「愛について」・・・とは何なのか?
そこから考えながら、愛について、性について考えていきます。
おそらく自分を愛することじゃないか?というのが今のこうさぎ丸の仮説です。


 かわいい下心
 内田春菊さんのエッセイ(うろ覚えだけど「やられた女の言い分」だったかな?)の中に「二十代前半から後半の女の中には、十代のアイドルについての性的な描写が凄く上手い子がいる」と言うような一文があって笑ってしまった。私か?って。
 春菊さんいわく、そういう子は彼氏との会話の中で話題を合わせて喜んでもらせるよう心がけているうちにそういう、アイドルを男の子っぽく見る目が養われたような感覚になっているとか・・・。つまり、媚の変体だと?
 
 (笑)どうでしょう、私こびるような彼氏はいませんが、確かにアイドルの話できると男の子と話すときに話題が見つけやすくて、簡単に話せるって言う利点を気にはしていたかもしれない。てゆーか実際かなり助かるよ、そういう話できると。話題豊富で、異性と話すのにもなれている子ならともかく、そうでない男の子ことだって話せるなら話したいじゃん。で、好みのタイプがいない人間ってのも数は少ないので、多くが知ってる芸能人が好みか好みじゃないかについて話せるとかなり多くの会話のきっかけがつかめる、と。特に嗜好についての話には皆饒舌になりがちでは?
 実際に私は男の子好きなので、男の子と話せるのは嬉しいです。
 でも、書いてあるとおりなら、二十台が過ぎたらそういうことが苦手になるってことだろうか?う〜ん、別に私は今無理して女の子アイドルが好きって言ってるわけではなく、本当にそう感じてそういう目で見るのが好きなんだけど、三十代になったらこの楽しみはなくなっちゃうんだろうか?それはちょっと寂しいかもしれない。それとも三十代になっても現役で男の子好きだったら、やはり話題維持のために持続されるんだろうか?あーでもそれは三十になっても周りにいるのは十代のアイドルが好きな男ばっかりってことで、それはちょっと嫌だなあ・・・。

 そういえば、中学や高校の頃クラスに一人くらいはやたら少女漫画にも詳しい男の子がいた。「妹が読んでるるから・・・」とか何とか言ってた気がしたが、もしかしたら彼らのその嗜好も、「女の子と話したい」と言う無意識の下心から来ていたのかも知れない?だとしたら、う〜んかわいいではないか?私は好きですそういう下心(無意識なうちは)でもそうやって友達感覚で話せる子って好きになれるかな・・・?


好きな人のことほど誤解してしまう法則
 好きな人のこと、特に片思いの間はよく考えませんか?何をしていても、ふっとその人のこと考えていて、気が付くと24時間中一分もその人のことが頭から離れなかったなんてあると思います。

 あの人の顔、最後に交わした言葉、好きだと言ってたアーティストのことなど、相手といない時でも頭の中は好きな人のことでいっぱい。書いてみるとやけに乙女チックなことのようにみえますが、間違いでもないですよね。

 それが幸せなことばかりであればいいんですが、100%何もかも上手くいくってことはないわけで。いつでも自分を信じていられる人ばかりでもないのが世の常ってやつです。

 相手がいない場所で考える好きな人のことこそ、あなたの行動を振り回してしまいます。例えば別れ際に相手が言ったことが、自分の全く予期しない言葉であったりしたとき。もの凄い引っかかりますよ〜。多分次に会うときまで、話すときまで頭の中はそれでいっぱいになることでしょう。なぜあんなことを言ったのか、どういう意味なのか。しかしいった当人に深い意味がなかったりしたら「あの時言ってたのは何だったの?」なんて問いただしても、言われたほうはさっぱり訳がわかりません。「なんのこと?」「だって○○って言ってたじゃない!あれは△△ってことなんでしょどうせ!」「?」なんて、なんでもないことが揉め事の原因になったりして。

相手のことが気になるからこそ、その人といない時間までその人のことが頭から離れないからこそ、本物のその人より自分の中にいるその人のほうがリアルになってしまう。それが本人と少しずつ少しずつ外れて行っても、なかなか気づけない。

