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[>>前編]

 負けず嫌いなのか、奈枝は、これは独り言だからと前置きして、錆びた柵に背を預けると落ち着いた声で話し始めた。
「なにがはじめだか、よくわからない。いじめというほど、深刻じゃない。ただ、ね……何から言えばいいのかな。あたし、自分で言うのもなんだけど、結構真面目なのね」
「普通自分で言う?」
「独り言だってば。それで、宿題もしてるんだけど……相沢は、それを写してたの。ずっと、毎日」
「寄生虫は、頼るものがなくなってから泣くことになるさ。ほっときなよ」
「写されることが嫌なんじゃない。相沢は、あたしのこと影で馬鹿にしてたの。要領が悪いって……。結局、必死でやってる人間が馬鹿なのかな……」
「そうかもね」
「でも」
 奈枝は唇を強く噛んだ。「当たり前のことして、何が悪いの。なのに先生が『良い子』って言うのは、相沢委員長の方なのね。もう、我慢ができなくて、それで昨日は……」
 ちら、と零の顔色がわずかに翳った。
「大変だね」
「……永瀬には、どうでも良いことだろうね」
「うん。一生懸命、なんて古い」
「そんなこと」
 ない、と言いかけた奈枝の言葉をさらって、
「……してもしょうがない」
 零は低く噛み締めるように言うと、立ちあがった。冷たく、奈枝を見遣る。奈枝は柵に重心を預けて、上半身を空中に投げ出していた。目線がふうわりと雲を追いかける。強い風に晒される髪は乱れ、体は危ういバランスを保っていた。薄っぺらい身体。きっと精神の方も同じようなバランスで立っている。
 零はすこし語調を弱めた。諦めたように呟く。
「人なんてほっとけばいいのに。センセイなんてのもね。それとも一人じゃ何もできないの? 女の子だね」
「永瀬も女でしょ」
「一緒にしないで。ああいう馬鹿騒ぎ、疲れそう。嫌い」
「あ、そんな感じ」
 冗談めかして言うと、奈枝は声をたてて笑った。
「疲れることとか、一生懸命とか、無縁だよね。何でもすぐ出来そうだし」
 口元でだけ笑って、零は否定しない。まばたきを繰り返すと、視界が次第に崩れ、雨の日のように滲んだ。零れそうな薄い景色は紫陽花色をしていてとても優しい。だから、零は泣かない。最上のごまかし方を知っているから。

 六時間目の国語の時間は疲れるほど眠い。
 机に伏せて浅い眠りに揺られていた零は、ゆっくりとまぶただけ持ち上げた。聞き覚えのある声が、とろけそうな気だるい、砂糖水のように澱んだ空気にヒビを入れたので。
「相沢」
「何? 浅野」
 委員長の返答を、くすくすと見下したような複数の笑い声が追いかける。
(浅野、ばかじゃないの。委員長に取り巻きがいるところで)
 自分の前髪の隙間から見える光景をぼんやりと眺めて、零は舌打ちした。
「言いたいことがある。あたしはもう、利用なんてされない、そんな友達なんかいなくていい」
「利用って何のことかな、人聞きの悪い。お願いしたら貸してくれた、それだけでしょ」
「そうして、さんざん人の馬鹿さを影で笑ってたわけね」
「馬鹿さって?」委員長は声を落とした。「そんなに頑張ってるのに点数がワタシより悪いのって、不思議だなって話してただけだよ」
「それの百倍汚い言葉で、でしょ」
 話し声を聞きながら、零はかりかりと、机の表面をひっかいている。そうして霞んだ目で指の動きを見つめている。
 不快だった。普段の零なら、このような小競り合いは無視しているに違いない。話の中心にいるのが奈枝だからかも知れないし、委員長が気に入らないからかも知れない。
――否、奈枝と仲が良いわけではない。成り行き上話をしただけで、それまでまともに話したこともなかった。委員長にしても言動が気に入らないだけで、嫌いと言えるほど強い感情は持っていなかった。
(やだ。気分悪い。いらいらする)
 おそらく、零は重ねているのだろう。自分と、奈枝を。
 だから、こんなにも気になるのだ。そうとしか――考えられない。
「……静かに、してくれる?」
 零は立ち上がり、低い声で言った。自分の今している表情が、相手をひるませる種のものであることを、零はよく知っている。けれど委員長と取り巻きは、驚いた顔をしていた。零が自らこのような面倒に入ってきたことが、よほど意外であるようだ。開いたままの口から、委員長がかすれた声を洩らした。
「な、に。浅野を庇うの?」
「そういうわけじゃないけど、うるさいんだよね。なんで一対大勢ってことするかな」
「言っとくけど、別にいじめとかじゃ……」
「ただし、言ってることは正論だ。委員長の方が。一生懸命、なんてことは馬鹿みたい」
 委員長は不可解な表情だ。ならどうして、と言いたげだ。いつもならすぐそれに気付くけれど、今は、見えない。別のところを見ている。
「真面目なひと、なんて――」
 零の声が止まった。
「なにしてるの……」
 教室前方の開きっぱなしのドアの前で、担任の女教師が、信じられないといった顔で皆を――零を、見ていた。

