『君 に よ せ て』        VOL..1

                                            村田 政和


 新緑の季節は公園の木々や緑に生命の息吹を与え、大きな池の周りに敷きつめられた芝生は太陽の光を十分に浴び、目の覚めるような輝きを放っている。
 僕は陽射しを避けるようにして、木陰のベンチに腰を下ろした。午前中の用事は全て済ませ、次の取引先との約束にはかなり時間があった。本当なら、大の字になり、芝生に寝転びたかったが、あいにくのスーツ姿じゃそれもできない。

 池の周りでは幼稚園の園児たちが何やら騒いでいる。どうやらカルガモの親子を見物しているらしい。親鳥の後を追いかける毛糸玉のような雛たちを見る園児の間で、ときおり歓声があがる。その近くでは年老いた、夫婦らしき二人連れが鳩にえさをやるのに熱中していた。
 僕はその切り取られた日常の光景をぼんやりと眺めた。春の陽射しのなか、動物とたわむれる彼らはとても満ち足りて見えた。しかし、僕は知っている。幸せそうに見える彼らが本当にそうなのか、実際のところ誰にも分からないということを。当人でもない僕に彼らの本心など分かるはずもない。それは、例えどんなに親しくても同じことで、他人を理解したつもりにはなれても、本当に理解することとは別物だ。よく、他人の身になって考えろというが、そんなことは無理だ。他人と自分とを隔てる壁は、結局のところ、いつまでも壁であり続けるのだ。
 