「貴方変わった」とか言っても、実は自分の中の相手像がかけ離れただけかもしれません。
 


 ホストに貢ぐ女の子って普通かも
 
貢ぐっていうか尽くしている女の子が最近多いってのはよく聞く話です。漫画の題材にされたりTVで特集を組まれたり。それを見てるとこう一種独特の怖さを感じます。どんなと言われると、それは自分もそうなっちゃいそうだな〜という怖さ。ブラウン管に写った女の子たちが自分のことのように見えてくる。自分はおそらくホストクラブ遊びなんて当分しないだろうけど(好みのがおらんもん)もし通ってみてその内の一人を好きになったら、ナンバーワンにしてみたいと思ったら、お金が欲しくなって風俗店勤務を勧められたら、働いて収入のほとんどをホストクラブで使うようになったら。どこまで体験したら戻れなくなるのだろうと言うつもりはないけれど、この最後と同じ境遇になったら、そりゃ止まらないだろうなあと思います。

 この最後まで行き着いたってのは、自分の世界がホストクラブ中心になってしまったってことです。つまり自分の幸せ不幸せの基準がホストクラブでの幸せ不幸せになったということ。彼女たちは自分の基準をホストクラブの男の子に委ねたんでしょう。

 これはでも、実は自然なことなんじゃないかと思います。ホストクラブにはまるということではなく、ホストクラブにはまって稼ぎのほとんどを注ぎ込んで、昼夜逆転のめちゃくちゃな生活になってもそこから抜け出せないということが。人間て社会性を持つ生き物だから、自分の置かれた状況に適応しようと積極的に心が動くらしいんですよ。彼女たちは人間の本質的な部分で、自分たちの置かれた状況に積極的に適応したってことなんでしょう。端から(ホストクラブにはまってない人間から)見たら異常な生活でも、その渦中にいる人間にしてみたら目の前起こる出来事に、側にある価値観で一番シンプルに対応してるってことなのでしょう。もちろん彼女たちもその他の環境にいたことはあるんだし、そのときの価値観を呼び起こして自分のしてることが変じゃないかと考えることも可能かもしれないけど。でも、この心理の働きは影響力大なもんです。例えば虐待を受けて育った子どもは虐待を普通のことだと受け入れてしまうし、たまに人質が長時間ともに行動した自分を拉致した犯人に感情移入したり共感を覚えるというのもこれに当てはまると思います。目の前にある環境に適応できなければ、その集団から追い出され、自分の生命に関わるというのは大昔の人間には当たり前のことだし、自然界ではよくあることです。そういう生き物としての根本の部分が影響してるから、彼女たちはなかなかやめることができないんじゃないでしょうか。

 それして生き物の持つ社会性の一端として、支配・被支配の関係に落ち着くというのもあります。何かリーダーなりなんなり、自分を支配し命令をする立場のものに従い出すとこれもまたなかなかやめられません。その支配者が出す命令を正しいか正しくないかを深く考えることは支配される側にはもてない心理なんですよ。もしくは正しくないとは思ってもとりあえず従ってしまう。日光猿軍団の猿たちとかこの典型じゃないですか?だって芸をするなんて猿本来の利益とは関係ないじゃないですか。餌がもらえるとはいえ、餌をもらってないときも指揮下から離れませんよ猿たち。それは支配に下ってるということでしょう。だから猿使いの人たちは年に一回くらいしっかり自分の方が格が上だということを示さなくてはいけないらしいですが。

 人間の身近な人間関係の中でもこの支配・被支配の関係は繰り返されているのです。会社の上司と部下ってのもありますが、もっと細々と多いのが恋人同士でしょう。いませんか?何をするにしてもパートナーの意見を聞いてそれに従う、もしくは最初から考えようとしない人。実際にする行動は自分が決めたことなのかパートナーが決めたことなのかよく分からなくなっていたり。とにかくパートナーの意見が何よりも正しいような気がしたり。そしてどんどん自分の考えることなんて何もかも間違っている気になって、自分から何かをすることが怖くなって行くんですよね。彼女にいわれるままに色々なプレゼントを贈り続ける人とか、彼氏がやきもちやきだからと自分の行動を制限したりする人。いませんか?相手を傷つけたくないとか、嫌われたくないとか思って相手に合わせているうちにどんどん実は支配されていってることあるんですよ。極端な例はドメスティック・バイオレンス(DV)という名前で取り上げられたりしますよね。自分を傷付ける夫に逆らえなくなってしまった妻。本当はいい人だから、自分が悪いのだから、とか言い訳を作ってまでその関係から離れるのが怖くなってしまうんですよね。

