
2−1
青臭会 2000・01・16
通信 青のくさみ NO・2−1
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やっとメールができるようになりました。1月16日。朝の7時に就寝の毛利さんを電話でたたき起こして、メールアドレスを確認したのです。手紙でメールアドレスをもらっていたのですが、そのアドレスでは「受信者の一人が送信を拒否しています。云々」が出て、何度しても失敗。毛利さんのアドレスにハイフォンが欠落したままだったのです。で、ハイフォンを入れて送信しました。やっぱり同じ。ついにシステムサポートに駆け込み、お姉さんにヘルプ。私が打ち込んだメールアドレスで送信してもらったのですが、結果は私と同じ。お姉さんはあれこれ試行していましたが、メールアドレスを自分で打ち直して送信しました。おお、見事、送信成功。何と、私はピリオッドのところをコンマで打っていたのでした。
14日にインターネットをセットして以来、来る日も来る日も悪戦苦闘。パソコンのイロハが何もわかっていないのにメールやインターネットに挑戦しているのですから当然と言えば当然のことです。システムサポートの社長さんに「幼稚園に入学したのに大学院の勉強をしているようなものだからできなくて当たり前ですよ」と言われました。
納戸さんよりの手紙
すばらしいアルバムをありがとうございました。30年前のインクの臭さを残した青焼きの印刷のことを思うと隔世の感があります。技術の進歩はやっぱり20世紀の成果を
如実に示しています。しかし時代にあてどなくさまよいつづける青臭会の姿は今も昔も変わりないようですネ。
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「インクの臭さを残した青焼きの印刷」ですよね。手刷りガリ版印刷機を買って、鉄筆のペンだこ作って、夜を徹して『青のくさみ』を書いていた。納戸さんの『三階の溜息』が傑作でしたね。その作品から納戸さんの現実が始まったわけですからこれほどの傑作はありませんね。懐旧の念ではなく、蒼ざめた日々の再生というのは必要なことなのかもしれませんね。あれらの日々の中には何かがあったのかもしれませんね。少なくとも何か大きな幻想が私たちを包囲していました。60年代を本当はもっと真摯に総括しなければならないのでしょう。たとえば納戸さんにとって滝沢教授との出会いは何であったのかとか・・・。ひたすら時間に追われるように流れてきた歳月があります。その歳月をもう一度逆に流れてみましょうか。未来はかえって過去の中に眠っているのかもしれません。誰かが気づいていた未来。あるいはまだ誰も気づいていない未来が既にあったのかもしれません。あるいは過去がそのまんまで未来に蘇るかもしれません。宇宙150億年の歴史は一に戻るのです。一の中に全宇宙、全時間が畳み込まれている。肉体は死滅しますが魂は一に戻る、そう考えたくなります。フリーエネルギーがあるようにフリーソウルというものがある。それはやはり波動なのでしょうがそのフリーソウルを獲得すれば過去現在未来を自由に往来できるのです。万物の根源はフリーソウルなのですからフリーソウルを獲得すれば<観自在>の力がつくのです。それは想念なのです。想念は「如実に」60年代を湧出させることができます。
「今も昔も変わらない」青臭会というのは面白いですね。青臭会の旅は時空を超えたタイムトリップなのかもしれません。
ところで、こんな夢のような話をしていては納戸さんの手紙を空疎なものにしてしまいます。納戸さんの手紙を全文紹介したいのですが、青臭会夏の旅の研修資料にとっておきましょう。
99冬の旅のテーマの一つは道教,タオでした。福永君と道教の受け止め方に相違があるのかなと思います。それがイメージに対する違いが出ているように思います。次に少し長くなりますが、五木寛之・福永光司著の『混沌からの出発』の中の福永光司の一説を紹介します。
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『混沌からの出発』をまだ読んでいませんので、早く入手して、読みたいと思います。青臭会夏の旅のメインテーマにして、納戸さんがチューターになって学習会がもてたらいいですね。実現することを楽しみにしています。納戸さんも忙しいでしょうけれどその日のために準備をしていて下さい。
納戸さんの<気>についての考え方を面白いと思います。
けれど今日は、<イメージ>の話をもらいます。
前略。現象としての、すなわち気の流れの一つの現れである石ころは石ころにすぎません。風雪の中で変化していくもの、物理的に変化していくものにすぎません。
それをマリアにイメージするのは人間がその石ころに思い入れをしているだけです。その思いは決して気の流れに素直に向かい合ってはいないのだと思います。後略。
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前略、後略の部分に納戸さんの言いたいことのほとんどがあるのでしょうが、納戸さんの考えを全面的に受け容れています。その通りなのです。しかし、<遊び>の領域で「ただの石ころ」が「ただの石ころではないもの」に変貌していく人間の魂の在り様に、私は関心を持っているのです。納戸さんが「現代文明の病の一つは、そういう幻想の拡がりに執着して,真の姿を見ようとしないところにあると思っています」ということは事実として起こっていることだろうと思います。新興宗教の様々な事件はそういう現象なのでしょう。けれどそれをただの過った現象として一括して捨ててしまうわけにもいかないのではないでしょうか。いかなる現象も本質の現れです。捨ててしまっては<本質>が見えてきません。その<本質>とは何であるかを問いたいと思います。TAOはそこを開いてくれます。『混沌からの出発』もそこら辺の語りになっているのでしょうね。
古い『通信』ですが、とりあえず、今まで出した分を、HPで再録してみようと思っています。軽く読み流してください。