 僕はあの人との出会いと別れのなかで、そのことを学んだ。

 木陰に吹く春の風を感じながら僕は目を閉じた。いつの間にか、うとうとしていたらしい。目を開けると池の周りからは園児や老夫婦の姿はなくなっていた。僕は腕時計に目をやった。どうやら三十分ほどうたた寝をしていたようだ。
 僕は一度大きく伸びをし、辺りを見回した。そのとき初めて、隣のベンチに座る女性に気づいた。二十歳前後であろうか、大学生のように見える。青い薄手のワン・ピースを着て、肩まで下りた長い黒髪をときおりかきあげながら、彼女は手にした文庫本を熱心に読みふけっていた。その様子を何気なく眺めていると、ほどなくして、彼女は本を読み終えたらしく、文庫本を閉じると、胸に抱くようにしてゆっくりと目を閉じた。
 黒髪の合間からのぞく彼女の横顔を見た瞬間、僕の心臓は早鐘のように鳴り出した。
(小夜子さん……)
 いや、そんなはずはない。頭では理解していたが、その横顔から目を離すことができなかった。
 自分でも気づかないうちにベンチから立ち上がると、僕は彼女のもとに近づいた。そして、彼女の持つ本の表紙が目に入ると、思わず声を上げそうになった。カミュの『異邦人』、あの人の好きだった小説だ。僕はめまいにも似た感覚を覚えながら、ベンチの彼女を見下ろした。
 そのうちに彼女が僕に気づき、顔を上げた。初め、何も言わずに自分を見下ろす僕に不思議そうなまなざしを向けたが、まもなく、けげんな表情に変わった。
「何か……?」
 警戒するような口調だった。
「あっ、ごめんなさい。君が僕の知っていた人によく似てたものだから、つい……」
 それを聞いた彼女は疑わしげな目をした。彼女の視線にうろたえた僕は、
「その人も『異邦人』が好きだったんだ」
 それだけいうと、彼女に背を向けて歩き出そうとした。すると、後ろから呼び止められた。振り返ると、彼女は少し考えるそぶりを見せ、それから思い切ったように、
「よかったら座りませんか?」
 そういって、自分の隣を指差した。僕は一瞬ちゅうちょしたが、彼女の言葉に素直に従った。少しの間隔を空け、彼女の横に腰を下ろした僕に、彼女は自己紹介した。彼女は近くの女子大に通う学生だった。そして、今自分が読み終えたばかりの『異邦人』についての僕の感想が聞きたいといった。
「感想か……」
 逝ってしまったあの人が唯一残してくれたその本(それは以前、彼女の誕生日に、昔の恋人から贈られたものだった)を、僕は一時期、繰り返し読んでみたことがある。なぜ、彼女が『異邦人』を僕に遺したのか、その理由が知りたかった。当時の僕には、それを知ることが義務のように思えた。しかし、その本から何も見出すことはできなかった。太陽のせいで人を殺すという主人公の気持ちは理解できなかった。他人どころか、自分にさえ積極的関心を持てないムルソーは、僕にとって別世界の住人に思えた。
「気のきいた答えを返すことはできないよ。確かに、その本は何度も読み返してみたけど、結局は何も得られなかったような気がする。少なくとも、僕にその本をくれた人と同じようには感じることができなかったと思う」
「そうですか……」
 彼女はいくぶん残念そうな表情を見せた。居心地の悪さを感じ、僕は気のきいた会話の糸口を探したが、何も思いつかなかったので、彼女から再び話しかけてきたとき、何だかほっとした。
「本をくれた人って、さっき私に似てるといった人ですか?」
「そう、その人のことだよ。でもね、不思議なんだ。今見るとそうでもないんだ。でも、さっき君の横顔を見たとき、何だか信じられないほど似ているように思えたんだ。心臓が高鳴るくらいね」
「どうしてかな、私が『異邦人』を読んでいたから?」
「それは大きいね。あとは雰囲気だと思う」
「雰囲気?」
 彼女は興味深そうに身を乗り出してきた。
「口では説明しにくいんだけどね、君のもその人にも、周りをある種の同じ空気のようなものが流れているような気がしたんだ」
「同じ空気ね……」
 彼女は僕のいった言葉について考えているようだった。
「あまり気にしないで。さっきもいったように、僕にもうまく説明できないんだ」
「でも、私の周りに流れている空気・・・・・・何だか面白いわ」
「ほんとに気にしないで。ごめんね、変な事いって」
「全然。気にしてませんよ、興味深いことではあるけれど」
 彼女は僕を安心させるかのように小さく笑った。その清潔感のある微笑を僕は気に入った。
「ところで」彼女は遠慮がちに切り出した。
「こんなこと訊くのは失礼かもしれないけど……」
「いいよ。ためしに訊いてみなよ。嫌だったら答えないから」
「それじゃあ、訊きます。あなたはさっき、私に似ている人のことを、知っていた、と、過去形を使ったけど、その人は……」
 彼女がいいおえないうちに、僕は軽くうなずいた。
「うん。死んでしまったよ、二年程前にね」
「ごめんなさい。変なこと訊いて……」
 彼女は少し困った顔をした。
「気にしないで。話しかけたのは僕の方だから」
「ありがとう」彼女はほっとしたようだった。
「その人はあなたの恋人だったんですか?」
「微妙なんだ」 
 僕はあいまいに首をふった。
「僕が以前、その人との関係をそうとらえていたことは事実だよ。でも、実際のところどうだったのか、僕にもよく分からないんだ」
 僕は少し間を置いて続けた。
「その人は僕のことを好きだといった。同時に、愛していないともね……」
 彼女は不思議そうな目で僕を見つめた。僕は誰に聞かせるでもなく、もう一度小さく繰り返した。
「そう、あの人はいったんだ。あなたのことは好きよ、でも、愛してはいないの……と」

 

