乾坤一擲
(All or Nothing)

文責在上海航路

Gott der heilige Geist



「馬鹿馬鹿しい!」 彼はそう吐き棄てるように言い放ちながら病院を後にした。ちらりと何かの感情が浮かんできたが、それも打ち棄てておいた。こんなことになったことは理解している。だが何故こんなことになったかについては分析しようとしなかったし、自分の感情を掘り下げていくことに嫌悪さえ感じていた。出来る限り早く、どうにかしてでも忘れてしまいたかった。

彼は一切の疑念を放擲した。
彼は一遍の詩を創作した。


「所々がめくれ上がった壁に

かすかな、読み取り難い文字が刻まれている。
混沌、虚無、物質の永遠の将来。
死滅した無残なる目によってのみ見ることの出来る
寂漠たる風景。
誰一人として聴くことの出来ぬ即興演奏。
愚か者の掌中に収められた人類の未来が
木霊する。

壁。
立ちはだかる巨大な墓銘碑に人々は己れの名を
残そうとする。
亀裂によって分断された全き筈のものよ。
その向こう側には恐るべき暗黒が口を開いて
こうつぶやく


明日は泣いている。

逝く水の儚きを問うものは永劫の何たるかを知らず、
縊死した詩人の最後のぬくもりの内に孤独は

せせら笑うのみ。

真理の独善はそれ自身と虚偽との尺度となる。
絶望の王の領土の中で庇護されてきた壁よ
明日は泣いている。

想起されるものは如何様。
悲劇の斧を携え、襟を正し、
凡俗の大地に一撃を!」


往来の喧騒が彼を刺激した。なんだか嫌になったのである。

「俺は全身が揺さぶられたような気がした。

心の中に何か鋭いものが一瞬にして通り過ぎたような気がした。
いや、その物音を聞いたんだ!」

昏睡から息を吹き返したかのように語尾を伸ばして言葉になりきらぬものを叫んだ。

遣り場の無い絶望と悲しみの深淵が羞恥心を募らせる。

「不幸だ。深く限りない情感が、不意に、咄嗟に、この俺を捉え、苦しめる。
刺し貫かれた心が激しく痛んだ。」

彼は立ち止まり、自分自身を抑えて沈黙に入っていった。佇んだまま何か思索していた。夢想といってもよい。脳天を己れの手で打ち割った気違いの姿を映像としてみた。

何か別のもの

何か別のかたち

何か別のありよう


一瞥をくれて遣れ! 狂気は病ではないのだ。

「ああ、人は祈りの中で溶けてしまうがいい!
俺たちの自由と悲しみは鎖に繋がれ、あらゆるものに対して罪を負う。信仰に物質的証拠なんぞ必要ない。役立たずだ。悪魔の夢?それは市井の俗人として商店街に身を紛れ込ませる事さ。
心の揺れだの、苦悩だの、信と不信の争いだの、そういったもんは時として良心の所有者にとって首縊りの原因となるんだ。またしても馬鹿馬鹿しい!

悪魔め!俺の本性に密む一切の愚かしいものと、とうの昔に忘れ去り、砕け散ったガラクタを、包装紙だけ新しいものに変えて俺に捧げようとしやがる。いや、まったくもって人間的な、あまりに人間的な聖霊さんだよ!生の渇望に怯える者の思索に乗って、何万光年の何万倍の、そのまた何万倍の距離からやって来るんだ。囁くものは静寂ばかりなり。あはは。耐え切れなきゃわめくがいい。」

「サタンの傲慢な思想に共鳴したものは・・・・・・・」

彼は続ける。

「・・・・・・・恐ろしい地獄の火炎によって炙られるのだ。こういう人々にとって地獄はもはや自発的なものである。なんとなれば、彼らは己れと己れの人生と神を呪った結果、初めて自発的な行為をしたのであるから。憎悪を自らの糧とし、それでいて永久に飽くことを知らず、赦しを拒絶し、神を呪う。

一歩進んで、人類が神を否定したら?ああ、偉大な叙事詩が語られはじめるであろう。
五感能の下僕たる科学と誇り高き精神とやらを携えて際限なく自然を征服してゆき、そうして行き着く。死の厳粛さを知るのだ。

来世なんぞ何のことか!その刹那性の自覚は嘗てのNirvanaへの希望と同じくらいの価値を有するようになる。

『全てを超え、赦される』

満足げだね?いや不満かね?真理なんざこんなもんさ。それでも俺たちは生き延びるだろう。深い悲しみに閉ざされたそのときにこそ、俺たちはまた喜びのうちに復活するのだ。生き延び、認識する喜びに包まれて、神への悲劇的賛歌を歌うのだ。
人が神を造ったって?冗談じゃない。じゃあどうして人は善人になれようか!」


彼はごく僅かばかりの漠然とした教養に身を纏い、知能薄弱にして、また、知力にあり余る哲学思想ですっかり混乱し、社会的、道義的義務に関する現代一般の説に怯えきった人間だ。常に、絶え間の無い、病的な自責の念にかられる傾向がある。

彼は何らかの良心の呵責に苦しみ、悩み、往々にして何らの根拠も無いのにもかかわらず全てを誇大に捉えて様々の罪や犯罪を自らのものとして考えはじめる。その恐怖によって実際に罪人に、犯罪者になっていく。


「人間には犯罪を好む瞬間がある。そう、自分を台無しにしても気が咎めないような刹那が!ああ、俺は悪党が好きなんだ。俺の欠点だ。それは認める。老獪な有罪説の源なり。
強い予感の到来を希求する。


蝋燭の炎にまつわる歴史の内の秘密よ。幾千夜にも渡ってささやかれた人目を憚る謀叛の企て。低音で調子を統一した他人の不幸に関する噂話。

  Just Gimme Some Truth

  悪魔の狡猾な誘惑

  神々の気まぐれ

  退路無き負け戦さ


呻吟の末にもたらされる答え無き朝日の中で、生の不可解さを伴って、贋作の四肢を駆使し、歩くのだ。」



<<よくよくあなた方に言っておく。一番大切なのは心の自由な決定でもなければ愛でもなく、良心に反してでも盲目的に従わなければならぬ神秘なのだ。来世で見出すものは死にすぎない。>>

  他人の不幸は知恵を授けず。

  Gott der heilige Geist!

2001/6/30


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