2−2

青臭会                          2000・01・22
通信     青のくさみ         NO・02ー2
 
 
 納戸さんよりの手紙 2



(前よりの続き)人間という生命現象は、気の流れの中で、そういう思い入れを行う能力を備えています。そういうイメージをふくらませて楽しむことは面白いかもしれません。面白がって遊ぶことができるのも人間という現象でしょう。しかしそれはあくまでも遊びです。幻想にすぎません。己の虚しい思いを埋め合わせる癒し、自慰行為にすぎないと思います。現代文明の病の一つは,そういう幻想の拡がりに執着して、真の姿を見ようとしないところにあると思っています。(後略)
 
 納戸さんの考えに少しも異論はありません。異論はないけれど、もう一歩踏み込んでいきたいと思っているのです。「生命現象」という言葉を納戸さんは使います。それは面白い言葉です。それを私は「いのちは現れるもの」と解釈します。様々なものとしていのちは湧出します。そして極論すれば「湧出」そのものは「遊び」なんです。「遊び」はHappyなんです。「遊び」はBeatifulなんです。
 また納戸さんは「己の虚しい思い」といいます。「己の虚しい思い」というのは何なのか、語ってほしいと思います。
 「己」と「思い」がイコールでないことを言っているのでしょうか。
 「己」を「真の己」と「自我意識」とに分けて把握しているのに、「己」という言葉でくくってしまっているように私には見えます。「己」=「自我意識」の現実領域で捉えれば「虚しい」の意味が見えてきます。それは自ずと「真の己」の喪失、欠如、あるいは「真の己」からの分離を意味します。人間というのは総体としては絶え間なく根源から離脱し続けてきたように見えます。一方で、少数世界ではありますが、人間は根源との合一を生きてきました。ブッシュマンと呼ばれる人々の生き様を見ているとその世界の在り様が見えてきます。いのちの湧出をいのちの湧出のままに生きているように見えます。ブラジルの奥地に住むある部族の人々は「自分たちにはHappyという言葉はない」と言っていました。そんな言葉を必要としないほどHappyに生きているのでしょう。
 納戸さんの言う「真の姿」はどんな在り様をしているのでしょうか。是非具体的にイメージ化してほしいものです。
 
 真実はとてもシンプルなもののようです。
 シンプルはBeautifulです。
 
 20日の日はとても美しい雪が降りました。あんまり美しかったので、独り占めが惜しくて、授業の初めに、起立礼の後、そのまま立たせて、1分間雪を見ているというアイスブレーキングを行いました。その後、心に起こったことを素直に表現しようとノートに書かせました。たった1分間の雪を見る時間が彼らに大きな変化や発見をもたらしたと私は思っています。その事実と意味を『なしかね? 通信』でメッセージにしました。
 雪が降る。雪が積もる、というとてもシンプルな出来事が、日常を遮断した時空を作るだけで、別の世界を出現させるのだと私は考えています。
 「日常」と「非日常」はどこに違いがあるのでしょうか。納戸さん流に言えば、どこにも違いはありません。けれど、人間の自意識にとっては、大きな違いがでてくるようです。 客観的ということは、人にとってどんな意味を持っているのでしょうか。
 世界は人が見ているようにあるのだ、ということはできないのでしょうか。
 少なくとも、その人にとっては、その人が見ているものが世界なんです。世界はその人にとってのみ意味があるのです。誰もその人が見る世界の意味を否定することも虚偽だということもできないのではないでしょうか。そんな世界もあるのだということを理解することが大切なことのような気がします。
 
 降る雪や欅に落ちる欅を落ちる  仁
 
 とてもシンプルです。ただごとの俳句です。けれど、私には、もう、ただごとではありません。私が雪であり、私が欅であったりします。納戸さんはそれを幻想だといいます。「幻想」だと言えば、それは幻想なのでしょう。けれど、それは左脳の判断なのではないかという気がします。右脳の世界はいのちの源泉から発しているような気がします。
 雪の降る校庭で、雪になって神々が遊んでいると言ったら、もう、納戸さんは、完全に私を変人と思ってしまうのでしょうか・・・。
 
 冬ざれの丘に神々あそびけり   仁
 
 実は、私が遊んでいるのですが、草の靡きや声や刻々の変貌は、私自身の心の反映だとしても、もう、私自身のいのちと重なってゆらいでいるのです。そんな体験したことはありませんか。
 
 木にのこる枯れ葉や風の又三郎  仁
 
 木に一つ残っている木の葉を見ていると、様々なイメージが湧いてきます。それは自分の体験や思考の産物なのでしょうが、全く私の知らないイメージが現れたりもします。それを幻想だというのは容易いことですが、そこに、もう一つの、実相としての世界を感じることもできます。それを感じ取っている魂は、まぎれもなく私の中にある実相なのです。 「故恒無欲也、以観其妙」と『老子』第1章にあります。
 「日常」あるいは「自我意識」から解放された時空においては世界はもっと違った姿をしているのではないでしょうか。
 
 初空の裂け新たなる光かな    仁
 
 もう、うんざりしますよね。納戸さん、つき合いきれんよという気分でしょうか。
 私は石を拾うのがとても気に入った時間となっています。それは私に石ころとの対話の時空としてあるからです。石ころと対話をするということは、私自身の内面と対話することに他ならないのでしょうが、私自身を問うということもまた私自身の内面を知るということなのでしょう。それはまた私自身が根源に向かうということでもあります。
 「仁の私」=Aと「仁でない私」=A’がいます。
 「納戸の私」=Bと「納戸でない私」=B’がいます。
 A≠B   A’=B’
 A<A’   B<B’
 A’=B’=C’=・・・・・・・・=ALL=一=THE SOMETHING GREAT
 という数式を考えてみました。
 これは私が石ころとの対話をやっている中で自ずと獲得した数式でした。それは数式というよりも世界観なのですが。
 石との対話によって、私は私が石であっても一向におかしくない感覚の中に入っていきます。それを経験と言っていいのかもしれません。とてもいいものです  その経験から、石ころとの対話を、私は<一との対話>と呼んでいます。
 私は「日常」から抜け出すことはできませんが、またこの肉体を抜け出すこともできませんが、<一との対話>によって異時空を経験することができます。「風の又三郎」は異時空経験の産物です。 一との対話はまた THE SOMETHING GREAT との対話です。一というのはALLなのです。一は THE SOMETHING GREAT なのです。
 「日常」と「異時空」を共に生きることを、私は TOTAL LIFE と名づけました。人間というのは TOTAL BEING なんだと思います。   
 TOTAL BEING は根元的な生の在り様です。それは THE SOMETHING GREAT
と対話し、THE SOMETHING GREATのパワーを受けて生きているのです。THE SOMETHING GREATのパワーはあらゆるものを受容します。あらゆるものに変貌します。石ころがTHE SOMETHING GREATであっても何の不思議でもないのです。
 いのちは、もう、「生命体」と呼ばれているものに固有の特性ではありません。原子そのものがいのちなのです。原子のいのちと宇宙のいのちの間にも違いはありません。私のいのちと花のいのちに違いがないのと同じことなのです。