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青臭会 2000・01・07
通信 青 の臭み NO・01
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<パソコンを駆使して、かっての『青の臭み』シリーズを再開してくれることを切に願ふ>という毛利さんの返書の中の言葉に触発されて、早速『青臭会通信 青の臭み』を発足することにしました。通信様式を考えましたが、当面、A4用紙の一太郎で作成します。いい様式があったらご教示ください。
・・・そこで、私の方は、このジャンルのもので新しい視野を提供してくれた本を紹介します。
<宇宙人ユニットからの手紙> 1,2 Jean=Pierre Pettit 中島弘二 訳
徳間書店 1993初版 1800円
<宇宙人ユニットの謎> N カステロ 中島 訳
徳間書店 1995刊 1300円
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毛利さんより本の紹介がありました。私はまだ読んでいません。最近とても関心を持っていますのでぜひ読みたいと思っています。
『TAO 永遠の大河 パグワン・シュリ・ラジネーシ老子を語る』
1.2,3
めるくまーる社 刊 1979年5月20日初版
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冬の旅の宿で、水本さんが『老子』に興味を持っていましたので、水本さんに紹介しました。宇宙の話とつながって面白いと思います。みんなで読書会などできたら、全く青臭会復活ですね。読書会というわけにもいきませんので、『青の臭み』を通して交流交感をしていきたいと思います。
復刊『青の臭み』の第1号は、私の方で、『TAO』の紹介をかねて、徒然の雑感を書かせてもらいます。
自ずから心がHappyであれるような日々を余生として送りたいという願いがあります。そんな先のない齢にもうなってしまったのでしょう。自意識に振り回されて、何者かになろうと悪戦苦闘した過去の日々が懐かしくさえありますが、今はもうただのおいぼれでいいのだと思えます。諦念というわけではありません。これが老人力というものかもしれませんね。一日一生一期一会と思って日々を大事にしていきたいものです。
TAOについて
初空のはがれ新たな光かな 仁
元日に久しぶりに一句作りました。元日の空は変わらぬいつもの空ですが、見る私の方が変わると、空も光も今までとは違った風に見えるようになります。どんな風に違って見えるのかと言われると、説明するのは難しい。言葉では説明しにくいけれど、イメージを重ねると伝わりやすくなるかもしれません。私の句はまだ説明を出ていません。俳句は取り合わせですから物と物を出会わせなければ伝わるイメージは生まれません。説明の言葉は何も語らない。けれど、私には私自身の変化として2000年の元日の朝の光は今までの光とは明らかに違っていました。今は違っていたということを素直に言っておきたいと思っています。
光はもはやただの光ではありません。光は根源そのものかもしれません。あるいは異次元のスクリーンなのかもしれません。そして今では光は私にとってhappyなエネルギーなのです。光はとてもビューティフルです。光は老子なのかもしれないし、老子は光だったのかもしれません。
老子 第1章
道可道、非常道、
名可名、非常名、天地之始、有名、万物之母、故常無欲、以観其妙、常有欲、以其観微、此両者、同出而異名、同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門、
ー『TAO』
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第1章が一番難しい。第1章が理解できると81章全部がわかる。各章は第1章のバリエーションなのです。ただのバリエーションではありません。イメージを重層することによってTAOの世界が立体化してくるのです。あるいは異次元化してくるといってもいいのかもしれません。ともかくTAOの世界は宇宙遊泳のスキムを体得させてくれます。
『老子』もまた神話や宗教と同じく天地創造物語から始まります。
ただ他の天地創造物語との違いは『老子』には宗教性が全くないということです。押しつけがましいことも、排他性もありません。「存在ってこんなもんなんだよ」と軽く言い流しているのです。あるいは「別の在り様をしているかもしれないよ」と相対化しています。詰まるところ何でもかでも一に納め込んでしまうのです。
一から生まれて一に帰る、というのが『老子』の世界です。
まるで宇宙創世と消滅と同じなんですね。『般若心経』の世界でいえば空即是色なのです。全ては一の中に畳み込まれています。
ー守屋 洋 訳
これが「道」だと説明できるような「道」は、ほんものの「道」ではない。これが「名」だと説明できるような「名」は、ほんものの「名」ではない。
「道」、すなわち「無」こそ万物の根源であり、そこから「有」、すなわち天地が生まれ、万物が生まれた。
万物の実相を見きわめるには、つねに無欲でなければならない。欲望にとらわれているなら、現象しか見ることができない。
実相も現象も、さかのぼれば同じ根源、すなわち「道」から発しており、ただ「名」を異にしているにすぎない。
「道」はあくまでも玄妙な存在であり、そこから宇宙の森羅万象が発するのである。
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ー張 鍾元 訳
語りうる「道」は「道」そのものではない。
