰心がないと神仏も救ってくれない、というより神仏の力が届かないのでしょうね。
http://www5.ocn.ne.jp/~saeko/public_html


お念仏で生活が復活するということ 投稿者:僧侶A  投稿日:10月30日(火)17時38分38秒

 たとえば仕事が行き詰まったとき。苦しみを感じる原因はいろいろあり、すべて自分の責任であるわけですが、この現実世界がほとほと嫌になってくる。ここには自分に見合った解決法がないからです。そこで浄化された世界、浄土をねがう心が生まれてくる。仏にまみえたい気持ちが湧いてくる。これが私をお念仏に駆り立てます。ここまでだけでは、単なる現実逃避であります。

 お念仏ひとつで救われることが腑に落ちると、人生はお念仏ひとつのためのものであることがわかります。そうしてよくよく生活全般を見まわしてみると、生活のすべてが、実はわたしを念仏に導くためのものであったことがわかります。目の前の仕事にとりくんで、悩んだり喜んだりすることによって、よりいっそうお念仏が味わわれてまいります。生活は、わたしに念仏をさせる縁となっているのです。これによって、目の前の仕事に打ちこんで行くことができるのです。これがすなわち、念仏によって生活が生かされるということでしょう。


こんばんは 投稿者:僧侶A  投稿日:10月29日(月)21時32分48秒

 いろいろ考えすぎてしまいました。実際には、考えたことはすべて捨てなければいけません。南無阿弥陀仏にすべてをおまかせし、自分で考えたことはたよりにしない。生活全般の、南無阿弥陀仏によるよみがえりを信じて、することはお念仏だけです。私は実際、そこまで行っていないのです。生活ということと念仏ということが、まだうまく溶けあっていないのです。


一段落 投稿者:僧侶A  投稿日:10月28日(日)08時35分13秒

 木曜日から今日までお話ししたことは、ひとつの流れを意識したものです。私たちの通常の生活というものがあります。そこから宗教的なこころざしをもって、仏道に入門し、お念仏のおしえを選んで、種々の雑行、阿弥陀さまに関する勤行、自力のお念仏と進んでいき、救いの確信にいたる。そこではじめて、お念仏ばかりにて阿弥陀さまに救われることがうなずけます。お念仏をつづけて阿弥陀さまに抱かれてまいりますと、自力の念仏、浄土宗の勤行、阿弥陀さまに関わらない雑行、仏門全般、他宗教の宗教行為、生活全般のすべてが、他力の行いとして、新たによみがえってくるであろうと思います。


自力の念仏ということ 投稿者:僧侶A  投稿日:10月28日(日)07時36分21秒

 南無阿弥陀仏と申せば救われると聞き、それを胸にひたすら念仏申すならば、救われることの確信が自然に心に生じ、それによって救われることが確定すると、これが法然上人のみこころです。そうでありますから、入門者、未信者であったうちは、救われる確信をもたぬままに、まずはお念仏をしたものでありました。そういうときは、口に南無阿弥陀仏ととなえてみても、だから何なのだ、となえた南無阿弥陀仏がむなしく消えていくような感じを覚えたものです。こういうのを「自力の念仏」というわけです。

 お念仏を申し続けて救いの確信という体験をしますと、「他力の念仏」に一転するのです。救いの確信自体は、長続きする体験ではないと思います。ときおり体験することはあっても、生活の大部分は、こころ散ったままであります。ところが、そんな中でとなえる口先ばかりのはずのお念仏のひとつひとつが、むなしいものとは感じられないのが不思議です。安心して自力の念仏を申せるといいますか、自力になりようがないのです。


法然上人のご遺跡 投稿者:僧侶A  投稿日:10月27日(土)11時16分32秒

 遺跡(ゆいせき)とは、霊跡ともいい、偉大なる祖師の記念の地であり、その偉大なる人格に出会える場所であります。天台宗の伝教大師は比叡山、真言宗の弘法大師は高野山です。
 我が法然上人の遺跡は、京都の華頂山知恩院ではありません。ご遺言にて「念仏の声のするところ、みな我が遺跡である」とおっしゃいました。これが実は、まことに尊いばかりのお言葉、もったいないおことばと喜べるのです。
 法然上人にとって、弥陀のこころを伝えてくださった善導大師は、弥陀の化身でありました。これよりすれば、我が法然上人は、弥陀の慈悲をこころに、肉身をたずさえてこの世に現れた。つまりはこれ、弥陀の化身であります。釈迦の化身、勢至の化身、観音の化身、道綽曇鸞の再誕などと言われますが、つまるところ弥陀の化身であります。
 我がお念仏の声のするところ、これ法然上人の遺跡、法然上人に出会えるところ、すなわち弥陀の宿りましますところでございます。これを思うにつけても、南無阿弥陀仏とあいなるのであります。


おはようございます 投稿者:僧侶A  投稿日:10月27日(土)07時27分27秒

 多くの坊主は法要と称して、人々の命日前後に依頼されて勤行をするものです。また朝晩の勤行もあります。浄土宗の勤行というのは、阿弥陀さまに関するおしえ(経典)を読み、浄土をねがって、仏前で頭を下げ、お念仏をして、供物をそなえます。カネをならし、木魚を叩きます。私は、お念仏さえすれば救われるのだから、お経を読んだり礼拝をしたり木魚をたたいたりするのは、ただの習慣なんではないかと思ったこともありました。

 法然上人の位置づけでは、お経や礼拝は「助業」と呼ばれます。やはり、お念仏ばかりにて救われるというおしえは、シンプルさのあまり、受けられにくいものです。阿弥陀さまに関するお経を読み、頭を下げるうちに、そんな行をいくら積んでもだめなんだ、お念仏ばかりにて救われるのだという方向に、自然に導かれてゆく。そしてお念仏にて救われる確信というものができてまいりますと、お経や礼拝などの行も、お念仏の行と同じようなこころにて安らかに積めるようになってくる。そういうことではないかと思います。



「雑行を捨てる」ということ 投稿者:僧侶A  投稿日:10月26日(金)10時39分44秒

 お念仏のもとになる浄土経典は、お釈迦さまの滅後数百年たって成立したと言われています。また、その真精神をあらわしたのは、さらに数世紀をへだてた中国の善導大師であり、わが国の法然上人であります。
 仏教界に「共生」という言葉を広めた、椎尾弁匡上人(1876-1971)という方がおられます。その椎尾上人が、浄土教の精神は実は、最初期の経典である法句経など阿含経典のなかにすでに見られると、おっしゃったそうです。
 一方、私もそうだったのですが、「お念仏をとなえて阿弥陀さまに救われる」という教えのあまりの単純さに、それを信じることができず、阿含経典などをもっともらしく引用する浄土宗僧侶もたくさんおります。
 ところが、そういった紆余曲折を経て、お念仏ばかりにて救われることを実感いたしますと、椎尾上人のように、阿含経典でも新たな眼で見ることができるのでしょう。
 法然上人は「苦しみを離れようと思うなら、しばらくは他の経典を捨ておいて、浄土経典を読みなさい」と勧められました。「しばらくは」というのは、こういうことなのではないか、と思います。つまりお念仏にてお釈迦さまのみ教えの真髄を感得したならば、すべての教えがそれを中心に生かされてくるのだということです。


法話ではなく独り言 投稿者:僧侶A  投稿日:10月26日(金)09時24分19秒

 電車のなかでドアの脇にしゃがみこんでスポーツ新聞を読んでいる若者を目にし、心の中で舌打ちをしている自分がおりました。その瞬間、もう遅いのであります。
 我が身のいたらなさを痛感しておるならば、人さまのことを云々する気持ちは、出てこないはずなのです。お念仏は、我がおろかさに涙しむせびながらとなえよと、教わっております。ところが車内の若者に舌打ちをする自分は、まったく我が身のおろかさにうなずけていないのです。そうやって反省するころは、もう遅いのであります。
 我がこころは、制御しようにもままならないのですから、一時も絶やさずにお念仏を申すよりほかないのです。


punさん 投稿者:僧侶A  投稿日:10月25日(木)11時27分11秒

 お返事ありがとうございます。これからも独り言的な一言法話を掲載していきたいと思います。


おはようございます。 投稿者:僧侶A  投稿日:10月25日(木)09時04分31秒

 お食事をいただく前に「いただきます」。この食事を用意するのに関わってこられた、すべての人々、生き物、天と地に感謝する心をこめて申します。阿弥陀如来にお眼かけをいただきながら、真実のすばらしい人生を歩ませてもらう。そのためには、すべての人々、生き物、天地のたまものである食べ物を食べて、生きていかねばなりません。如来さまのお育てを受けて、「ほんとうに」生きんがために、この食をいただくのですから、まことに感謝せねばなりません。衣食住すべて、ほんとうに生き、ほんとうに死なんがための人生であります。一分一秒が、そのための人生なのであります。そして命の尽きるときには、如来さまのお出迎えをこうむって、いよいよ真実の中に没入してゆくのです。


わかるつもりです 投稿者:pun  投稿日:10月24日(水)23時28分19秒

僧侶Aさんのおっしゃりたいことはわかるつもりです。「宗教対立をまねく思想」だとは全く思いません。それどころか、うまくいえませんが、私の信とするところも、僧侶Aさんの信心も、説明や表現の方法は違っても求めるところは同じだという感じがしました。
>私は「阿弥陀さま」という我が信仰の言葉をもってしか表現できない
とおっしゃられますが、今までの親切丁寧なご説明で、表現できないほどの偉大さ(偉大さというのは違和感ありますがうまく表現できません)、信じきる心の大切さというのを感じることができました。大変ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。


補足 投稿者:僧侶A  投稿日:10月24日(水)10時29分07秒

 下の私の書きこみに対して、「それこそ宗教対立をまねく思想である」とのご批判をいただきそうですので、あらかじめ弁明しておきます。私は「阿弥陀さま」という我が信仰の言葉をもってしか表現できないだけです。各々の宗教が同等のものをめざしているものと信じているものです。いわば「宗教の翻訳」の可能性を信じています。真理は一つであり、変幻自在であると信じています。これについては、ゆくゆく考えをまとめていきたいものです。


一向一揆に関して 投稿者:僧侶A  投稿日:10月24日(水)09時39分03秒

 おはようございます。
 阿弥陀さまに常に見つめられ、お守りを受けてゆきますと、その行いは阿弥陀さまの光のはたらきによって潔癖、柔和、賢明になってゆく、仏道自然に成じてゆくのです。それがお念仏の心であります。その阿弥陀さまのまったき人格を大勢の人が受けていきますと、人と人とのいざこざも自然と滅せられていく。これがほんとうに真理に調和してみな共に生きるということになります。
 我が身の悪業をとどめることは、非常な困難です。不可能です。ただ阿弥陀さまのはたらきによってのみ、それは止むのですから、とどめよう、とどめようとするのではなく、阿弥陀さま、阿弥陀さまと向かっていくのです。社会への暴力は我がはからいを信ずる迷いの現れであります。我がおこないによって悪をとどめようとする自力の現れであります。阿弥陀さま、阿弥陀さまと一(ひと)えに向かっていかれるように、その光を大勢の人に広めていかれるように、言葉をおかけいたします。そのように思います。


(無題) 投稿者:pun  投稿日:10月24日(水)01時33分01秒

>阿弥陀仏の「絶対慈悲者」とは、慈悲を与えてくれる対象としての存在ではなく、すべての人がつつまれている慈悲を「阿弥陀仏」という御名でよび、お念仏をとなえてその慈悲を感じましょうという認識でよろしいのでしょうか。
ここでいいたかったのは、臨済宗妙心寺派の生活信条の一つ
「生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう」という言葉にあるような、どれだけ自分が良い気持ちで良い行いをして精進したとしても、生きていくうえで無数の人、生き物、物にお世話になっている、そんな自分を生かしてくれる慈悲を「阿弥陀仏」と呼ぶのかなという気持ちでした。でも、そうではないようですね。もっと、想像すら容易でない、しかし確かな「存在」なのでしょうね。理詰めで分かるものではないと思いますので、これからも修行していきたいと思います。
「一向一揆」に関しては、私は無知に等しいのでなにも発言できませんが、宗教戦争について、私の思うところを述べさせていただきたいと思います。
人を殺めるのをよしとする宗教はないと思いますが、それでも実際には宗教戦争というものが起こっています。それは、その時の時代の生活、思想、政治などによって、宗教心をゆがめられているからだと思います。我々の日常的な考えでは、正義の裏に悪があり、好きの裏に嫌いがあるように、信じることの裏には不信というのがあります。本来、宗教は、そのような普段我々が考える「信」「不信」を超えたものを説いていると思うのですが、宗教を日常的な考えに置き換えることによって「信じるもの」と「信じないもの」を差別化し、煽り立てられることにより、排他的な宗教という名の思想集団になってしまうのではないかと思います。えらそうなことを述べましたが、自分だってその時代、その立場にいたらどういう態度をとるかわかりませんし、現在、この社会で立派にやっているつもりでも(私はそんな事ないですが)、後世の人からみたらそうでもないかも知れません。
ちょっと、今日も遅くなってしまったし、お酒も少し入っているので文章に誤解をまねく、分かりづらい部分があるかと思いますが、文章の校正は明日させていただきます。


僧侶A様への質問 投稿者:とんぼ  投稿日:10月23日(火)19時21分30秒

 ちょっと、質問させていただきます。
 これは、どちらかといえば「小説家」としての”興味本位”かも知れません。

 僧侶Aさんは、「一向一揆」を、どうとらえていますか?

 質問の理由をまず、書いておきます。
1) 僧侶には(宗派に限らず)、とりあえず聞くことのしています。
2) 決して「日本風」ではなく、実際それ(宗教一揆)で政権が変わったというケースも多い。
3) 戦争ですので、犬死もまた、沢山ありましたが、そうやって死んでいった人(首脳陣でなく、末端の”信者”)にたいし、どういう言葉をかけるのだろう?

 できたら、punさんをはじめ、いろんな人の意見が聞きたいです。


お念仏 投稿者:僧侶A  投稿日:10月23日(火)09時31分09秒

 おはようございます。
 我がこころが何かにくっつこう、くっつこうとするのをとどめて、我がこころのありのままのうちに、仏のこころを見出してゆく。それをひとつの道とするなら、念仏はまったく逆でありまして、如来さまとくっついて、くっついて、くっついてゆく。四六時中はなさずくっついていてもらう。そこに安心立命があるのです。
 ところが如来さまのお姿も、お浄土の風景も、お慈悲のみこころも、智慧のかがやきも、私のごとき凡庸で濁世にて偏狭で無智な者には、想像だにおよばぬところであります。ただ如来さまのお名前をとなえるだけが可能であります。したがいまして四六時中、み名をとなえるのであります。



(無題) 投稿者:pun  投稿日:10月23日(火)00時46分49秒

僧侶Aさん、とんぼさん、大変勉強になります。どうもありがとうございます。今日はもう遅くなってしまいましたのでやすみたいとおもいます。おやすみなさい。


病名 投稿者:とんぼ  投稿日:10月22日(月)21時33分21秒

 とんぼです。
(以下、苦情ではありませんです ^^;
 ひとつの、ケースデータとして・・・)

 小さなことから・・・
「ひきこもり」は、”病名”ではありません。
 俗に「風邪」もまた、”病名”ではありません。
 これは、あくまでも統計上便利なように作られた”カテゴリー”です。
 ”病名”としては、最近不幸にも有名になった「炭疽病」がありますね。名前は概ね「菌」などの原因か、症状(心筋梗塞とか)からつきます。
 ちなみに、マスコミが意図的かどうかはともかく、これを混乱させているのは、結果的にカッティングオペレーション、つまり、「気に入らなければ削除」しています。

 もうひとつ、小さいことですが
punさん>「私」自身にとらわれないようにすることが必要で
 既に困っている人に対する場合、「必要」は、場合によっては逆効果です。
 もちろんこの後に、完璧な解決策があれば別ですが。
 そもそも、それが原因で悩んでいたりしますから。
 「頑張れない」ことで困っている人に「頑張れ」というのは、足のない人に「歩け」というのと、さして変わりません。
 順番はやはり、歩き方を提示することではないでしょうか?
(もちろん、それを相手が受け止めるかどうかは相手次第ですが、優秀なセールスマンは、男に女性用の化粧品を売る・・・笑)

 最後にとんぼの「予想」・・・
 ひきこもりは、激増します。
 それも、30歳過ぎてのそれが・・・


飛躍 投稿者:僧侶A  投稿日:10月22日(月)17時50分29秒

 私は他宗のことはほとんど何も存じ上げないのですが、自己のうちに夢まぼろし、幻想、無智ゆえの偏見、倒錯などを抱えているばあい、それをひとつひとつ除いていく必要があるのではないかと考えています。そうやって一歩一歩あるいていくうちに、いくつかの飛躍的なステップを経験して、さとりに近づくのだと思います。十牛図というのを見たことがありますが、あれはさとりへの段階を十に分けて示した階梯ではないかと思います。あるいはさとりへの段階を五十三に分けることもございます。あるいは白隠禅師は大悟18回、小悟は数知れずと聞いたことがあります。その飛躍のひとつひとつは、決して理詰めで上がれるものではないと想像します。

 念仏においては、幻想・偏見・倒錯のたぐいを一つずつつぶしてゆくのではなく、すべて自己の抱え込むものとして是認してしまうわけです。そして、その対極にある存在としての阿弥陀仏に、阿弥陀仏の力でひきあげてもらう、そこに大いなる飛躍が前面に押し出されているのです。その飛躍を実現するための実践が念仏です。

 ただ、光明主義運動をおこした浄土宗の山崎弁栄聖者は、「七菩提分」になぞらえて、念仏入信から経験するステップを七つ挙げておられます。これは念仏行者の道程を、自力門の視点で見なおして、自力門の説きかたで説かれたものではないかと思います。ここらへんのことは難し過ぎて、私にはよくわからない世界です。


punさん 投稿者:僧侶A  投稿日:10月22日(月)09時41分22秒

>阿弥陀仏の「絶対慈悲者」とは、慈悲を与えてくれる対象としての存在ではなく、すべての人がつつまれている慈悲を「阿弥陀仏」という御名でよび、お念仏をとなえてその慈悲を感じましょうという認識でよろしいのでしょうか。

 申し訳ありませんが、ご質問を発せられた意図が、もう少しのところでよくわかりません。ただ単純にご質問にお答えするとすれば、阿弥陀さまは万人に慈悲を御与えくださる対象と、私自身は受け取っております。といいますのは、そういった人格的なもののない「慈悲」だけの存在を、私は想像できないからです。すべてのものを包む慈悲が、阿弥陀さまという形をとって、語りかけてくださっているということです。まあ、その受けとめはその人次第でありましょうし、禅家の方は、人格的な阿弥陀さま無しに、その大慈悲を感じ取れるのかもしれません。私自身も、ときにはそのような大慈悲そのものの片鱗を感じることもあるのですが、普段はそのような状態ではいられません。そんな散乱した状態のままでも救われるために、人格的な阿弥陀さまが必要なんだと思います。

>「飛躍」と表現されておりますが、多くの方が「南無阿弥陀仏」ととなえられておりますので、その教えの中に、僧侶Aさんがおっしゃる「飛躍」のきっかけを気づかせてくれるものがあるのでしょうね。

 「お念仏」という具体的な行為が、その大慈悲の感得とどう関連してくるかは、不可思議なことがありすぎて、ことばで説明することがまだ私にはうまくできません。ただ、非常に巧妙な不可思議な仕組みによって、お念仏によってその大慈悲を感得することができる、そんなことがこの世にあったのだと、この教えを考えついた人がいたことに驚きましたことです。


追記 投稿者:pun  投稿日:10月22日(月)02時42分47秒

とんぼさんへのレスの前半の部分について。
今まで、いろいろとえらそうに書いてきましたが、私自身それが実践できているわけではなく、そう考えると私もとんぼさんも同じですので、どうか「失敗した」などとはお考えにならないで欲しいということを言いたかったのです。
とんぼさんへのレスの後半部分について。
「ひきこもり」というのが気持ちしだいで治るといっているわけではありません。その辛さは私の想像できる範疇ではないでしょう。その辺を察していただけるとありがたいです。


レスです 投稿者:pun  投稿日:10月22日(月)02時18分45秒

まず、とんぼさんの書き込みに対して自分が感じたことを書きます。
自分の存在を素直に認識するには「私」自身にとらわれないようにすることが必要で、それはつまり「煩悩に執着しない」ということだと思います。しかし、頭でそのように理解してその通りだという思いもあるのですが、実際の自分の生活、行動はそこからかなりかけ離れているのが現状です。自分の容姿、態度、他人にどう思われているか、さまざまな欲望、かなり自分自身執着していると感じます。いくら頭で思ったことを実践したとしても、執着を捨てようとムキになることさえ、そのことに執着してしまうのです。それほど、自分自身の存在を、ストレートに感じるのは難しいことだと思いますので、どうか「失敗した」などとは思われないようお願いいたします。
こんな質問していいのかどうか分かりませんが、「ひきこもり」というのはテレビなどで見る限り、さぞ辛く大変なんだろうなと思いますが、いかがなものですか?私は、マスメディアの情報自体すべて正しいとは思っていませんし、「ひきこもり」という人間の性格の分類自体、最近のものですのでそれほどあてにはしてません。そのような生活はテレビを見ていると苦労されているなと感じますが、今日のマスメディアや医学、科学のように、簡単に人と人を分類をするのは疑問に思います。そのうち私もなにかに分類されますよ。「ひきこもり」に分類される人より、「ひきこもりじゃない人」に分類される人の方が果たして立派な人なのでしょうか?いい心をもっているのでしょうか?私がいいたいのは、とんぼさんが「ひきこもり」といわれる生活、精神状態をしているからといって、「ひきこもり」にとらわれすぎないで欲しいということです。
えらそうな事を書いてしまいました。デリケートな話題だと思いますので、少しでも文章の中に気に障ったり不快に思ったりすることがありましたらどうか教えていただけないでしょうか。よろしくお願いします。
次に、僧侶Aさんに対してです。
阿弥陀仏の「絶対慈悲者」とは、慈悲を与えてくれる対象としての存在ではなく、すべての人がつつまれている慈悲を「阿弥陀仏」という御名でよび、お念仏をとなえてその慈悲を感じましょうという認識でよろしいのでしょうか。「飛躍」と表現されておりますが、多くの方が「南無阿弥陀仏」ととなえられておりますので、その教えの中に、僧侶Aさんがおっしゃる「飛躍」のきっかけを気づかせてくれるものがあるのでしょうね。


念仏という「飛躍」 投稿者:僧侶A  投稿日:10月21日(日)07時39分42秒

 こころある宗教者であれば、ニンジンをむりやり口に詰め込むようなやり方で宗教を説くことは、ないと思っています。宗教というのは、ひとりひとりに自ら求める心が多少でもあってこそ、開けてくる世界でありますから。かといって、単純に理詰めだけでは到達し得ない世界でもありますから、たとえ理詰めで歩き始めたとしても、途中には必ず飛躍があるものと思います。

 念仏のおしえは、その「飛躍」をひじょうに明らかなカタチで説く宗教かもしれません。私たちの知らず知らず抱え込んでしまっている、夢まぼろし、幻想、無智ゆえの偏見、倒錯などをすべて「私」の側に認めておいて、それとは別のところに阿弥陀仏という名の「絶対者」を設定するわけです。その絶対者は絶対慈悲者でもあります。この設定の中に、一番の「飛躍」がこめられているわけです。

 そして、その飛躍を実際に達成するために、南無阿弥陀仏の「念仏」を実践行として説くのです。逆にいえば、念仏という易行でその飛躍を達成するためには、この設定しかなかったのかもしれません。最終的に、すべての幻想・偏見・倒錯を「私」の側に認定し、阿弥陀仏を「絶対慈悲者」と認定するという、二種の心が必要とされます。信心とはこの「認める心」であります。


