私自身は自分のことを「教養がある」とか「知識人」である、とか思っているわけではないのだが、それにしても今の若者は物を知らなすぎ、自分の好きなこと・専門について知っていればよいと思っていることが嘆かわしい。けれども、「教養を持つべきだ」ということについて、自分でもまだいまいちちゃんとした論拠が持てずにいるので、とりあえずベータ版として、自分の思っていることなどをつれづれと。
また、山形浩生氏が「新教養主義宣言」という本を出していて、この文書のタイトルもそのパクリなのだが、私はまだその本を読んでいない。夏休みにでも読んでもう一度よく考えます。
神崎正英氏は、HTMLの入門書「ユニヴァーサルHTML/XHTML」の中の、ハイパーテキストがどんな背景で誕生したのかを説明するくだりで、次のように述べている。
人間の頭の中で、知識はこのような分類システム(引用者注:図書館の分類のように大項目、中項目と枝分かれしていくシステム)に従っているわけではありません。紅茶に浸したマドレーヌが幼い頃の記憶を強烈に蘇らせるように、連想に基づいて働きます。1つの事項から別の事項へ、そしてそこからまた更に別の事項へと、人間の知識は、連想の網の目で構成されているのです。
神崎正英「ユニヴァーサルHTML/XHTML」2000年、毎日コミュニケーションズ
ここで、紅茶に浸したマドレーヌが幼い頃の記憶を強烈に蘇らせるように
と書くことで、神崎氏が暗に引いているのは、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の有名なエピソードであるわけで。それを知っているかどうかで、HTML入門といういくぶん実務的な文章の味わいでさえ、変わってくると思うのです。
アイザック・アシモフの「黒後家蜘蛛の会」シリーズは、教養という概念が頭にないと、全く楽しめないのではないか。そこではホメロス・聖書・シェイクスピアから、化学・数学まで、幅広い知識を持った作家の、不毛といえば不毛な、自己完結的な教養のひけらかしという人がいるかもしれないものが繰り広げられているのだが、その閉鎖的な、ハイコンテクストな雰囲気が私は好きだ。そこでは「教養」というものが、とても幸せな形で実現されている気がする(池央耿氏による漢語まじりの訳がまた、いい味を出しているんですよ)。
佐藤信夫が、私たちが話す言葉はすべて国語辞典からの引用だ、みたいなことを言っていたが、そこまでラディカルにとらえなくても、ある知識が、そのテキストを読むのに必要とされるということは、もはや私たちの共通の認識である。伝統的な日本の詩文では、「本歌取り」ということが盛んに行われているし、ウッディ・アレンの映画をちゃんと理解するには、そこに含まれる大小さまざまな引用を把握していなければならない気がする。それは盗作や剽窃といった言葉とも紙一重だが、ある世代から次の世代へ伝統をbring downする際に、必要な媒介として働いているような気がしないでもない。
まず、「教養とは何か」という定義を考えなければならない気もする。これが案外難しい。現代は情報氾濫の時代であるから、昔の中国のように、四書五経が教養のすべて、というように悠長にかまえてもいられないからだ。私たち日本人だったら、詩文(万葉集に始まり、古今和歌集、奥の細道、曽根崎心中など)や一連の伝統的な散文(源氏物語、土佐物語、徒然草、折りたく柴の記など)が知っておくべき教養だろうし、ギリシャ神話、聖書、シェイクスピアは、西洋的な植民地主義をさっぴいても、たぶん正典としてよいだろう。わたしはつい話が文学に偏ってしまって良くないのだが、科学(化学、天文学、物理学)や、歴史(国史、世界史)、地理、政治、経済、数学(幾何学、代数学)など、authoritativeで百科事典的なすべての知識の総体に、「教養」を限定することができるかと言えば、それもちょっと違うと思う。情報が個人のキャパシティを越えてあふれ出している現代においては、グラフィカル・ユーザー・インタフェイス(ウィンドウズとかマッキントッシュとか)の基本的操作や、WWW上にある検索エンジンの使い方、HTMLの書き方も教養といってよい。また、およそ正統であるとは言えないような、いわゆるサブ・カルチャー(音楽・映画・SF小説・ファッションなど)、あるいはゲイや黒人、フェミニズムといったマイノリティについての言説に通じていることも教養にカテゴライズされうる。
ここまで書いてきて、教養というのは、哲学を志向しているような気もしてきた。「哲学」というと、俗物たちの間では「難しいもの」という形容詞でしか想定されないらしいが、philosophyという言葉の語源は「知を愛すること」である。簡単に言えば、自分が誰であるか、世界が何であるかを知るために、さまざまなことを学んで、それを応用すること、でしょう、偉そうに言いますが。だけど、やっぱり「教養は哲学を志向している」というのは、言い換え、トートロジーに過ぎないのだよね。だったら、どうして「自分」や「世界」を知る必然性があるのか、という話だから。ふりだしに戻る!
竹内豪(p-v216@george24.com) 日付:2003/07/23