ESSAY
| あるスパーの倒産 |
| 先日、某スパー(以後S社)が会社更生法を申請して事実上倒産した。それに伴い、S社の社員は当然のこと、S社に納品していた業者など多くの関係者が苦境に立たされることとなったのは、先日からテレビ報道等で伝えられている通りである。しかし、先日あるニュウスの中で、とある瀬戸内海の島で、その島唯一のスパーであり、同時に県内では最も早く進出したS社の店舗に関する気になるリポートがあったので、ここですこし触れておこう。 S社が進出した当時は多くの島民が大喜びしたという。日用品を買うにもわざわざ本島に渡らなければいけなかったのが、開店に伴い島内で事足りるようになったのだから。この島も他の瀬戸内の島々と同じく高齢化・過疎化が進行しており、その住民の大半は高齢者である。その多くは車の運転もできず、バスや船を乗り継いで島外に買い物に出なければならなかった。それが島内で済むようになるということへの喜びは大きなものだったに違いない。 しかし、そのS社が島から姿を消すかもしれない。現段階でその去就は定かではないが、本丸が落城してしまった以上、出城だけが生き残っていくということは難しいだろう。特にこの島における店舗のように、利潤が決して高いとはいえない店舗が存続していくのは至難であろう。 企業にとってみれば当然のことである。彼らはなにもボランティアで商売をやっているわけではないのだ。唯一にして至上の使命は利潤の追求であろう。経営が順風満帆なときならまだしも、このような事態になれば、まずもって不良債権的な部分を切り離していくのは当然の策である。 しかし、それだけでいいのだろうか。 ある島民は語った。「S社が消えたら自分もこの島を出る」と。「もう島外まで買い物に行く力は自分には残っていない」と。 自由主義、資本主義、民主主義のご時世である。店を出すのも畳むのも、もちろん自由である。しかし、その影で苦しんでいる人々がいるのもまた、事実である。 追記:後日、別のニュウス番組でこの島の首長がS社の本社を訪問し、島でのスパーの存続を正式に要請したという。また、S社にはすでに全国20近い自治体から同様の陳情が舞い込んでいるという。 |
| (2001年9月28日) |
| 狂牛病一考 |
| ついに俺のアルバイト先にも狂牛病の余波がきた。 俺はスパーのテナントである惣菜店でアルバイトをしている。その店では煮付け、和え物、寿司、弁当などと並んで天麩羅も販売している。そして天麩羅には当然「牛肉コロッケ」も含まれている。俺は狂牛病騒動当初から、ひそかにこの「牛肉コロッケ」に目を光らせていたのだ。しかし、売れ行きがさほど落ちるということもなく、しごく順調に売れ続けていた。商品には「牛肉コロッケ」というバーコードシールはもちろんのこと、「牛肉」であることを強くアピールするためご丁寧にも「牛肉たっぷりシール」というのを貼付して店頭に陳列している。が、売れ行きは落ちない。意外と消費者は無頓着なのかと拍子抜けしたような感じで毎日コロッケを揚げ続け、そして売り続けてきた。 先に反応したのは、業者の方だった。今日、「牛肉コロッケ」の納入業者がその製造元の社員を伴ってうやうやしくやって来た。俺が直接応対したわけでなく、上司とのやりとりをこそっと聞いていただけだったが、上司に対して2人はしきりに「牛肉コロッケ」の安全性を強調していた。 俺はただ「ああ、ここにもやってきたな」と思っただけだった。 狂牛病。このことがテレビ(お堅いニュウスもしかり、ワイドショーもしかり)で繰り返し報道されるようになってからの俺の一番の関心事は、牛肉の値段でもなければ畜産農家の将来でもなく、ましてや小難しいプリオンのことでもなく、やはり「牛」の行く末だった。テレビでは足が立たなくなってふらつく牛の姿が繰り返し流された。狂牛病に罹った牛である。そしてアナウンサーはさらりと言う。「○○県では、狂牛病に罹った疑いのある牛を原料として製造された肉骨紛を飼料として使用していた畜産家の牛を全頭焼却処分にしました」 俺は思った。可哀想な牛たち。人間の都合で配合され、人間の都合で太らされ、人間の都合で焼き殺され。 そのような視点での報道は今回の狂牛病騒動において、現段階までは見られなかった。わが国でそのような報道があったら「この非常時(?)にそんなことに触れるとはなんたる甘ちゃん、おセンチなやつだ」とお叱りを受ける可能性だってある。世間はもっぱら「俺たちの食う牛肉は安全なのか?」だ。人間だけが無事であればいい。人間に危害が及ばなければそれでいい。そんな人間のエゴ丸出しだ。