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青臭会 2000・01・23
通信 青のくさみ NO・01−2
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老子 第1章 その2
『老子』は第1章に全て還元されます。つまり
<衆妙之門>に入るということです。
『般若心経』が<観自在菩薩>に還元されることと同じことでしょう。<衆妙之門>の向こうに THE SOMETHING GREAT の世界が広がっているように、<観自在菩薩>であることが THE SOMETHING GREAT の在り様なのです。
THE SOMETHING GREAT が何であるかということと、TAOが何であるかということは同じことです。『老子』には「此両者、同出而異名」というのがありますが、「此」は元々<一>のことですから、「同出」で、THE SOMETHING GREAT であってもいいし、<観自在菩薩>であってもいいのです。『老子』は自分の言っていることに対しても、何のこだわりも持っていません。『般若心経』でいう「心無ケイゲ」です(漢字が探せません)。『老子』では「故常無欲」なのです。そういうふうであることが TAO なんですね。平たく言えば、何でもかでも同じだよ、と言っているようです。嬉しければ喜べばいい。悲しければ泣けばいい。はがいければ怒ればいい。そうなんだけど、TAO に気づけばもっとやさしくなれるよ。どっちも同じことだけどね、と言っているのです。
だから、本当は、何にも言っていないのと同じことなんです。老子は何も言いたくなかったんですね。ただ、「このおいぼれをちゃんと見ておんなさい。このおいぼれと一緒に空気を吸って生きてごらん」と言っているようです。「わたしが生きている世界はとってもHappyだよ。そんなHappyな世界を玄というんだよ」。
気楽でいいですね。それに比べると、『般若心経』の世界は、ちょっとシビアです。玄奘さんが死にもの狂いで獲得した世界というイメージがつきまといますからね。中味はそうじゃないのでしょうけれど、「行深般若波羅蜜多時」というのはやはり重い。
雑感ばかり書いていますが、テキストに戻りましょう。
「無名、天地之始、有名、万物之母」
テキストに忠実に理解するのはとても難しい。ここも左脳では理屈になってしまうところです。「無名」と「有名」があり、「天地之始」と「万物之母」がある。これも玄なんでしょう。「同出而異名」なのですから。ともかく天地の始まりがあり、その始まりがまた万物の母なんだよ、と言っているんです。砕いて言えば、「あんたも宇宙の子なんだよ」ということでしょう。仁流に拡大して解釈すれば、「あんたも宇宙の子なんだから、宇宙と同じパワーを持っているんだよ」と言っているのです。
今注目されているフリーエネルギーを老子は人間のいのちの中にも見ていたのです。
「無名」はカオス。「有名」はコスモスと読み替えることもできるのではないかと思います。仁流に言うと、コスモスは調和のエネルギー。いずれ消滅します。カオスは生成のエネルギー。これから誕生するものが渦巻いている。
人間もまた誕生したものとして一つのコスモスなのですから、調和のエネルギーで生を営んでいます。TAOはこの調和のエネルギーの中で生きていくことなのでしょう。それを知ることが大切なことです。
そうでない場合、つまりコスモスに達していない場合は、カオスとして誕生のエネルギーが働きます。人間は何者かになろうとして悪戦苦闘するのです。その悪戦苦闘に疲れて、釈迦は家出をしてしまった。人間界の一切に「苦」を見てしまった。家出をして、一人苦しんで、苦行して、コスモスのエネルギーにやっと気づいたのでした。並大抵のことじゃありませんね。
『般若心経』の世界もやはり釈迦と同じようです。「行深般若波羅蜜多時」ですから、深く深く「行」をしないと、「五蘊皆空」に気づき、「度一切苦厄」、つまり解放されないのです。釈迦も玄奘もやっぱり苦行僧なんです。
老子にはそんな話が全くありません。おめでたかったのでしょうか。老子が出現したときは、もう、ただのおいぼれで、悠々と遊んでいた。何にもすることはなかったんです。ただ生きていればよかったんです。老子は生まれたときからLIVERTYだったんでしょう。「心無ケイゲ」、心に何のバリアもなかったんでしょう。これから心のバリアフリーが大きな流れを作り出していくのでしょうけれど、その前方には、きっと、あのおいぼれが、微笑んで、待っていることでしょう。
「玄之又玄。衆妙之門」
水仙のなかに水仙ありにけり 仁
みんな同じ水仙なんです。特別変わったものはありません。また変わったものになろうという水仙もないのではないでしょうか。老子も又周りにいる人たちと何ら変わったところはありません。むしろ、人よりもとろくて、愚図で、愚かしいように見えます。けれど、老子の知っている世界が見えてくると、これはただ者ではないことがわかる。孔子を、ちょっとした会話で、びびらせてしまうほどでした。びびってしまった孔子は、現世のしがらみを断ち切ることができなかったのです。現世のしがらみを捨てることができなければ自分が解放されないことに孔子は気づきました。それに気づいた孔子にとって、獲得してきた知識も地位も名誉もどんなに虚しいものであるかを、そして虚偽に満ちたものであるかということも知ってしまいました。けれど、それらのものを孔子は捨てることができません。孔子は老子に恐怖して二度と会おうとしませんでした。そんな話をパグさんはしてくれます。孔子は左脳人間で、今風に言えばデジタル野郎だったのでしょうか。
孔子は<衆妙之門>をくぐれない人でした。みなさんはどうですか?