認識できる周囲 投稿者:とんぼ  投稿日:10月20日(土)21時26分14秒

 punさんは、禅宗なんですね・・・
(とんぼは無知なので、だからといって、どうということもないのですが ^^;)
 僧侶Aさんを、「カルト」だとは考えていませんし、もちろんpunさんも・・・

 「私自身の存在を確認する」という作業は、きっと、非常に広大な世界だととんぼは感じています。
 とんぼは、いわゆる「ひきこもり」なので、多分?この作業で失敗していますね(笑)
 以下、笑い話として・・・

 とんぼは、人前で食事をすることが苦手な人間でした。
 そんなとんぼも、小学生となれば「給食」が待っています。
 とんぼの母は、料理がニガテ+好きでないので、変わった料理は作りません。サンドイッチひとつ、”絶対に”作りません。そんな家の息子なので、なにはともあれ、「食わず嫌い」が存在します。その上、上記の神経症。
 そこで担任の先生は「居残り給食」という”拷問”を考えつきました。
 これは、最近でこそないですが、以前は時折あった”教師の習慣”だったようです。
 食べた分は、全部吐きました・・・
 食べなければ殴られるし、吐き出せば殴られるし・・・
 結局毎日殴られていました・・・
 で、困ったことに、親もまたそれに同調し、やっぱり毎日殴られました。。。
 そこで、とんぼがとった必殺技は、理屈。
 小学2年生が、図書館で「栄養学」をまなび、
「ニンジンやピーマンを食べなくても、絶対に死なない」
 ことを、きっちり、説明しました・・・
 結果、
「そんな、生意気なこと考える前に、食え!」
 顔が腫れたばかりでなく、歯が数本消えました。
 逃げれば警察が追ってくるし・・・

 とんぼの「カルト」嫌いの、一幕でした。


阿弥陀さまということ 投稿者:僧侶A  投稿日:10月20日(土)11時16分41秒

 阿弥陀さまは、私たちの思考や論理や体験と地続きのところにはありません。もしそうであれば、私たちが限界にぶつかったときには、阿弥陀さまもまた限界にはばまれてしまうことになります。ところが阿弥陀さまは、私たちの限界をこえてお救いくださる存在であります。私たちの思考や論理や体験を超えたところから、私たちにはたらきかけてくるのです。

 これを実感するために実践すべきことが、南無阿弥陀仏のお念仏を心をこめて申すことです。私の南無阿弥陀仏の一声一声を、現前にまします阿弥陀さまがお聞き取りくださり、ゆくゆくの救いを確約してくださるのです。

 法然上人のお弟子の問答の中のことばです。「南無阿弥陀仏と申して阿弥陀さまに救われることは、どれほどに確かなことと心得ておるか?」「我が右の手と左の手をうちあわせるのが確かなほど、救いも確かでございます」「それはあやういことだ」「ならばどれほど確かでございましょう?」「阿弥陀さまの救いは、生きている人間がゆくゆく死ぬのと同じくらい、確かなことだ」

 我が手を打ちあわせるほどのささいな「我がはからい」も打ち捨てて、「おまかせする」への転換がここにあります。


punさんへ 投稿者:僧侶A  投稿日:10月20日(土)09時10分33秒

 おふたりのお話を見ながら、私もうなずくことあり、また考えることもございます。どうぞお気遣いなく。おかしなところを訂正するほどの器量もありませんので。


僧侶Aさんへ 投稿者:pun  投稿日:10月20日(土)01時01分12秒

「お寺ネット」の回答の方、拝読させていただきました。やはり、自力も他力も求めるところは同じであると感じました。自力を突き詰めると他力に到ると聞いたことがあります。これからも勉強させていただきたいのでよろしくお願いいたします。
僧侶Aさんの掲示板なのに、なんだか横から入ってきて言いたい放題してしまったような気がして申し訳ない気分です。僧侶であると言ってしまった以上、自分の発言に対する責任がより重くなってしまったので、少しでもおかしな部分がありましたら、是非ご指摘ください。


訂正 投稿者:pun  投稿日:10月20日(土)00時31分58秒

下の私の文章で、「理論」について述べた部分ですが、とんぼさんに対してのことではなく、現代社会の考え方の傾向について書いたものです。読み直してみて、誤解をまねきそうな文章でしたのでおわび申し上げます。


今日はとんぼさんへ2通目です 投稿者:僧侶A  投稿日:10月19日(金)23時43分27秒

 「お寺ネットかけこみ相談室」の方でも、阿弥陀さまのお救いを何とかわかりやすく言葉にできないかと、努力をかさねております。まだまだ未熟ではありますが、そちらの方もヒントになさってください。


がんばって考えました 投稿者:pun  投稿日:10月19日(金)22時22分19秒

極楽浄土に関してはコメントはできませんが、それ以外のとんぼさんの御意見に対して全体的には特に否定したいわけではないのですが、禅宗坊主のはしくれとしてなんとなく心にひっかかる部分がありましたのでコメントさせていただきます。
「私の存在」についてですが、
>「私」があってその周りが「無」ならば、「私」もまた存在していないに等しいのです。
という部分から感じますのは、「まず「私」が存在する」という確信があるように思われます。
>”その”周囲を認識できるのは、「自分の人生では自分しかいない」
そう考える自分自身の存在をまず疑ってみるということも大切なのではないでしょうか。そしてその上で、”その”周囲を認識できるのは、「自分の人生では自分しかいない」というのをもう一度考えてみると、「自分にしか認識できない周囲」が自分の存在にゆだねられているはかなさと同じか、それ事以上に、自分の存在もまた周囲の存在にお世話になっていることを感じることができると思います。だからこそ「おかげさま」なのです。
「カルト」とは、信じない人を排除、非難し、信じる人のみが救われると思い込み、その教団のやり方にとらわれてしまった「状態」だと思います。
「理論」「理屈」に関しては、私はとんぼさんとは逆に論理的思考至上主義というか、科学的であることがより真実に近いことであるという考えがどうも目に付きます。科学で証明できることはすべて正しく、科学的でないことはすぐにオカルトにされたり幼稚な考えのように思われがちな気がします。「理論」はとても説得力がありますが、それに執着しすぎると大事な部分を見落としたり、気持ちよく生きていく妨げになりかねないと思います。
とんぼさんの意見を何度も読み、自分の感じる部分をなんとか言葉にひねりだした文章でございますので、分かりづらい文章になってしまったかと思います。どうかご容赦願います。


とんぼさん、おはようございます 投稿者:僧侶A  投稿日:10月19日(金)09時40分41秒

>極楽浄土に往生しても…

 極楽は、私たちの思慮分別を超えた世界とうかがっております。それをお釈迦さまは、こう表現して示してくださいました。「極楽は、厳かにきらびやかに飾り立てられた世界で、もろもろの苦痛が無いから極楽というのである。もろもろの優れた聖者や凡俗が交わり住むところである。一日に六回天から華が降りそそぎ、また阿弥陀さまの説法が鳥のさえずりとして聞こえてきて、そのときそのとき、自然に仏道修行の進展を見る」というような表現です。『阿弥陀経』というお経に書かれてございます。「ストイック」と言えばそう、そうでないと言えばそうでない、そう思います。

>「立派」と「過ち」を、”だれが”判断するのでしょう?…

 とんぼさんに言わせれば、私はまちがいなく「カルト」でしょうね(笑)。「とんぼさん側」よりも「カルト側」にいるんでしょうね。(私のカルトの定義は違いますが)。
 もちろん、とんぼさんがいろいろとお考えになることは、とっても大切なことです。ではどうして私がそっち側にいるのかと言いますと…。私もいろいろと考えていたんですが、その途中で、「やっぱり阿弥陀さまは存在するんだ」ということが、ハッキリわかったからです。だから、これ以上いろいろと考える必要はもうなくなって、「阿弥陀さまはいるんですよ」としか言えなくなっちゃったんです(笑)。ひょっとしたらそのうち、とんぼさんにもそれを順序だててお話できる日が来るかもしれませんが、今の私はそれにむけて努力している最中ですから、うまく説明できないんです。


往生と成仏 投稿者:とんぼ  投稿日:10月18日(木)23時50分16秒

 皆様ありがとうございます。
 疑問がいきなり「氷解」しないところが、とんぼの悪いところですが、「研究熱心?」などと、なるべく善意で、お願いいたします (^_-)

 とりあえず、順番に。。。
 極楽浄土に往生しても、これは「成仏」すなわち「全く苦のない世界」ではないですよね。つまり極楽に言っても苦痛はあるわけでして、もしかすると、さらに厳しい修行が待っているのかも知れませんね(笑)
 けっこう、ストイックな世界??? 

 次に、punさん・・・
 とっても、有り難いご意見です。
 かりに「私」があってその周りが「無」ならば、「私」もまた存在していないに等しいのです。
 難しいことは、専門家に聞いていただけると有り難いのですが・・・とんぼは専門家ではないので (謝)
 たとえば、心があるかどうかは知りませんが、主人公に「石」をとってみます。
 「石」が”石”であるためには、砂や水、木、虫、動物・・・などが、必ず必要になります。
(全くなければ”石”であることが、証明できないですし、そもそもその必要がないですね)
 そう、私が私であるためには、「あなた(目の前の人間に限らず、周囲の全て)」が、どうしても必要・・・(と、とんぼは思うのですが、佛教的に、”違う”というのはあるのでしょうか?)
 もうひとつ、実はさらに根っこの部分。
 ”その”周囲を認識できるのは、「自分の人生では自分しかいない」ということです。
 地球上に50億くらいの人がいるそうですが、たとえば「素粒子」の存在を、確実に信用している人は、さてどれほどいるでしょう。能力の問題ではないですね。アインシュタインだって、素粒子の存在を確認できなかった?いわんやニュートンは・・・
 時代の、正確に言えば、人間の経験の積み重ねが、たとえわずかでも、「素粒子」の存在を確認できるようにしたんですね。
 佛教の「お経」の数は、80000などとも言われています。
 永い歴史の中で、仏教発祥の地であるインドは、いつの間にかヒンズー教に・・・中国は、民族紛争を重ね・・・日本もまた、「やおろず」の神様に、影響され・・・

 そこで最後に、僧侶Aさんの
>「カルト」とは、宗教的な内容がどんなに立派であろうと、それを構成する人々のあやまちによって生まれてくるのだと、私は考えています。

 「立派」と「過ち」を、”だれが”判断するのでしょう?
 この判断を、いったんは「僧侶」(あるいは教祖。場合によっては時の政治的指導者など)がする・・・
 そして、これを「おしつける」(相手の判断を、無効にする)・・・
 とんぼは、カルトの定義をこう考えます。
 正しいとか、正しくないとかは、始めから問題ではないでしょう。だって人間は、百人百葉。
 これは、古今東西で、あまりに繰り返し起こっていることなので、それほど異常なことではありませんね。キリスト教がコペルニクスを処刑した瞬間、キリスト教の一部は、とんぼ風には間違いなくカルトであり、佛教伝来時、これを排除しようとした日本の勢力もまた同様ですね。

 それと、全くの蛇足なのですが・・・(笑い話として)
 「柔道は口じゃ出来ない」
 虚弱体質のとんぼは、よくいわれました。
 でも、試合では、とんぼが勝ちました。(地区レベルの話ですが 笑)
 とんぼは、ルールに詳しかったから。
 柔道なら、笑い話ですけど、「理論のない体験」を、冬の北アルプスでいきなりやると、死んじゃいます???
 「世の中、理屈じゃないんだよ」
 言葉としては正解ですが、現実ではこのなかに「理屈否定」という考え方が、存在します。
 逆もまた真なり・・・

 あー、長くなってごめんなさい。。。


とんぼさん 投稿者:僧侶A  投稿日:10月18日(木)16時18分22秒

7つ下の「極楽往生。。。その後 投稿者:とんぼ」に対して、
(1)6つ下の「とんぼさん 投稿者:僧侶A」
(2)4つ下の「とんぼさんへ 投稿者:pun」
(3)1つ下の「とんぼさん 投稿者:僧侶A」
の三つの回答がありますので、ご注意を。


とんぼさん 投稿者:僧侶A  投稿日:10月18日(木)14時58分45秒

>カルトは、「あるもんは、あるんじゃー」とやる宗教?ですね???

 このあたりに疑問を感じます。「カルト」とは、宗教的な内容がどんなに立派であろうと、それを構成する人々のあやまちによって生まれてくるのだと、私は考えています。
 教団がカルト化していようとなかろうと、ある程度「ああ、こういうものが存在するんだな」と、心にせまってくるものがあるから、宗教的感情というものが始まるんだと思います。

 それを「存在しない」と思うような人に対しては、いろいろな説き方で説明はいたします。けれどもだからといって、そういった説明の方が先にあるから「それが存在する」んではなくて、先験的な「ある」という感覚が起こってくれればいいなあ、という説明にすぎません。「頭による理解」と「体験」、と分けてみればわかるでしょうか。「体験」の手助けのための「理解」なんです。



Many thanks 投稿者:在家ぶっと  投稿日:10月18日(木)14時39分31秒

ご丁寧にありがとうございす。
「自力他力の境目なし」も承知しています。
信仰にはどちらの要素も含まれていると思います。
同じように「大乗小乗も境目なし」であろうと思います。

僧侶Aさんから色々勉強させて頂いています。
今後共宜しくお願い申し上げます。


Answer 投稿者:僧侶A  投稿日:10月18日(木)09時54分43秒

 ぶっとさんも掲示板を開設されたようで、おめでとうございます。出不精なものでまだお伺いしておらず、申し訳ないです。

 お尋ねの件ですが、一般的には、阿弥陀信仰=他力信仰と言ってよいと思います。

 宗教的なことを申しますと、まず「自力他力の境目なし」といいまして、たとえばぶっとさんのやっておられる禅でも、深めていくと他力につながっていくという話を聞いたことがございます。達磨大師が南無仏ととなえ、道元禅師が南無仏法僧し、一休禅師が南無阿弥陀仏ととなえたとうかがったことがあります。また明治期の念仏聖である山崎弁栄は、禅僧に対して念仏の境地を禅の言葉で語ったと聞いています。自力他力の境目は、私たちが自分のはからいで見てしまっているものかも知れません。
 それから、阿弥陀信仰で念仏をとなえると言いましても、その心のおき方次第では、他力ではなくて自力と言わなければならぬ場合もございます。たとえば、阿弥陀さまの救いの誓いに疑いを持ち、「自分の力でこれだけ念仏をとなえたから、往生させてもらえるだろう」というようなものを「自力の念仏」と申しています。


とんぼさんへ 投稿者:pun  投稿日:10月18日(木)00時03分35秒

「存在は、まず”私”があって、”あなた”がある」というのが西洋の考え方だとするならば、仏教は、「まず、”あなた”があって、”私”がある」という思想ではないかと私は思います。「あなた」とは、目の前の"you"だけではなく、現在、過去、未来を含めた、自分が今、ここに生きていると感じさせてくれるすべてです。そんな”あなた”が存在しなければ”私”もなく、だからこそ、”あなた”に帰依しようというのが仏教であり、その帰依する方法を祖師の方々はいろいろと苦心してみいだしたのではないでしょうか。帰依の仕方は宗派によって異なりますが、目指すところは同じです。しかし、その方法ばかりを見てしまうと、「仏教もおかしいなあ」と感じてしまうかもしれません。
 まだまだ未熟者ゆえ、言葉の使い方、考え方に不適当なところがあるかもしれませんが、どうかご容赦くださるとともに、ご教示くだされば幸いです。


Question 投稿者:在家ぶっと  投稿日:10月17日(水)23時31分01秒

僧侶Aさんこんにちは、ご無沙汰致しております。大盛況ですね。
きょうは質問に参りました。
私は「阿弥陀信仰」という言葉を「他力信仰」と同じ意味で使っているのですが、それで間違いないでしょうか。
幼稚な質問で済みません。


とんぼさん 投稿者:僧侶A  投稿日:10月17日(水)22時29分32秒

>僧侶Aさんは、極楽に往生した後、何をするつもりなのでしょうか

 すべてをおまかせした私の南無阿弥陀仏の一声一声に、阿弥陀さまが耳をかたむけて下さっている。その幸福を想像してみてください。正直、極楽に行って○○しよう、という気は起こって参りません。そうではない方もおられると思いますが、いま私は、そういう気持ちはおこらないということです。ただ、私も現在進行形ですので、生涯このままかどうかはわかりません。

>とんぼが、「佛教も、おかしいなー」と感じるのは、この辺りです。

 申し訳ありませんが、ご質問の意味がまだよくつかめません。
 道理の宗教であり、理詰めでつきつめるはずの仏教でも、頭ごなしに何かを決めつけることがある、ということでしょうか? それでよいと思いますが。


極楽往生。。。その後 投稿者:とんぼ  投稿日:10月17日(水)19時50分32秒

 とんぼです。
 今回は2つのことを書きますです。

 まず、極楽往生について・・・
 これは、浄土教のお話なのですが、それはともかく。僧侶Aさんは、極楽に往生した後、何をするつもりなのでしょうか?

 2番目は、先日書いた「存在」についての、後書きです。
 たまたま「霊」を題材にしてしまったので、うまく伝わりませんでした。
 とんぼの未熟な感想からすると、この方面に関して佛教は強いようです。
 反対勢力として、例えばキリスト教を挙げます。
 彼らの世界には、哲学や心理学といった「学問」が、別儀登場しますね。もちろん完璧ではないですが、聖書に不足する部分を、ある意味補っています。
 そうした「心理学」などのお話では、
「存在は、まず”私”があって、”あなた”がある」
 ということです。
 ”私”が存在しなければ、”あなた”もまた存在しないということですね。
 横文字の直訳なので、「私」「あなた」が、日本語的にはおかしいのですが・・・
 ちなみに、霊魂だろうが何だろうが、
「あると思う人には”ある”」
 ということですね。

 カルトは、「あるもんは、あるんじゃー」とやる宗教?ですね???
 とんぼが、「佛教も、おかしいなー」と感じるのは、この辺りです。
 もちろん、実際のことは知りませんが、いかがなものでしょう?


今日は三つめの投稿です 投稿者:僧侶A  投稿日:10月17日(水)17時18分23秒

 お念仏は、一遍となえれば一回分の往生の価値があります。なぜなら、死に際の一遍だけで、極楽には往生させてもらえるからです。しかしそれは「じゃあいま一遍だけとなえれば、あとはもういいや」ということにはなりません。それは死に際の話だからです。念仏は、発心したときから、死に際まで続けなさいというのが、そのこころです。百回となえれば、百回の往生の分の功徳があります。一日三万回となえれば、その分、極楽に生まれたあと、阿弥陀さまに早くまみえることができます。だから、一回のお念仏ですくわれるし、そんなありがたいお念仏だからたくさんとなえよというのです。

 お念仏の数を数えるために、浄土宗のお数珠はあるのです。二つの輪が8の字に連なったものです。同じ大きさの玉が連なった方を一の位、大小交互に連なった方を十の位として、たくさん数えることができます。「南無阿弥陀仏」ととなえるたびに、玉を一個くります。その際、玉を繰ることによって極楽を願う心がさえぎられてしまいますので、玉のひと繰りと「南無阿弥陀仏」をあわせて、ひとつの功徳と思って、極楽往生させたまえ「南無阿弥陀仏」ひと繰り、とやっていきます。


お念仏における慈悲とは 投稿者:僧侶A  投稿日:10月17日(水)16時59分44秒

 自分の力で功徳を積んでいても限界がある。すでにすべてを成就なさった阿弥陀さまのお慈悲におすがりいたします。南無阿弥陀仏。じゃあそれでは、大乗仏教において功徳とされていた「利他」の精神は、どこへ行ってしまったのでしょうか?
 他人への慈悲を行じて、その体験の中で仏をめざそうという心は、否定されました。しかしそれでも、慈悲を行じるのは大切なことです。「必要」ではありませんが「無価値」でもありません。慈悲を勧めるのが阿弥陀さまのこころだからです。お念仏によって慈悲を行じる方法は、三つあると思います。

(1)ひとつは、早く阿弥陀さまに助けてもらって、極楽で修行して、仏となって、この世にまた現れて衆生を救うぞ、と願うことです。これは立派な慈悲の精神であります。現世での眼前の布教がどんなに行き詰まったときでも、このことに支えられて、慈悲の心を持ちつづけることができます。また、いっそう自行にはげむことにつながります。これを「還相回向」と申します。

(2)ふたつめは、みんなで一緒に阿弥陀さまに助けてもらおう、という心です。眼前の布教です。人にお念仏の教えを説き、共に極楽に生まれることを願います。また自分が心を致して極楽を願い、そのさまを他人に見せることを通して、他人の心に極楽を願う心をおこさせます。これを「共生」と申します。

(3)みっつめは、あまり強調されませんが、阿弥陀さまに向かって、あの人を救ってください、南無阿弥陀仏と願うことです。亡き人を思って南無阿弥陀仏ととなえれば、阿弥陀さまの光が地獄・餓鬼・畜生の世界にまで届いて、その光に触れた衆生を解脱に導くと言います。このときの南無阿弥陀仏は、自分が極楽に生まれようという意識では唱えられませんし、また現世での布教につながるものでもありませんが、慈悲の心を保ちつづけることだけはできます。

(1)(2)の慈悲は、自行を励ます方向に働きます。慈悲の心が、自分の往生のためのお念仏をますます促進するということです。


一応まとめておくと 投稿者:僧侶A  投稿日:10月17日(水)13時16分04秒

 密教では「ある」「ない」
 禅家では「      」
 念仏では「南無阿弥陀仏」

…こんなところでしょうか。仏教の日本的霊魂に対する態度云々と言いましても、字面の操作ばかりが先行しておりまして、全身全霊による体得はおろか、頭での理解も追いついていません。私にわかるのは、霊など存在しないと思っても、部屋の隅に幽霊が見えていても、ただ「南無阿弥陀仏」ということです。


落着 投稿者:僧侶A  投稿日:10月16日(火)22時22分03秒

 静秀さん。ほんとうにどうもありがとうございました。これにて一応の終着を見たということに致したいと思います。「霊魂」に対してどういう姿勢をとっていくのか、というのが出発点であったように思います。ちなみに、「魂魄」という考えは、加地伸行先生という方の講演で、儒教的な考え方としてうかがったことがあります。



僧侶A様 投稿者:静秀  投稿日:10月16日(火)19時15分37秒

いえいえ此方も勉強しながらですから有難いです。
さて、
>「日本的霊魂を認める立場も包括し、否定する立場も包括する」と言った方が良いように思いましたが、これはいかがでしょう?

そうですね。其のようなところで良いのではないでしょうか。
私個人的には其のように思います。
なかなか霊魂のことでは仏教界では意見が分かれるところは致し方無しなのかなぁと思います。まぁしょうがない部分も有りますから・・・

ここに臨済宗妙心寺派牛込覚心師の「霊魂の書」という本が御座居ます。
その中に、魂魄の文字の説明が御座居ます。多分に儒教的ですがと断って・・・

人が死ぬと先ず「鬼」になったと考えます。日本でも故人を指して「鬼籍に入った」
等と言われますが、此れはそうした影響から来るものでしょう。
魂魄どちらにも鬼の字が使われております。「魂」は死者の精神世界を指しています。
また、「魄」は肉体を表します。この両者が一体の時人間は生きていると言われますが、
どちらが欠けても生きている状態には成りません。「魂」が欠けた場合生きながら死者となっていることです。


冗長なんですが 投稿者:僧侶A  投稿日:10月16日(火)09時29分04秒

 静秀さん。長々とおつきあいいただいており、本当にありがとうございます。密教は世間の法やいわゆる外道もすべて包括しているのですね。そうしますと「日本的霊魂を認める立場も包括し、否定する立場も包括する」と言った方が良いように思いましたが、これはいかがでしょう?