名づけうる名は名そのものではない。
名づけえないものが天地の始まりであり、
名づけうるものは万物の母である。
だから、意図をもたない者が「道」に驚き、
意図ある者はその現れた結果しか見れない。
この二つは同じものである。
これらが現れて以来、名を異にする。
この同じものは神秘と呼ばれ、
神秘から神秘へと
あらゆる驚きの入口となる。
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『老子』を原書では読めませんから訳本からイメージすることしか私にはできません。『老子』の原書で、あのおいぼれがどんな生き方をしていたのか体感したいと思いますが今から言語の勉強をする気力はありません。学生時代に気づいていればできたのかもしれませんね。後の祭りです。余生の私の祭りは『老子』を人の解説を通して自己流に楽しむことです。パグワン・シュリ・ラジネーシさんは一番私をhappyにしてくれます。
パグワン・シュリ・ラジネーシをこれからパグさんと呼びます。パグさんはとても面白い。何が面白いかといって全部面白いのですが、その発想にいつもビックリなんです。ビックリくらい面白いものはない。
マホメッドやモーゼやクリシュナについてパグさんは語りません。「私のハートの中で何の鐘も鳴らない」とパグさんはいいます。「この地上には、あんな桁はずれの人間は存在できない。ああいう人たちはただの夢として存在するだけだ。そして神話というのは、集合的な夢以外の何ものでもない。人類の総体が彼らを夢見てきた。ビューティフルだ。が、信じられない」「一つの宇宙的ゴシップだ」。イエスもツァラツゥストラも仏陀も、やはり、「ある距離がある」という。ところがパグさんにとって、ひとり、老子だけは違うんです。<老子のことをしゃべるとき、私はあたかも私自身のことをしゃべるかのようにしゃべる。彼とは、私の実存はまったくひとつだ。老子のことをしゃべるとき、それは
まるで鏡を見ているようなものだ。私自身の顔が映っている>(p24)。
すごいですね。パグさんのように言えるようになりたいですね。
パグさんは宗教の論理を「狂気のロジック」と呼んでいます。それは太田龍のレプティリアンのマインドコントロールと重なって肯けます。それに対して、老子の論理を「生命のロジック」(それは隠された生命の、微妙な生命のロジックなのだ)と呼んでいます。
人は老子を理解するためには自分の心を変えなければならない。
TAOの代名詞は無為自然でしょうか。私は自意識過剰で人生を虚構化して生きてきました。自己の解体とか脱自己とか則天小私とか自意識の呪縛からの解放に悪戦苦闘してきたように思います。パグさんの世界に憧れていながら何者かになろうと藻掻いていたのでしょう。existenceしようとしていたのです。あるいは世の中にアンガージュしようとしていました。サルトルの一面に呪縛されていたのです。サルトルのアナーキストの面を虚構化して糞真面目なドンキホーテにもなりました。それはそれなりにとても面白い人生であったと言えます。けれど残念ながら今ではそういう挑むようなパワーが涸れてきたようです。衰弱なのでしょうね。
水仙のなか水仙の在りにけり 仁
ただごと俳句です。ただごとだけれど私にはただごとではない。野母崎に水仙を見に行きました。生憎の雨で往生しましたが、それだけに水仙が普段と違って見えました。
雨粒がレンズを襲っています。
カメラがとらえた水仙です。私がとらえた水仙は映像化できるのでしょうか。文字化すればただごと俳句になります。
「水仙のなか」「水仙の」「在り」というだけです。
けれど「水仙のなか」というのはどこなんでしょうか。
そのなかの「水仙」というのはどんな水仙なのでしょうか <名可名、非常名>
なのです。
「常の水仙じゃない水仙」を私は見ていたのです。どんな水仙なんだ? それを言葉で表すのは難しい。それを言葉でイメージ化するのが文学なのでしょうか。「水仙」の根源というものがある。「水仙」の本質というものがある。それは微妙なものです。
その微妙さを<玄>と謂う。「故常無欲、以観其妙」。<その妙を観る>ということが大切なところです。<観る>ということについて考える必要があります。『般若心経』は<観自在菩薩>で始まります。自在に観ることのできる菩薩なんです。その菩薩さんは「常無欲」なんですね。「常無欲」というのは生命のロジックです。『般若心経』も『老子』も同じ生命の世界に入る道なんでしょう。
観自在菩薩の原典は、通称「観音経」であり、アヴァローキテシュヴァラと呼ばれる菩薩を、クマラジュウが観世音菩薩と、玄奘が観自在菩薩と訳したのです。
ー『般若心経の科学』天外伺朗著 祥伝社 NON BOOK
p55
原名の前半のavalokitaは「観察された」という意味で、これに「支配者」あるいは「自在者」という意味のisvaraという語が合成されています。ですから、玄奘の「観自在菩薩」というのは、ほぼ直訳通りです。 ー同上 p56
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鳩摩羅什はこの菩薩の救済者的性格を重視して観世音といい、玄奘は人間の中にある大きな力を重視して観自在といったのかもしれない。
ー『般若心経講義』紀野一義著 PHP文庫 p31
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仏教には、「妙観察智」という言葉があります。「妙」というのは、奇妙の妙ですが、この場合には「不思議な」という意味よりは、むしろ「優れた」という意味合いが強いと思います。単に目で見て、「どうなっているのかな」と観察するよりも一段深い観察の意味です。具体的にいうと、観察している対象と一体になって、同化してしまうのが「妙観察」です。そのとき得られる「知恵」、そして一体になって同化して、自分も対象も区別できないことから発生する「慈悲」を、「妙観察智」と言っています。
