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5月22日(水) 晴れ

チャコちゃんの自転車。バッタ屋で8千円くらいで買ったらしい。なのに、それなのに、折り畳めるらしいぜ。信じられる?ディスクブレーキのちゃりとか、オートマのちゃりに驚いてる場合じゃないぜ、全く。
*  *  *  *  *  *  *  *  *

よく使うフレーズ=口癖について。

私の場合、生活の場面に置いては“大人だから”。
日記の場に置いては“情熱は大事だ”かな。そのことについて考えた。

ストレートに考えれば、自分の願い=なりたい自分だろう。そして、口にする=意識してるからには、そのことに対して持ち合わせに自信がないからじゃないかな?

なんで、そんなことが気になり始めたかというと、親しくしている友人が、このところよく“男だから”とか“男として、、、”を連発してるので、どうしてだろう?と口癖について想いを馳せてしまったわけだ。
その人は数年来の知り合いなのだけれど、以前に話していた時には、そんなフレーズは出てきたことなかったし、私としては“男道”指向のタイプではないと感じるのだ。

しかし、彼がそれを発してしまう心持ちや如何に?
と考えるに、“男”が今の彼のキーワードなのだろう。そこまではわかってもその実の心情は計りかねるので、自分に置き換えて考えてみた次第。

で、私にとっての、私のキーワードは希求なのだ。
と、そこで納得して寝ていたのが今までのわたくし。今回はその心の“なぜ?”まで考えてみた。

なんで私は大人になりたいのか?なんで私は情熱を持ち合わせたいのか?
それは、 些末なことに揺り動かされることなく前に進みたいからだ。

最近の独りごちには、もひとつあって
“私のことを傷つけるものは、すごく少ないはずだ。なぜなら、本当に私自身が大切に思うことがら(人)しか私のことを傷つけられないからだ。 それは数少ない。いや、無いに等しい。何が大切なのかは自分が決めることなのだし、ということは傷つけられるという事象も自分がきめてるのかもしれない。”
というのがあって(長いけど)。
そのひとりごちも、上記の話に通ずるところあり。

そして、私の独り禅問答は続く。

なんで、前に進みたいのか?・・・・・・なんで・・・・?と。終わりはない。

“風が吹けば桶屋が儲かる。”なんてなんの不条理も矛盾もない。なぜって帰着する答えを持ってるから。私の場合は考えるほどに“風が吹けば、風が吹く”といった感じの無限ループにはまりこむ。
ていうか、今、哲学的禅問答風というものがマイブーム。

そんなんだから、火星で終わり無き任務に就く夢なんか見ちゃうんだろうな。


5月20日(月) 曇り

最近ちっとも天気予報が当たらない。
予報をしている人たちは当たったり当たらなかったりで毎日一喜一憂してるのだろうか?あんまり気にしてないのだろうか?カサを持って出かけるか迷ったりするのかしら?

思うに、予報士仕事の初めの頃は、当たる当たらないに一気一憂し、“今日は自信ありだぜ!”だったのにハズレたり、とか、“私の一言で日本国民を動かしてしまう!!”なんてな責任の重圧に耐えられず、号泣などしてたのだろうと。
そんなことどもに振り回されつつも、そのうち、“他人がどうなのかが問題じゃないわ、自分の発言に自信の持てる予報をしたかどうかが大切なのよ”などと言ってるに違いない。
私はそんな風に想像しちゃう。

結局、みんな似たり寄ったりなのではなかろうか?と。


5月19日(日) 晴れ

ある本をきっかけにずっと考えてる。もとより私は考えるのが好きだ。その大切さを甘く見ている人からは“考えてたってしょうがないジャン、楽しくやろーよ”と言われる。ついついそれに流されるけれど、知ろうとすることや考えることを止めたら、私は楽しくない。

かく言う私もその実、周りの人より少しは考えてるという自負に酔って、ある部分から先へと考え進もうとしてなかった。思考停止してたのだと、“考える日々”という本で気がつかされた。その本を読んで“すごくわかる”って感じてみてもそれは著者の考えであって私のではない。ただ、今まで感じていても形とならなかった言葉の少しが書かれていた。

昨日“考える日々3”を読み終えて、1と2を買いに青山ブックセンター本店に自転車で走る。結局“1”と“著者と埴谷雄高の対談”そして電車でなくした永ちゃんの“成り上がり”を購入。

