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6月を迎えた。
あと、数日で県の高校総体が行われる。今年は5月中に雨が多くて、練習が十分にできず、選手たちも少しいらいらしている。
もう、調整の時期だというのに、タクは黙々と走る。3年もマネージャーをしていると、選手の精神状態と走りが深くつながっているのがわかってくる。ここ2・3日のタクはどう見ても落ち着かない。練習量を落とさないといけないのに、どうもくたくたになるまでやっているのだ。
「…榊原、いらいらしてんなあ。」
あたしの隣で、ササゴンがグランドを見ながら呟く。
体育教官室から見えるグランド。そこから選手の調整をじっと見守っている。
ササゴンはまだ30代前半だが、指導力は天下一品だ。
自分もランナーとして走っているので身体も締まっており、生徒からも、「先生、走っているときはかっこいいね。」と言われている。
顔は、まあ、十人並み。それでも、性格がおおらかなので、陸上部員からは兄貴のように慕われている。
あたしは頷きながら、黙って選手のゼッケンの確認を続ける。
「山本、お前もそう思うかあ。」ふいにこっちを見て同意を求めるササゴンに
「そうですねえ。もう調整なのに、昨日もなんか刺激、大目に入れてたし…、今日も先生の出したメニューより長く走ってる。」そう答えた。
調整メニューはある程度本人が考えるが、それを見て顧問のササゴンが修正を加える。
あたしはそれをまとめて、選手それぞれに渡した。だから調整メニューはほとんど頭に入っている。
「焦ってんのかな。五月後半、まともに練習できなかったからなあ。」そう言った後、どこのチームも条件は同じなんだがな、と独り言のように呟いた。
「山本、榊原にもう上がるように言ってこい。」
え、あたしがですかあ、まだ試合の準備終わってないし、と言ったが、ササゴンに早く行け、とじろりと睨まれ、しかたなく立ち上がった。
「あ、それとダウンが終わったら俺のところに来るように言ってくれ。」
体育教官室を出てドアを閉めると、あたしはふう、と溜息をつく。あたしはタクとあまりしゃべらない…というか必要最低限の話しかしない。だからではないが、あまりあたしはタクの近くには行かなかった。
タクはまだジョッグを続けている。おずおずと近づいて、通りがかるタクに声をかける。
「キャプテン、ササゴンがもう今日は上がるようにって。」
タクが止まる。ふっと振り返る。汗に濡れた髪の毛が光る。目が合う。ぎゅっと胃のあたりが痛くなる。
「それから、ダウンが終わったら教官室まで来るようにって。」
ちらっと一瞥を返して、「わかった。」とタクはそれだけ言って、歩いていった。
こんなときのタクの目はすごく厳しい。なぜかはわからないが、時々刺されたように胸が痛くなる。だから言いたくなかったのに…そう思ったが、とりあえず練習を止めてくれたのでほっとした。
くるりときびすを返して、あたしは教官室に戻る。
小さいころはよく話してたんだけどな…。いつからこんなになっちゃったんだろう。
歩きながら、あたしは小学生の頃の自分とタクを思い出していた。
あたしとタクは幼馴染だ。幼稚園も一緒。家も結構近くて小さいころはよく一緒に遊んでいた。
小学校3年生の冬。いつものようにあたしはタクの家に遊びに行こうと、翌日の約束をするために電話をかけた。
「ごめん、ハル。明日ね、ぼく出かけるんだ。」
「そうなんだー。せっかく一緒に遊ぼうと思ってたのに。あーあ。」
「ごめんね。お父さんがロードレースに出るから、ぼくも一緒に走るの。」
「ロードレースって、何?」
「うーんとね、マラソンみたいなもの。」
「えー、すごくきついんでしょう。タクちゃん、走れるの?」
「うん。お父さんと一緒に練習したんだよ。走るのすごく気持ちいいよ。」
「へえ。ハル、タクちゃんの走るとこ、見てみたいなあ。」
「そしたら、一緒に来る?」
「いいの?」
「うん、お父さんとお母さんに頼んでみるから。」
そう言うと、また後で電話するね、とタクは電話を切った。あたしは嬉しくなって、母にすぐ報告した。
