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  青臭会                                     2000・03・27
  通信   
    青のくさみ         NO・05ー4
 

 TAOの誘惑 4
 

 生命の起源がRNAであることが証明されたという記事(98・7・31)を毛利さんから貰った。
 <RNAワールドは、最初にRNAが存在し、それが蛋白質を作りだし、その蛋白質が遺伝子の本体であるDNAを作ったと仮定している><今回の実験はリボソームのRNAが蛋白質合成を担っていることを明らかにし、仮説を裏付けた。現存する生物もこのメカニズムを引き継いでいる>
 <自己複製能力のあるRNA>というのは誰が何の意味で創ったのだろう・・・?
 
 <36億年前、最初の生命の糸(DNA)は、熱湯の噴き出す海の中で生まれたと考えられている。この糸には遺伝情報が記録されており、正確にコピーされて、次の代に伝達される。遺伝情報は伝達される間に少しずつ変化し、そのなかから環境に適したものが生き残った>                   ー『余録』(000106)
 
 <人間の細胞は36億年のいのちをつないできた細胞である。私たちの一つひとつの細胞は36億年の歴史をもっているのである>     ー柳澤佳子 (同上)
 
 <「万物のはじめを一という」と辞書にあるが、やはりそうだった。地球上の植物は、少なくとも4億5000万年前より以前に淡水に生息した、1種類の原始植物から進化したという学説が発表された>
 <・・・その結果、50万種といわれる現在の陸上植物の先祖はただ一つということがつきとめられたという。
 人類もアフリカにいた一人の女性から枝分かれしたのではないか。という説がある。旧約聖書「創世記」のイブ(エバ)の名をとってイブ仮説。・・・
 「イブの遺伝子は現在の人間すべての内部に存在する。私たちはみんな血のつながった親類同士なのだ」と人類学者は言っている。(B・M・フェイガン「現代人の起源論争」どうぶつ社)>                  ー『余録』(99・08・07)
 
 毛利さんがよく旅の宿で話題にしていたことですが、このテキストから毛利さんは何を読み取っているのでしょうか・・・?
 「イブ仮説」にしろ、「枝つき燭台説」にしろ、起源がわかったとして、その意味はどこにあるのでしょうか・・・?
 
 暇仁は、鈍く、鈍く、思考して、<是諸法空相>にたどりつきます。
 <空即是色>なんです。あらゆる科学的な証明が<空即是色>に収斂していくのですね。
 裸でアフリカの草原を彷徨っていたイブが私の祖先であることの幻視は私を身震いするような興奮に誘い込みます。祖先回帰の幻視行。
 その又先に、「一」なるRNA誕生に連なるいのちの連鎖を辿る旅をしてみたいなぁと思ってしまうのです。寝る前の瞑想で、私は宇宙遊泳を楽しんでいるのですが、今度は、誕生への回帰行を付け加えてみようと思います。ひょっとするとその過程でレプブリアンに襲撃されるかもしれませんね。イブを騙したのは蛇でしたからね・・・。
 けれど、<はじめに言葉ありき>、なんです。
 これは神の存在の前のことなのでしょうか、それとも後のことなのでしょうか・・・?
 私には、神より前のことのような気がします。
 「神より前に言葉があった」
 神というのはその言葉の実行者だったのではないかと思うのです。
 「法華経」の思想では「諸法実相」というのがあるそうです。つまり「存在する事実が、すべてそのまま真実の相を表している」ということです、と松原泰道さんが説明しています。「花は咲いているままで成仏しているわけだし、鳥は鳴くがままに成仏している」と説明してくれています。
 
 菜の花に仏も吾もありにけり        仁
 
 筑後川の土手の菜の花の中に座っていて、そんな句を作ったことがありました。
 そのずっと前に、
 
 水仙の中水仙のありにけり         仁
 
 というのを作っていました。同じことだったのですね。けれど愚かな私は菜の花のように成仏できているわけではありません。憧憬なのでしょうか・・・?
 遺伝子を辿れば、私と菜の花は遠い親類なのです。
 遠い親類が心を通わせ、話し合うことができるのは当たり前のことなんですよね。菜の花は私を愛おしんで、私の愚かさを哀れんで、何か私に呼びかけをしてきていたんです。その菜の花の呼びかけにやっと気づいたと言えるようになっているのでしょう。
 <空即是色する>ともっと、もっと、菜の花の慈しみのメッセージがよく聞こえるようになるのでしょう。