 禅宗では、punさんの言葉を借りるとすれば「霊そのものに対しては肯定も否定もしていない」。
 念仏では、「たとえ幽霊が現れても、自分は南無阿弥陀仏で如来さまに救われるのだ」。


僧侶Aさんへ 投稿者:静秀  投稿日:10月15日(月)22時07分56秒

全て含んで真言密教です。
>仏道とは別の問題として、「霊」の存在は肯定する。そう言うことになります。


霊と密教は別物? 霊も真言密教? これだけ教えてください 投稿者:僧侶A  投稿日:10月15日(月)22時01分58秒

 出家在家問わず、三密の修行による即身成仏への道のりには「霊」は関係ない。だが、仏道とは別の問題として、「霊」の存在は肯定する。

――これならば良いでしょうか?


僧侶A さんへ 投稿者:静秀  投稿日:10月15日(月)18時55分59秒

↓のスレット一生懸命力を込めて書いたら題名を忘れました。すんません。


(無題) 投稿者:静秀  投稿日:10月15日(月)18時53分12秒

>未体験の仏道者に説いてわからせる必要もない。
ではなく、体験・会得でなければ判らないと言うことです。
有名な話ですが、天台宗最澄大師が、弘法大師空海に理趣釋経を借り受けたいと願い出たとき、弘法大師空海は此れを断っています。それまでは最澄様の申し出を悉く受け入れ、色々の希望に添った経典を貸出しています。唯、此の経典だけは断りました。
何故なら、真言密教は文字だけで全ては理解できない。会得せよということです。
最澄様はその折にはもう比叡山を建てられ、朝廷にも仕える身でありましたので、
空海大師の元での修行が出来ない。よって泰範を京都高尾の神護寺に残されるのです。
最澄大師の名代として真言密教を習ってくるようにと・・・
つまり真言密教とは自らの身で体験・会得することを必要とするのです。
ですから未体験の仏道者に説いてわからせるのではなく、貴方も真言密教に入りて行を為さいませと言うわけです。そうでなければ判りませんよ。となるのです。

また、真言密教の大きな特徴として、全てを包括する思想を持っております。
教相判釈(きょうそうはんじゃく)の十住心論・秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)で

1.異生羝羊心 (いしょうていようしん) 一向行悪行ーーーーー世間ーーーーー顕教
2.愚童持斎心 (ぐどうじさいしん)   人 乗ーーーーーーー世間ーーーーー顕教
3.嬰童無畏心 (ようどうむいしん)   天 乗ーーーーーーー世間ーーーーー顕教
4.唯蘊無我心 (ゆいうんむがしん)   声聞乗ー小乗ーーーー出世間ーーーー顕教
5.抜業因種心 (ばつごういんじゅしん) 縁覚乗ー小乗ーーーー出世間ーーーー顕教
6.他縁大乗心 (たえんだいじょうしん) 法相宗ー大乗ー菩薩ー出世間ーーーー顕教
7.覚心不生心 (かくしんふしょうしん) 三論宗ー大乗ー菩薩ー出世間ーーーー顕教
8.一道無為心 (いちどうむいしん)   天台宗ー大乗ー菩薩ー出世間ーーーー顕教
9.極無自性心 (ごくむじしょうしん)  華厳宗ー大乗ー菩薩ー出世間ーーーー顕教
10.秘密荘厳心 (ひみつしょうごんしん) 真言宗ーーーー仏乗ー出世間ーーーー密教

となりまして、10の密教は1〜9迄を内蔵・包括するのであると説きます。
よって、>幅広く融合的であって、それでも大切なものは失われないと言うことに成ります。


しつこくて済みません。 投稿者:僧侶A  投稿日:10月15日(月)12時05分10秒

 出家在家問わず、三密の修行による即身成仏への道のりには「霊」は関係ない。未体験の仏道者に説いてわからせる必要もない。だが、仏道とは別の問題として、「霊」の存在は肯定する。

――これで間違っているところはありますでしょうか?

 合っているとすると、真言宗では仏道以外のものを説いていることになり、やはり「日本の霊魂観」(あるいはその他の何か)の混入が認められると思います。そして、それでも良いのでしたね。幅広く融合的であって、それでも大切なものは失われないということでしょう。


僧侶A さんへ 投稿者:静秀  投稿日:10月14日(日)23時45分06秒

>在家信者に現世利益を説き、出家→修行へと導くと・・・
ではなく、在家信者は三密の修行をしなさいと、説くのです。出家迄は問いません。

>「霊」を説くのは、教義上の位置づけでいうと、やはり真言密教への誘因のための手段でしょうか?
真言密教への誘因のための手段ではなく、「有る」と言う肯定の立場をとるだけです。
唯此れも宗内一致ではなく全く否定なさる方もいらっしゃいます。
然し御大師様が「霊」との関わり(調伏祈祷)を持っていらっしゃったのを見れば「有る」となるでしょう。
唯此れの扱いは、体験し了解したものだけの世界であり、未体験の者に言葉を尽くしても了解せしめることは時間の無駄以外の何者でもないことは私が良く判っております。
だからお釈迦様は「無記」とされたと考えます。

だからと言って御質問いただいている僧侶Aさんに説明するのが嫌だとは言っておりません
悪く取らないで下さいね。


静秀さんありがとうございます 投稿者:僧侶A  投稿日:10月14日(日)22時15分52秒

 生きている人間の生きたままでの救済、それは究極的には三密の修行による即身成仏であると。それに誘引するために、在家信者に現世利益を説き、出家→修行へと導くと。それが真言宗の教義であると受け取りました。そうしますと「霊」を説くのは、教義上の位置づけでいうと、やはり真言密教への誘因のための手段でしょうか?

(掲示板やメールでの質問は、時間がかかりますね。何度もの質問、申し訳ないです)


御質問にお答えして。 投稿者:静秀  投稿日:10月14日(日)18時49分38秒

>高野山真言宗の教義では、私たちは真言陀羅尼などの修法によっての即身成仏は無理で、死んでから「○○之霊」として、位牌に向かっての供養・卒塔婆建立の供養などを受けて、その功徳を回向してもらって「成仏」するほかないのですか? 

そうでは有りません。
我々真言宗の教義においては、此の身此のまま仏になる事即ち「即身成仏」です。
ですから、今生で仏に成れると説いています。我々凡夫が皆仏性を内在しているからで、
平生は煩悩の霧に隠れて見いだすことは出来ないけれど、三密の修行によって仏性が現れるのだと説いています。
因って、真言宗では全て成仏できるとなりますね。

では、>生きている人間の、生きたままでの救済はどうなるのですか?
此のことに関しては、現世利益を説きます。
例えば商売繁盛・家内安全・身体健全等々です。
其の方法の一番ポピュラーなのは不動明王の護摩祈祷でしょう。
其れが惹いては真言宗に院入せしめる方便と成るのです。



みなみなさま 投稿者:僧侶A  投稿日:10月14日(日)08時27分25秒

 いろいろなレスをありがとうございます。
 はじめにも申し上げましたように、私の質問は純粋に各宗の信仰を知りたいからいたしましたもので、討論のためのものではありません。

 静秀さん、ご回答をありがとうございます。いわゆる私が申しているところの「日本人の民俗的な霊信仰・霊魂観」が、真言の信仰の中には習合していると、静秀師のお話から私は受け取りました。ひとつだけ重ねてお聞きしたいのは、三つめの質問へのお答えについてです。高野山真言宗の教義では、私たちは真言陀羅尼などの修法によっての即身成仏は無理で、死んでから「○○之霊」として、位牌に向かっての供養・卒塔婆建立の供養などを受けて、その功徳を回向してもらって「成仏」するほかないのですか? 生きている人間の、生きたままでの救済はどうなるのですか?

 punさん、はじめまして。おっしゃる通り、まったく反論はございません。「霊魂はない」も執着でしょう。ちょっと考えてみます。ご忠言ありがとうございます。

 とんぼさん。たしかに霊の存在云々は、哲学的な観点からすれば地に足のついていない議論でしょうね。しかしとんぼさん、私がめざしているのは、そういう方向ではないんです。難しい議論の結果、「霊は存在する」でも「霊は存在しない」だったとしても、その議論で万人を説得できるでしょうか? そうして、それによって万人が救われるのでしょうか? 霊魂はあるかないか、議論するのであれば、とんぼさんのご提案は大いに参考になります。でも、そういう議論はここではしたくありません。ごめんなさいね。でもありがとうございます。


存在のお話 投稿者:とんぼ  投稿日:10月13日(土)23時32分16秒

 またまた でばって、ごめんなさい。

 例題を「霊魂」にとって、すこし・・・

 霊魂や、幽霊や、お化け・・・
 いずれも「死後」が関係する話なのですが、これに関しては「存在とはなんぞや」という話が先にないことには、全く話が先に進まないような気がします。
 そしてもうひとつ、実際に生身の肉体を持っている人には、一般に、「前世の記憶」が無いという事実も、存在しますね。

 トンボの浅慮では、佛教というのは(他の宗教と比較して)、この辺りが優れているような気がするのですが、いかがなものでしょう?


しづつ私が判る範囲で・・・のパート3 投稿者:静秀  投稿日:10月13日(土)23時22分27秒

>その霊は、われわれ苦悩の人間が仏のさとりを得ていこうとする過程で、教義的にはどのように関わってくるのでしょうか・・・

此れは教義的に色々と事例が御座居ます。
その中から簡単に申し上げれば位牌や塔婆に○○之霊位と書いていることからもお判りいただけると存じます。
もっと申せば、チベット密教(大日経・金剛頂経を所依とする)では公然と霊を解きます。

また、pun さんの属せられる臨済宗には私の知人で有る牛込覚心氏がいらっしゃいますが、彼は積極的に霊を肯定していますね。

禅宗系でも、曹洞宗が割と否定していますが、
矢張り人それぞれではないでしょうか。そういう結論に達するようです。

スレッド 「少しづつ私が判る範囲で・・・」の処で、最終段の大姉は大師です。


少しづつ私が判る範囲で・・・のパート2 投稿者:静秀  投稿日:10月13日(土)22時57分00秒

>「霊」は、人に憑いて悪さをしたり、霊能者によって霊視されたり、神仏習合のお祓いによって除かれたり、するんでしょうか? 

此れはそうですとお答えしてもいいでしょう。
唯、神仏習合のお祓ではなく、高野山真言のばあいは祈祷法が確立して御座居ます。
例えば徐霊法での護摩祈祷等です。


はじめまして 投稿者:pun  投稿日:10月13日(土)22時49分20秒

私は臨済宗の僧侶です。まだまだ勉強不足でもしかしたら間違っているかもしれませんが、「禅宗系が霊を強硬に否定する」という内容にコメントさせていただきます。臨済宗においても、霊にまつわる逸話はあります。かといって霊とはどういうものかという解説もありません。霊そのものに対しては肯定も否定もしていないと思います。むしろ、霊がいる、いないというそれぞれの立場に執着してしまうことを好ましく思わないのが禅宗の立場、考え方だと私は考えております。
 横からどうもおじゃましてすいませんでした。


少しづつ私が判る範囲で・・・ 投稿者:静秀  投稿日:10月13日(土)22時44分58秒

先ず、討論室の阿羅漢さんの件ですが、
高野山真言でも智山派・豐山派でも無いような気がします。
何処か我々真言と異質な感じがします。何処がと言われても困りますが・・・

さて、>「加行中の作法」というのは、純粋に仏説や御祖師の説にもとづいて作製されているのでしょうか?・・・
ですが、高野山真言の加行の場合(私が受けたときのことです。)、次第は御大師様の時代のままであるとは言い切れないのです。また「食時作法」も同じであります。
ですから貴方がおっしゃる>日本の民俗的な霊信仰は、一片たりとも交えていないとは言い切れないのです。然しそう言うことには我々高野山真言は捕らわれる必要が無いのです。いい加減に聞こえるかも知れませんが其れはそれでいいのです。ホジクッテ考えても何にも成らないのです。

唯申し上げるのであれば、神分(じんぶん)と言うところが次第の中に有りますし、高野山には神社が御座居ます(丹生都比売の命・狩場明神・十二王子百二十番神)ことからも御判断いただけるのではと存じます。
尚此の神社は大姉の山上伽藍建立当事のものであると拾遺雑集にあります。


密教は懐が広く融合的ということでしょうか? 投稿者:僧侶A  投稿日:10月13日(土)21時40分52秒

 ようこそ静秀さん。力むあまり、勝手に立場を逆転させてしまっていたようですね。(^^;)>

 「討論室」の掲示板で阿羅漢さんという真言の方のお話を聞いたときには、「霊」を「本来の仏教」側ではなく、完全に「日本人の霊魂観」の側に置いておられたようでした。ですので、真言でも教義の中には霊は現れないのだと思っていました。

 私は密教の知識もございません。真言陀羅尼などの修法によって、さとりと直接的に一体化する、頓中の頓の即身成仏の法と受け取っている程度です。ですので討論を挑もうというのではなく、純粋に質問としてお聞きしたいことがあるのですが、もしお答えいただければ、幸甚に思います。

・「加行中の作法」「食時作法」というのは、純粋に仏説や御祖師の説にもとづいて作製されているのでしょうか?(日本の民俗的な霊信仰は、一片たりとも交えていないでしょうか?)
・その「霊」は、人に憑いて悪さをしたり、霊能者によって霊視されたり、神仏習合のお祓いによって除かれたり、するんでしょうか? (日本の民俗的な霊信仰における霊と同じイメージのものでしょうか?)
・その霊は、われわれ苦悩の人間が仏のさとりを得ていこうとする過程で、教義的にはどのように関わってくるのでしょうか? (霊と仏教の関わりは、何なのでしょうか?)


一寸お邪魔します。 投稿者:静秀  投稿日:10月13日(土)17時05分45秒

>「幽霊はないのだ」というのが自力門
ではないのです。自力門でも真言は霊の存在を否定しません。
禅宗系・日蓮系などは強硬に否定しますが、真言は根本的に霊を否定しません。
例えば、加行中の作法に其れは見えます。又食時作法のなかにも関連する処が御座居ます。

ところで、「千と千尋」は、私も拝見しました。一仏教者として色々と考えさせられました。
また、エンドロールに私の親戚の名前が有ったのには驚きました。
http://www.otera.net/seiryuji/ 


千と千尋の続き(になるでしょうか?) 投稿者:僧侶A  投稿日:10月12日(金)23時11分37秒

 霊魂が見える、霊がのりうつるというのに、いままで私は否定的すぎたかもしれません。よく、霊感体質ということが言われますが、見えてしまう人には見えてしまう、それはしかたのないことであります。

 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というように、見えてしまうというのは、恐怖心のなせるわざなのかも知れませんが、それが見えてしまう人に、「そんなものはないのだ」と言ったところで、よほど強い心の持ち主なら自力でくつがえせるかも知れませんが、それが無理なのが凡夫です。

 「幽霊はないのだ」というのが自力門ならば、「たとえ幽霊が現れても、自分は南無阿弥陀仏で如来さまに救われるのだ」というのが他力門なのかもしれません。


(無題) 投稿者:nyorori  投稿日:10月12日(金)01時08分56秒

その話を振ってしまったのは私でしたね。他意はありませんので。気がつかずすみません。仲のいい祖師お二人がうらやましかっただけですね(^_^;)。


あんまり 投稿者:僧侶A  投稿日:10月11日(木)21時03分32秒

 あんまり「浄土宗と真宗」ということには、こだわりたくはないのです。自分の属している教団に擁護的になって、偏狭になっていく自分が、ありありと感じられますので。



たびたびありがとうございます。 投稿者:nyorori  投稿日:10月11日(木)20時44分35秒

真宗的ですか?(^_^;)

じつは私は、実家は浄土宗、母方は真宗でして、二つはごっちゃになっています。私は区別してはいませんのですが(というより出来ない(T_T))。しかし、母方が信心があついので、どちらかというと真宗の方がなじみがあるのかもしれません。たまたま高校も真宗でした。これはたまたまです。真宗の方では、たしかに一般的には仰せのような傾向はあるのかもしれません(「かもしれません」というのは私を教えた先生は、教えに触れた瞬間の信とか、あまりそうしたことにはこだわらず、緩やかに教えの話をしたので)。

でも、まぁ一般の信徒(というか私のようにごちゃごちゃの環境で育った人間)には、区別はほとんどないです。私に教えた先生は、ちょうど僧侶Aさんのようなこともおっしゃてましたし、頭だけではありませんものね。専門の僧侶の方にはいろいろ学ぶべき事があるのでしょうけども。。

近くに寺院もありませんので、今後ともわからないところをいろいろお教えくださいませ。


今日は二通目です 投稿者:僧侶A  投稿日:10月11日(木)17時34分39秒

 真宗の方では、聞即信といって、坊さんの説く話を聞いて、にょろりさんのおっしゃるような風に「信」の起こるのを待って、「ああ、救われたんだ」と「救われつつ信じる」のを感じる。それが阿弥陀さまからいただいた信心であって、それをいただいた時点でもう救われたんだと、こういいますね。にょろりさんがおっしゃったようなのは、いかにも真宗的な「信」なんだろうと思います。

 私は、浄土宗でもそれもありだろうと思います。でも、それだけではないんだと思います。真宗風にいくと、説法を聞いていて、なかなか信心のおこらないとき、ひたすら聴聞に通うしかないわけです。法然上人は、信心は念仏申すうちに自然に生じるもんだと、おっしゃいます。言いかえれば、真宗ではおしえに触れた瞬間の信を見ていますが、浄土宗では体験的にはぐくまれる信をも見ているわけです。体験的にといいましたが、お念仏をするうちに、阿弥陀さまという大きなものに誘われて、信が出てくるんじゃないかと思います。

 そう見てくると、私が下のレスで申したことと、にょろりさんが更に下のレスでおっしゃったことの違いは、こういう差なんじゃないかと、思います。


にょろりさん 投稿者:僧侶A  投稿日:10月11日(木)17時16分09秒

 おしえ自体に、人に「信じよう」という気を起こさせる力があるのだと思います。これは謙遜ではなく、そうでなければならないと思っています。
 「信」ということも、「信じようか、信ずまいか。よし信じてみよう」ではなく、「確信」でなければいけません。そういうものは、その人その人と真理との間で、生まれてくるのを待つしかない。にょろりさんのおっしゃるように、教えに触れたその瞬間に、救われつつ信じることができれば、すばらしい。うまい表現でおっしゃいますね。浄土宗でもそのように教えます。
 私にできるのは、できるかぎりの力を尽くして、そのおしえ・真理を説くことではないか。そう思うのです。

 これは、親鸞さんのいうような、阿弥陀如来のひとり働きでわたしたちが救われていくという話とは、通じ合うようではあります。しかし実際には、もっと入り口の話であろうと、私は思います。教えに触れた瞬間に起こった信は、人それぞれです。多くの場合、それはきっかけ程度のものであろうと思います。それを真宗なら聞法、浄土宗なら念仏で、「まちがいなく救われた」というところまで行く。そこまで一気に行くほどの縁にめぐまれた人は、少ないだろうと思うのです。


お返事ありがとうございます 投稿者:nyorori  投稿日:10月 9日(火)02時51分42秒

僧侶Aさま。

お返事ありがとうございました。釈迦に説法のようなことになってはいないかと心配いたしておりました。すみません。失礼な言い様にも、丁寧にお答えになられること、なかなか出来ることはないと思います。

>私の力では人に信を起こすことはできません。それは結局は、仏の力、真実の力、なんだと思います。
僧侶Aさまは謙譲でいらっしゃいますね。
親鸞聖人の言うように、法然上人の信も、親鸞の信も、如来さまよりいただいた信かもしれませんね。それだからこそ、お坊さんは信を言うことは、大切な縁となると思います。

今は、なかなかお坊さんと接する機会がなく、また常に心ある僧侶と巡り会えるわけでもなく、「信」ということが、単に教義信仰や御利益だけの信仰、あるいは、なにかの神仏という対象のみをあがめる偶像的なものになってしまったかもしれません。やはり人と接して厚みと深みのある信仰に触れれば、信じるということに血が通うように思います。私自身は恵まれませんでしたが・・。

真宗の方では、救われているということの感謝のお念仏ということを強調するようですが、私は、浄土宗と真宗の違いや同じところとか、難しいことはよく分かりませんが、お釈迦様や法然上人や祖師方に接した人たちにとって、本当にそうだったのかなぁ、と思います。

お釈迦様(あるいは宗祖など)を信じて救われた人たちには、(世間的に見た場合)本当に不幸な同情に堪えない人たちがたくさんいて、あまりのことに言葉を失います・・。幸せは人それぞれと言うにはあまりにもお気の毒です。しかし、そういう人たちも「安心」を得られた・・驚きですが・・。そのような例に出して申すのも不謹慎なのではないかと思われるようなお気の毒な方々にとって、釈尊や祖師に「救われます」という言葉を、その場しのぎではなく、確信を持って言われたときに、そのお言葉に、いったいどれほど救われただろうと思います。想像ですが・・。あまりにもおつらいだけに・・やっと解き放たれるようなお気持ちであったかもしません。そのような、思いやりのある釈尊や祖師に救われて、救われつつ、信じたのかもしれないと思うことがあります。感謝の念仏ということなのかもしれません。と、個人的には考える部分もあります。しかし、あまりにもこれを言うには、不謹慎で・・未熟だし若造です。また教義も知らない在家です。いい加減にしないと、本当にバチがあたりそうなので、ほどほどにやめないといけません。

つらいものを無理をして救われると信じ込んだり、込ませるのではなく、可能な限り、信心のすすめ自体にも、すでに救いのある信仰をお勧めしたいと思っています。私は中途半端な信心家ですけれども。

浄土宗のことで質問したくなったら、またお教えくださいませ。


きょうは 投稿者:僧侶A  投稿日:10月 7日(日)22時31分21秒

 きょうはみっつめの投稿です。
「千と千尋の神隠し」を見てきました。あまりこういうのは見ないのですが、「もののけ姫」を見たときにも思ったのが、「八百万の神」と共存してきた日本人の生活のすばらしさのようなものです。こういうのを信じている人に、私は「その信仰は捨てて、仏教に帰依しなさい」とは言えないなあ、と思いました。むしろ、その自然信仰のようなものをやさしく覆い包むような感じで、仏教は存在するんじゃないかと思いました。


 投稿者:僧侶A  投稿日:10月 7日(日)22時25分46秒

 信っていうのは、結局、私がいくら「信じなさい、信じなさい」と叫んだところで、やってこないと思います。私の力では人に信を起こすことはできません。それは結局は、仏の力、真実の力、なんだと思います。いろいろな仏教書なんかを疑いながら読んで、人の話も疑いながら聞いて、たまたま何かの縁で僅かばかりの「信」が起こる。そこからやっと、仏門に入れるのだと思います。そこからがはじまりなのです。インドの龍樹さまは「仏法の大海は、信をもって、能入となす(入ることができる)」と仰有っています。私なんかが「信じなさい」と叫んでいるのは、田んぼで蛙が鳴いているようなものです。それもわかって、言ってはいるんですが。


おふたかた 投稿者:僧侶A  投稿日:10月 7日(日)22時17分40秒

 にょろりさん、お久しぶりです。とんぼさんも、何度もレスをありがとうございます。

 みなさんのおっしゃること、私もわかっているつもりではおります。日常的なお悩みに対して、仏教的な事ばかり答えて、ついていけないと言われたこともありました。はなっから「信が必要である」ばかり言っていては、悩みに答えていることにはなっていないとも思います。私は不器用なものですから、こんなやり方しかできていないんだと思います。

 まだまだ一年弱くらいでしょうが、私も相談室でいろいろ学ばせていただいております。管理人の三休師には、とても感謝いたします。あまり進歩はしているとはいえませんが、私はできるだけ法然上人の宗教的な真実に近づける話をしたい。それはゆずりませんが、いろいろな人にとって、すなおに入っていけるような話し方ができればなあと、願っています。みなさんのおっしゃること、とってもとっても参考になります。助かります。