「あのね、あしたタクちゃん、マラソンに出るんだって。あたしも見に行っていいって。お母さん、行ってもいいでしょう?」
母は、あちらのご迷惑にならないかしらね、と心配していたが、その後すぐタクのところから電話がかかってきて、結局あたしは一緒に出かけることになった。
ロードレースに行くのは朝早かった。タクのお母さんとタクが、おはよう、とあたしを家まで迎えに来た。あたしは昨日から、結構興奮していて、その日はすごく早くに目が覚めてしまっていた。お弁当を持ち、車に乗り込み、タクと一緒におしゃべりする。
「あのね、今日のロードレース、3番までに入ったら、メダルがもらえるんだよ。」
「わあ!すごい。」
「ぼくね、頑張ってメダル取るんだ。」
「いいなあ。ハルも見たい。そのメダル。」
「そうだ!もし、ぼくがメダル取ったら、ハルにあげるよ。」
「え、ほんと?」
「うん。せっかくハル、来てくれたから。約束!」
そう言うと、あたしとタクは指切りをした。前の座席ではタクのお父さんとお母さんが笑っていた。お母さんは、あらあら、そんなに自信たっぷりで大丈夫?とタクに聞いてきたが、タクは「ぜったいメダル取るんだ!」と自信満々だった。
小学生のレースはすぐに始まった。3年生と4年生が一緒に走るレースだったので、タクのお母さんは「4年生にはかなわないわよね。」と言って「ごめんね、ハルちゃん、メダル、多分無理だと思うから。」とあたしに謝った。でも、あたしはなんだかハルがメダルを取って帰ってくるような気がしていたので、「おばちゃん、大丈夫だよ、きっとタク、一番だよ!」と根拠のない自信を見せていた。
ピストルが鳴る。一斉にスタートする。転んで泣き出す子もいた。タクは?と思っていると、目の前をピュ−ッと走っていった。先頭集団だった。「タクちゃーん、がんばれー!」あたしは一生懸命大きな声で応援した。そのころ、タクは学級でも前から数えた方が早いくらいの身長だったが、走っているタクは大きく見えた。
まだかなあ、まだかなあ、と道路に身を乗り出してタクの帰りを待つ。しばらく待っていると、元の道を戻って、先頭の選手が走ってくる。
「おばちゃん、来たよ!」そうタクのお母さんに声をかけたが、きっと4年生よ、と笑って言っていた。じっと目を凝らして見る。あのランニングは、あのゼッケンは…タクだ!
「おばちゃん、タク、一番で帰ってきたよ!すごい、すごい。」
あたしの声にタクのお母さんも走ってくる選手を見る。すごく意外そうな顔で。間違いない。
「タクちゃん、もう少し、頑張れー!」
あたしは最後の声援を送った。タクは見事に一番でゴールテープを切った。4年生を抑えて。
あたしとタクのお母さんはキャーキャーと言いながら抱き合って喜んでいた。
その後、タクは表彰式でメダルと、賞状と記念品をもらってきた。よかったね、よかったね、と言いながら、みんなで喜んでいると、タクははい、とメダルをあたしに差し出した。約束はしたけれど、ほんとにいいのかな。がんばったのはタクなのに、と少し気が引けた。「タクががんばってもらったのに…。ほんとに、いいの?」
タクはにっこり笑うと、
「うん。だってハルが応援してくれたからがんばれたんだもん。お礼にあげるよ。」
そう言ってもう一度、はいと差し出した。
タクのお母さんも、「タクがそうしたいって言ってるから」と言ってくれた。
あたしもにっこり笑って、ありがとう、と受け取った。
それからタクはお父さんと一緒にいろんなロードレースに出るようになった。そのたびに賞状を取ってくる。あたしもよく連れて行ってもらった。タクの走るのを見るのが好きだった。伸びやかな足、流れるような走り。学年が上がって5年生ぐらいになると、タクはロードレースに出る人が誰でも知っているような有名な小学生になった。
タクは、レースのたびもらうメダルを、いつもあたしにはい、とくれる。あたしが見に行っても、いかなくても。あたしも笑顔でそれをもらっていた…
いつからだろう。こんなふうに話せなくなってしまったのは…