世の中に
<自己知 selfーknowledge>というようなものは存在しない
あなたがそれとの片がつくに至ったとき
突然、あなたは<知るもの>と<知られるもの>とが消え失せてしまっていることに気づく
そこにはただ<空>しかない
ひとつの広大な空間
はじめもなく終わりもない
ひとつの永遠
それがあなたなのだ
どうしてそれが知られ得よう?
                      ーパグさんの『TAO』p206
 
 
 <ひとつの永遠>としての私。
 このイメージはとても魅惑的です。それは私が私のままで菜の花になるとき起こることなのでしょうか・・・?
 「発見した」
 「何を?」
 「永遠を」
 というゴダールの映画がありましたね。
 それは海と空という広大な空間でした。一切の目的が消失したとき、そこにはただ原初のままの広大な空間が横たわっています。その空間には、そして、一切が在るのです。吾というものの虚しさに気づいたとき、吾も又消えて、広大な空間に漂うひとつの存在に帰る。花になり、虫になり、鳥になる・・・。
 鳥のように生きる。虫のように生きる。花のように生きる・・・。
 何という静寂。そしてまた何という華やぎ。
 私が広大な空間に遍在することの恍惚と不安。
 無我の歓喜。
 それは瞬間の体験なのでしょう。永遠は瞬間としてしか表れないのかもしれません。しかも瞬間の非連続としてしか表れないのかもしれません。その永遠の一瞬間にすべてが実存しているのでしょう。その一瞬間は空です。
 空の中に私は生起するいのちとなる。
 花がそうであるように、私もいのちを受け継いでいく一つの存在なんです。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。今日の私がいつも最高なんです。
 花と同じように最高なんです。
 虫と同じように最高なんです。
 鳥と同じように最高なんです・・・。
 だって、花と同じように仏性を得ているんですからね。
 <毎日を死ぬ>ということのリズムが何となくわかりかけてきたような気がしています。と言って、私が仏教徒になったわけではありません。
 

 しかし、青臭会一家であの桜吹雪の下を彷徨していた頃、わたしたちは何を思っていたんだろうか?
 いまでも、まるで眩しい幻想のようにわたしたちを追いかけてくるそれ。

 桜散る孤独はいまに始まらず  桂 信子

 写真を見ていると、わたしたちは、あの場所に何か忘れてきてしまっているような気になる・・・。
 銀行強盗をして、やっと手にした大金入りのボストンバッグを落としたまま、刑事に追っかけられて逃げ続ける犯人のようではないか・・・。
                ー毛利さんのEメール 00・03・22
 

 「桜吹雪の下を彷徨していた頃」。
 それは遠い過去のことなのでしょうか・・・?
 それが遠くなればなるほど、それは近くなるのではないかと私には思われます。
 「その頃」の私たちには何も見えていなかった。まさしく「彷徨」だったのでしょう。けれど、今になっても、「その頃」の私たちは実存しています。「その頃」は今の私たちの<現在>なのです。「その頃」は同時に、未来にも現在するわけですから、「その頃」を生きることは、永遠の現在として私たちの内部に存在し続けるのでしょう。
 もし、毛利さんが、「わたしたちは、あの場所に何か忘れてきてしまっているような気になる・・・」と考えているとすれば、その「忘れて」きたものとは何なのでしょうか・・・? 何だと毛利さんは考えているのか、教えてください。
 後の喩えから憶測すると、それは「心残り」を感じるものなのですか・・・?
 
 花になると、もう、心残りは何もありません。
 毎日が、然り然り、ウイウイ、なのです。
 これは幻想なのでしょうか? あるいは欺瞞なのでしょうか?
 納戸さんは幻想だと言うでしょうね。
 <学を絶てば憂いなし>とあのおいぼれさんは言っています。それは<学ぶな>ということではなく、不必要なものは学ぶな、と言っているのでしょうね。おいぼれはただ、無を知れ、無を生きよ、と言うばかりなんです。「私の生き方を感じ取れ」と言うのです。「花の中に私はいる」と言っているんです。「石の中に私はいる」と言っているんです。花は何も語らない。けれど、花は私よりもはるかによく生きている。
 花が教えてくれていることを学びなさいと言っているのでしょうね。
 
 イブ仮説に従って、私たちはみんな血がつながった親類同士なのだ、ということと50万種といわれる現在の陸上植物の先祖はただ一つ、ということを合わせて考えると、花と私が根っこは同じなのですから、語り合えないはずはありません。理解し合えないはずはありません。
 花の方は、とっくの昔から、私たち人間に語りかけているのです。
 今では、身をもって、私たち人間の過ちを告発さえしているのです。