ー『般若心経の科学』天外伺朗著 祥伝社 NON BOOK
p58
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さて、動物が下等動物から高等なものへ「進化する」ということは、その動物が、よりよく自分のいのちを保とうとする「自然の智慧」だといえよう。生きものなら、「生きる」ことが善であり、そのための智慧だから、善=智慧=いのち、ということが成立する。「いのち」は無意識だからこの「智慧」もまた無意識の働きによる。動物が何か刺激を受けると、「いのち」が自動的に「イメージ記憶」の中を査走して、過去の経験の中から役に立ちそうなものを引き出してすぐ行動に役立てる。じょれは「自動的」であって「コトバ記憶」とは無関係だから『直観』という。「イメージ記憶」を、ジカ(直)に、みる(観)のである。それが容易にできるように「イメージ記憶」の中のイメージの配列は、「いのち」がそれを一番探し易いように配列されているはずである。つまり、「自ずから在るがままに」配列されている。これを「自在」というのである。 (物理学者中山正和さんの大脳生理学からみた自在の見解)
ー『般若心経講義』紀野一義著 PHP文庫 p17
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生命のロジックを中山正和さんの見解から納得できるような気がします。花や木々や動物と対話するということの意味もわかるような気がします。松のことは松に習えと芭蕉は教えています。これもTAOです。TAOは合一の世界なのです。
<観自在>について考えるのは面白いことです。でもキリがないのでこの辺でやめておきます。観自在と道可道、非常道を同じ地平でとらえてみようと思ったのです。第1章に戻りましょう。
“道TAOの語られ得るものは、絶対の道ではない”
パグさんの訳です。老子は言葉を信じていないようです。老子が言葉を残したのは偶然でした。90になってヒマラヤで死を迎えようとした老子を国境で阻んだ関守が無理矢理書かせなかったら『老子』は存在しなかったかもしれません。弟子たちが教典のように如是我聞を編んだかもしれませんが全く別のものになっていたでしょう。ある人は『老子』も如是我聞なんだという。老子は存在せず民衆の知恵が編集されたものだという人もいます。いたにしろいなかったにしろ『老子』は存在します。イエスやブッダが存在するように。私の中ではハムレットだってラスコーリニコフだってムルソーだって存在します。存在はイメージなんです。
老子の存在の仕方はブッダやムルソーとは少し違っています。パグさんが老子なのかもしれません。福光の爺ちゃんが老子であったとしても不思議ではないのです。一見ただのおいぼれとして生きているのですから。
老子になるには
瞑想ですら無用の長物だ
ただ理解すること
ただ生をありのままに理解すること
それから隠れないこと
それに直面すること
それが何であれ
良くても悪くても
聖でも魔でも
天国でも地獄でも
ー『TAO』p28
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老子になるには私は私の自意識を落とさなければなりません。自意識を落としてもまだ老子にはなれません。自意識を落とすという自意識に呪縛されています。
<何の努力も役立たない。無努力性が必要だ。何の稽古も役立たない。無方法、無手段が役に立つ。ただ理解すること>。 |
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とパグさんは言っています。
私は犬ころのように生きていくのです。犬ころのように死んでいくのです。
それをよしと受け容れるのです。
老子を生きるとはそういうことです。
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そして私は、だからこそ、老子を生きたいと願っています。あるいは老子を感じて生きていきたいと願っています。老子はハーモニーなんです。
閑話休題 全てが閑話休題なんですが・・・

1月8・9日。野母崎に行って来ました。海の中に石人がいたのです。びっくりしました。顔だけ出して西の空を見ているようでした。雨が降っていたのでぼんやりとしか見えなかったのですが、どう見ても石人
です。あるいはタイムスリップして古代の化石人が海から湧出しようとしているところでしょうか。あるいはイースタ島の石人が遊びに来たのでしょうか。発見されたのを悔やんで海の中に潜ってしまいはしないかとおそれて、私は車を飛び出して慌ててシャッターを切りました。石人は無事デジカメの中に納まってくれました。
家に帰って、わくわくしながら再生しました。やっぱり石人に見えました。「やあ、今日は。よくいらっしゃいました」と挨拶しておけばよかった、と今後悔しています。石人も私に親しみを覚えて話しかけてくれたかもしれません。ひょっとしたら家に遊びに来てくれたかもしれませんね。
石人を拡大してみました。かなりの老人のようです。口をあんぐりと開けて何か話しているようにも見えます。風の又三郎に出会って以来、雨は死の恐怖を強迫しますので、私は雨を避けてすぐ車に戻ってしまったのですよ。石人さん、ごめんなさい。何だか石人さんの目が怒っているようです。でも、石人さん、友達になって下さい。友達として石人さんを青臭会のみんなに紹介します。