 結局、これは私の課題ですね。


僧侶Aさま。お久しぶりです 投稿者:nyorori  投稿日:10月 7日(日)21時42分35秒

たまたまこちらをみまたら、トンボさまのご意見と、そのやりとりを見ました。とんぼさまも、こんにちわ。

僧侶Aさま、私もとんぼさまのおっしゃることは、しごく当然のことと思うのです。しかし、仏教家が信を説くのは、僧侶A様のおっしゃる通りだと思います。

私は信仰が、僧侶Aさまのようには、しっかりしていないということもございますが、僧侶Aさまが、法然さまへの信をおすすめになるさいのおすすめ方(ただ信仰をおっしゃることが多いものですから、「信ならどれでもいいのか?」という問いが出てくるように思うのです。これは私の所感でしかありません。僧侶Aさまを尊敬することに変わりございません。信に暗いものの依頼なのです)に、いささか唐突な感じは、すこし受けておりました。

何を信じるかと言うことは、何らかの「教え」や神仏に帰依するだけではなく、仏教徒ですとお釈迦様、浄土宗ですと法然さまの生き方や人生や人間に対する考え方・教えを尊敬し、あこがれ、みずからも実践していこうということとつながっていると思うのです。親鸞さまが、ちょうど法然様に帰依したように。お釈迦様に帰依した多くの方々も、お釈迦様の生き方や、その生き方と密接につながったところの教えに感動したのでないかと思うのです。お釈迦様の説かれる、信には、きっと悩める人々のことをよく考えた救いのある、信となっていたと思います。

僧侶A様もそうかもしれません。
私の場合は、阿弥陀様がいるいない、とか、あの世はこうだとか、そういうことは分かりませんが、彼らの人生や行いに感動して自らのお手本を見いだしています。いまはこの宗派だけという風でもありませんし、迷いもあり、信浅き、凡夫ですが・・。それでも、仏の教えと仏教を信じて、慈悲をもって正しく生きてきた人々のことはきちんと心に響きます。

信をおっしゃるのは当然ですし、それが悪いとは少しも思いません。ただ、悩む方にとって、ぬくもりのある信仰であるように、一つの考えを申し上げました。たくさんの方が、信仰とお釈迦様や宗祖とのふれあいを通して救われていったことが、伝わればいいと思うのです。「信じてください」だけですと、僧侶A様の真意をどれだけの方が読みとれるか・・。いくら、確信からもうしても、話す側のレベルだけでお話ししても伝わらないようでは、せっかくのすばらしいレスが無駄になってしまいます。聞く人あってのやりとりなのですから・・。

失礼しました。余計なことでしたら、捨て置いてください。お話ついでに申し上げました。すみません。


縁のある人と・・・ 投稿者:とんぼ  投稿日:10月 7日(日)17時16分06秒

 とんぼには、アドバイスできません(笑)
 悩める”とんぼ”ですから。

 唯一出来ることは、ケースデータをひとつ、提供できることだと思います。
 「カウンセラーアレルギー」ではないですが、適当なことばかり曰うカウンセラーにはずいぶん出会いまして、なので、いきなり「失礼なこと」を言います (謝)
 口のうまいカウンセラーは、怒らせてみるのが一番手っ取り早かったりしますので(笑)

 「信は必要である」と、「信が初め」では、全く意味が違います。
 普通に世の中を生きるためには「算数」は”必要”ですね。
 でも、算数を教える前に「言葉(国語)」を教えます。
 社会学者に一番大切なのは、目の前の「社会」を観察することで、過去の学者の言葉などは、”参考”にする。
 妙な話、若者の言葉が解らない「社会学者」などは、インチキですね(笑)
 佛教は、2000年以上かけ、いろんな民族と国によって、研鑽されてきました。
 たとえば「般若心経」という”新しいお経”が、参入することも出来たんですね。
 ところが、とんぼの乏しい人脈では、「僧侶」は、びっくりするほど閉鎖的だったりもします。自分が理解できない「若者言葉」にぶつかれば、「もっと言葉を勉強しなさい」と、高圧的に出たり・・・おいおい、言葉を勉強するのは、あんただろ?(笑)

 というわけで、とんぼはまたふらふらと・・・
 


とんぼさん 投稿者:僧侶A  投稿日:10月 6日(土)09時41分24秒

 ごめんなさい。私はそれでも、自分のこたえが正解だと思っています。私は、すでに仏教を信じてしまっている立場です。いきなり「信は必要である」というのが、浄土教にかぎらず、仏教での教えです。

 「正しい宗教ってなんだろう?」って、入口でまごまごしていては、いつまでたってもわからない。「だまされてもいい」って入っていって、おかしいと思っても、安易に疑わず、問い続ける。それで究極のところで真偽を見分けられるかどうか、よくわからない。しかもそんなもので、生き方が決まってくる。だから宗教の選択は、文字通り「命がけ」なんです。

 宗教の入口である「信」について、かみ砕いて教えるには、私はまだ早すぎると思っています。だから、ご質問にいまはお答えすることが、できないと思います。私にいまできるのは、私のできるかぎりの説き方で教えを説き、それに縁あってなじめた人と共に歩むことだけなんです。これでいっしょに歩める人が、多くはないこともわかっていますが、いまはそれしかできないんです。

 とんぼさんとは立場が違うとは思いますが、そういう人とお話しすることは私のためにもなると思います。どうぞ、ちょくちょくアドバイスしてくださいね。



不正解! 投稿者:とんぼ  投稿日:10月 6日(土)00時15分58秒

 ぜんぜんだめ(笑)

 ごめんなさい
 書き込みのタイミングが、ほとんど一緒だったので、みゆさんへの回答は読む前でした。
 そもそも、とんぼは、僧侶Aさんが、「けっこういい人だ」と思っているから書き込みを始めました。
 で、・・・
>仏教を説くものとして、仏への信をまず勧めるのは、当然の道理なんです。

 これは、道理ですね。
 そこで質問したくなるのが、
「僧侶Aさんは、”初めから”信じていましたか?」
 です。
 そうだよ、という回答が、実は一番怖いのですが、たぶんそうではなかったような気がします。
 単純に確率からいえば、そうではない、ちゃんと悩んだ、考えた?すえの、気持ちだ・・・というのが一般的だと思います(ちゃんとデータを取っていないので、正式には知りませんが)。
 だったら、そのプロセスを話すのが順当ですよね。
 いきなり「信じろ」といわれても、信用できないと思います。
(学校の先生がへたくそで、塾の先生の方が教え上手な理由は、このあたりですね)

> ただし、ニセモノの宗教にわが身をゆだねてしまうと、これは大変なことになります。

 この根元は、どこにあるとお考えですか?
 妙な話、カルトで「自爆」しても、死ぬ瞬間”本人”が「満足」していれば、少なくとも「本人レベル」では、問題ないし、ある意味正解ですよね。ライオンがウサギを食べるときの気持ちです。

>「信」とは、我がはからいを捨てて、大いなるものにゆだねることです。これはすべての宗教に共通するのではないでしょうか。仏教とて例外ではないのです。

 これは、不正解ですね(笑)
 佛教素人の知識では、これはいわゆる「浄土思想」のお話で、こういう「ウソ」はやめましょう。(ウソと、この場では言い切りましたが、結局、この辺りが難しいんですよね。BBSで論議しても、見る人がつまんないので、もし「てめー、馬鹿野郎」と思ったらDMでお願いします)

 「正しい宗教」は、存在しないと断言します。
 「そんなことないよ」というのなら、とんぼを「論破」してくださいね(笑)
 だめだよ、仏教学の話なんかしちゃ (^_-)
 
 そうそう、全然蛇足。。。
「件のことについて」
 これを、歴史小説が好きだから読めちゃったけど・・・(漢字検定だと、2級ぐらい?)
 こういう特技って、若い女の子に受けない (T_T)
 デートで「徳川美術館」とか行ったら、ふられちゃうし・・・(笑)

 


とんぼさん 投稿者:僧侶A  投稿日:10月 5日(金)23時15分04秒

とんぼさん、ようこそいらっしゃいました。

 件のことについて。仏教を説くものとして、仏への信をまず勧めるのは、当然の道理なんです。「信」とは、我がはからいを捨てて、大いなるものにゆだねることです。これはすべての宗教に共通するのではないでしょうか。仏教とて例外ではないのです。

 ただし、ニセモノの宗教にわが身をゆだねてしまうと、これは大変なことになります。テロのことを例に持ち出してくださいましたね。イスラム教がニセモノなのではありませんが、狂信的な原理主義の団体に身をゆだねてしまったのが、まちがいだったのです。狂信団体は、ニセモノの団体だったのです。ただしい宗教を見分けられなかった、それがまちがいだったのです。

 これを機に、とんぼさんも、正しい宗教と間違った宗教の、ぎりぎりの境目について、考えはじめてみませんか? けっこう難しいのですよ。


自殺について 投稿者:とんぼ  投稿日:10月 5日(金)23時07分40秒

 某所での、僧侶Aさんの回答について・・・

 「自殺しないように勧めよう」
 という気持ちがあるのは、人として、とっても大切ですし、もちろんここに苦情はありません。
 ただ、
 >まず、すべての悩み苦しみを克服し、自我へのとらわれをなくして、すべての存在に愛を投げかけている「みほとけ」に帰依することからはじめましょう。

 これは、やめましょう。
 お願いですから。
 これは、ステージの一番最初に「信」があります。
 だったら、国際貿易センターに突っ込んだテロリストは、「立派」ですよね。
 サリンを撒いた人も「立派」。
 ・・・
 おかしいですよね。

 では、どこが間違ったんだろう?
 たとえば、
 ”あなたの言葉が引き金で、死ぬ人がいる”
 これが僧侶Aさんの望みならば(葬式代が稼げますし)、話は別です(ご本人が、そうした人でないとは思います)。
 どこで、おかしくなったんだろう?

 せっかくなので、これに対する回答を、なるべく短い文章で書いてみませんか?



みゆさん 投稿者:僧侶A  投稿日:10月 5日(金)22時45分09秒

 ようこそ、みゆさん。疑問の点をお知らせいただいて、ありがたいです。私はあなたの誤解にすぎないと思うのですが、下記をお読みになってまだ疑問があれば、どうぞまたぶつけてください。

> 信仰でご利益があった、悪い目にあわかなった、良いことがおこった、などといいますが、勘違いもいいところです。誰のせいで悪い目にあうのでない、誰かのおかげでよくなるのでもない。そうなるタネとワケがあってその結果がくる。自ずからそうなる然らしめられる。自然の道理です。

 ご指摘の文は、その上のレス(薬害が治ると臭わせ、他の宗教のホームページへのリンクを貼ってあるもの)への牽制でありました。

 ある種の宗教では、「誰々の霊が祟っているから、○○が起こっている」といった脅しをかけることがあります。ところが、教祖の力や信仰の力で、現実が変わるということはありません。原因(タネ)と環境(ワケ)があって、ものごとが起こるわけです。教祖や信仰の力でものごとを変えようとする宗教を「ごりやく宗教」と呼んで、ここでは否定しているのです。だから、誰のせいで悪いことが起こるのでもない、と申したわけです。

 薬害の被害にあわれたたかふみさんには、私の想像も出来ない苦難をお抱えのことでしょう。「薬害」は人間のミスによって起こるものです。誰かのせいで起こります。ここで、その「誰か」は、私と同じ人間です。あやまちを犯しうる私と同じ人間です。そう深くうなずけるかどうかが、人生に光明が射すか射さないかの境目になるのです。

 掲示板では「ことば」によるコミュニケーションしか出来ませんし、誤解されうることを言ったとしても、すぐには訂正ができません。あの発言を疑問に思った方々がこの掲示板を訪れて、理解を深めてくれればよいと思います。


ご確認を 投稿者:みゆ  投稿日:10月 5日(金)13時49分38秒

今しがたお寺ネットのたかふみさんの相談「自殺は悪いこと」に対するお答えにて
>誰のせいで悪い目にあうのでない
といっていますけど、薬害で悩んでいる方に対して誰のせいで・・・はひどいと思います。薬害についてそれが自然の道理でしょうか。すこし配慮に欠けるのではないでしょうか。


いのり 投稿者:僧侶A  投稿日: 9月12日(水)00時48分57秒

崩落するNYの摩天楼、
白煙のたちこめる大都市、
鳥肌がたちます。
逃げまどう人々、
許さないと発言する大統領、
ピースサインで喜ぶパレスチナの人々。
どうやってこの悲しみを隠せというのでしょうか。
すべて私の中のできごとです。
弥陀の光が全世界の人の心の中に届きますように。


(無題) 投稿者:僧侶A  投稿日: 9月 3日(月)23時38分21秒

 仏教の日本にはじめて伝わったのは欽明天皇のときでした。
 そののちにお出ましになった聖徳太子は、欽明天皇に感謝して、七日のあいだ南無阿弥陀仏の名号を称し、善光寺の阿弥陀如来にお手紙を送られました。

「名号を称揚すること七日おわった。これは広大の恩に報ずるためなり。
 仰ぎ願わくは本師弥陀尊、我が済度を助けたまい護念したまえ」

 如来の御返事がありました。

「一念の称揚、恩としてとどまることなし。いかにいわんや七日の大功徳をや。
 我、衆生を待つこと、心ひまなし。汝よく済度す、あに護らざらんや。」

 聖徳太子は阿弥陀さまに救われて極楽に往生なさい、この教えの利益を日本の人々にお示しになったのでした。


(無題) 投稿者:僧侶A  投稿日: 8月27日(月)23時37分14秒

 「伝え聞く 法然生き如来
  蓮華上品に安座し
  尼入道の無智のともがらに同じくす
  一枚起請 もっとも奇なるかな」(一休禅師宗純)


ありがとうございました 投稿者:nyorori  投稿日: 7月17日(火)02時46分33秒

さっそくのお教えありがとうございました。

1について,
そうでしたか、法然上人の歌ですか。おなじ日本人なのに、昔の言葉になると何となく難しいような気がするのは、やはり800年近い歳月のせいでしょうか。一枚起請文だけですね。まともに読めたかもしれない気がするのは。
2について,
以前、知恩寺で、授戒会のポスターを見ような気がします。その時は気にもとめていなかったのですが、いざ調べてみると、浄土宗のホームページ等にも載っておらず(見落とし?)、私の勘違いなのかな、浄土宗ではやらないのかな(おかしいなー、ひょっとして「雑行」??)、と思って探していました。でも本には書いてある、それで先のような、遠回しな、不思議な言い方になったという訳です。すみません。
法然上人は戒律については、おすすめになるのですね(金銭的なことだけ・・ちょっと心配・・)。
授戒会も知らないのに、順序がおかしいのですけど、「五重相伝」については、聞いたことはあります(こんな変な順番で知識が入のるは知人が浄土宗の思想研究をしているからです)。浄土宗系のホームページでも書いてあったように思います。聞いただけでは、いけないのですけども。
そう言うことであれば、話は早いですね。失礼しました。要らぬ気苦労であったわけですので、知恩院にでも問い合わせてみます。

3について。
そうですか、ありがとうございました。本山がどこに行こうが、お寺が消えて無くなるわけでは無いのですから、気にすることはないとは思うのですが、親の世代になると、何かと気になるのだそうです。。

お教えありがとうございました。また、不案内のことあれば、お見捨てなくお教えください。


にょろりさんへ 投稿者:僧侶A  投稿日: 7月16日(月)12時03分09秒

にょろりさん、こんにちは。

1 月影の御詠歌は法然上人が『観無量寿経』の一節「光明は遍く十方世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の心を詠んだ歌として知られているものです。『法然上人行状絵図』にあり、『続千載集』中にも選ばれているそうです。
 阿弥陀仏はすべての衆生を救う誓願をおたてになりました。あたかも月光がすべての里を照らしているように。月を見上げてみなければそこに月があることはわかりません。心を阿弥陀仏に向けて(信じて)お念仏を始めた私には、お救いのあることがありありと感じられます。たとえばそういうふうに味わえます。
http://village.infoweb.ne.jp/~kinryuji/ftaka/waka10.htm

2 浄土宗では積極的に「授戒会」を開いて、在家の方々に仏の教えに触れていただく機会を設けようとしています。いまひとつ、「五重相伝」では、浄土宗の教えをお伝えいたします。どちらも一週間弱の日程で、寺院で聞法や勤行、そして形式的に整えられた授戒や相伝の作法をするものです。念仏ひとつに高められた浄土宗にてなぜ授戒をするのかは、そこでお聞き下さい。(^^) 会場は、関西ならば一般の寺院でも比較的よくやっているようです。関東でも一般寺院で行っているところもあります。大本山などでも開かれています。具体的には菩提寺でお聞きになるのが一番よろしいでしょう。

3は、おそらく宗務の中心を京都から東京に移すということで、宗教的な意味での「総本山知恩院」はそのままです。

以上、お答えになっておりますでしょうか。



こんばんは 投稿者:nyorori  投稿日: 7月14日(土)02時56分16秒

お久しぶりです。

1,あのー、とぼけたような質問で申し訳ないのですが、上にある、月影の云々という歌は誰の歌でしょうか?どこに載っているのでしょうか?歌の意味もお教えください。何となくは分かるつもりですが・・・。
2,法名とか、戒名がほしいのだと誤解されてしまいそうなのですが、そうではありません。私は戒を受けたいという希望を持っています。名前がほしいのではありません。我が家は浄土宗ですから、救いに預かるかどうかという視点でいえば、要らないのかもしれません。また、阿弥陀様の誓願の中で生きていくのに要らないのかもしれません。
しかし、(戒の問題というのは)形式的にせよ、よく考えてみたら、私は仏教徒ではないのかもしれません。浄土宗の檀家は父親なわけですし。家の宗派だから、というのはそれこそ信仰の内面とは関係ありません。救われるかという視点からだけで、ものを言っているわけでもありません。
それに、ただ形式に囚われているというわけでもなくって、生きていくときの指針(とくに困った時の)として、受戒したいなー、仏陀を身近に感じたいなー、という希望があるのですが、現在浄土宗は信徒などに戒を授けているのでしょうか?法然上人時代は、戒について、今とは多少違った様子もあったということを読んだことはありますが、どうもネットで見るところ、現在そういうことはしていなさそうな雰囲気です。生前戒名のことばかりです。金銭的にも手が出ませんし、そもそも名前がほしいわけではありませんし、それこそ念仏だけでけっこうですのでそんなものは別段欲しくもありません。私はただ五戒など、日常の在家の戒が授かりたいだけです。困った状況にあるときに、仏陀の戒を保っていたいだけです。これまでは「自誓受戒」という感じではありましたが、やはりきちんとしたい、という気持ちも強いのです。探した範囲では高野山で、十善戒を授けていましたので、考えていますが、在家ですので宗派にそれほどこだわりがないとはいっても、できれば、あまりあっちこっちの宗でというのも考え物です。浄土宗ではやってないのでしょうか?それは自力の思い上がりと決められてしまっても、そういうことでこの問題を気にかけているわけではないのです。あまりない相談で、意図を組んでいただけるか心配なのですが・・。
3,親の質問なのですが、今度、浄土宗の本山が京都から東京に移るというようなことを新聞で読んだそうです。これは、例えば京都の知恩院が本山ではなくなってしまうということなのですか?
それとも、宗務所が東京に移るだけで、知恩院が本山であることに変わりないのでしょうか?親が疑問に思ってます。

以上、たくさんごめんなさい。


それはご免なさい 投稿者:僧侶A  投稿日: 7月 8日(日)02時34分15秒

 0点答案を書いてしまったようです。ですが、あなたを放っておくのは悲しい。もう少しおつきあいいただけると嬉しいのですが…。

 世の中、接客業でも表情のぱっとしない人はいくらでもいます。ましてや社内なら、でしょう。ですがあなたは、良い表情をつくりたい、良い印象を与えたい、と思っておられるように拝見します。そのお心は、前向きな姿勢でご立派な心だと思います。結果は、すぐに現れるものではありません。でも、そういう心があなたの奥底にあるのですから、いつか結果は現れるでしょう。誰にでも、どんな状態でも価値がある。たとえばあなたのそういうお心です。

 誰にでも向上心があれば、現状に不満を感じて、前へ前へと進もうとします。そのとき、今の自分を否定する気持ちは必要なものです。ただ、自分への不満ばかりがつのってしまっていると、苦しくなるばかりです。そんなとき、それはつのる向上心のせいなのです。立派な心のうらおもてなのです。

 自分がダメな人間に思えて仕方がない。その思いが深ければ深いほど、あなたに立派な心があること、あなたの価値を証明しています。こんなにダメな私に阿弥陀仏の慈悲が注がれている。同じ心持ちではないかと思います。


気持ちがついていけません 投稿者:無名  投稿日: 7月 7日(土)19時17分25秒

レスありがとうございました。でも今のわたしには、仏教ということから自分の悩みや苦しみを解決しようとするきもちがついていけません。いままで僧ロウさんからのレスで心のゆとりさえ感じることもできたのですが、、、、、、。


仏教とは 投稿者:僧侶A  投稿日: 7月 4日(水)07時26分10秒

 なぜ苦しいのか? それは自分が真理を知らず、欲望に動かされているからです(=惑)。そんな自分は、自分を苦しめるような考え・行いしかできません(=業)。それがめぐりめぐる結果、自分が苦しむのです(=苦)。

 どうすれば苦しくなくなるのか? 正しい行いをしましょう(=戒)。そうすれば、正しい心の状態がたもてます(=定)。すると、正しい考え方ができ、真理を知ることができます(=慧)。

 しかし私のような泥凡夫には、最初のきっかけになる正しい行いさえできず、ましてや正しい心の状態さえたもてませんでした。無知のまま、欲望のままに突き動かされ、その考えや行いが自分を苦しめつづける。その苦しみの旅めぐりから、抜け出せませんでした。

 しかし今ここでやっと、会いがたい仏法に会うことができ、聞きがたい阿弥陀さまの教えを聞くことができたのです。阿弥陀さまが、私のために戒・定・慧を完成させ、南無阿弥陀仏として私にお与えくださっているのを、知ることができたのです。


となえていますか。 投稿者:僧侶A  投稿日: 7月 4日(水)05時07分10秒

 南無阿弥陀仏。阿弥陀さまは私がこの世で迷い暮らすことになるのをお知りでした。私のできないことすべてを自らご修行なさいました。そしてそのすべてを「南無阿弥陀仏」の六文字に込めて、私に投げかけられました。私はただ唱えるだけで、阿弥陀さまのもとに生まれゆく。南無阿弥陀仏

 人間はひとりひとり違います。見た目が悪くてもうまくやっていける人もいます。うまくいかない人もいます。流行が変われば違う顔がもてはやされる。うつろいゆく価値観に翻弄されている私。顔、体型、しゃべり方、しぐさ、考え方、表情、能力…。どうでもいいことです。阿弥陀さまの救いに、顔も体型も能力も関係ないのです。ひとりひとりに価値がある。阿弥陀さまの「救いたい」の願いがかけられているのです。私もそのひとり。

 大切なことは…。(1)阿弥陀さまには嘘をつかないこと。たとえ心の中でも。(2)何もできない私を、南無阿弥陀仏の一声で救ってくださる。この道理を信じること。(3)救われたいと願うこと。これら3つを一言でいえば、ただ南無阿弥陀仏、です。朝おきたら十回。食事の間に三回。電車に揺られながら口の中で。仕事の合間にこっそり。寝る前に十回。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

 阿弥陀さまの投げかけてくれたこの六文字、私は受け取らせていただきました。阿弥陀さまがますますやさしく、見守ってくれます。ありがたい、の気持ちが生まれてきます。これくらいでは申し訳ない。仕事もがんばらせていただこう。見た目も気にしないようにさせていただこう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