その後、高円寺在住のヤマシロの誕生日なので、誕生会に自転車で駆けつける。いや、駆けつけようと思い途中で詳しい場所を聞こうと思って本人電話したら、“誕生会は昨日だった”と言われ引き返す。

ここからが出会い。
引き返す途中に今まで通らなかった道を走ってたら、“ここはひと味違いそう”と感じる花屋発見。
私の鼻に間違いはなかった。 前述の “しだれるエアプランツ”のウスネオイデスを売っていた。しかも他で売ってる値段の半額以下。即買い。そして即買いのお会計のために店内にはいると、長年欲しかった“ビカクシダ”が売っている。しかも相場のやはり半値以下。もちろん買ったさ。買い物は出会い以外の何者でもないな。いやぁ、出会いです。大切に育てよう。


5月18日(土) 曇り

天気予報は雨、けれども雨は降らず。朝に起きてやろうと思った数々、されども目が覚めれば夕方。願ってみても、なかなかそうならないのが人生哉。

で、今日の内に自転車を取りに行こうと会社へ。もちろん会社に着いた頃はすっかり夜さ。で、帰りにぶらぶらと東京を走り回り(本当は海か河が見たかったのだけれど)、中目黒の銭湯にゆく。もちろんここは初めて。そしてサウナに入る。

サウナには地域性を感じさせられる。吉本バナナはそれがイヤだと言ってた。けれど、サウナから始まる物語はかなり興味深い。要はその地域を代表するような主=おばさまがデンッと座ってる。で新参者としては彼女らに認められないと座る場所もない。その当たりがすごくおもろい。彼女らの新参者に対して“こいつは敵かはたまた味方か?”を鋭くみわけようとする心の動きがすごく素でわかりやすい。

元来、人見知りで通ってる私を知ってる友人が“普段はあんなに人見知りで愛想なしなのに、近所のおばさんとかサウナのおばさんには好んで話しかけるアンタの気持ちが理解できない”という、かく言う私自身わかんないのだけど、素な感じが興味ひくのかなぁ、自分のテリトリーをわかりやすく見せてきて、そして他人を値踏みする感じが嫌いじゃない、好きと言っても良い。

自分はどんな方向を望んでいて、何がしたくて、誰のことを信頼できて誰のようにはなりたくないのか?それを感じられない人は苦手だ。自分の方向性を見極めるのと他人を否定するのは全く関係ないこと。ただ、ただ自分の望む正しさをやろうとするときに相容れない人があるのは事実。否定するしないではない。違いをはっきり自覚することだと思う。それを曖昧にすることはイヤだ。そんな風にして他人に認められ、好かれて何がなせるのだろう?
私の場合短絡的なので、自分が認められない他人の意見を否定しがちで、それについては反省してる。違うことと否定することは違う出来事だから。ただ、誰彼も賞賛してるので、すっかり、その人のことを認めてるのだろうと思わせといてその実、裏で初めて悪口を言ったり自分の意見を言ったりする人がわからない。(人のことは言えないけれどさ)。それに比べれば、サウナのおばんの方がどれだけ理解しやすいか。おばはんの方が私にとって理にかなっている、そういうことだ。


5月17日(金) 晴れのち雨

あまり話をしないけれど近くにいる麗ちゃんに
“Iさん最近幸せそうですね”と言われた。するどいね。あたらずも、遠からず。嬉しくてそれでも複雑で。でも悪い気はしないなぁ。

みんなもそう思うらしく、巷では私に“男が出来た”ということで話はまとまってるらしい。それが納得しやすい“幸せ”の形なのでしょう。別 にそう思われてもかまわないのでほっときつつみんなと話を合わせてるうちに話は一人歩きをし、今では“自転車を買いにいった店の人とつきあい始め、休みの度に自転車デートにいそしんでる”と言うことになってるらしい。忙しいみんなの妄想を駆り立ててしまって申し訳ないが私の幸せはすごく簡単なことだ。
それは私の中、気持ちの持ちように在る、それだけなのです。

