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水性の絵の具のように淡く溶けそうな空の青が、零に真っ直ぐ落ちてくる。心がぎしぎしと音を立てて揺れそうな、そんな色をしていた。
屋上の出入り口の、屋根の上。ここがサボりの定位置と化していた。誰にも見つかったことのない、いわば隠れ家。この学校で一番空に近い場所だ。
白いブラウスが汚れることなど構わずに、零は仰向けに体を横たえている。校舎はここらで一番高い位置にあるので、途方もなく空が広い。剥き出しの腕や足に触れる石の地面は硬く、陽にあたためられていた。脇に置いたミネラルウォーターのペットボトルに、光りが乱反射して、地面に虹を描く。ゆらゆらと、七色が踊った。
さらさらと、そんな音でも聞こえそうな位、空気が澄んでいた。くすぐられて笑いを洩らすような、やわらかい感触のする風。
「つい優しい気分になりそう」
通りの良い、中学生の女の子にしては低めの声が、あかい唇から零れ落ちる。その口元が、次の瞬間ふっと笑いの形に歪められた。笑い出すと、止まらなかった。くすくすと肩を震わせて笑うと、風が耳の横の髪を拾い上げて頬を撫でた。
体を曲げ、顔を傾けると、耳を荒い砂が擦った。零はふと笑うのをやめて、平らな屋根にぴたりと片耳を押し付けた。話し声が聞こえる。
ギィ、と錆びた金属が擦れる音がし、赤錆がぱらぱらと落ちた。そして、勢い良く音を立てて重いドアが開く。
「ほら、開いてるでしょ?」
零の耳に届いたのは、予想していた教師の声ではなく、聞き覚えのある鼻にかかった少女の声だった。零は屋根の縁に手をかけて、上半身を乗り出した。
「いけないんじゃないの、屋上は危ないから立ち入り禁止でしょ」
「ふふ、良い子だね、浅野は」
「……やめてよ」
浅野と呼ばれた少女は、自分の腕を抱いて言った。寒いのではなく、嫌悪感を剥き出しにしている。零がそう確信する程、彼女の声は緊張で強張っていた。
「あさの、なえ」
感情を感じさせない表情で、零は少女の名前を唇でなぞる。聞いた事がある。それも当然のことで、奈枝とはクラスメイトだった。そして、おそらく、もう一人の髪の短い少女も。
二人は何事かを言い争っていた。その所為で零の存在には気が付いていない。
言い争いと言っても、奈枝ばかりが感情を露にし、相手を責めたてている。対するもう一人――一年一組の学級委員長の方は、どこか余裕を持った薄笑いで、奈枝のことを見ていた。
(勝負はもう決まってる)
零は冷ややかに二人を観察していた。大体の口論は、理性を失ったほうが負けだ。
(余計なことに巻き込まれるのは面倒……。ほっとくかな)
目を細めて、しばし考えた。
そして、悪戯を思いついた子供のようにぺろ、と唇を舐める。
「面倒だけど、今わたし、優しい気分らしいし。……感謝してよね、お二人さん」
零は素早くペットボトルに手を伸ばし、ふたを開ける。
間髪おかず、少女たちの真上でそれを逆さにした。ぱたぱたっ、と水が一筋に流れ落ちる。高い叫び声を、零はうるさいな、と聞き流した。軽くなったペットボトルを弄んでいるうちに、奈枝より先に我に返った委員長が喚いた。
「ちょっと、誰よ!? こんなことして何考えてんの。出てきなさい!」
「暑いのに、そんな叫んだら汗かかないかな」
「汗とかいう次元じゃないよ! 髪も靴下もびしゃびしゃ。アナタの所為でね!」
「ごめんね?」
「謝って済む問題じゃないっ。アナタ誰? 言わないと先生呼ぶよ」
「先生、ねぇ……」
零は、白い指でスカートの皺を伸ばしている。教師など怖くないが、ただ屋上が立ち入り禁止にでもなったら困る。やはり余計なことに介入すべきじゃなかった、と少し後悔した。
「言いなさい。誰?」
観念した。なるようになれという心境だ。
「わたしは」
「……永瀬」
ぽつり、と今まで黙り込んでいた奈枝が言った。興奮していない奈枝の声は、よく通って聞きやすかった。背中まである長い黒髪を撫でて、彼女は続けた。
「永瀬でしょ? こんなことするのは。うちのクラスの問題児」
「……推理力は素晴らしいね、問題児かどうかは知らないけど」