人との対応について 投稿者:無名  投稿日: 7月 3日(火)20時16分59秒

久しぶりに投稿させていただきます。現在つとめて2ヶ月たとうとしてますが、やはり
愛想笑いもできず、人と話すと顔が引きつり笑顔で対応ができません。
顔の表情作りに自身がもてるにはどうしたらいいでしょうか?
わたしは目の大きさが生まれつき違います。他人と話すとき自分の表情イメージしてはなしてます。小さい子から、「どうして目の大きさ違うの?」
と露骨に聞かれたことがあるくらい違うんです。
自分の顔に自身が持てません。人からかわいいとか、きれいとか一度も言われたことないんです。
整形でもしようかと考えたこともありますが、、、、、。仕事もできるほうではないので
社会に復帰した今でも自身がなくなるばかりです。
人とどう対応するのがいいのでしょうか・又 小さい子にいわれたらなんと言えばいいのでしょうか?きっと周囲の人も思っていても口に出さないだけだと思います。そう思うとつらいものがあります。


ありがとうございました。 投稿者:無名  投稿日: 5月12日(土)22時35分30秒

いつも今の状態に切羽つまってしまい、現状をすぐ解決しなければ
ならない心境になっていました。親戚の法事などで、
お寺に行くと、涅槃像がおかれていたり、仏像など描かれた絵がかざられているので
自分の心に描いていくと、しずめていけるのかな、、と思っていました。
ひとつのことに専念できるように、というのが大切、、、なので仕事を続けていく状況に
もっていけるように、日々遂行するだけですね、、、。


無名様 投稿者:僧侶A  投稿日: 5月12日(土)01時49分38秒

 阿弥陀さまを心に描くのも結構ですが、注意。他のことをお勧めします。

 まず、「心が動かないように」と阿弥陀さまを念じるのは、残念ながら、阿弥陀さまの御心にはそっていないのです。心が動かないように念じるというのは、あくまであなたが自分の力で念じて、阿弥陀さまの力を働かせようとしているのです。あなたの心は動き乱れます。あなたの心が阿弥陀さまを働かせて、それであなたの心が落ち着くのではありません。あなたの心に関係なく、阿弥陀さまがあなたの心を落ち着かせてくださるのです。ですから、阿弥陀さまを思い浮かべるとしたら、落ち着いた心をありがとう、という気持ちになるはずです。

 でも、思い浮かべるという行為は、思ったよりも難しいものです。難しいからおよしなさい、という高僧の言葉もあるくらいです。どの程度難しいか経験したい、というのであればお止めはしません。でも、難しいことのできない私やあなたを思って、「南無阿弥陀仏だけで良いよ」と阿弥陀さまがおっしゃって下さっているのです。

 『観無量寿経』というお経に、阿弥陀さまの念じ方が詳しく書かれております。それを成就すると、阿弥陀さまの大いなるお姿をはじめ、それに付属する数々の菩薩や光明が見え、仏の心をも見ることができ、それを通じて阿弥陀さまだけでなく一切の仏を見ることができるそうです。ですが、その結果として得られる利益は、「命終ののちに仏の前に生まれて、自身も仏になることを約束される」ということです。つまり、これだけ難しいことを成就しても、御利益は「南無阿弥陀仏」のお念仏と、同じなのです。

 そんなありがたい南無阿弥陀仏を、私はお勧めします。「願わず・祈らず・頼らず」というのが、どういった書物に書かれていたものか、わかりかねますが、色々な道のことを一つの頭で理解しようとすると、あちこちわからないことだらけになってきます。ですから、それはそれで尊重しておいて、今はただひとつのことに専念するべきと思います。あとで「こういうことだったか」と理解できる日が、きっと来るでしょう。


ありがとうございます。 投稿者:無名  投稿日: 5月11日(金)22時22分50秒

僧ろうさんからの言葉はいつも心を落ち着かせてくださいます。
心の移り変わりがしずまるように、心に決めたことが動じないように、こころに
阿弥陀や不動明王様が描いていたいと思うのですが、
どう思われますか? 
こういうことも「依存心」を進めることだけでしょうか?
他人を頼る、、というような。。。。
書物などでは、願わず、、、祈らず、、頼らず、、とかかれてあります。
この辺の意味の解釈は書物からでは今ひとつ不明でした。どのように理解するのがいいのでしょうか?またご返事いただけたら幸いです。


無名様 投稿者:僧侶A  投稿日: 5月11日(金)00時08分19秒

 努力しても報われないこともあるのが世の中だと書きましたが、それはあなたの今までの人生がまちがっていたからでは「ありません」。私たちがいくら前向きに努力しても、避け得ない不幸はあるものなのです。いくらがんばっても、世の中の森羅万象に与える影響など微々たるものですから、天災地変をはじめ、人の心も、必ずしもがんばりに報いるように働くわけがないのです。それがこの世の論理です。

 相性は自分で作り出すもの、と申しましたが、「この人とうまく通じ合いたい。仕事を評価してもらいたい」と思い、そのためにできるかぎりのことをするのが、大切です。自分勝手を言わず、仕事のために細心の注意と最大限の努力をすることです。それから、もし三ヶ月間あなたが無理をして気に入られても、そのあとが続かなければ、あとで居づらくなることでしょう。三ヶ月と思わず、一生ここに居るという気持ちで、最大限の努力をしてください。それによって相手がどう評価してくれるかは、残念ながらわかりません。どんなにがんばっても報われないことは、ありうるのです。

 あなたの価値は、阿弥陀さまに約束されています。会社で認められるかどうかは、二次的なことです。会社は山ほどありますが、阿弥陀さまはおひとりだけ。その阿弥陀さまがあなたの価値を認めていらっしゃるのだから、いくつかの会社があなたを評価しなかったからといって、何をおそれることがありましょう。すでに絶対的な評価が下されているのです。会社に気に入られよう、ではありません。わが身にあふれる評価を感じて、会社の仕事も阿弥陀さまの恩に報いるためにさせていただきましょう。



レスをありがとうございます。 投稿者:無名  投稿日: 5月10日(木)19時00分00秒

努力しても報われないのは、今までの人生がまちがっていたからでしょうか?
「てつやさんのHP」をみると、本当に酷だな、、努力家なことはそれなりに評価されていながらも、、と思ってしまいました。
今回も、試用期間3ヶ月の前提を得て正社員に、、との話なので、力んでしまってます。
自分が相手に合わせて、相手も自分を受け入れてくれてるという実感は仕事を通じて
どのように見出していけばいいでしょうか?
いつも細かい質疑ですみません、、、。


無名様 投稿者:僧侶A  投稿日: 5月10日(木)01時54分48秒

 何事にも時間がかかります。できるかぎりの努力をし、見返りを期待しないことです。相性は自分で作り出していくものです。でも努力しても報われないこともあるのが世の中です。そんな中で前向きに生かさせていただくのが、仏さまのおしえです。

1 お念仏だけで阿弥陀さまが救ってくださるということは、どんな人でも誰にでも、平等に価値・可能性が約束されている、ということを表しています。
2 救いが死後の極楽往生という形であるのは、臨終の最期の一瞬まで尽きない、約束された価値があなたの人生にあふれている、ということを表しています。
3 南無阿弥陀仏ととなえよというのは、約束された人生の価値のために、何か仕事をさせていただくことができる、ということを表しています。

 何も出来ない私たちのために用意された、ただひとつ私たちにも全うできること、それが南無阿弥陀仏です。この仕事を通して、どんな人生のどんな一瞬にもあふれている約束された価値に、気づかせていただくのです。


やはり考え込みます、、 投稿者:無名  投稿日: 5月 9日(水)20時25分17秒

新しい職場での勤務がはじまりました。努力をして他人に認めていただくためには
どのような振舞い方がたいせつで、どの状態になったときに、私が勤めていける職場と
していただけるのでしょうか? 今の職場では一番要求度が低いと感触を受けています。
何度かレスを読み直しても、仏様に祈ってはみたけれど祈れば祈るほど、続けていける確信が見えてこなくなります。自分を失っていくようなんです。
才能ある人でも首きられる時代、、、。やはり職場との愛称、上司との愛称につきるのでしょうか?愛称ってなんでしょうか?なにが基準でそうきめられていくのでしょうか、、、。
自分の仕事を、「良し」とみていただくにはどうしたらいいでしょうか?


在家ぶっと様 投稿者:僧侶A  投稿日: 5月 8日(火)00時10分01秒

 いつも的確かつ精力的なご回答を拝見しております。どうしてお名前が平仮名になったのか存じませんが、同じ方ですよね。私の「業」の書き込みは、テキストの丸写しですので、今回は私も勉強になりました。これからもご活躍くださいますよう。


投稿者名訂正 投稿者:在家ぶっと  投稿日: 5月 5日(土)07時22分40秒

失礼致しました。


ご挨拶 投稿者:在家ぶうと  投稿日: 5月 5日(土)07時21分09秒

おはようございます。いつもお寺ネットではお世話になっています。
今回は「業」について訂正頂きましてありがとうございました。
質問者に24時間以内にレスを差し上げたかったものですから、あやふやな内容で投稿してしまいました。
また1つ勉強になりました。
僧侶Aさんの投稿時間を拝見致しますと、いつも深夜遅くまで書き込みをされているようですが、お体に気をつけて今後ともご活躍下さい。


雅様 投稿者:僧侶A  投稿日: 5月 4日(金)00時15分31秒

 雅さん、こんにちは。説教くさいことはあまり書きたくないと思い、返事が遅くなりました。私はただ、阿弥陀さまの教えをすばらしいと思い、これを広めることが僧侶としての勤めであろうと、拙い書き込みをさせてもらっているだけなのです。阿弥陀さまの教えを知り尽くしているわけでも、それを人生のいろいろな局面でどう活かせばいいのか考えられるわけでもないのです。ただ何とかの一つ覚えのように、阿弥陀さまの話を繰り返すだけです。そんな私の書き込みに、あなたが何かを感じ取って下さっただけでも、阿弥陀さまの教えの尊さを感じるばかりです。そんな私が、あなたの信仰云々に口を出せるはずがありましょうか。雅様のお家は浄土宗でしたね。浄土宗のホームページにも、少しばかり教えが説かれておりますので、良ければ閑なときにでもご覧になってください。法然上人の説かれた教えがそこにあります。私などが人にものを教えるなどは不遜であると思います。ともに法然上人の教えにしたがう弟子です。

http://www.jodo.or.jp/jodo/jodoshu/honen/index6.html
http://www.jodo.or.jp/jodo/jodoshu/honen/index9.html
http://www.jodo.or.jp/jodo/800/namu/index_namu.html


先日はレスをありがとうございました。 投稿者: 投稿日: 4月28日(土)23時26分56秒

今から思えば「阿弥陀さまのお話をなさって下さい」などと差し出がましい事を書いてしまいました、雅です。(覚えていて下さっているでしょうか?)
> 私の言葉などどうぞあてにせずに、阿弥陀さまと二人でお過ごし頂きたいと願います。
の僧侶A様のお言葉を読んで突き放された様な寂しさを感じましたが、すぐに背中をポンと力強くそれでいて暖かい手で押された感触がありました。「大丈夫、一歩踏み出してごらん」と言うような感触でした。阿弥陀仏様の手だったのでしょうか、僧侶A様の手だったのでしょうか。。。。どちらにしても私に勇気をくださいました。ありがとうございます。
それ以降、辛いとき、人を妬みそうなときには前にもまして心の中で「南無阿弥陀仏」と唱えるようになり、時としてはこの掲示板で悩みを聞いていただこうかしらと思うのですが「南無阿弥陀仏」と唱えるとその度に「いや、そんなに悩むことはない阿弥陀仏様がついていてくださる」と思うと悩みも自然に消えていたりもします。
数回ではありますが、おこがましいことにお寺ネットで人様の悩みのレスにも参加させていただいてます。こんな私でも、少しでも力にならせていただければ。。。の思いで。

> 阿弥陀さまと二人でお過ごし頂きたい
との僧侶A様のお言葉には正直、少しとまどい考えてしまいました。でもきっとそれは私自身が自分の心の中の仏心を見いだす。。。それを阿弥陀仏様が導き出して下さる。。そのようなことだろう。でも今は深く考えずただ「南無阿弥陀仏」だと思っております。(間違えていればご指示下さい。また、私の表現が至らないかもしれないです)

40歳にもなるのにまだまだ未熟者の私です。阿弥陀仏様におすがりしても心定まらないこともあると思います。その時はどうか相談に乗って下さい。よろしくお願いします。
阿弥陀仏様へのお導きをありがとうございました。


無名さん 投稿者:僧侶A  投稿日: 4月28日(土)05時44分35秒

 まずはおめでとうございます。まだ求職活動中の方から見れば羨ましいような状態ですが、悩みはつきないものですね。確かに新しい職場ということで、不安も抱かれていらっしゃることでしょう。人間関係しかり、新しい仕事しかり。一切皆苦と言います。

 あなたの性格はそう簡単には変わりませんから、愛想笑いはできなくても、悪いことだけはしないように。あなたの良いところはきっと分かってくれる人がいます。たとえ誰もわかってくれなかったとしても、仏さまがあなたを見ています。自分はゆっくり変えていけばいいのです。

 仕事も長い間つづけるのは大変ですが、続けなければ食べていけません。たとえ嫌な部署に異動になったり、仕事相手が最悪の人間であったりしても、仏さまが仕事以外の世界を用意なさっています。たとえ失敗を犯しても、仏さまだけは「よしよし、可哀想なおまえさんは必ず救ってやるぞ」と答えてくれるのです。

 「人より努力」をみんなが実行したら、いずれみんなで過労です。人よりさぼっていては、社会のお荷物です。自分と人を比べないこと。自分と仏さまを比べましょう。大きな大きな仏さまです。小さな小さな私です。仏さまに助けてもらって、仏さまのようになるのです。


応援ありがとうございました 投稿者:無名  投稿日: 4月27日(金)23時01分18秒

4/14にレスをいただいてようやく、仕事しばらく落ち着けそうなところ決まりました。
仕事がない間マイナスエネルギーが働くのでとてもシンドイもので、前向きな気持ちを持ち続けることはとてもつらい状況でした。今回は2ヶ月のあいだ30社くらいは応募してようやく決まりました。なので、長く勤めていくためにも人間関係を良好にしていきたいとおもっていますが、おもしろいことがあっても鼻で笑うタイプで、声をだしてわらったことがありませんし、できません。愛嬌笑いもひきっつていることがおおいいのです。
このような性格ですがどのようにしたら人間関係をスムーズに進めることができるでしょうか?
苦手なことでも適職にしていけるようにするには、どのようなコツがありますか?
人よりの努力とよくいいますが、どのように気付いていけますか?
今までのような失敗をおかしたくないので、すこし神経質になっているかもしれませんが
アドバイスいただければ幸いです。


ありがとうございました。 投稿者:プーさん  投稿日: 4月20日(金)08時01分48秒

僧侶Aさま、ありがとうございました。投稿してくださった時間が夜遅いので、睡眠不足になられていないかと、ちょっと心配になってしまいました。私のような者に親身になって相談にのってくださって、とってもうれしいです。僧侶Aさまのお言葉を忘れないようにします。頑張ります。
o(^-^)o


プーさんへ 投稿者:僧侶A  投稿日: 4月19日(木)02時38分49秒

 お話をうかがいますと、あなたが簡単によそに相談できるような人であれば、一人で悩みを抱え込んでしまうこともなかったのでしょうか。お役に立てずすみません。心のことは仏さまにまかせて、目の前のことについては別の方向で考えましょうか。

 ご主人とのお話ですが、あなたが大暴れなさるのが先か、ご主人が冷たいのが先なのか、おそらく両方なのでしょうが、お二人の間でそれに関する交流が欲しいところだと思います。新婚のときは今まで知らなかった面をお互いに目にするので、喧嘩もするのが普通だと思います。ただその喧嘩があまりに激しくなってしまうのでしょうか。あなた自身も自分をコントロールしようと努力すると同時に、ご主人にも変わってもらう必要があるでしょう。

 ただひとつ、決してあなた一人が悪いのではないだろうということは、心に留めていただきたいことです。自分だけが変わって解決しようというのではなく、ご主人の方にも変化を求めなければいけません。自分だけを責める方が楽なのかもしれませんが、自分だけを責めないでください。かえってご自分が苦しむばかりですし、そんな結婚生活が健やかなものとは思えませんから。

 ご主人と話し合いをしようと思えば、あなたが感情を爆発させてしまうのは好ましくありません。もちろんご主人も感情を出してしまう方のようですので、あなただけが悪いのではないのですが、まずは感情を少し抑える練習をしてみましょう。こんど何かがあったときに。まあ、事が「感情」であるだけに、理性で押さえるのは難しいことですが。そこで仏さまの出番です。

 あなたという人間は、いつも爆発しそうな感情とひとつです。あなただけに限りません。仏さまはもともとは一人の人間でしたので、人間の心の中に潜むそういう感情的な部分を痛いほどご存じです。それをご存じの上で、仏さまは私たちに慈しみのまなざしを注いでおられます。私たち一人一人は、煩悩と表裏一体の存在ながら、仏さまの慈愛を注がれる存在でもあります。私たちにはそういう両面があるのです。感情や煩悩に飲まれてどうしようもないとき、それでも仏の光が自分に照らしていることを思いましょう。心から「仏さま!」と呼べるはずです。その呼び声を聞いた仏さまは、人生を生ききったあなたを救い取る約束をしてくださいます。救われることの確かな人生を歩むことができます。「仏さま!」の「さま!」は「南無」=心から救いを求めること。「仏」は「阿弥陀仏」のことです。これが南無阿弥陀仏の意味です。

 感情に飲まれそうなあなたを、仏さまははらはらと見つめていらっしゃいます。そこで「仏さま!」と呼ばれれば、仏さまは救いに飛んでくるのです。そのとき、心の底は感情が沸き上がっていても、何とか押さえられるのです。どうぞそれをお忘れにならないでください。そうやって阿弥陀仏にすがれと、仏教の祖であるお釈迦さまがお説きになったのです。

 お寺が近くにあるのはいいですね。寝そべった仏像は、お釈迦さまのご臨終の姿です。お釈迦さまのご臨終がなぜ像になるのでしょうか。生前に煩悩の火にうち勝ったお釈迦さまですから、もはや死への怖れはなく、逆にこれこそが悟りの完成であるという境地であったのです。その悟りのことを「涅槃(ねはん;ニルヴァーナ)」といいます。臨終は人生を生ききった瞬間、これすなわち凡夫の私たちが阿弥陀さまに救われる瞬間でもあります。涅槃像にはそういう意味が込められているのではないでしょうか。


落ちつきました。 投稿者:プーさん  投稿日: 4月18日(水)10時20分47秒

おはようございます。
温かいお言葉ありがとうございました。
前回の相談まで、覚えていてくださって、うれしかったです。
「身の回りの人に相談してみるのが大切でしょう。」とアドバイス頂きましたが、誰に?と困ってしまいました。
私は、人と接するのが苦手です。
苦手というより、おどおどしてしまったり、泣きそうになったり、恐いと思う時もあります。
友達もほとんどいません。
メールのやりとりをたまにすることは、ありますが、「会おうよ。一緒にお酒でも飲もう。」と
なると、イヤだという気持ちがわいてきてしまいます。
考えてみると、友達と遊びたくない。という気持ちは幼稚園のころからあって、小学校の3年生
くらいまでは、誰ともおしゃべりしたり、遊んだりということがない子供でした。
この頃は、家族には、明るくできていました。
高学年になるにつれて、みんなと同じようにしないと、いじめられたりしてしまう!と思って
すこしづつ友達をつくることができました。
でも、自分から「遊びたい!」と思うことはありませんでした。
高校生になって、初めて彼氏ができたとき、「初めて心をひらくことができた!私の生きる道は
これだ!」と感激しました。
それから、彼氏だけに心をひらくことができる人になりました。
(お寺ネットや僧侶A様にも心をひらいてますね・・・(^^;)
それからは、両親や姉妹にも、距離をおいてしまいます。
相談はできそうもないです。
自分なりにいろいろ考えてみたんですが。
私が大暴れするのは、今の彼(主人)に対してだけなんです。
結婚前、2人の方とおつきあいしましたが、その時は良い子でいられました。
結婚して、「そう簡単には別れる事はない」と安心してしまったのでしょうか?
・・・また相談になってしまいましたね。

僧侶A様のお言葉どうり、仏さまのことを想って心を落ち着けたいと思います。
我が家のお隣はお寺なんですよ♪
ベランダから、お寺のお庭?が見えるんです。寝そべった大仏さまがいるんですよ♪
手で頭を支えて、横向きに寝そべっているお姿です。(テレビとかみるポーズ?)
心が苦しいときには、ベランダに行って、ゴロンとした大仏さまを見るんです。
そうすると、心が落ち着きます。
t寝そべっているのは、どういう意味があるのでしょうか?