会社に行くときは晴れだったのに、帰りには雨ざーざー。
濡らしてしまった自転車を会社の席まで持って上がり、隅々まで拭いて置いて帰ることにした(自分の席に)。
そしたら外野のうるさいことったらない。“最初のうちだけだよそんなの、すぐ錆びるし飽きるよ”とか、ほっとけ。そんなのわかってても最初だから礼儀としてやってるわけ。そういう奴に限って最初ですら大切にしない奴が多いことを私は知っている。私が楽しんでるからってそんな嫉妬すんなよ。最初ぐらい大切に出来るものだけを手にいれるように、君たちも、ちと頭使えよ。 人に言う暇があったら自分もやれ。って怒ってるわけじゃないよ。お互い会話を楽しいでるわけであります。しかし、凝り性と情熱には多少の自負があるのだ。というかそういう部分を大切にしたいと願ってる。

午後の間中、会社の席で“fuckin blue film”を読む。読み終われば夜の9時近く。誰からも注意なんかされない。なんて良い会社なんだ。しかも、いい本だった。仕事をまったくやらなかったことには反省しきりだけれど、乗らないときには乗れないし、無理くりやってもたいしたことを思い付かないのもよく知ってるので、そういうとき私は徹底的に仕事をしない。本当はそういうときに街にでてフィールドワークをしたほうがいいのだけど、たまたまそこに本が在ったので、、、。ごめんなさい。しかしよい一日であったよ。

その後、ひょんなことからデザインフロアの大勢をしめる飲み会に参加。いやぁ一度断ったのだ、いやだったので。それで気の合う同期とこそっと飲もうと思ったら、そいつがみんなの元に走りやがった、やられた。一度、適当な理由を付けて逃げたのを知ってるチャコちゃんが“大人数で飲むの本当はイヤだったんでしょう?”とにこにこ指摘した。さすがわかってらっしゃる。この子はよく人を見てるのだ。そう、ただただ飲めればよいと大勢で飲むことが苦手なのだ。その理由を書くのはめんどくさいので止め。この気づき具合とつっこみ具合、この女の子が私は好きだ。


5月16日(木) 曇り

ヨウコの会社のグループ展のオープニングがユナイテッドアローズの本店?であったのでルート検索をして芝浦から神宮前までちゃりで行った。快適やね。楽しいね。(←自転車のことね) とは言え夜9時過ぎの六本木の交差点には辟易したけどな。

その後、なりちゃんとシロッチと渋谷で軽く飲み。三人の共通の人に対する評を繰り広げてみるも、ことどとく2対1で私の負け。他人を観察する目を持ってると自負してるのに、どうも私の感じ方は当たってないらしい。その理由は、対象となった人に対して心底の部分で興味を持ってなかったのだろうってことだ(私が)。

私の観察眼は、自分が関わった人にしか発揮されない程度のものらしい。それは至極もっともだよね。自分との関わりがあって初めて相手が存在するのだから(私にとってはと言う意味で)。

話は飛躍しまくるが、広く浅くはつまらないなぁと思う。やはり苦手意識や、苦手なものを大切にして行きたい。それは大切なものを私に指し示してくれることだから。器用になりすぎて何かをなくするのはもったいないことだ。


5月15日(水) 雨の予報が晴れのち曇り

うまく表現できるかなぁ?
コンペ、だめだったのだ。うまく言えなくても正直に書いてみようできるだけ。この日記は今や誰も読んでないのだから、せめて自分対して正直に、書いてみよう。

たぶん、今までになく出来としてはよかった。これまでのコンペの数々、通 ったもの落ちたものあり、それを通して私が成長して考え得たものを形に表せた思えればこそ、良くできていたとしか言いようがない。

それは究極の良いデザインということではない。そんなもの相対的な事象でしかないので。ただ、顧客の在るべき店という意味においてはこれだろうと思えたし、望まれるものを差し出すだけじゃプロじゃないと思うので、本質的になければならないものをデザインで表現したと思える。

それは難しく、思想的に(コンセプトと呼ばれるものかなぁ)伝えても具体的なものを見せないと結局は相手の心は動かないし。

と、書き始めつつも集中力低下というかもっと他のことに考えが行ってしまって帰ってこれそうにない。これ以上無理かも。

一緒の仕事をしてた営業マンの彼は、成果物を見て“絶対取れるよ。すごく良い”といってくれた。プレゼンが終わっても“ 絶対取れた”と言ってくれた。感触はかなり良かったと私も思った。でも“だめだろうなぁ”というのが正直な感想。直感だな。そして当たった。たぶん施主的には“感心したけれど感動しなかった”という感じを私は解った。