 他の生徒は関係ないと言うような顔で帰り支度をしているが、零、そして担任が割り込んだことで興味は持ったらしい。静かな水面に石が投げ込まれることを望んでいる無害な子供たち。注目されているという気配が、伝わる。
「先生……永瀬さんが」
 すがるような委員長の取り巻きの声に、分かってるとでも言いたげに教師が頷く。
(なにを知ってるというんだか)
 喉がひきつるような熱さを持っている。どうせ、教師には何も見えていないのだ。『優等生』の姿しか。
 女教師は大きくため息をつき、呟いた。
「どうしてこんなこと……永瀬さんも、ちょっと前は良い子だったのに……」
 零の口元に笑みが滲む。よいこ? と口の中で言葉を転がした。
「良い子って、どういうもの?」
 零は淡々と、重さを感じさせない声で言う。
「良い子になれって。『一生懸命やれ』って、言う。押しつけるけど。でも」
 押し殺した声は、少しも震えない。揺るがない。けれど奈枝は、顔を強張らせてスカートを握りしめる。
「……何が『一生懸命』なんだ?」
 頑張るという価値観を過大評価する。努力、という言葉を位置付けることは不可能なのに。
「答えられない? くだらないよね、一生懸命に、って」
 問いに返る声はない。
 ほとんどの生徒は面食らい、息を詰めている。委員長は顔色を失い、反対に奈枝は赤くなった。零の視線は一巡し、目に見えておろおろしている教師に向けられる。
「良い子って、何かな。センセイ? 本当のこと教えてください、『扱いやすい子のこと』でしょう?」
 揶揄するような軽い口調で零はなお、言う。追い詰めるような残忍さを秘めた目で。
 けれど。
(泣きそうだ……)
 感情的になってどうするというのか。こんなことを言って、どうなるというのか。
 何度もまばたいた。涙は落ちなかった。きっと周りには、悠然と笑っているように見えるだろう。
 きゅ、と上靴を鳴らして零は教室に背中を向ける。行く場所は決まっていた。
 屋上へ。