国をあげて狂牛病殲滅に必死だがそれも人間のため。牛のことなんかこれぽっちも考えていない。 ああ、一言断っておかなければいけない。牛のことを考えている人がいた。それは末端の生産者。俺がかつて訪れたことのある九州のとある山間地帯。その地域一帯では畜産と林業、農業を組み合わせた複合農業を営む農家が殆ど大半を占めていた。そこで俺はある農家にお世話になったのだが、その農家も肉牛を数頭飼っていた。肉牛には名前があった。今でも憶えている。千代。それが彼の名前だった。農夫は彼をとても可愛がっていた。朝夕、必ず牛舎に行き話し掛けた。そしてある日、農夫は俺に言った。「30万や」。それが彼の値段だった。 彼を見送る農夫の姿は見ていられなかった。「ドナドナ」を地でいっていたもの。 ある哲学者が自然保護についての論稿の中で次のようなことを言っている。環境を守っていくためには、人間と自然との切れてしまったリンクを再び繋げなきゃいけない。それはたとえば食卓にのぼったステーキを見て、それがどのような過程を経て今自分の目の前に熱々の「ステーキ」として存在するのか、ということを考えることでもある。けれども経済的に、そして社会的に成熟するにしたがって、その繋がり(リンク)はますます希薄になっている。牧場と食卓がますます遠くなりつつある。そのような状況下で、この「切れて」しまったリンクをいかに繋げていけるか。これが環境問題にとって大きな課題である。確かこのような趣旨だったと思う。 しかし残念なことに、食卓に上ったステーキが元々どのような姿をしていたのか、どのような過程を経て自分の口に入ろうとしているのかを知らない人間が増えている。そのような人間にとって「ステーキ」はアクマで「ステーキ」という完成された「製品」でしかありえず、4本の足でしっかりと大地を踏みしめていた「生き物」へと思いは至らないのである。 俺たち人間は頂点に立っている。俺なんて生まれたときから頂上にいた。けれどもその頂上は本当に数え切れないほどの「命」に支えられてこその頂上だ。支える「裾野」が消えればもろく崩れ去る・・・いやそれどころか存在することすらありえない。砂上の楼閣の如し、である。 だから今回の「牛」も含めて、「裾野」に対する思いを見直す必要がある。 狂牛病とは随分かけ離れた話になった。 |
| (2001年10月23日) |
| 続・狂牛病一考 |
| 狂牛病騒動は相変わらず続いている。思った。はっきりいって俺たちの生活領域には狂牛病なんかよりずっと怖いものが溢れている。例えば、たばこ。吸えばガンになる確率は格段にアップ。狂牛病の比ではない。例えば、種々の環境ホルモン。確実に人間のカラダを蝕んでくれている。狂牛病の比ではない。 思った、というのは人間って「即効性」に弱いんだあ、と思ったということ。「狂牛病に感染した牛さんの危険部位を食すると狂牛病に感染しまっせ」。この言葉にひたすら怯えている。「あらやだ〜狂牛病ですって。今夜はビーフカレーの予定だったのに〜。仕方ないわねえ・・・チキンよチキン!チキンカレーよ」。牛肉を避けている。いまさらなに?そもそも俺たちが騒動前から日常に食っている牛肉だって相当怖い食材だ。食用に育てられている牛さんの大部分は、その育成過程でいろんな「危険物」を仕込まれている。「生物濃縮」という言葉がある。牛さんの体内に蓄積された「危険物」は、彼らを食すことによってもれなく俺たちの体に「譲渡」されているのだ。それにチキンだってそうとう怖い。中国産のチキン、調理前に見たことありますか?肉っていうよりむしろ薬品漬けの臓物の香り。奥さん、残念だったね。チキンカレーもデンジャラスよ。 そんな「危険物」は平気なのに「プリオン」は怖いらしい。俺は科学者でないからプリオンの攻撃力とその他もろもろの「危険物」の人間に対する攻撃力の比較をすることはできない。けれどもその大きな違いは何かということなら、なんとなく分かる。それは「即効性」だろう。 今夜のすき焼きで某国産の薬品臭プンプンの人造牛肉を食したからといって、明日足が立たなくなるわけではない。たばこの話だってそう。この一本をスモウキングシガレットしたからといって、ガン発生率が10ポイントアップするというわけではない。だけどもプリオンが体内に入ると確実に狂牛病に罹る。原因と結果が直結している。 ここだ。この即効性がくせものだ。今日、このヒノキを一本切り倒したからといって、明日吸う酸素に困るということはない。今日、この川を塞き止めたからといって、明日からその流系のお魚さんが総出で家出するわけではない。前段の話でいうと、原因と結果の乖離。ここでの話でいうと行為と結果の乖離。これが人間を盲目にするのだろう。これが人間を愚かな生き物にするのだろう。これが人間を・・・滅ぼすのだろう。 また狂牛病から大脱線。ああ、そうだ・・・ついでに言うと人間の滅亡に関しては、時間的な乖離に加えて空間的な乖離も大いに活躍している・・・のだがこれはまた時間のあるときにでも。 今宵もまた冷めたコーヒーに・・・乾杯。 |