 僕は追憶にとらわれ目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 僕がその映画館に入ったのは、ほんの気まぐれからで、そうでなければ、平日の真昼間から、それも話題の新作ならともかく、三流のコメディ映画のリバイバルなど観る気になるはずがなかった。
 当時の僕は大学にもほとんど行かず、かといって、やりたいことがあるわけでもなく、ひたすら無意味な日々を過ごしていた。そんな暮らしの中で、僕の中のあせりは日を追うごとに大きくなっていった。何か意味のあることを、何度も考えたが、結局はいたずらに時を費やすだけだった。しまいには、半分やけになって、こうなったらとことん無意味なことをしてやろうと考えた。僕は今上映されている映画の中で、もっともくだらなそうなものを選んで観に行くことに決めた。そして、なるべくなら映画館も、さびれて今にも潰れてしまいそうなところがよかった。
 その映画館はまさにおあつらえ向きに思えた。駅からかなり離れたところにあるその建物は、かなりの年月が立っているらしく、外壁は所々ひびが入り、そのくすんだ色からもともとの色を想像するのは困難だった。
 入場券を買って中に入ると、後列の席を選んで座った。思ったより観客は多く、といっても、上映する作品と時間帯を考えればということで、実際の人数は三十名にも満たなかった、
 座席に座ると、まもなく映画が始まった。僕はその日、ある課題を自分に課していた。どんなつまらない映画でも絶対に眠らないということだった。上映時間中、眠気との戦いになるだろうと覚悟していたが、思いのほか、映画はかなり笑えた。ドタバタ物のコメディを嫌いな僕としては驚きだった。僕は時間を忘れたように二時間もの間スクリーンに釘づけになっていた。何も考えずに笑うことは気分がよかった。
 僕が彼女に気づいたのは、映画が終わり、エンド・ロールが流れているときのことだった。何気なくあたりを見回した僕の視線に飛び込んできた彼女は、他の観客たちに比べどこか異質な感じがした。それが何から来るものか、一瞬考えたが、すぐに思い当たった。彼女は泣いていたのだ。コメディを見てなく女、僕は彼女に興味を覚えた。そのときは、僕自身ただの気まぐれだと自覚していたが、その気まぐれの対象に、この先とらわれつづけて行くだろうという予感を、心の底では感じていたような気がする。
 僕は思い切ってポケットからハンカチを取り出すと、空席を一つはさみ隣に座る彼女に近づき、横からそっと差し出した。彼女は最初、驚いた反応をし、状況がつかめないといった感じで、差し出した僕の手に握られたハンカチと僕の顔を交互に見比べていた。しかし、ほどなくして自分のバッグからハンカチを取り出して見せた。それで終わり。それ以上は何もできなくなった僕は、ハンカチをポケットにしまうと、その場から逃げるようにして離れた。最悪だった。彼女は僕に下心があると思ったに違いない。きっとそうだ。彼女の目には軽蔑の色が浮かんでいたように思える。
 ロビーに出ると、ベンチに腰掛け、胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。
 つまらないことをした。その思いでいっぱいだった。彼女の軽蔑を含んだ目は、思い出しただけで気恥ずかしさと後悔を感じさせた。別にたいして意味のある行為じゃなかったが、彼女に拒絶されたことは僕を落ち込ませた。
 僕は煙草の煙を大きく吐き出した。すると、そのとき、横から声をかけられた。
「隣空いてる?」
 僕は声の主に驚き、突然のことに返事ができなかったが、彼女はそんなことはお構いなしに、僕の隣に腰かけた。あっけに取られる僕をしり目に彼女はバッグから煙草を取り出すと、その細いメンソールに火をつけた。すでに彼女の涙は乾いていた。まっすぐに前を見つめ、ときおり、煙草の煙を細く吐き出すだけで、しばらくの間、僕に話しかけようとも、それどころか、僕に目を向けようともしなかった。僕は不思議な気持ちでそんな彼女の横顔を見つめた。
 明るい場所であらためて見る彼女は神経質な感じがして、どこか他人を拒絶するような雰囲気があった。とはいっても、彼女は十分に魅力的だった。見た感じ、僕よりいくつか年上らしく、二十四,五歳くらいに思えた。ノースリープの黒いタートル・ネックに白いパンツというその服装は、背中まで届くきれいに手入れされたストレートの黒髪とよく似合い、センスの良さを感じさせた。どこか陰りを含んだそのまなざしは、きつく結ばれた小さな唇と合わさって、不思議な印象を僕に与えた。それは、どこか幻想的ともいえた。「さっきはありがとう」
 相変わらず下を向いたままの彼女が突然口を開いた。
「えっ?」
「ハンカチうれしかったわ」