雅さん 投稿者:いちご  投稿日: 4月17日(火)15時11分32秒

レスありがとうございます。こちらの掲示板拝見して、人生つらいことばかり、、と言ってくださった言葉がしみじみ伝わってきました。引きこもりって、響きが悪いのでマイナスイメージにうけとめていました。雅さんも懸命に生きているんだな、と思うと身の回りの苦しみも軽くなりました。


雅様 投稿者:僧侶A  投稿日: 4月16日(月)07時49分47秒

 励みになる言葉をありがとうございます。書き込みを拝見して南無阿弥陀仏をとなえました。阿弥陀さまのお慈悲はやはり素晴らしい、ありがたいと。私の力ではございません。私は皆様に阿弥陀さまとの縁を持ってもらおうとしているだけ。実際は阿弥陀さまのお力で人が救われるのです。阿弥陀さまの光が射し始めましたからには、私の言葉などどうぞあてにせずに、阿弥陀さまと二人でお過ごし頂きたいと願います。


僧侶A様へ 投稿者: 投稿日: 4月14日(土)10時19分48秒

僧侶A様のお書きになるお言葉にいつも励まされてます。私は今、借金地獄の中で生きてます。仕事には就いてますが給料は安く、残業手当もつかず、なのに忙しい。いい年をして独身だと周りから言われ、借金返済の自転車操業がイヤになり、死のうと思ったのですが、その勇気がありませんでした。
掲示板で僧侶A様の説かれる「南無阿弥陀仏」に始めは胡散臭さ(無礼をお許し下さい)を感じましたが何度も拝見するうちにそのお話に惹かれ、家は浄土宗だと聞いたのでお念仏を唱えるようになりました。今では、死ぬという言葉は私の頭から消えてます。お念仏を唱えることによってなのでしょうか「なんとかなる」と心の中は前より平穏になりました。それでも時折、現実を考えると落ち込んでしまいます。その度に掲示板での僧侶A様の「阿弥陀さまはずっと、自分の名が呼ばれるのを待っています。」の言葉に励まされて生きてます。
これからもどうぞ、阿弥陀さまのお話をなさって下さい。その度に元気づけられる人が私以外にも多くおられると思います。私のように自殺を思いとどまる人も出てくると思います。ありがとうございました。


無名様、求職活動頑張ってください 投稿者:僧侶A  投稿日: 4月14日(土)03時34分27秒

 仕事だけに限らず、私たちの社会は、煩悩だらけの人間が無い知恵を絞って一生懸命に造ったものですから、必ずどこかにほころびがあります。その中で私たちは生きていかなければいけません。それは大変です。煩悩をもった凡夫が煩悩の論理でできた社会の中でやっていかなければならないから、大変なはずです。あなたもそれを怖れていらっしゃるようにお見受けしました。

 私はいつも仏を持ち出してお話を致します。それに違和感を抱かれるのが心配なのですが、たよってきた衆生を必ず救う阿弥陀さま、その仏さまに心をいたして南無阿弥陀仏ととなえて生きる、そこに救いがあります。仏さまに心から頼り切ることは、仏にすがるしかない自分を謙虚に見つめ、仏の救いをいただいた身として、ありのままの生を前向きに生きることにつながる、と言えましょうか。南無阿弥陀仏の言葉を発するたびに、それがもたらされます。そこには、煩悩を持ちながらも、前向きに生きる姿勢があります。

 ですが難しいことは考えるだけ無駄です。阿弥陀さまはずっと、自分の名が呼ばれるのを待っています。助けてください南無阿弥陀仏の一声で、人生を生ききったあなたを迎える用意をしてくれます。だから南無阿弥陀仏と答えて、仏の光を感じて生きていくだけです。ただ南無阿弥陀仏です。


レスありがとうございました。 投稿者:無名  投稿日: 4月13日(金)21時42分57秒

今日読ませていただきました。
てつやさんが、とても努力家で、なんであれほど勉強してる人でも
仕事がなくなる事態になるのか、業績もそれなりに、実績残しているようですし、、。
自分も今、求職活動中なので余計重く受け止めたのかもしれません。
再就職にむかって世の中に復帰するのが怖くなっていました。


レス 投稿者:僧侶A  投稿日: 4月13日(金)06時29分29秒

●nyorori様
 こちらこそよろしくお願いします。聖徳太子ですから在家の方でしょうか。いつも的確なご回答に感心しております。アイコンのことは…。あまり宗派にこだわるのは本意ではないのです。その割には宗派名を連発してしまっておりますが。

●tenga様
 共に南無阿弥陀仏をとなえて生きましょう。南無阿弥陀仏で執着心がなくなっているように思う…。私が感じているのと同じことかもしれません。念仏の道を歩き始めた者には、阿弥陀さまが見守ってくださるということですから、これは阿弥陀さまの護念によるのではないかと思っております。

● 無名様
 先ほど書き込みをしてから消したのですが、それをお読みになりましたのでしょうか。すみません。以下のように書きました。
「世の中、間違ったことが多い。善因楽果・悪因苦果と言いますが、善因苦果・悪因楽果に見えるものです。そのつじつまを前世の因・来世の果に求めることもありますが、ここでは何を以て善悪と見、何を以て苦楽と感じるかに帰してみてはいかがでしょう。見た目が良いだけで稼いでいる人、性格が悪くても仕事だけで稼いでいる人が、果たして楽果を得ていると言えるのでしょうか。否、そんなものを欲しがることこそ、悪因の始まりではないでしょうか。我らはみな悪因だけを積んで悪果だけを得ているのではないですか。だから仏さまの救いの手が必要なのです。少なくとも私には。」仏さまの救いがあれば、仕事も楽しんでできるのではないでしょうか。

 さて、仕事の中での自己実現ですが、これは苦しみのもとにも楽しみのもとにもなるので、難しいところです。私は、どんな仕事でも人の為に役に立っていると思うのですが、いかがでしょうか。仕事をすることは社会の一員としての役割を勤めることですから、そこに仕事をする自分の価値があると思うのです。たとえば営業マンで業績があがらずに他の部署にまわされたとしても、自分が求めているものとは違うでしょうが、きちんと役割を果たしています。仕事に偏執的な幻想をできるだけ抱かずに、自分の役割をありがたく受け止め、そのうえでもっと人の役に立とうと努力するのが、在るべき姿ではないでしょうか。そういう自分に変えてくれるのが、仏さまの力ではないかと思うのです。仏さまはそこまでおっしゃっておりませんが、私の考えです。


下記文面を読んでの追加です。 投稿者:無名  投稿日: 4月13日(金)00時01分00秒

自己実現を職業を通じてで実行していきたくても、挑戦や可能性を仕事を通しやると、仕事が人のために役に立たない限りはできないと思うのです。自分らしく、仕事の中でうまく見つけていくにはどうしたらいいのでしょうか?


てつやさんの文面を読んで 投稿者:無名  投稿日: 4月12日(木)17時12分45秒

#3213に投稿されているてつやさんの文面を読んで、世の中不平なことがおおいい、
と思いました。あんなに色々できる才能もあり、努力してご家族のことも考えている方なのに
仕事がないために苦しまれる一方、ひとより見た目がいいと、年や経験関係なくモデルなどできたりしてその日暮らしでもお金を稼ぐ手段になることが可能ですし。仕事を得るために、本当に必要なことって何でしょうか?性格よくても仕事できなければ勤まらないし、仕事ができれば性格悪くても企業は喜ぶし。仕事をすることと勉強していくことのバランスって関係あるのでしょうか?


度々おじゃましております 投稿者:tenga  投稿日: 4月11日(水)09時50分53秒

お寺ネットにて[人様のカキコ]ではありましたが、般若心経についての僧侶の方々のレスには色々考えさせられました。「仏教にご縁があって少しだけ勉強させて頂いたこともある、だから少しは仏教のことが判っているかも」と思っていた過去の自分が恥ずかしくなりました。判っているだけでは仕方ない、それは単なる自己満足なのだと思い知らされました。
それに、毎日悩んだり、辛くて死にたいと思ったり(今は思ってません)、つい人と比較してしまったりする私には全然仏教のことなど判っていないのです。
私個人としては昔は「般若心経はとらわれの心を無くすることを説いたものなのだな、そう言えば私にとっての色々な悩みは元をただせば執着心から来ているような」と生半可な理解で共感していたものでした。
浄土宗にご縁があって「南無阿弥陀仏」と唱え、一心に念仏することも執着心を無くすることにつながっているような、、、と最近、思ったのですが、本浄土宗の教えからしたら間違えているかもしれません。
(私の文章表現が貧弱なため意味がおわかりにならないかもしれません、すみません)

「南無阿弥陀仏」の六文字の奥深さを、ほんの少しですが判ってきた気がしている今日この頃。ありがたいことです。

追伸:nyorori さんのカキコにもありましたが、法然上人のアイコンがあれば良いのにと私も思ってました。私もはじめの頃は、僧侶A様は浄土真宗の方だと思ってましたから。


こんにちわ 投稿者:nyorori  投稿日: 4月11日(水)09時04分58秒

 お寺ネットの方でいつも拝見しております。また時々こちらも見させてもらっています。特に意見もなかったので、これまでご挨拶することもなかったですが、黙ってみてるのもなんなので、、。こんちわ。お寺ネットにでてくるnyororiです。浄土門の教えの神髄を見る思いです。浄浄土宗の方とは知りませんでした。だってアイコンが親鸞だし。アイコンをお寺ネットで作ってもらうわけにはいかないのでしょうか。。大したことじゃないのですけど。とにかくご挨拶でした。これからもよろしく。


(無題) 投稿者:無名  投稿日: 4月 7日(土)00時24分19秒

お忙しい中、ご返事くださりありがとうございました。どんなひとでも
人を人としてみる、ということがあたりまえでも、身内にたいしては、どうも感情や世間の常識などが入って判断してしまいがちでした。
僧ろうさんからのお言葉で、自分自身を卑下しがちなことも、人の悪い点は多く認めていることも、自分への見方もかえていかなくては、、、と思いました。
なんといいか、分かりませんが、身内にたいしての考えていく余裕ができた気がします。
ありがとうございました。


妹さん達のことでお悩みの無名様 投稿者:僧侶A  投稿日: 4月 6日(金)23時19分37秒

 妹さんたちの「悪い点」は、たくさん認めていらっしゃるのだと思います。ご両親についても同じでしょう。そういうご両親や妹さん方でも認めなくてはいけない、とご自分を責めていらっしゃるのではないでしょうか。それで貴女は「自分の中に、感情的に行動したい、という欲求がある」と自分の悪いところを認めていらっしゃいます。それは結構なことですが、ただ、ご自分をあまり卑下しすぎて、「周りは何も悪くないのに自分のせいで物事が悪くなっている」とお考えでは、苦しくなるばかりではないでしょうか。

 人間界のできごとには絶対的なことはなく、すべて相対的なので、自分が悪いとも相手が悪いとも取れてしまうのでしょう。感情的には相手が悪いと思っても、それではいけないとき、自分が悪いように思いこもうとしてしまう、のではないでしょうか。あなたはご自分の悪いところをお認めになられたようですが、それでもご両親や妹さん達の非が消えたわけではありません。みんなに悪いところがあります。自分を無視するご家族も悪いし、それに腹を立てるあなたも悪い。人間だれもが、悪いところをかかえながら生きています。

 ですから、ご相談へのお答えとしては、ご自分のことも、ご両親のことも、妹さん達のことも、そういう「悪いところを持った人間」=「人間らしい人間」としてお認めになれば宜しいのではないでしょうか。そのうえで、悪いところは正していこうという心が大切です。自分は悪いところを正そうと努力し、他人の悪いところは人間の性として受け入れていく。それはたいへん難しいことです。特に自分の体や心に危害が加えられる場合には。それを助けてくれるものは、人間界にはなかなかありません。「仏さま」という完璧な人間の姿、究極の理想像を信仰し帰依するなかに、その姿勢は生まれてくる。そこに仏教というものの価値があると思います。


妹たちについて 投稿者:無名  投稿日: 4月 6日(金)10時28分29秒

すみません。もうひとつ、アドバイスいただきたいことがあるのですが。
妹は、最終的にその男性と籍をいれました。つまり私の両親は結婚を認めたんです。
でも私には何一つ状況連絡ありません。未だに妹から結婚したという話ありません。
この事実は、一番下の妹と母との会話から知ったことで、間接的に分かったのです。
私はこういう妹たちと両親の間にいて悲しかった。
なにが「姉だからなの」と姉妹ってなに????と腹を立てていたのでした。
どのように妹たちの存在を自分の中で認めていけばいいのでしょうか?



妹たちについて 投稿者:無名  投稿日: 4月 6日(金)10時10分37秒

自分の中にも、「感情的に行動したい」と思う心があること
気付かせていただきました。だから、感情的にいわれること、
行動している人をみると、腹ただしいのかな、、と思いました。
気持ちも少し楽になったきがします。


お忙しい中、ありがとうございました。 投稿者:かすみそう  投稿日: 4月 4日(水)15時39分49秒

「過去を悔いて自分を一新したい時、宗教的な要素は欠かせない」のですね。
やはり、前向きに生きてみる・・というようなことだけではネガティブから抜け出すことは難しいのですね・・・「大いなるお力」をお借りしたほうが自分では楽になる気がいたします。

私は今まで「宗教」に頼る人は「弱い人」だと思いつづけておりました。
でもやはり、自分の死ということを考えてしまうような年齢になるといろいろと思い悩むように
なってしまいます。結局、人は弱いものなのですね・・・生まれてくる時も一人。死んでいく時も一人。強がっていても心の奥底では常に誰かに救いを求めているもう一人の自分がおります。

仏様に懺悔すれば少しは自分の心も晴れるような気がいたします。
これからいろいろと勉強いたします。重いご相談が多い中、こんなマヌケな私のようなご質問に
お時間を割いて頂き、申し訳ございませんでした。


かすみそう様 投稿者:僧侶A  投稿日: 4月 4日(水)08時56分44秒

 仏とは本来は一つであると思います。この世の苦しみを乗り越える智慧と、それを私たちに教えてくださる慈悲を持った存在です。だから「仏さまのようになりたい」「仏さま助けて」で宜しいのですが、それだけでは漠然としておりますので、いろいろな仏の姿が説かれております。

 私がご縁をいただいたのは「阿弥陀仏」です。西方極楽にいらっしゃって、あらゆる生き物を救う力をお持ちです。「はやく助けを求めに来なさい」と、いつも私たちを待っています。私たちが心から「南無阿弥陀仏」と助けを欲すれば、人生の終着駅についた私たちを、やさしく救ってくれるのです。阿弥陀さまに感謝しながら、その守りを実感しながら生きていると、悪いことをしたときも阿弥陀さまに懺悔したくなってしまうのです。

 これは私の例ですが、仏教徒は宗派問わず、仏様の前で懺悔するものと思います。ですからどんな仏様でも、それぞれの教えの中で懺悔すればよいことです。

 とくに「仏」にはこだわらなくても結構ですが、過去を悔いて自分を一新したいときに「宗教」的な要素は欠かせないものと思い、お返事差し上げた次第でした。


お寺ネットでの議論へお返事(3) 投稿者:僧侶A  投稿日: 4月 4日(水)08時52分11秒

●紫部様

>浄土教は自殺を奨励?
>No.2993の自殺の質問に対する僧侶Aさんの回答
>>自殺者の魂が苦しむなんて、誰が言い出したのでしょう。それは自殺をさせたくないがための方便でしょう。
>について、僧侶Aさん、誤解を招く記述は、もう避けたほうが良いと思いますよ。いくら言い訳をしても、少なくとも、あなたの文章を読んで、私を含め2人が、あなたの妙な文章に疑問を感じたのです。

 どこがどう誤解を招きやすかったでしょうか。今後の参考にしたいので、ぜひ仰ってください。「死んだら苦しむからではなく、生きる喜びがあるから、自殺をするな」と申し上げたはずですが。それにもうひとかたのご質問とあなたのご質問は、趣旨が違います。もうひとかたは、あの発言が引き金ではあるでしょうが、それだけでなく今までの私の発言を総括して、浄土教理解に対して疑問を提出されています。

>たしかに自殺者を出した家族は、自殺後に苦しみが訪れると言われれば、悲しむでしょう。しかし、この掲示板は、自殺遺族だけが見ているわけではありません。方便でも何でも、自殺者は死後苦しむと言ったほうが、自殺の抑止力になるはずです。

 果たしてそうでしょうか。「死んでから苦しんでもいい。今は死んでしまいたい」という方もいらっしゃいます。それを解決できる教えが浄土教にあると感じているから、それを説いているのです。もちろん浄土教だけではないでしょう。仏教のほかの部分からも、あなたがそれを見いだしてください。そしてそれをあの掲示板で説いてください。「できないくせに」と言っているのではありません。あなたには是非それを見つけて説いて欲しいと思います。

 それに、あなたは自殺の抑止力になるという理由だけで「自殺すると死後苦しむ」と仰るのですか? 「自殺を止めるために、自殺したら苦しむって言っているだけだ」とばれていたら、抑止力にはならないのではないですか? 

>もう浄土教の宣揚は止めたらいかがですか?もっと基礎的な仏教の知識に基づいて、回答されたらいかがですか?それとも、あなたは阿弥陀仏という単語を使わなければ、回答できないのですか?第一、あなたは阿弥陀仏が存在することを検証したのですか?

 教えを広めるのをやめるつもりはありません。私は「阿弥陀仏」という単語を使わなければ、回答できません。阿弥陀仏の救いをいつも感じながら生きています。

 あなたのおっしゃる「浄土教」も「基礎的な仏教」も、結局は同じところへ至る別の道です。阿弥陀仏が存在する云々ですが、この掲示板を遡っていただければ、書いてあります。あるいは、浄土教に何かいやな思い出でもお持ちでしょうか。私のメールアドレスはこの掲示板の一番下にあります。メールでも相談におのりします。

>私は管理人ではありませんが、自殺に対し、少しでも肯定的な見解を持つような回答者は、この掲示板の主旨に反しますので、どうぞお引き下がり願いたいと思います。

 どのあたりが自殺に肯定的でしたでしょうか。あるいは肯定的と誤解される表現を含んでいたでしょうか。管理人さんには一度浄土教が問題かと掲示板上でお訊きし、駄目だとはうかがっておりません。どうぞあちらの管理人さんに迷惑をかけないよう、こちらの掲示板かメールで話しましょう。

>深海さんのホームページに、阿弥陀仏のような絶対的存在の矛盾が記述されていますので、ご参考までに。

 よく深海さんのページをお読み下さい。師の説は「原始仏教」の話です。浄土教は「原始仏教」ではなく「大乗仏教」です。南無阿弥陀仏。あなたにも阿弥陀仏の救いの光は降り注いでいます。反抗期の子どもをみる親の目ではないでしょうか。

 いろいろ書きましたが、かえって「宗教的寛容」の大切さに気づかされました。ありがとうございます。


お寺ネットでの議論へお返事(1) 投稿者:僧侶A  投稿日: 4月 4日(水)01時24分02秒

●紫部様

>自殺後、苦しむという考えは方便である。苦しまないのは方便ではない(真実)ということですね。この掲示板の主旨をご存じですか?それが浄土教者の考えですか?

 誤解です。考えてみてください。自殺した人だけが特別に苦しむのでしょうか。自殺しなければ必ずいいことが待っているのでしょうか。自殺をしないですんだ人の中にも、苦しんでいる人はいるのではないでしょうか。自殺する方も我らも、同じところに立っているのです。自殺していった人を指して「あいつは今苦しんでいる」などという言い方を、私は好みません。

 自殺を勧める意図は毛頭ありません。ただ「自殺者は死後に苦しむ」という考えがあの掲示板ではもてはやされています。そしてそれを見た自殺者の遺族の方々が、さまざまな反応を寄せています。「その通りである」とおっしゃる方もいれば、「自殺した身内が苦しんでいるなんて耐えられない」という方もいらっしゃいます。私は後者のような方が一人でもいる限り、そのようなことを言ってはならないと思うのです。

 また、自らの手で致命傷を造ってしまった方が、病院に運ばれる途中で「自分は死んだら苦しむのだろうか」と怯えていたら、どうなさいますか。阿弥陀さまはそういう方をもお救いになります。これは遺族にとっても救いです。しかし仏さまは表面上は「自殺はするな。自殺したものは救わないぞ」と仰っています。これはまだ自殺という罪を犯していない人に対しての呼びかけです。

 すなわち仏のこころは、いまだ自殺せざる者には「自殺したら救わぬ」といい、すでにそれを犯した者には「それでも救うぞ」と仰っているのです。それを伝える場として、掲示板は難しい場です。なぜなら、いまだ自殺せざる者(多くの相談者)とすでにそれを犯した者(自殺者遺族)が同居しているためです。


お寺ネットでの議論へお返事(2) 投稿者:僧侶A  投稿日: 4月 4日(水)01時23分45秒

●「通りがかっただけの者」様

>毎日「南無阿弥陀仏」と一心に唱えれば、たとえ自殺しても、あるいは最近新聞にあるような児童虐待して子を死に至らしめても、御仏はお待ちになって下さっていて、御救いしてくださるのでしょうか? また、それで苦しみから逃れられ、自分の心も平安を手にする生き方ができるのでしょうか? そして死後、必ず極楽浄土に行け、地獄という概念を持つ必要はないのでしょうか?

 無量寿経では、阿弥陀さまは「重罪を犯した人は救わない」と仰いました。一方、観無量寿経には「重罪の衆生も救う」とあります。善導大師の解釈では、後者が本意だが、衆生を悪に走らせないために前者を言ったと仰せです。既に造った悪は許し、未だ造らざる悪を止める為です。親が「悪いことをする子は、出ていってもらいます」と子どもに言うのと同じです。

 この大慈悲をいただけば、あなたの問いかけへの答えは得られるでしょう。そして疑問に思うかも知れません。これはおかしな宗教だと。「阿弥陀さまに救われるから悪いことをしても良い」これは造悪無碍と呼ばれる異端です。そうではありません。「既に造った悪は許し、未だ造らざる悪をとどめる」悪を犯してしまった自覚がありますか? その中で苦しんでいる人をもお救いになる、大いなるお慈悲です。

>仏教とは、どんな人にもある仏性(御仏の心)を感じる生き方をしていくため、その方便としてお釈迦様は8万4千の御経を説かれたのです。その仏性(御仏の心)とは、つまり自我を捨て無私となり、他人を助けようとする姿勢をいつも持てる心のことを言うのです。それが他力(弥陀の力)による人の生き方というものではないでしょうか?

 これは論議するよりも、あなたがその道を深めて行かれるのが良いでしょう。ただ私自身のことに関して申し上げれば、「一文不知の愚鈍の身」として、自分の思いつくような「仏性」も「無我」も、ただの凡夫のはからいとして捨て去り、ただ阿弥陀一仏をたよるのみです。仏性も無我もその中から仏のはからいで勝手に現れるものと受け取っております。

>それを説かずして、ただ一身に「南無阿弥陀仏」だけとなえておればいいというのが本当に親鸞上人の御心でしょうか?浄土真宗を批判しているのではありません。浄土真宗も元はお釈迦様の説かれた経典(大蔵経その他諸々)が土台となっています。私も仏教徒です。ただ僧侶A様の文からは弥陀の本願が見えてこないのです。自分の仏性を感じようとした生き方もしないで、自分の内面を見つめずただ苦しいからと自殺しても、御仏がお救いしになられるのでしょうか?

 私は浄土宗の僧侶ですが、法然上人のアイコンがないために親鸞聖人のものを使用しています。紛らわしくて申し訳ございません。ご容赦下さい。法然上人の教えは「ただ念仏」と受け取っております。たとえば「一枚起請文」などという文にそう書かれております。これは真宗聖典には載っていませんか?