| (2001年10月25日) |
| お犬様のおなり〜 |
| 日韓共催のワールドカップ開催まであと半年ほどになった。日本はベルギー、ロシア、チュニジアとグループリーグを闘うこととなった。俺の個人的見解。ベルギーには1−0でリードし後半終了間際を迎えるものの堪えきれずに(エムペンザあたりにPKくらいでサクッと)同点弾を浴びドロー。力上位と見られるロシア相手には前評判通り完敗。一縷の望みを託したチュニジア戦でも前回のジャマイカ戦の如く、空回りと決定力不足の連続で痛恨の敗戦。2敗1分けであえなく一次リーグ敗退。 怒られそうだ、いろんな人から。 本題。ワールドカップは「異文化交流の場」(元ブラジル代表ドーンガ氏談)らしい。あらかじめ各大陸に出場枠を定めて出場する32カ国を決定する、という予選方式なのだから色彩豊かな国々による大会となることは当然である。たとえば大会中の各国の応援団を見ているだけでもいわゆる「お国柄」というのが垣間見えなかなかよろしい。異様なリズムにのったアフリカンダンス。あのダイナミックかつ柔軟な腰の動きはまねできない。古代のインカを髣髴とさせるような中南米諸国のコスチューム。コロンビア名物の「鳥男」も今回は見ることができない。つんと張った乳首がセクスイなナイスバディブラジリアンレディ。こちらは16大会連続のお披露目だ。蛇使いの音色にのった中東勢の応援。今回はサウジアラビア一国にとどまった。さらに今回は政治的懸念も。このようにそれぞれに色があってよろしい。個人的にはノーブラのブラジルねえちゃんがもっとも好ましいが? このように異文化が一同に会する場であるワールドカップを「間接的」な「異文化交流の場」とみるのは別に誤った見識ではないだろう。 しかし先日新聞で「犬食」についての記事をみたとき、ふと「異文化交流」とはなんだろうと思った。大筋の内容は「おい、韓国の犬食者たちよ。かわいいかわいいペットの代表格である犬を食すとは何事であるか!けしからんぞ。これは動物虐待であるぞ。やめなさい!さもないと・・・」というようなものだったはず。確かに犬は猫と並びペットの王様だし、俺の住む日本でも食すということはあまり聞いたことがない。戦後の一時期に栄養失調に苦しむ人々が犬の肝臓を・・・という話を聞いたことはあるが、やはり日本でも犬は「飼う」ものであって「食す」ものではない。大方の国ではそうなんだろう。 そこで、だ。果たして犬を食すことが「正」なのか「悪」なのか。極右的ブッチュちゃん流に言うと犬を食すという行為は「justice」に「反して」いる「テロリズム」なのか。 それは個々人で決めてください、としか言いようがない。お好きなように。食べたい人は食べればいいし、食べたくない人は食べなければいい。そのことによって愛犬家的隣人との仲が険悪(いやここでは犬悪か?)になろうが、村八分になろうが、下痢になろうが知ったこっちゃない。ちなみに俺は食物連鎖には適っていると思うが? 問題なのは「異文化を否定」する態度。自分と違うものを否定し続けていちゃあ、人間上積みがないってもんだよ。新聞の論調から判断すると、犬を「飼う」文化もあれば「食す」文化もあるってことを理解できるだけの知見を備えた人間が少ないってことだな。「食す」ことが虐待になる文化もあれば「飼う」ことが虐待になる文化もあるということが分からないんだな。「犬食」という異文化を自分たちの価値観に照らし、はなから否定する思想。それこそは自分たちこそ法律、自分たちこそ正義と吼えてるアメリカンポリスマン的ブッチュちゃんとなんらかわりのない「お子様的駄々こねこねマン的思想」といえよう。 文化にはサッカーのようなルールブックがないんだ。だから優劣をつけるために勝負することはできない。そもそも文化に優劣なんて存在しないんだ。同じ土俵に立てないし、また立つ必要もないもの。それが文化ってもんだ。犬を食する文化があるということを知る。それでOKじゃないか?文化に関しては「交流」は可能でも「勝負」は不可能なんだ。勝負はサッカーだけで十分じゃないか?さらなる深みを求めて、いま異文化を覗こう。そう、「覗く」んだよ。決して「除い」ちゃだめなんだよ? |
| (2001年12月10日) |