水松色文箱‐MIRUIROHUBAKO‐


     



奈良公園




「鹿なんて、みんなパンダになったらいい」
公園のベンチに腰を掛け、近寄ってくる鹿と目が合った時、僕はそう思った。
そう、僕はただパンダに会いたかった。


僕がこの街で新しい営みを始めた頃、僕はなにひとつ持ち合わせていなかった。
だからいつもこの奈良公園を通り、図書館へ行き本を借りて読んでいた。
図書館の反対側にある建物にパンダの剥製があるのに気が付いたのは、雨のしとしと降る暗い夕方だった。
パンダは首を傾けたままこちらを向いていた。
説明によると、友好条約を交わしたどこかの街が寄贈してくれたものだった。
パンダは首を傾けて遠くを向いていた。
古い物なのか、白と黒のコントラストは互いに距離を縮め、灰色と茶色に変わっていた。
とても疲れているようだった。
僕は思わず、「おい、おまえも大変だな」と話しかけた。
それから僕は毎日パンダに会いに行った。
仕事に就いて忙しくなると、必然とパンダに会いに行くことが困難になった。
その存在さえ忘れることがあった。
そして今日、久しぶりの休みの朝、彼に会いに行こうと思ったのだ。
そこにはもうパンダはいなかった。
その代わりに新しいベンチが据えてあった。
案内所にいる女の人に聞いてみたけれど、彼女は「申し訳ありませんが存じ上げません」と愛想なく言葉を吐いただけだった。
僕はパンダと目を合わせる時のように首を傾けてみたが、そこにパンダが現れることはなかった。





帰り道、鹿と戯れながらパンダがどこに行ったかを考えた。
僕は無意識に首を傾けていた。
鹿が餌を求めて頭を垂れる。
鳩が静かに歩いている。
鹿の餌を売店のおじさんから買って、そこらにまいてみた。
鹿が寄って来る。
首を傾げても、僕はまたここに戻ってくる。
パンダにはもう会えないけれど。
 







とっぷ