「問題児よ!」
決め付けて、委員長が叫ぶ。
「今まで授業サボってたんでしょ? 先生、困るって言ってたもん」
「ふぅん?」
無関心に視線をそらして、零は微笑む。笑顔とは対照的に、相槌はひどく冷たい。雰囲気に呑まれたように、委員長は押し黙った。零が一度まばたきすると、電子音のチャイムが響く。重く圧し掛かっていた緊張が、それで少しゆるんだ。
「四時間目、行けば? 優等生様」
零の氷の一瞥で、委員長は何か言いたげな顔をしながらも、ドアを押し開け、屋上を出て行った。
奈枝はといえば、再び押し黙っている。こんなにおとなしい子だったかな、と零は少し考え、すぐにやめた。クラスでおこることなど、なに一つ興味がない。だから、奈枝がどんな子かと問われても、答えられそうになかった。ただ、彼女の無邪気な笑い声は教室でたまに聞こえてきたような気がする。
つまらない、と零は前髪をかきあげた。色素の薄い栗色の髪が、何本か陽色に浮かび上がる。右耳に、輪の形をした銀のピアスが光った。細い首から、淡い華の香りが咲く。
その香りに気付いたわけではないだろうが、ふいに奈枝が振り返った。ふわっと、細い髪が肩に纏わりつく。
「怒ってる? 永瀬」
「…………。何に対して?」
零は注意深く訊いた。先ほどの件に対しては、別に何とも思っていない。思ったより面白くならなかったので、残念なくらいだ。ただ、あまり他人には屋上に立ち入って欲しくない。身勝手に過ぎないが、やはり『自分の隠れ家』である。奈枝が自分を怖がって、ここに立ち入らなくなるのなら、誤解を解かずにおこう、と思った。
けれど、期待はあっさりと裏切られる。
「さっきあたし、永瀬の名前言っちゃって……」
「は?」脱力した。馬鹿じゃないの、と言いかけてやめた。
「つい、だったの。うかつだよね、相手は相沢だもん。ごめん、きっとあいつ先生に言うよ」
「言わないよ、委員長は。わたしを怖がってるから。優等生は、本物の不良には手を出しません」
「そうなの?」
そうなの、と言って零は視線を空に遊ばせた。これだから同学年のお嬢は、とあきれながらそっと溜息をつく。このままでは自分が疲れるばかりだ。早々に話を打ち切ろう。そう結論づけた瞬間、奈枝が「そうなの?」ともう一度繰り返した。
視線を奈枝に戻した。奈枝は俯いている。零は出来るだけ素っ気ない声で言った。
「もう授業始まってるし、帰りなよ。委員長も人前だとあんな元気はないから」
「……いい」
「浅野? どうした……」
「ばか」
数粒続けざまに奈枝の頬を涙が伝い落ちた。
「何で盗み聞きなんてしてたの。どうして、永瀬が。ばか」
「先に来てたの、わたしなんだけど」
零は困っている。まさか、中学生にもなって、簡単に人前で泣く人がいるとは思っていなかった。
「ここまで来て、ほっとくのもな……」
零は諦めて、屋根から下りるため、はしごに向かって歩き出す。
「しかし、おなかすいた。どうりで今日は最下位だったはずだよ。おとめ座。厄日だね……」
愚痴めいた口調で、零は呟く。
「……うそつき。二位だったじゃない。妹が騒いでたもん、告るのに最高の日だって」
「それ、テレビじゃないの。やっぱり朝は新聞だと思いますが」
「永瀬、何歳?」
「十三歳。同い年でしょう」
「……うそつき」
「嘘じゃないさ。もう、おちついた?」
奈枝は手すりを握りしめると、背中をそらせて空を仰いだ。
「うん……。ありがと」
「わたしに原因がないとは言い切れないから」
「永瀬は悪くないよ。あーあ、あたしも永瀬みたいに強くなれたらなぁ」
「浅野の言う強いって、不良ってこと?」
委員長の言を思い出して、零は苦笑した。委員長は単に、返り討ちにあいそうな相手には仕掛けない狡さを持っているだけだ。それと、自分の方が『社会』に適応しているという自負からくる優越感。
奈枝は首を横に振って、わからないと言った。
「あのね」
零は両手の指を組み合わせて、その上に顎を乗せる。考えながら話した。
「わたし達の年代に役だつ強さっていうのは、相手の言う事をどれだけ冷静に聞けるかってことだと思う。冷静にっていうか、適当にかな。で、軽くせせら笑う、守りの強さ。……それじゃいけないとは、思うんだけど」