それってしごく致命的で自分を否定されたも同然。でも傷つかなかった。プレゼンする前から施主の感動と私の感動が違うとわかったので。その辺が大人になった所以。

数年間前はコンペに落ちて会社の席で号泣とかしたのだ。懐かしい。そしての頃の青い自分を大切に想う。

今回は違うとわかったうえで何を出すか?を考えた。前のようにコンペを取ることだけが良いことと思ってたらしんどかったけれど、今回は私が大切に思うことを意識的にプレゼンテーションした。ダメだとしたらある意味お互いにとって幸福だと考えて。だから相手が感動しなくても私の存在を否定されたわけではないと思えた。相対的な事柄に過ぎないのだから。
問題は私自身が納得できるものを作ったのか?と言うだけだ。

私は私が納得できることを考えなくてはならない。

唯一落ち込んだのは、一緒にコンペに望んだ営業マンM氏が落ち込んだこと。
唯一嬉しかったのは、一緒にコンペに望んだM氏が本当に“これはいい”と認めてくれたこと。

私にはそれだけですごく得るモノがあった。
自分に自信が持てたと言う意味で。

いろいろ思うところのあるコンペだった。


5月12日(日) 良い天気

窓全開で掃除。いい気持ち。

陽の明るいうちに誰かがワタシの家に訪ねてくるときはいつも、2階の窓を開けてやってくる人を待つ。そのときの風景がとても好き。

数年前に買った“しだれるエアプランツ”のウスネオイデス、風に吹かれて今は部屋の前の電線で自生している。自生しているのを数年ぶりに確認。訪ねてきたS氏に“回収する?”と言われたけどやめておいた。奴はそこに生活の場を見いだしたのだから。
私がこの場所から立ち去ったとしても、何年後にもここに居続けるとしたら、なんて素敵なことなのでしょう。

ルイス・バラガン展。光と影と静寂と。
私は日曜美術館を見てないけれど、すごく良かった。
私の展覧会の見方の癖なのか、私が集中力に欠けるせいなのか、それとも初期作品のが拙い感じのなせる技なのか?
いつも、初めの方の作品に時間をかけてしまう。初期って独特のストレートさがあって心惹かれる。もちろん、展覧会的な初期だから出世作ってことかな。

出世作が持つ力って、その前後でその人自身の考え方やセンスが大きく変るわけでもないのだけれど、“自分の中に伝えたい何かがあるのにどう表現したらいいのかわからない、もどかしい”という葛藤が如実に現れてると思う。誰かに言葉が伝わり始めたときのその人自身の感動を感じる。それが技巧を越えた魅力になってる。

伝えたいのに伝わらない葛藤や悔しさやもどかしさは、かけがえのないパワーなのだと思う。
欠落感だけが持つ前向きな強さは確かに在ると。そういう意味なら私は今、力を持っている。

蛙専門店。そして懐かしい池袋の飲茶。すごく楽しくて、、、そして、、、。


5月11日(土) くもり

タニワタリとブーゲンビリアを手にいれた。

タニワタリ、本土では観葉植物だけど、沖縄では食べる。去年沖縄に行ったとき市場で売っててびっくり、気になったので天ぷらをたべた。春の山菜の天ぷらに近い感じ。なかなかグー。

ブーゲンビリア、元から色や(ショッキングピンクの品種)南らしさが好きだったのだけど、“ナビイの恋”を見てからますます好きになった。友人のプレゼントによく送っていたけれど、ついに自分でも購入。
生活に潤いだけでなく、華まで手に入れてしまった。

言葉にすると禁断の扉をあけてしまうのだろうか?
誰にも言わず自らに語ることもせず、秘していれば無くなるのだろうか?

“アースクウェイク”が読みたい。
私がこの本の登場人物ならたぶん、ごまかしのない正直さでぶつかってゆくのだろうな。
人生も過ぎゆく時もかけがえないのに、、、。


5月9日(木) くもり

ちょっぴり初心に戻って、こころのたけは日記に語ることにしよう。なんか調子づいて人に垂れ流しそうになるので。なんかちょっと寂しい初心でもあるが、このさい気にしない。