 自身を見つめろと仰ることはよくわかります。弥陀一仏をたよる中に、そういったものは芽生えてくると思います。しかしそれを自身で磨こうとしては「他力」ではありません。他力を説く際は、必ず阿弥陀さまの慈悲を中心に説くことになります。そこから派生する仏性の顕現や無我の境地は、信仰者が自身を語る場合にはまことに興味深くありがたいのですが、はじめからそちらに向かって歩いてしまうと「他力」ではなくなると思っているのです。

 私の文から弥陀の本願が見えてこない…。痛いご指摘です。がんばってみます。


懺悔する方とは・・・ 投稿者:かすみそう  投稿日: 4月 3日(火)09時55分48秒

先日はありがたいお言葉を頂きどうもありがとうございました。
私は無宗教なので、教会も、お寺も(神社とはちがうんですか?)宗教自体・・というか、神様、仏様、イエス様のこともなにもわかりません。

でも、やはり困った時には神様仏様って心の中で叫んでしまいます。
田舎の義父が「諸行無常」のことをよく申しておりましたが、懺悔については話したことはなかったですね・・僧侶A様はどういった仏様におすがりせよと仰られているのでしょうか?
無知な私のようなものに、お忙しいお時間を割いていただき、申し訳ございませんがぜひ教えて頂きたいのです。よろしくお願いいたします。


お返事ありがとうございました 投稿者:笑うひまわり  投稿日: 3月31日(土)22時00分37秒

私の方こそ、相談を聞いてくださった方に対して、失礼なことを言ってしまいました。申し訳ありませんでした。  相談をする前にもっと自分のこれから、どうにしていきたいのか、ということを考えるべきでした。実際、私にもわからないのです。どうにしたいのか・・・。おそらく何も変えられず、夫に不満を持ちながらも時が過ぎていってしまうのだと思います。
それが、よいのかはわかりませんが。 今は育児に追われながら、辛い事はあまり考えないようにしてみます。
また、なにかありましたら、相談にのってください。


tenga様 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月31日(土)01時24分09秒

何もわからないままに悟りへの道を約束されるのが、お念仏の摩訶不思議なる醍醐味です。
阿弥陀さまがいつもやさしく見ておられます。
この大変な世のなかで、あなたのように感じられることが、阿弥陀さまの力による奇跡でしょう。
お念仏は阿弥陀さまへの感謝ですね。
南無阿弥陀仏。


笑うひまわり様 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月31日(土)01時03分11秒

 こんばんは。掲示板での相談というのは、ある程度こちらも推測で答えなければいけないところもありまして、またあなたの方にも同じことがございますので、難しいものです。相談と一口に言いましても様々でして、あなたのご相談のように非常に具体的なものもあれば、「人生の意義がわからない」「自分が好きになれない」といった漠然とした相談もあります。どちらかといえば、後者の方が仏教に結びつけやすく、前者の相談の場合は、まずそれを一般化・抽象化してから、仏教的な回答を探すことになります。それをしない場合、回答もたたり云々といったものになるのです。

 さて、お寺ネットで私がさしあげた回答を見れば判るとおり、あなたのご相談は具体的な相談でしたが、私は抽象的なことを答えさせていただきました。これはあなたの今のお悩み(ご伴侶のこと)だけに対する答えではなく、人生のなかで直面するすべての悩み苦しみに横たわる真理として、私が仏教から教わったものです。

 ご伴侶に関する具体的な行動については、今までのように我慢し続ける方法もあるでしょうし、面と向かって改善を要求する、それとなく改善されるようにしむける、第三者を介入させるなど、いろいろと考えられます。ただ、どの方法をお取りになるにしろ、あなたがその過程で苦しみをお感じになるとしたら、やはりさきほど申し上げた真理の通りなのです。つまり、私の意図は「我慢しなさい」ではありません。改善への働きかけを勧めるものでもありません。そのどちらも、人生の苦しみの中です。「一切皆苦なり」と腹が据えることが、まずは大切という意図です。

 一切皆苦と腹を決めることは、決して現状に甘んじることではありません。現状に甘んじることも、行動を起こすことも、どちらをも超越することです。誤解をまねくような言い方をして、申し訳ございませんでした。


坪内様 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月31日(土)00時15分32秒

 「阿弥陀さまに救われて極楽浄土に行く」ということは、頭で理解しただけでは意味がありません。あなたの「すぐにでも会いたい」とうお気持ちは、阿弥陀さまに救われることが体感できたときに、「いずれ会えるのだから、一日一日、精一杯生かさせて頂こう」という気持ちに変わります。阿弥陀さまや極楽の話を頭だけで納得して、その道に踏み出さないでいては、阿弥陀さまからあなたへ用意されているせっかくのお救いが台無しです。

 この世の出来事は「複雑な因果の鎖のあらわれ」ですから、すべての物事の「原因」はひとつではありません。何か一つの原因にすべてを帰したくなるのが、私たちの性ではありますが。その心をうまく突くのが、占いや霊視というものでしょう。ですが事実は、原因とは無数にあるものなのです。人が亡くなった時に医者は「死亡原因」を書きますが、たとえば脳梗塞で亡くなったとしても、脳梗塞を起こした生活習慣なり遺伝なりという原因があるはずです。それを霊障と言う人もいるでしょうが、それとて唯一の原因とは言えません。生まれてきたことも死ぬ原因です。

 仏さまは神通力を持っており、物事のすべての原因をご存じです。それがわからずに右往左往している我らを、阿弥陀さまは「早く救いたい」の一心で見守っておられます。阿弥陀さまは私たちの苦悩の原因をすべてお見通しです。救いの手を、すぐそこまで差しのべられております。我らがその手に気づくのを待っておられます。

 それに答えて「南無阿弥陀仏」ととなえた瞬間、仏さまの手ががっしりと我らをつかんで、我らがどのように生きようとも、死ぬまで放しません。その間、我らがより良く生きようとすれば阿弥陀さまもお喜びになり、我らが悪いことをすれば「仕方のない奴だ」と救いの気持ちをいっそう強くしてくださいます。そして我らの死ぬときは、阿弥陀さまの手許へ引き寄せられるのです。


先日はありがとうございました。 投稿者:笑うひまわり  投稿日: 3月30日(金)23時51分21秒

夫のことについてご相談した者です。すぐに怒鳴る夫についてです。私は、無理な希望を抱いているのでしょうか?普通に会話をしたいだけなのですが・・・。やはり私が、怒鳴られないようにことばを選びながら、言いたいことも我慢して言わず、おとなしくしていればいいのでしょうか?

それで平和な日々が送れるのなら、私が我慢しようと思いここまで来ました。でも、何だかそれは違うような気がしてきたのです。
怒鳴られないようにビクビクしていることが幸せなのかと、今とても疑問に思っております。
やさしい夫の理想像を追いかけているつもりはありません。
同じ人間同士、対等に話をしたいだけです。確かに夫が仕事をしてくれているおかげで、ご飯がたべられるわけですから、もっと夫のことを大事にしなさいという方もたくさんいらっしゃると思います。  それは間違っている考えだとおもうのですが、ほとんどの方はそういう考えなのでしょうか?


南無阿弥陀仏ですね 投稿者:坪内  投稿日: 3月30日(金)08時45分14秒

阿弥陀様ですね。南無阿弥陀仏と唱えようとする心が、救われ死んだら極楽浄土にいけるということですよね。
今人間の寿命がだんだんと伸びてきております。いずれ私も死んで霊界に行ったら母にも対面できるそうですが、私が死ぬまでに50年以上も会えません。本当にすぐにでも会いたい気持ちでいっぱいなんです。
それに私は原因追及が趣味なのでこれらはなぜこういう事が起こったのだろうというのが知りたいのです。

http://www5.ocn.ne.jp/~saeko/public_html


三輩とも念仏にて往生す 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月30日(金)00時36分40秒

 仏教には、いろいろな素晴らしい行があります。出家、菩提心、戒律の遵守、仏塔や仏像の建立、僧侶への布施、仏さまへのお供え、焼香、そして念仏。すぐれた人はいろいろな行を修められますが、お金や能力や環境に恵まれない人はそうはいきません。念仏は誰でもできます。お釈迦様はいろいろな行を教えてくれましたが、最後には「皆、念仏せよ」と仰います(無量寿経)。それは念仏がどの行よりもすぐれていることを表すために他なりません。


お便り 投稿者:tenga  投稿日: 3月28日(水)09時32分32秒

先日はご指導をありがとうございました。
『南無阿弥陀仏』のたった六文字を唱えるだけでも色々考えてしまう私に、
お経を読んだり仏教の事を学んだりはとても無理だと改めて思いました。
そう思うと、なおさらお念仏のありがたさに感謝する毎日です。
桜がほころび、柳の新芽が青々と揺れている様を見ると春を実感し、日本情緒を満喫できるこの地に今、生きていることにもありがたく思える今日この頃。
ひととき、生活の辛さや苦しさを忘れられます。


坪内様 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月28日(水)01時07分58秒

 真理は、仏さまだけが知っておいでなのです。我々は真理に無知だから、苦しんで死んでいきます。お取り次ぎをする「霊能者」の多くは、良く当たるように見せる術に長じた、単なるインチキでしょう。中にはそういった真理とつながりを持っている人がいないとは言いませんが、そういう人はほとんどいないでしょう。

 阿弥陀如来はその真理を悟った仏さまのお一人で、私はその慈悲と力にすがって生きる者です。阿弥陀如来の力におすがりすることに、興味はありませんか?


ありがとう 投稿者:坪内  投稿日: 3月27日(火)13時32分34秒

本当にその原因が知りたいのですが、仏様や神様からお伺いをしてよく霊能者がやっているお取次ぎができるようになりたいなあと思っています。
知り合いの霊能者で本当に良く当たるひともおります。もっと前から頻繁に相談にのってもらっていたら母もこんな死に方をしなかっただろうと悔やまれてなりません。
http://www5.ocn.ne.jp/~saeko/public_html


坪内様ようこそ 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月27日(火)05時57分13秒

 坪内さんは仏さまは信じられますか? ネットの世界を見ていると、ほんとうにたくさんの人が、悩みを抱えながら通り過ぎて行きます。ネットの世界に限りませんでしたね。この世には、とてもたくさんの人が生きています。みんなに心があって、みんなが何かを思いながら、何かをしながら生きています。みんなが多かれ少なかれ、悩みを持っていますね。悩みを苦にして命を絶ってしまう人も多いです。

 一人一人の心の中はみんな違います。でも心の動きには法則があります。だから、どんな人もだいたい同じような悩みを持つし、同じような行動をしてしまいます。悩みを抱いて苦しんでいくパターンは、だいたい決まっていると言われています。

 私たちは、いま生きているこの世のことしか、見えませんしわかりません。でも、死んだあとの人も、そのパターンは生きている我々とたいして違わないと言われています。

 坪内さんには、お母様を亡くされてさぞかしご落胆のこととお察ししますが、おまえのせいでと亡くなっていったお母様も、土地の因縁か何かでひどいめに会ったお隣のお家の方々も、今はこの世で生きている坪内さんご自身も、ここでお答えしているこの私も、みんなみんな、そのパターンで苦しんでいるのです。

 その法則は、仏さまだけが知っておいでなのです。仏さまは、我々がその法則どおりのパターンで苦しんで死んでいくのを、すべて見ておられるのです。そういうことが信じられますか?


私が宗教に関心がある理由 投稿者:坪内  投稿日: 3月26日(月)14時59分57秒

母は1月の15日に手術をして元気になりかけましたが、急に悪霊にとり憑かれ武士のようなしゃべり方になりました。それで衰弱して亡くなりました。元気だったのに本当にいまだに信じられません。
私の隣の家も母親が亡くなると、その次にはおばあちゃん、次にはおじいちゃん、父親と次々と4人が亡くなり、子供2人が残され、その土地を売ってどこかに行ってしまいました。土地の因縁があるのでしょうか?
母が入院する時にこうなったのはあんたのセイやと言ったのが心残りです。
だからもう一度母に会いたいのです。母はいまどうしているのかなと思います。
これらがわかる人がいたらいいですね。


(無題) 投稿者:tenga  投稿日: 3月25日(日)10時57分09秒

ご丁寧なお答えをありがとうございます。
『南無阿弥陀仏』と唱えようにも「自分が何もできない愚か者なのだと思いながら唱えたら自己暗示をかけているようで何もする気が無くなってしまう…」と自分勝手な解釈をし唱えることを控えておりました。心のもやが晴れたようです。
わかってしまえば、僧侶の方にこのような質問「本当に愚か者の私」だったかもしれません。恥ずかしいです。
ありがとうございました。


tenga様 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月25日(日)05時42分05秒

 ご質問ありがとうございます。

 我らの苦しみはみな、真理を徹底的に思索し体感して、仏と同じ境地に至らなければ解決できません。「自力では何もできない愚か者の自分」という意味は、自分の力では仏のさとりを得て苦しみを乗り越えることができない、という意味で用いているつもりです。自分のやることなすことは、この世間の基準でいえば勿論何らかの事をなし得ているでしょうが、仏の眼から見れば何もできていないも同然、ということです。ただ、私がこの言葉を、相談の方に対していきなり使うので「世間的な基準でも何もできないあなた」と主張しているように取られてしまうかもしれません。そこは気をつけたいと思います。

 ですから(一)は「世間的な基準で見れば何かをなしとげている」が「仏の眼から見れば自力では何もできていない」と、整理させて頂きます。(二)は私の回答は世間的な眼から見て確かに悩みに答えているようでも、仏の眼から見ればただの仏の教えの受け売りなのだと思っています。仏の教えを受け売りすることは尊いことではありますが、それは私がすぐれているから出来るのでも何でもありません。

 とりあえずは、ここまでお答えしておきます。まだわかりにくいこともあるかもしれません。その時はどうぞ。


是非ともお聞きしたいことがございます 投稿者:tenga  投稿日: 3月24日(土)10時26分12秒

お寺ネットやこの掲示板の愛読者tengaと申します。
始めにお断りしておきますが、このお便りは貴方様への批判でも中傷でもございません。私の文章表現が至らなく、そう取られてしまった折りにはお詫び申し上げます。お聞きしたいことは二つございます。
(一)
僧侶A様は掲示板でよく「自力では何もできない愚か者の自分」と仰います。そこまで自分自身のことを卑下する必要があるのでしょうか。何かをやるとき「自分は非力だ、だけど少しの自分の力を信じてやってみよう」と自分の力を信じることも必要なのではないでしょうか。確かに仏様のお力もあるでしょう。でもまず自分の力を信じ、自分でやってみようとする思いも必要なのではないでしょうか。頭から自分のことを「自力では何もできない愚か者の自分」と下げてしまうと「どうせ自分には何もできないのだから」と自分自身をも否定してしまっているように思えます。
(二)
「自力では何もできない愚か者の自分」と僧侶A様はご自分の事さえも仰ってます。でもお寺ネットでは悩みをうち明けてきた方々にお返事なさってます。本当にご自分のことを「自力では何もできない愚か者の自分」と思っておられるのでしたら、なぜ何もできない者が他人の悩みに答えることができるのでしょう?悩みに答えることが出来ているではありませんか。
重ねて申し上げます。このお便りは中傷でも批判でもございません。失礼で不躾な質問だと承知しております。もちろん仏教ならびに浄土宗の批判でもございません。ご返答よろしくお願い致します。


まげ様(2) 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月18日(日)06時48分21秒

お役に立てて嬉しく思います。南無阿弥陀仏は僧侶・信者問わず、我ら末代の凡夫にとって阿弥陀さまに救われるためのただ一つの方法です。難しい学問・修行のかなわない我らのために、この南無阿弥陀仏が作られたのですから。この他力門では、修行に関して僧侶と信者には本質的に違いがないと言えます。ひとつ違いがあるのは、僧侶は阿弥陀さまの教えを広めるということでしょうか。それとて信者の方がしてはいけないことではございません。

 ひとつ付け加えさせて頂きますと、自力門(上座部・大乗を問わず)の僧侶は仏教を理解し修行に励みます。自力門の在家信者の位置づけについては、私はよく存じません。ただ、禅宗などのように在家信者にも坐禅会などを開いて修行させる宗派もあれば、真言宗のように在家信者には真言を唱えたり印を結んだりさせない宗派もあるようです。後者の場合でも、在家信者はお遍路などに出かけたりしますから、信者にも自力の修行は開かれているのでしょうか。しかしこと他力門の南無阿弥陀仏に関しては、法然上人ご自身が「一文不知の愚鈍の身」としてとなえると仰っているとおり、難しい知識を詰め込む必要はありません。

 ちなみに日本の上座部の宗派ですが、現存している中では律宗が上座部だと思います。また何かあればいつでもどうぞ。


ありがとうございます 投稿者:まげ  投稿日: 3月18日(日)05時27分16秒

自分で質問を読み返し、非常に分かりにくい文章であったと恥ずかしく思っております。
しかし丁寧に、的確にお答えいただきありがとうございます。
ばっちり納得できました。おかげで何の迷いもなく「南無阿弥陀仏」と唱えられそうです

いままでなんとなく僧侶は自力門、信者は他力門というような感じであるのかと思っていましたが、とにかくも阿弥陀様に頼る事が唯一の方法であるということでは皆同じなのでしょう。
つまり阿弥陀様に関係する修行というものを行うのが僧侶で、行わないのが信者なのですね。

ふと思ったのですが、日本に上座部仏教の宗派というものはあるんですかね


まげ様 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月17日(土)07時24分15秒

 ようこそお越し下さいました。

 あなたの御理解についてまず簡単に申し上げますと、「上座部」を「自力(聖道門)」に、「大乗」を「他力(浄土門)」に置き換えれば、あなたのお考えはおおよそ正しいものとなるでしょう。

  仏教┬─上座部──自力(聖道門)
    └─大乗─┬─自力(聖道門)
         └─他力(浄土門)

 まず上座部と大乗のごく簡単な違いを述べ、次にそれとは別にご質問であるところの「仏教に対する知識、理解」「修行」の意味を問うていきたいと思います。

 釈尊の滅後に弟子たちが集まり、釈尊の教えを経典として編纂しましたが、そういった初期の経典をもとに、釈尊の時代と同じように教えを勉強し、徹底的に思索し、修行して悟りをめざしたのが上座部仏教です。そこでは自分の悟りが目標であり、他人を悟りに到らせることには消極的であるようです。上座部に対する改革運動として、釈尊の教えを受け継いだ民衆の中から、大乗仏教が起こったと考えられているようです。そこでは自分の悟りばかりでなく、他人を悟りに到らせる(すなわち救済)ことをも目標にしました。上座部は自利、大乗は自利利他です。これが上座部と大乗の簡単な説明です。

 大乗だからといって他力であるとは限りません。自力で仏教を勉強し、理解し、修行してから、それを他人に広めていく。そういう自力門の姿勢が基本です。するとここで、既に自力で悟って他人の救済に努めている存在というものがどこかにいることになります。自力を捨ててこれにすがろうというのが他力門です。

 ですから、上座部であろうと大乗であろうと、自力門では仏教を理解し修行するという姿勢が基本です。大乗の他力門では、我ら凡夫に自力は無理として、ただ仏にすがります。したがって、あなたのお考えの中で「上座部→自力門」「大乗→他力門」と変換していただければ、あなたの理解で大きく間違ってはいないと思います。

 ではご質問の第一を変換いたしまして「他力門において『仏教に対する知識、理解』はいかなる意味を持つのか。また「修行」という自力門方向性はいかなる意味を持つのか」を考えてみたいと思いますが、これはきっぱりと「他力門では仏教に対する知識、理解はいかなる意味も持たない」「修行は救済をいただく阿弥陀仏に関係する修行だけが意味を持ち、その他の自力門的な修行は意味を持たない」と答えられると思います。

 次に第二のご質問で「経文の意味も理解せず、御仏が何であるかを理解せずに唱えていてもよいのか」というご質問にお答えしようと思います。もしあなたが他力門の教えにしたがい、阿弥陀仏にすがっておられるのであれば、経文の意味を理解する必要もないし、仏について深い理解も必要ありません。心からの南無阿弥陀仏だけが必要なものです。もしあなたがそれ以外の教えに従っておられるのであれば、他宗派を良く知らない私にはきっぱりとは答えられません。経文の理解・仏の理解が必要な教えもあれば、それが必要ない教えもあると思います。たとえば日蓮宗などではただ題目を唱えるということが言われています。禅宗では不立文字といい、経文にたよらずに師から弟子へと教えを伝えようとしています。これがお聞きになりたい点かも知れませんが、残念ながら私にはお答えできません。

 以上、長くなりましたが、分かりにくい点やさらなるご質問、誤りの指摘などがございましたら、ご遠慮なく。



上座部と大乗 投稿者:まげ  投稿日: 3月17日(土)04時37分51秒

 お寺ネットにて、こちらへ招待していただき、ありがとうございます。
 素朴な事なのですが、常日頃疑問に思い、悩んでおりました。
 もし良ければご教授お願いします。

 仏教は上座部と大乗に大別できると聞き及んでおります。
 上座部というものは「自ら修行を積み、悟りを開く」という、言わば自力本願の方向性であると思っています。大乗というものは「御仏にすがる」という、言わば他力本願の方向性であると思っています。
 結局その二つの根本的な違いは、私の感じるところ「理解」にあると思っています。前者は深遠なる仏教の教えを「理解」する事を目的とし、後者は我々凡百の者では到底理解し得ない仏教教義の深遠さをさておき、仏教を信じ、御仏にすがり、念仏を唱えよというコンセプトであると思います。
 つまり上座部では仏教理解(体現)が目的であるが、大乗では仏教理解を必ずしも必要としていない。ここまでが間違っていたら、まず正してください。

 それが前提であるのなら、大乗仏教において「仏教に対する知識、理解」はいかなる意味を持つのでしょうか。また「修行」という上座部的方向性はいかなる意味を持つのでしょうか。

 というのは、私はあまり経文の意味を理解しておらず、また御仏が何であるかを理解していないのです。正直に言って意味もわからず唱えてきました。それでよいのでしょうか?


霊や因縁に対する護身法とは 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月17日(土)02時32分18秒

「お墓で素人がお経をあげると無縁仏が憑いてしまう」「霊場などいわくつきの場所を訪れると因縁がついてしまう」などと言い、「護身法が必要」「そういうことをするな」と言われる方々。ずいぶん多くおられます。法然上人は、我らでも天人・四天王・竜神を味方に付けて鬼神や厄災による悩みを払うことができると仰います。上人の著書『選択本願念仏集』の中、唐の善導大師の『観念法門』からの引用部分です。

【また『般舟三昧経』の行品の中に説いて云うがごとく、仏の言わく、もし人専らこの念弥陀仏三昧を行ずれば、常に一切の諸天および四天大王、龍神八部、随逐影護し、愛楽相見することを得て、永く諸の悪鬼神・災障厄難、横に悩乱を加えること無し。】

 つまり、南無阿弥陀仏のお念仏をしておれば、諸々の天人衆・四天王・竜神が、影のごとくその人にしたがい守るので、悪鬼神や災障厄難がその人を悩ますことはないのです。もちろん、そのお念仏とは、「念仏三昧」ですから、阿弥陀さまの救いを我が身に感じておとなえする、心からの南無阿弥陀仏でなければなりません。口先ばかりでとなえても意味がありません。また『阿弥陀経』に【善男子・善女人】とあるように、お念仏は出家者の専売特許ではなく在家信者のものです。ですからお念仏の信者さんでいらっしゃれば、何も霊や因縁を恐れる必要はありません。

 さて、悪鬼神と災障厄難が並列で述べられています。これらはどちらも我らに悩乱を加えるものですから、我らの悩み苦しみの原因です。苦しみの原因とは我ら自身の煩悩に他なりません。我らの煩悩は姿形を変え、あるときは悪鬼神、あるときは災い、障り、厄難、あるときは霊や因縁として現れます。しかし阿弥陀さまのお救いに目覚めた念仏者は、阿弥陀さまと常に一心同体。悪鬼神・災障厄難などを呼び寄せる煩悩はそのままそこに存在しますが、仏の救いの幸せに包まれているので、悩乱を加えられることがないのです。


名無し様(3) 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月12日(月)03時23分21秒

 お釈迦様は歴史上の人物で、この世界で修行を積まれてさとりをお開きになりました。そして我らをもさとりに導くためにいろいろな教えを説かれました。その中に、極楽世界にいらっしゃる阿弥陀さまの教えもあります。お釈迦さまが「阿弥陀さまにすがれ。南無阿弥陀仏ととなえよ」とおっしゃっているのです。だから我らは南無阿弥陀仏と申すのです。簡単に言えばそういうことになります。

 私は浄土宗の僧侶ですので、名無し様が浄土宗にご縁のある方だとうかがい、浄土宗系の学校の存在のすばらしさを改めて感じました。お念仏に関しては、わからないこともいろいろ出てくると思います。ご自分でいろいろとお調べになるのもよろしいかと存じます。ご質問があればいつでもどうぞ。ただお念仏に関しては、その知識をあてにすることなく、愚者の気持ちでおとなえくださいますよう。

 それではまた。


とにかくやってみます。 投稿者:名無し  投稿日: 3月11日(日)20時17分35秒

僧侶A様が「もちろんはじめは半信半疑でしたが」と書かれていた部分を読み、なぜか安心に似た気持ちを持ちました。
まだわからない部分があります(なぜ「南無」の後にくる名がお釈迦様でなく阿弥陀仏様なのか。。。等)でも、一度何も疑わず、考えず、信じて唱えようと思いました。それと共にこれからも法話や仏教関係の本を読んでいこうとも思いました。
実は私は仏教系(浄土宗)の学校を出ています。毎日お経を読み、お寺にも通って総本山で戒名も頂いています。この年になって改めて仏教に触れ、その戒名を思い出し今さらながらにその頃、仏教の授業を疎かにしていた自分に腹立たしささえ感じてます。頂いた戒名は私にはもったいないほど素晴らしいもので、とても気に入ってます。HNに使いたかったのですが、今の私には使う資格など無いと判断し「名無し」と名乗っておりました。
私の何度もの質問にお手数煩わせてすみませんでした。またご意見をお伺いすることもあるかと思います。その時はよろしくお願いします。それと、これからもこの掲示板やお寺ネットで仏教についてのお話を聞かせてください。ありがとうございました。


名無し様(2) 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月11日(日)13時27分49秒

 ご質問は、浄土の道を行く人が誰でも抱かれる疑問であると思います。そして一番大切な問題でもあります。決して失礼な質問でも愚問でもございません。

 なぜ保証もないのに阿弥陀さまを信じられるのかと、誰しも思うわけでございます。それを越えたところに「三心」のそろったお念仏があるわけですから、これは一番大切な問題であるわけです。いろいろな人のことを見聞するに、この問題を越えて阿弥陀さまをほんとうに信じるに到るまでには、人により様々な道筋を通られるようです。ですからここにお答えすることは、「なぜ保証もないのに阿弥陀さまを信じられるのか」という問題の一つの答え方にすぎません。