何故、こんな話をしているのか、零はわからなくなってきた。一方の奈枝は、目を丸くして零を見ている。
「すごい、永瀬……。あたし、そんなこと考えた事もない」
「ああ、そう? まあいいや、わたしが言いたかったのは、もっと落ち着いたらどうってこと。だからね」
零は言いながら、スカートのポケットに手を滑り込ませて、探った。手のひらに乗る程度の大きさのそれを無造作に取り出して、奈枝に渡す。そして続けた。
「あげる。良く効くし、気休めにもなるから。楽になれる」
「な、永瀬。なんで、こんなもの……」
戸惑う奈枝を横目で見、零は気付かない振りをして立ち上がる。
「なに怖い顔してるんだか。ホラ、わたしはもう行くよ。浅野もほどほどにして授業出な」
零は返事を待たずに、さっさと歩いていった。しばらくその背中を見つめたあと、奈枝は零に渡された小瓶に目を移した。
振ると、カラカラかわいた音がした。白い、かすかに光沢のある丸いものが、小瓶に半分ほど入っていた。
小瓶に貼られたラベルには、有名な製薬会社のロゴと、【睡眠薬】の表示。
「で、どうしたの?」
翌日の昼休憩になるとすぐ、奈枝は屋上へ向かった。奈枝が来ることを半分見透かしていたように、零は扉の真正面に片膝を立てて座っていた。紺のスカートから伸びた長い足が、驚くほど白い。何かを見透かすような笑みを浮かべて、奈枝に問い掛ける。
「開口一番、何の話? 永瀬」
「とぼけないでよ、わかってるんでしょ。アレが何なのかくらい」
奈枝の喉が、こくりと動いた。顔を引き攣らせるようにして、言葉を押し出す。
「の、飲んだよ」
「本当に?」
信じているのか信じていないのかわからない口調で、零は言葉を返した。
「……うん。ありがと、よく効いたけど……体に合わないみたいだから、もういいよ」
「そう? 残念ね」
零は奈枝が差し出した小瓶をあっさり受け取って、からりと一振りした。そのまま黙り込んで、瓶の中身を凝視している。
「なんで嘘つくの?」
奈枝の顔色がさっと変わった。なんでわかったの、とばかりに唇を震わせる。零はその心を読んだように、
「数が減ってない」
と上目遣いで奈枝を見上げた。
「そんな! そんなすぐに、いくら永瀬でも、数えられるわけない!」
「……そうね、数えられないね。しかしわかりやすい人だなぁ。あかちゃんみたい」
笑いをこらえ切れずに零が体を揺らすと、奈枝は憮然として言った。
「あかちゃんだって? 失礼な!」
「幼いのは他にもいるけど、というかそれしかいないけど。何だか浅野、直線なんだもん。素直だなぁ」
「……どうせ子供よ」
言った奈枝の瞳が揺れている。なんてわかりやすい性格。あまりに自分と正反対で、零はつい感心してしまう。
「ちょっと、また泣くの。勘弁してよね」
「どうせ永瀬みたいに大人には……クールにはなれないからね!」
ふてくされて吐き出された言葉に、零は、え、と呟いた。
(わたしが、大人?)
まさか、と心の中で取り消した。自分は大人ではない、少しも。そのことを零は、誰よりもよく知っていた。とりつくろうように、言葉を継いだ。
「そこでなんで拗ねるの。誉めてるんだよ」
「まさか。そんな誉め言葉、どこにも……」
「本当。……いいな、そういうの。可愛らしくて」
奈枝が目を剥いているのが、はっきりと見て取れた。
(ほら、こういうところが、可愛い)
「意外?」
くす、と零が笑みをこぼすと、奈枝は首を縦に振った。
「だって、永瀬は絶対あたしのこと嫌ってると思ってたし」
「別に……好き嫌いを言うほど誰のことも知らないよ」
「皆はよく知らなくたって、言うんだよ。永瀬は別格だろうけど」
「別格……わたしのこと、何だと思ってるんだか」
「無感動、無関心。大人で落ちついてて、意地悪」
「ひどい言いぐさ」
「本当のことでしょ? ずっと怖かったよ、永瀬のこと。近付いたら呑まれそうで」
「今は?」
「今は、もう完敗。かなうわけないもん。強すぎて」
奈枝は零の顔を覗きこみ、そうしてきまり悪そうに少し笑った。
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