物言わぬ植物に潤いを求める心持ちについて。
それはすごく直接的だから。
小さい頃から“心がすさんでると部屋も汚れてくる”とか言われたじゃない。あながち嘘ではないけれど、そこには日本人的精神(根性)論が見え隠れするような感じ。そのような考え方を非合理的などと嘯(うそぶ)いてみても、私も日本人なので実は嫌いじゃなかったりする。ゆえに植物が枯れるような生活は乾ききってる、、、といったイメージてすごくしっくりくるし、しかも“潤い”のイメージと“水をやる”という行動ってベタベタにピッタシでしょ。
植物を生き生き潤おわせてみても、結局私の生活は乾いてます、、、ってなったらどうするのか?なんてことは考えないようにするのだ。とにかく“出来ることからコツコツと”。

今日、久々に初めてのお客さんの打ち合わせに行くのにドキドキした。やはりハードルは高くないと成長はしないのだろう。ただ荷が重い。そして、無理くりそこに突っ込んでくれた上司には感謝。というか、同行した営業マンにとうとうと上司の想いを諭された次第。

姉36歳。高給取りのお仕事を辞めるそうな。今の仕事は一年ちょっと。理由を聞くに
「 笛(笙)の先生のところに習いに行く時間が取れないのよ、、、(習い初めて一年くらいか?それを生業にしようなどということではなく、純粋に“潤い”を求めての習い事)、、、私、やっぱりいっぺんに二つのことって出来ないみたい。とりあえず辞めて、しばらくじっくり笛を習って、、、その後のことはあとで考える。」
彼女と話してると私は無駄に生き急いでるのじゃぁないかしらん、と思ってしまう。それぐらい時間感覚や、物事に対するアプローチの仕方が違う。そんなところ好きだし、たまに話すと今の自分を少し顧みられる。

つうか、そういえば海外旅行とかしてても、時間の流れがすごく違う人たち、いっぱいいっぱいいたよな。


5月8日(水) くもり

改良湯。

この頃よく銭湯にいっている。5日蒲田の湯〜シティー。4日学芸大学の鷹番の湯。少し筋肉痛(運動不足の塊のような私が調子こいて自転車を乗り回したので、、、)も癒えてきた。

砧公園のサイクリングロードぐるぐるしたり、二子玉まで遠征してみたり。

夜中過ぎから雨が降ってきたためかちょっと憂鬱。

憂鬱の原因
*明日は雨で自転車に乗れないのでは?
*私のやっていた仕事、私への了解なしで勝手に外注のデザイナーさんに引き継ぐことになった。私は全く聞いておらず、外部の人から“あなたの仕事を引き継ぐことになりました”と言われ唖然。
理由は急ぎでやらなければならない重たい仕事が入り、それに私を突っ込もうという腹づもりらしい。後から入った仕事のクライアントは大事で、私が関わっていたクライアントの方はデザインの理解度が低いうえに事業に対する真摯さも欠けるのでうちのルームとしては大事じゃないということらしい。そこまではわかるけど、あまりにひどくないか?
ここまで打ち合わせをしてきてプランまで決まっていたのに、、、私の気持ちの行き場などどうでもいいのだろうか?せめてまず私に相談するのが筋でしょ。
しかも、お客さんになんと言って途中から抜けるのよと問えば“病気になったと言うしかないな”だって、、、、。なんかなぁ。
*昨日提出したコンペ、ダメかも。取れてもやる時間がとれないのだけれど、、、落ちるのはがっかりするし、、という複雑な心境。


5月7日(火) 雨

自転車買った。最高に幸せになった。
自転車で走りまくって最高、自分を脱ぎ去る感じが、そして脱ぎ去りたいわだかまりが自分に在ることに気づく。

潤い再生計画。
自宅の植物の鉢植えの植え替え。そして新しい仲間の購入。

親友の未来の旦那さまと三人で食事。これを彼女が読まないことを知ってるので正直に言えば、彼女の良さを活かしきれない相手に思えた。要はかみ合ってないし、彼の女性に対する思いこみのようなものを感じた。

持っている人が、持っているものは手の届くところに保留しつつ、さらなるものを手にしようとすることはずるいのか?
しかしみんなは何について“持っている”“持っていない”などといってるのだろう?

私は具体的には同じ過ちをしてないようでいて、結局の所一緒でないのか?物理的事象に対しては学習能力があったとしても、精神的には同じ過ちをしようとしてるのではないのか?

それでも最近の私をみんな“元気だ”と宣う。そして自分もそう思ったりする、、、この本質的歪み。元気なのは本当なのだが、、、、。


 
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