「お疲れ、永瀬」
 言って奈枝は地面を睨む。零は自分の『隠れ家』から奈枝を見下ろしていた。
「なに、ストーカーなの、浅野。ついてこないでよ」
「……元気そうだね」
「わたしが簡単に参ると思う?」
 冗談っぽく訊くと、奈枝は強く首を横に振った。
「悪かったね、浅野。水差して」
 零から奈枝の顔は見えなかった。奈枝からも自分は見えていないだろう。何故か、奈枝に過去のことを話したくなっていた。
「浅野、昔話をしてあげるよ。わたしもずっと前から、こんなだったわけじゃないからね。……小学、五年の時だったかな。図工の時間に写生をした。木を選んで、絵の具でみどりを写し取ろうと必死になって、パレットの上に何十色ものみどり色を作った。つい時間を忘れて、給食の時間まで描き続けたわ。みどりで溢れた画用紙を見て、センセイは何て言ったと思う?」
 奈枝は振り向くこともできず、立ちすくんでいた。いつもから想像できないほど雄弁な零に戸惑っている。戸惑って、何も出来ない。
「よく頑張ったね、でも授業時間内に描き終わらなきゃ意味がないから、次は頑張ってね」
 ひどく明るい作った声で零が言った。
「――って。二時間じゃ足りなかったって言ったら、それは授業だから仕方ない……そう言った。そんなものなのよ、浅野。そのセンセイの口癖は「何事にも一生懸命取り組もう」だった。でも、あの人たちが欲しがっているのは、中途半端な努力。器用な、時間内に『ほどほどに』頑張る子を、望んでるだけ。ねぇ、馬鹿みたいでしょ?」
「……やめてよ、永瀬」
「でもね、わたしが失望したのはセンセイにじゃない、自分によ。馬鹿みたいね、わたしもどこかで期待してた。認められたいって。大嫌いな教師からでさえ」
「やめてよ!」
 零はポケットに手を入れた。からり、と薬の瓶を取り出す。それほど大きな音はしなかったはずなのに、その瞬間弾けるように奈枝が身体を翻した。勢い込んで細いはしごを上り、零のところまでやってくると、小瓶を奪い取った。
「なんでこんなこと。死んだらおしまいなんだよ! 分かってる?」
「分かってますけど……奈枝チャン、あなたこそ分かってるの?」
「何を!」
 零の目がすっと細まる。
「浅野。……それ、やっぱりあげるから、すぐにここで口にして」
「二人並んでお昼寝でもしようって? それとも心中?」
「いいから」
 奈枝はいぶかしむが、高圧的な言い方に逆らえず小瓶のふたを開け、一錠手のひらに乗せた。しばらくその錠剤を凝視し、零を見上げる。
「……いざ口にするとなると、ちょっと抵抗が……」
「臆病だな。いいから早く」
 臆病、の言葉にむっとして、奈枝は錠剤を口に放り込んだ。次第に、その表情が不可解なものに変わっていく。零は横柄に腕を組んで、様子を窺っていた。
 かり、と奈枝の奥歯が何かを押しつぶす。
「……な、ながせ?」
「はい?」
「これ、子供用?」
「馬鹿、シロップじゃないんだから! 何、まだ薬だと思ってるわけ?」
 零はこらえきれず笑い出した。奈枝は赤くなって「だましたんだ! ひどい!」と言い募った。零は屈託なくきゃはは、と笑う。
 ふと、奈枝が勢いをなくしてぼんやり零を見つめた。
「永瀬って、そういうふうに笑えるんだ……」
「な、何言ってるの。わたしだって冷血漢じゃないよ」
「いや、そうだと思ってた」
 至極真面目に言う奈枝に、零は閉口してみせる。
「冷血漢で『大人』だって?」
「うん」
「格好にだまされないでよ。わたしも『子供』だよ、みんなほど幼くないだけで。大人っぽいってだけ、しかもそれって誉め言葉じゃないし」
「そうなの?」
「そうよ。本当のおとなに、なりたいのにね……」
 呟いた声は、とても小さく。けれど、零の本音だった。何故か、今日は本音を口に出せる。本音というものは、胸の奥にしまい込むから歪んで行く。けれどその場で口にしてしまえば驚く程すんなりと景色に溶け込んで行くということを、零は初めて知った。
「自分で自分を認められるように。努力は人のためにするんじゃないって思えるように」
 子供らしくなれない『大人っぽい』子供は、浮いてしまう。それはそれでかまわない。けれど、なるなら、本物の大人に。態度や見た目ではなく、年齢ではなく、本当に優しく、強くなりたいと零は思う。
 小さな手では、何もできない。反抗してみたり、憎んでみたり、喧嘩したり、――笑ったり。そんなことしか、出来ない。
「永瀬。友達に、なろう?」
 俯き、耳まで赤くして奈枝が言った。零は言葉に詰まる。
「なんで浅野は、すぐ話をあちこちに展開させるの……」
「さっき奈枝チャンて呼んでくれたし」
「よく覚えてるな……。それは、約束することじゃないと思うから、浅野は浅野の好きなようにすればいいよ。ひとつだけ言うと、甘すぎるのは嫌い」
「あのね、大人になれない間は子供でいていいんだよ、きっと。大人になる準備ができたら大人になれるから」
「良いこと言ってるけど、さっきから会話の順序がおかしいよ」
「ところで、零。これは結局なに?」
 奈枝が目で小瓶を示して訊く。
(早速「零」呼ばわり。図々しいな)
 けれど、不思議と不快ではなかった。
「薬、かな」
「うそつき」
「嘘じゃないよ。魔法の薬にはなりえるでしょ」
 不思議そうな顔をしている奈枝から視線を移し、零は抜けるような青い空を仰いだ。聞こえるか聞こえないかの声を、強い風が吹き乱す。
「サイダー味のラムネ菓子、甘い夢を見る薬」
 炭酸色の青が、しゅわりと音をたてて溶けた。

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