 それでも自分は相手を愛しているから・・・と考える人も多いでしょう。でもその愛が、今自分が環境に適応しているんだ、という本能からくるの安心と勘違いされてないならいいですけど。

 先祖代々群をなして生きてきた生き物だから、自分の外側にある価値観に判断を委ねてしまう方が楽なように身も心もなってしまっているんです。人間として自然なことなんです。

 自分の側にある環境や価値観に適応することは大事ですが、それ以外の価値観や世界もあるのだということを忘れていませんか。今の安定から離れるのは怖いけど、入ってしまえば適応できるもんでしょう。


 
藤井隆

 ネット上で藤井隆さんのもちネタである「オカマギャグ」に対して抗議がされている、と書かれたサイトに出会いました。 それは確かにそうだろうな、というのが今の感想です。
 
同性愛者のまねをしたと見られる行為を笑いのネタとして用いている彼ですが、その表現が既成の同性愛者のイメージを奇妙で、気持ち悪がってよいものとする事はありえるでしょう。
 このサイトでは紅白歌合戦に藤井隆さんが出演する事を「みなさんもうNHKに受信料を払うのは止めましょう!」と紹介していました。
 筆者が吉本興業にホモネタに対して抗議電話をしたのは99年の春だそうです。その時の対応は「もう認知されてますから」「ギャグだと思って割り切らないと」等。
 「オカマギャグ」は藤井さんが自ら考え出したものではなく、新喜劇の芝居の中で与えられたオカマ役をきっかけに持ちネタとしていくことになったものだそうです。ということは彼のもちネタの原型は吉本新喜劇の脚本家が作ったものと言えるでしょう。つまりこの問題は藤井隆さん個人を問題の元凶とするのではなく、吉本興業と言う組織の同性愛者へ考え方の甘さを中心に考えていく方が妥当ではないでしょうか。。
 しかし私自身藤井隆さんは仕事に対する必死さが好きなタレントですので今まで彼のギャグに何も考えずに笑っていた日々を振り返り、偏見を助長するメディアとお笑いについて考え直さなければと思います。参照


某月某日同姓での結婚
 アメリカのバーモント州で、同性同士で結婚できる法律が成立しているというニュースをTV見る。シビルユニオン法というらしい。
 早速友達と感想についてメールの応酬が始まる。(これはいつも凄まじく早うちで、かつ量が多い。電話で話せよって感じ)主に「いい娘や〜」というもの
 ニュースでは実際に男性同士で結婚したカップルとその娘をとりあげていた。結婚を認めたということは当然そのカップルの親権についても認められたのだろうか、と考えた。結婚が認められるということは、法が定める夫婦の優遇(あるいは不都合)をそのカップルに認めるということだ。
 異性カップルに認められることを同性カップルにも認める、という作業を行うときこれは同性カップルだから・・・と言う言葉を前提に考え出すといろいろと不都合が出てくるのではないかと思った。同性カップルの結婚と異性カップルの結婚という二つの結婚に関する法律を作ってしまうとカバーできない現実が出てくるだろうと考えたのである。
 たとえば番組に出てきたような子どものいる同性カップルを、最初から想定することができるのか、などである。異性のカップルであればセックスをすれば子どもができる、という考えが浮かぶが同性では子どもは作れない。しかし番組のような以前の結婚相手との子どもがいる者もいれば、配偶者とは別の相手との間に子どもができてしまう場合もありえないとは言い切れない(注意:ここで結婚に対する倫理観は問うつもりはない)
 そうやって頭の中だけで考えてる結婚とは違う状況が起こりうるから、同性カップルの結婚についての法律は同性カップルと異性カップルを差別しない内容になってると良いな、と思った。
 でも同性愛を差別しないように法整備がされることと、社会で同性愛者が差別されないこととは結構別問題だったりするよね。オランダとか、私大好きな国家だけど法では同性カップルの養子縁組まで認められてるけど、それでも同性愛ってのは異例なものとして扱われるらしいし


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