 さて、お念仏で誰でも救われると聞いてすぐさま「そうですか、ありがたい」となる人はまれでありましょう。名無し様は「まともに生きている人間をバカにしてる」とお思いになったとの由。しかしご高察の通り「まともに生きている」つもりの我らでも、自分で判断する「まとも」などは仏の目から見れば間違いだらけで、実はまともに生きている人など一人もいないのです。その片鱗だけでも感じるとき、「ああ自分ほどの愚か者は自力で助かることなどあり得ないのだ」と深く感じるのです。

 そこで我々は、お念仏で救われるという阿弥陀さまのお救いの話を聞き、これしかおまえの救われる道はないのだと聞くわけです。ですが、相も変わらず愚か者の我らですから、ここでも役立たずの自力を発揮しようとしてしまいます。それが「本当に救われるのか」という疑問であるわけです。この疑問を抱くということは、とりもなおさず、いまだ自力によって阿弥陀さまの救いを判断しようとしているということなのです。

 ですから、役に立つことのない我らの自力を一切捨て去って、すべてを阿弥陀さまにおまかせする気持ち、要するにこれが「三心」なのであり、この信心をもってこそお念仏で救われるのです。先に「深心」の説明を「自分にはお念仏で助けてもらう他ないと深く信じる心」と申しましたが、「自分には」という部分に「自力では何もできない愚か者の自分」との深い内省を含めたつもりでございます。法然上人は「愚者に還りて念仏」とおっしゃいます。頭であれこれ詮索せずに、たとえいくらかの知識があっても、そういった自分の力をたよりにせずに、ただ南無阿弥陀仏にて往生するのだと思って念仏する、ということです。

 自力を捨てた南無阿弥陀仏、これにて救われるのだ、と数々の高僧がおっしゃっている。だから私はそれを信じようと思いました。もちろんはじめは半信半疑でしたが、あるときから阿弥陀さまに救われるということが我が身に思い知らされたのです。こうして高僧たちが言いたかったことにも気づかされました。これが「ただ南無阿弥陀仏」なのだと。

 ですから「三心」のそなわった念仏ということは、誰でもはじめからできることではできません。やろうと思ってできることであれば、それは「自力」ですから。お念仏の法のことをお釈迦様は「信じるのが難しい」とおっしゃっています。難しいようですが、「愚者に還りて念仏」を旨にお念仏をされて行かれれば、と思います。


ありがとうございます 投稿者:名無し  投稿日: 3月10日(土)17時21分10秒

詳しい説明をありがとうございます。何度も読み返しました。(この掲示板も始めから全部読みました)
「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰もが皆、国極楽浄土に迎え入れられると初めて知ったときは疑問&不満たらたらでした。「じゃ、悪いことをしてても救われるのか!」「まともに生きている人間をバカにしてる」と思いました。
でもふと気づくと、お寺ネットでも書かせてもらったとおり人を嫉んでる自分がおりました。表面上は取り繕って良い人のようにしてても心の中には醜い部分があったのです。
それまではご先祖様に手を合わすとき「みなさん健やかにお過ごし下さいますよう、成仏されてますよう」とだけ思っていたのに、ある日ふとお念仏を言ってみました。
すると「南無阿弥陀仏」と言っている間は何故か心が透き通っている自分がいました。それでご先祖様に手を合わすときには何度も何度もお念仏を唱えるようになったのです。今こうして考えると結局は自分に向かって唱えていたのかもしれません。
これからは僧侶A様に言われたことを守りながら唱えます。
で、今さらながらですが時々ふと思ってしまうので、この際、お聞きしたいと思います。誰かに聞きたかったのです。(まともに仏教の勉強をしたことが無い者からの愚問と思ってもらっても結構です)
阿弥陀仏様を見た人はいないのに、救ってくださる保証なんてないのになんでそこまで阿弥陀仏様を拝めるのでしょうか??
(これは失礼な質問になると思います、ごめんなさい。でも不思議なのです。)


名無し様 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月10日(土)00時56分08秒

 まずはお念仏とは何かについて申し上げてから、ご質問に答えようと思います。

 我らは苦しみの世界を流転し続けて今に至っています。苦しみから抜け出すには、お釈迦様が得られた「さとり」を我らも得る必要がありますが、お釈迦様の遠く去った今の世ではそれも相成りません。そんな我らは阿弥陀さまのお救いに頼るほかありません。「南無阿弥陀仏」という美しい言葉は、そんな私たちを生き地獄から解放するために、阿弥陀さまが用意なさった言葉です。自業自得の苦しみの連鎖の中でもがいている我らを見て、はやくこの言葉をとなえよ、と阿弥陀さまが呼びかけられています。この六文字で仏の救いのあることに目覚めさせていただき、光のうちに人生をあゆみ、死後は極楽浄土に迎え入れていただくのです。この六文字があるから、私のような地獄にふさわしい輩でも生きていけるのです。

 日本のお念仏の祖である法然上人の「選択本願念仏集」では、阿弥陀さまに救ってもらうための行を五つに分類しておられます。読誦(どくじゅ=浄土のお経を読む)観察(かんざつ=阿弥陀さまの姿を思い浮かべる)礼拝(らいはい=阿弥陀さまを拝む)称名(しょうみょう=お念仏をとなえる)讃歎供養(さんだんくよう=阿弥陀さまを讃えて供え物をする)の五つです。これ以外のお経を読んだり仏を思い浮かべたり云々は、阿弥陀さまとの縁を遠ざけるものとして、捨て去られています。また五つの行のうち称名だけが真に阿弥陀さまに救われる行であり、他の四つは称名の相続を助けるための行とされています。つまり究極的にはお念仏以外は不必要、お念仏だけが阿弥陀さまの救いに結びつく行なのです。

 お念仏を申すときに不可欠なのは「三心」です。
・至誠心(しじょうしん=嘘いつわりのない心)
・深心(じんしん=自分にはお念仏で助けてもらう他ないと深く信じる心)
・回向発願心(えこうほつがんじん=我のなすことすべて極楽往生のためと思う心)
 これらを具えたお念仏を申すとき、阿弥陀さまの救いが我が身に届くのです。お念仏は「行住坐臥」にとなえるものです。つまり朝起きてから夜寝るまで、法然上人は一日に数万回もとなえたそうです。ですが、眠いときは寝ればいい、食べたいときは食べればいい、時間が空いたら念仏しなさい、とおっしゃっています。

 それでは以上をもとに、ご質問にお答えさせていただきます。

 まずご先祖さまにお経をあげたり念仏をとなえたりするのはなぜか。私は「仏教」と「先祖祭祀」は別物と考えております。ご先祖様にあげるのでしたら、花や果物でもかまいません。ただし仏教徒が先祖祭祀をするとなれば、自分の一番すばらしいと思っているもの、すなわち仏の教えをご先祖にあげるべきでしょう。そういった意味からご先祖の前でお経や念仏をとなえるものと考えます。お念仏の信者さんの場合であれば、お念仏がただひとつ重要なものですから、お念仏だけでまったくさしつかえないのです。ただし、「三心」を忘れてはいけません。

 お経を読まれたいとのことですが、基本的にお経はお念仏の相続を助けるだけのもので、本質的には不必要です。それを踏まえた上でご紹介しますが、浄土宗であれば『無量寿経』の中の「四誓偈(しせいげ)」がよく読まれます。浄土真宗であれば親鸞聖人の作になる「正信偈(しょうしんげ)」がよく読まれるようです。「四誓偈」は浄土真宗では「重誓偈」と呼ばれ、やはり読まれるようです。そのほか天台宗でもお念仏をあげることがあると思いますが、残念ながらそれには私は詳しくありません。時間がないのでお念仏だけ、とのこと。浄土の教えにおいてお経とは上記のようなものですから、それで結構です。

 あなたのお念仏がご自分のためであったかどうかというご質問ですが、文面から拝察するに、ご先祖様を思ってあげておられるのですから、ご自分のためではなくご先祖様のためであったろうと思います。しかしながら申し上げますが、自分でお念仏を「ありがたい!」と思っていなければいけません。まずは自分のためのお念仏、そしてそれが自分にとって大切なものと感じられるから、ご先祖様にあげるのです。

 以上長々と失礼しましたが、ご質問があればいつでもどうぞ。


こちらでは、はじめましてです。 投稿者:名無し  投稿日: 3月 9日(金)09時47分31秒

お寺ネットでは色々ご指示をいただきありがとうございます。お寺ネットに投稿してもよかったのですが、僧侶A様のご返事に対する質問ですのでこちらに書かせてもらいました。
「お念仏はご先祖のためだけにとなえるのではありません。むしろ自分のためにとなえるものです。」と頂きました事に関して。。
時間がないと言えば「時間は作るものです」と言われるでしょう。でも実際問題として会社勤めの私には時間が無くて、難しいお経を解読するのも時間がかかって。。とご先祖様に手を合わせたいもののお経を読めない状況です。
それで、ご先祖様には朝晩、手を合わせて成仏と今健やかにお過ごしくださっていることを願いお念仏を唱えるようにしてるのです「南無阿弥陀仏。。。」と何度も。
結局これは、自分の為にしてしまっていたのでしょうか?
ご先祖様に手を合わせるときにお念仏のように短くそれでいて理解の出来るお経を上げたいと思ったらどのようなものがあるでしょうか。(自分で調べなさいと言われそうですが。。力をお貸しください。)


レス 投稿者:僧侶A  投稿日: 3月 8日(木)05時25分26秒

普通サラリ−マンさま

 このような何もないところへお越し頂きましてありがとうございます。
 身を捨ててこそ…は、「安全第一などと言わずに飛び込んでこそ結果が得られる」と解釈するのが普通なのです。が、ここで申したのは、「身を捨てる」ということを「執着を捨てる」あるいは「自力の修行を捨てて阿弥陀さまにお任せする」ということに重ねたのが本来の歌ではなかったのか、という単なる推測でありました。ですから、ちっとも怖い話ではないつもりですよ。
 それからご質問ですが、「激格安」は葬祭サービスの価格のお話でしょうか。信仰を忘れて商売にいそしむ現代の仏教者の実態をご批判されたものと受け止めます。一応お断りしておきますが、サービスの価格は宗派とは関係ないものと思います。それは別として、真言・浄土だけに限らず、仏教のあらゆる宗派は、すべてお釈迦様の説かれた教えですから、互いを非難し合うのはおかしなことであると思います。仲良くしていくべきであると思います。

空豆さま

 日本の仏教の周辺は「お釈迦様の教え」と「ご先祖様のお祀りごと」がごっちゃになっておりますので、目の前の一つ一つがそのいずれに属するかを見極めねばなりません。またご質問がありましたらぜひお寄せ下さい。


御礼 投稿者:空豆  投稿日: 3月 5日(月)11時12分31秒

僧侶A様へ 
お寺ネットのレス番号2099では、ご回答を頂いたのであるにも関らず、お礼もせずにおりましたこと、深くお詫び申し上げます。誠に申し訳け御座いませんでした。大変勉強になりました。
これからも色々と勉強させて頂きたいと思いますので、今後ともどうぞ宜しく御願い申し上げます。有り難う御座いました。


はじめまして 投稿者:普通サラリ−マン  投稿日: 3月 2日(金)12時56分06秒

>身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 

なになに怖い話ですね。私は安全第一です(チキンです)
それから質問、真言と浄土では考え方が違うので
仲良くなるのは難しいですか?私としては激格安の方がいい


ありがとうございます。 投稿者:紅蓮  投稿日: 2月16日(金)21時41分11秒

すばらしい説法をうかがっているような気がしました。

すみません。自分で調べれば良いことでしたのに。
お手数をおかけしてしまいました。
「身を捨ててこそ・・」は僧侶Aさまの書き込みから
連想したものです。ですからやはり最後の文章が好きです。
執着を断てば・・・大抵のこの世の苦悩は解決に向かいますね。
正直目の奥がじーんとします。

ではまたお会いいたします。


身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 投稿者:僧侶A  投稿日: 2月16日(金)09時17分28秒

 表題の歌についてちょっとだけ調べてみました。非常に苦しいときや、危険なときは、命を捨てるつもりで思いっきり物事を行えば、かえってうまく切り抜けることができる、思いっきりやれという言葉、と言われています。その由来が誰の歌かはちょっとわかりません。たとえば宮本武蔵に
「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
という剣術の心を歌った歌がありますが、切り結ぶのではなく、まさに死ぬつもりで間合いを詰めて飛び込めということでしょうか。現代語での思いっきりやれ、という意味はここから来たのかもしれません。しかしこの歌はどうも替え歌、もじりのような気がします。
「山川の瀬々に流れる栃殻も実をすててこそ浮かぶ瀬もあれ」
 誰の歌か、空也上人という説もありますが、奥山のせせらぎの底に転がっている栃殻も、実を捨てれば浮かぶこともあろうにと、「実」の字が使われております。これが空也上人の歌であれば、川底の栃殻とはまさに罪業深重の我ら凡夫のこと。実を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれとは、阿弥陀さまのお力におすがりして、この体この命の終わるときに、極楽浄土に召し取られて行くのでなければ、他に助かる道などないのだ。そういう意味にも取ることができるかと思います。しかしまた浄土教に限らず、実を捨てる即ち執着を断てば、浮かぶ瀬もある即ちさとりに到る、という意味にも解せますね。


念仏往生本願 投稿者:僧侶A  投稿日: 2月16日(金)02時12分13秒

 阿弥陀仏は昔、四十八の誓願を建て、今それらを成就して西方極楽浄土にいらっしゃいます。誓願の十八番目「我が国に生まれたいと、真心こめて深い信心のうちに願う者が、たった十回我が名をとなえただけで我が国に生まれる。そうなるまで、仏にはなるまい。」阿弥陀の名には、そのすべての徳がこもっている。誰でもとなえられる。そんな素晴らしい行を、他でもないこの念仏を、阿弥陀仏は我々にくださったのです。どうして南無阿弥陀仏ととなえずにいられましょうか。


紅蓮さま 投稿者:僧侶A  投稿日: 2月16日(金)01時59分27秒

同じお釈迦様の教えですから、私たちの理解の届かぬところで、すべてはひとつになっているものと思っております。ただ私たちにはいろいろな違う宗派としてしか認識できないのでありましょう。この掲示板が浄土宗の理解の一助になれば幸いです。私は下っ端の坊主ですから、気兼ねなく話しかけてくださいね。
奉酬沙羅林中入涅槃釈迦牟尼如来広大慈恩 南無阿弥陀仏


こんにちわ(^^) 投稿者:紅蓮  投稿日: 2月15日(木)14時31分24秒

また来ました。
仏様のお話は実際には近隣の御住職さん達とはしたことがないのです。どうも恐れ多くてきっかけが無いのです。どういうわけか皆さんが偉そうに見えて何も言葉が出て来ないのです。ですからここでこうしてお話が出来るのもまた嬉しく思っております。

いろいろと詳しく調べていきましたらいろいろと細かい違いはあるのだろうとは思いますが根っこは一緒だと私は考えています。勿論お釈迦様の教えが元になっているのですから同じですよね。極端で無い限りは宗教は実際には人の為にできたものであって、宗教の為に人間の生活があるのはあまり良いことではないと思っています。職業としている人は別です。話が大きくなってごめんなさい。ついでに・・・宗派によって呼び名は違うのですが、真言では大日如来といいますが、浄土宗では阿弥陀様。「この宇宙を現在過去未来にわたって司るもの」と名前を変えてみれば同じになる気がします。

正直いいまして阿弥陀様のお名を唱えるだけでいいのかしら? と多少疑問を感じていたのですが、僧侶Aさんのこちらを読んですこーしわかりました。御縁というのはいいものですね。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と聞いた事があります。よく私の祖父母が言っていた言葉なのですが、これは浄土の教えなのでしょうか?
ふとそんな言葉を思い出しました。

おじゃましました。


紅蓮さまようこそ 投稿者:僧侶A  投稿日: 2月14日(水)07時10分49秒

 掲示板を作っただけですが、サイバー世界に自坊を持ったようで楽しいものです。ひとりで説法会を開いているようなものですが、少しはいろいろな方がご来訪下さるのも、また仏縁でありましょう。
 のうぼうあらたんのう…はうちでは阿弥陀如来根本陀羅尼とお呼びして、施餓鬼や収骨でお唱えしておりますが、あみりた=甘露と記憶しております。「甘露」というのは浄土の阿弥陀仏の教えには一言も出てきませんので、そこに阿弥陀仏の異なる顔があるものと思います。同じ阿弥陀仏でも、真言と浄土とでは見方もかなり違うものと存じます。仏教はほんとうに広いものですね。お互い精進していきましょう。


はじめまして 投稿者:紅蓮  投稿日: 2月13日(火)23時28分51秒

おじゃまいたします。

お寺ネットでニアミスしております。
私は実家が浄土宗でした。残念ながらそちらには御縁が無く。
結局は御大師さまに引かれて弟子にして頂きました。

こちらを読ませて頂きましたら、すこし理解できたような気がします。
もちろんまだまだだろうと思います。

先日浄土宗の御住職様と御一緒させていただきましたら、
同じお経を読む事ができました。
阿弥陀如来根本大咒でした。うれしかったです。

またお寺ネットでお会いしましよう。


雑行を捨てて正行に帰す 投稿者:僧侶A  投稿日: 2月13日(火)03時20分05秒

 実際のところ、浄土門とは何をするものか。阿弥陀仏に関することを大切にし、それ以外を捨て去ります。お経を読むにしても無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経だけ。瞑想したり拝んだり供養したりするにしても、阿弥陀仏だけ。御名をとなえるにも、南無阿弥陀仏だけ。なかでも南無阿弥陀仏は特別。阿弥陀仏が「我が名を呼ぶ者を救う」とおっしゃっているからです。阿弥陀仏に関係のないことに一生懸命になっていると、その間は阿弥陀仏に関する尊い行ができないのです。


聖道浄土二門 投稿者:僧侶A  投稿日: 2月11日(日)05時43分09秒

 苦しみの人生を生きるあなた、あがきもがいて自力で脱出しようとしていませんか。しかしお釈迦様はお説きになりました。あらゆる自力を捨て去ってこそ、苦しみから脱出できるということを。それが他力の浄土門です。自力の聖道門をやっていては、自分の力およばなければ、苦しみを乗り越えられません。ますます苦しむのがおちです。今のあなたのように。しかし浄土門では、自力の努力はすべて捨て去るのですから、どんな非力な人でも救われる、当たり前のことです。


南無阿弥陀仏 往生之業念仏為先 投稿者:僧侶A  投稿日: 2月 8日(木)08時35分13秒

 阿弥陀仏は十劫の昔から、ご自身の根底の願望(すなわち我ら衆生の救い)のために、南無阿弥陀仏の念仏という一行を、あらゆる他の行の中から選び抜いて我らにご用意くださった。すなわち、遠い昔から阿弥陀仏は我らに向かって「我が名を呼べ」と呼びかけられている。それに応えて南無阿弥陀仏と御名をとなえれば、阿弥陀仏は我らをお召しになり、我らは浄土に迎えられる。だから何をさしおいてもまず、南無阿弥陀仏と称えましょう。


失礼しました 投稿者:コロンボ  投稿日: 2月 7日(水)01時44分24秒

そうでした。手順を忘れていました。
携帯から見れるようになりました。


コロンボさん、こんにちは。 投稿者:僧侶A  投稿日: 2月 1日(木)03時51分14秒

 それはおかしいですね。パソコンで上の[iモード / J-スカイ 対応]をクリックして、ご自分の携帯メールのアドレスを入れて送信してくだされば、携帯の方にここのJ-SKY用URLが送信されると思うのですが。この掲示板は「無料掲示板」ですので携帯からの書き込みはできません。ご友人の掲示板はおそらく「レベル1掲示板」かと思われます。
 いろいろ間違ったことの多い世の中ですが、ご自愛下さいますよう。


携帯で・・・ 投稿者:コロンボ  投稿日: 1月30日(火)22時52分32秒

僧侶A様、いつもご意見ありがとうございます。
ところで、このTCUPはI−MODE,J−SKY対応になっていると思うのですが、私のJ−SKYからは見ることが出来ませんでした。
めったにパソコンでモデムアクセスしないもので、携帯から見れると嬉しいのですが。
ちなみに私の友人のサイトはこことおなじTCUPですがJ−SKYから見れますし、書き込みも出来ます。


戒と念仏 投稿者:僧侶A  投稿日: 1月29日(月)02時29分48秒

 性欲があるから不邪淫戒があるのです。性欲が強いほど不邪淫戒が必要です。邪淫とは不倫・風俗。性欲のままに何でも自分に許してしまえば、悩み苦しみから抜け出せないから、すすんで禁欲するのです。しかしそうは行かぬが凡夫の性。誓ったはずの禁欲も、破ろう破ろうとする衝動に耐えきれない。ついには爆発するかもしれない。行動力ゼロの我ら。ならばやっぱり我らの行き着く先、悩み苦しみの世界しかない。その深い絶望が、わずかでも認識されていますか。
 阿弥陀如来は我を救うため、大誓願を成就して、西方極楽におられる。愛欲まみれの我が身を案じて、ほれこっち向けとおっしゃっている。そっち向いたが最後、次の生では悩み苦しみにおさらば。この身が西方極楽に生まれるのです。どう考えても絶望の凡夫が臨終の床で大逆転。その奇跡を思うならば、ありがたいこと。せめて性欲を押さえることで、そのご恩に報いたい。また不邪淫戒に向かえるのです。たとえ守れぬ戒であっても、やってみようと思えるのです。
 貪りにふたつあり。大欲不喜足の貪と、少欲喜足の貪。往生極楽の道に制するところは大欲不喜足の貪なり。少欲喜足の貪は苦しからず。南無阿弥陀仏。


三心 投稿者:僧侶A  投稿日: 1月28日(日)02時31分28秒

 無病の人と自分を比べて、病の平癒を願う。当然至極、でも注意。病気治しだけが目標では、真の念仏のさまたげになる。真の念仏がさまたげられれば、治る病も治らない。真の念仏の三つの側面とは。

1)至誠心(しじょうしん)=信じているふりのできない、真実の心。
2)深心(じんしん)=我が努力に関らず、この愚か者に救いのあることが知られる。ありがたい。
3)回向発願心(えこうほつがんじん)=往生したい、我のなすことすべて弥陀のためと思われる。

 ただこれだけ、我がやまい心にかける暇もなし。病だから、ではない。辛いから、苦しいから、それも自分のいたらなさ愚かさ故だから、弥陀にすがるしかないから、弥陀の救いがありがたい、南無阿弥陀仏。その心持ちに病の有無など関係ない。そのときすでに病も平癒していると思います。


こちらこそ 投稿者:僧侶A  投稿日: 1月27日(土)23時29分29秒

 心の病に宗教、あなたが身を以てお知りですのに、つい口出し悪い癖です。心の病が有っても無くても、我ら迷える衆生には仏のご慈悲が必要です。心の病が治っても、悩み苦しみはまだまだある。病の癒しもいただける南無阿弥陀仏でありましょうが、それはあくまで副産物、それにとらわれずにいて欲しいと、あなたへの心配ではなく、広く皆様への進言のつもりでした。あなたにしかできないアドバイス、どうぞ皆様にお願いします。それが阿弥陀ほとけの恩に報いる道でしょう。


こんにちわ 投稿者:宇丹  投稿日: 1月27日(土)11時06分36秒

先日はご丁寧なレスありがとうございました
今後ともよろしくお願いします(^^)


こんにちは 投稿者:僧侶A  投稿日: 1月24日(水)06時34分56秒

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