 ここで初めて、彼女は僕に向き直った。
「でも、さっきは……」
「ごめんなさい、さっきのことは謝るわ。変なところ見られたから、ばつが悪くて。でも、あなたの気持ちはうれしかったわ。本当よ」
「本当に……? よかった。あの後すごく後悔したから」
「後悔……あなたが?」
「だって、そうでしょう。そのつもりもないのに変な下心があるみたいにとられたら、誰だってそう思いますよ」
「誰だって……?」
「まあ、たいていの人は。あなただってそうでしょう?」
「私……私には分からないわ。あなたのいうとおりかもしれないけど、そうじゃないかも」
 彼女の答えは奇妙に感じられた。初め、からかわれているのかもと思ったが、彼女の口調や表情からそうでないことが分かった。
「正直いって、あなたに興味を覚えたんです」
 正直に切り出すことにした。
「私に?」
「コメディを観て泣く人なんて初めて見たから」
 僕は少し間をおいて続けた。
「悲しいことでも?」
「人間、二十四年も生きていれば悲しいことの一つや二つは誰にだってあるわ」
 彼女は無表情に答えた。
「違います! 僕がいってるのは」
 彼女は軽く手をふって、僕の言葉をさえぎった。
「分かってる、あなたのいいたいことは。でも、いってもしょうがないことだと思ったから――悲しくて泣いたんじゃないわ、本当のところ。私の癖なの。楽しい映画を観ると、なぜか涙が流れてくるの」
 ふつうならとても信じられないことだったが、不思議なことに、僕は彼女が事実をいっていると思った。「どうしてですか?」
「私にも分からない」
  彼女は軽く首をふった。
「いったでしょ、癖だって。どうしてかって、考えても意味なんかないの」
 神経質そうに笑う彼女に僕はとまどった。そんな僕の表情を見て、彼女は皮肉っぽい口調に変わった。
「ほらね。だからいったでしょ、いってもしょうがないって」
 彼女は手にしたメンソールの煙草を灰皿で押しつぶして消すと、無造作に立ち上がった。
「ま、そういうことだから。ハンカチのお礼だけはしとくは。ありがとう」
 そして、そのまま早足に出口に向かった。
「ちょっと待ってください!」
 急いで煙草の火を消すと、僕は彼女を追いかけた。
「まだ何か?」
 面倒くさそうに振り返った彼女の、突き放すような視線に気後れを感じながら、僕は思いきって口を開いた。
「もし、よかったら近くの喫茶店でお茶でも……?」
 このまま分かれたくなかった。彼女という人間に興味があったからだ。いや、むしろひかれているといった方が正解だろう。
「どうして、私があなたと?」
「僕、ひどく退屈してるんです、はっきりいって暇を持て余してます。だから、あなたと話をしてみたいんです。コメディを観て泣く女の人、初めて見たから……」
 気の利いたせりふでないことは十分承知していたが、ほかに思いつかなかった。僕は彼女の反応を待った。彼女はしばらくの間、僕を値踏みするような目で見ていたが、やがて、おもむろに小さくうなずいた。
「いいわ」
「えっ?」
「お茶につきあうっていったのよ。お店はあなたに任せるわ」
 僕はもう一度訊き返そうとしたが、我慢した。彼女の気が変わるのが怖かったのだ。が、ここからが問題だった。彼女と話せることはうれしかったが、同時にそれはプレッシャーでもあった。正直いって、彼女と何を話せばいいのか分からなかった。僕には、初対面の人間を満足させるような会話など、できる自信はなかった。初対面どころか、大学の友人たち(便宜上、そういっておくが、実際には知り合いに毛が生えた程度の関係だった。大学に入って一年を過ぎたが、まともな友人関係というものを、僕は誰とも結べていなかった)とも満足に語り合ったことなどなかった。僕は以前、彼らに何度かいわれたことがある。僕が何を考えているのか分からない、と。彼らの言い分はもっともだと思う反面、まるっきり逆だとも思う。僕は口数もあまり多くなければ、普段から自分の殻に閉じこもりがちだが、でも、本当に分からないといいたいのは僕のほうだ。彼らが何を考えているのか、どんな言葉を望んでいるのか、僕には全く分からない。下手なことをいって彼らの気分を害したくないから、当たり障りのない言葉でしか彼らと接することができない。本当はそのことこそが、僕と彼らとを阻む最大の原因だということを、自分でもよく分かっている。でも、怖かった。本当の自分をさらけ出して、それを拒絶することが。そんな思いをするくらいなら、彼らに対して何も求めないほうが楽だ。物心ついたころから、家族を含め、ほとんどの人々に対して、そういう接し方をしてきた。
 適当な喫茶店を選ぶと、僕は彼女をともない中に入った。




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