そう考えていると、いつの間にか体育教官室の前についていた。扉を開けると、ササゴンが携帯で話していた。
「はい、榊原は3日目の5000mに出場予定です。あ、本人との接触については、学校長と相談の上…」
注目選手、ということでタクにはすでに何校か大学からのオファーが来ていた。
いつかは違うところで、違うものを見るようになる。違う空気を吸って生きていくようになる。そんなこと、わかっていたはずなのに、まざまざとそういう話題を見せ付けられると、胸が苦しくなる
あと、もう少し。一緒にいられるのも。
とにかく、高校総体。選手が悔いの残らないようにあたしはできる限りのサポートをしないといけない。あたしはやり残していたゼッケンの準備をするために、また、ササゴンの隣に腰を下ろし、黙々と仕事を始めた。
試合の日のマネージャーは忙しい。
特に、1年間の一番のメインイベントである高総体の時にはその忙しさは群を抜いている。
みんなこの日を目指して練習してきた。だから空気がいつもと違う。ぴりぴりしている。近寄ったら感電しそうだ。
あたしはそんなときにはできるだけ話をしない。あたしまで緊張すると、みんなもさらにプレッシャーを感じるので、できるだけ普通にしている。いつもの試合のように、スポーツドリンクを準備したり、ストップウォッチを首からぶら下げて、メインスタンドでタイムを取って記録したり。
みんな緊張してナンバーカードを付け忘れたり、スパイクのピンを変えるのを忘れていたりする。だから、最終チェックはあたしの仕事だ。ランニングにナンバーがついているか、ピンはきちんと試合用になっているか…
忘れているときに慌てないように。そのためにあたしはここにいる。
タクの試合は3日目だ。今日と明日は最終調整。サブグランドで自分のメニューを黙々とこなしている。召集の時間が近くなった選手を探しにサブまで来ると、タクが練習しているのが目に入る。200mの加速走。最初はゆったりと走っていたのが、コーナーを過ぎると、すっとスピードを上げる。上体がほとんど動かない、きれいなフォーム。
これだけね、と思いながらスピードを落とすまで見つめている。
「おう、山本、何してんだ。」
はっと気付くと、あたしが呼びに来た(はずだった)吉田君が目の前にいた。
「あ、吉田君、もうすぐコールの時間なのに戻ってこないから、探しに来たんじゃん。」
気付かれただろうか。タクを見ていたことに。
「そうそう、いっけねーって思ってさ、今急いで戻ってきたんだよー。あと、5分くらいだろ、最終コール。」
「早く行かないと、間に合わないよ。大体、総体のときはコール、厳しいんだから。」
すまんすまん、と言って、吉田君はあたしにじゃ、これお願い、とジャージとTシャツを渡す。
「がんばってね。」そう言うと、吉田君は笑いながら
「おう、山本のために頑張るぜ。」と言って、手を振りながらコール場所に走っていった。
相変わらず、調子がいいんだから…と思ってふっと振り向くと、じっとこっちを見ているタクがいた。
まさかね。あたしを見てるんじゃないよね。
少しドキドキしながらも、自分の勘違いだ、他のところを見ているんだ、と自分に言い聞かせて、あたしはチームのテントに戻るために歩き出す。何事もなかったように。もう一度ちらっと振り返ると、タクも何事もなかったように、練習の後のダウンに入っていた。
タクは前日はほとんど練習を入れない。ササゴンが言うには、完全に疲労を抜いて、軽く流しを入れるくらいでちょうどいいらしい。一度、調整練習が軽く感じすぎて、試合の前の日、不安になったタクが少し長めのJOGを入れたら、案の定、その試合は失敗した。それからタクはササゴンの言うことは必ず守っている。
あさって、かあ。
楽しみでもあり、不安でもあった。今度のタクは落ち着きがなかったから。
吉田君は1500mに出場していた。予選は6組。上位3人が確実に決勝に進める。ストップウォッチを持って、あたしはメインスタンドのゴールの近くへと移動する。吉田君は、予選の4組目に登場した。タクほどではないが、彼も県内ではけっこう名の知れた選手だった。
彼は楽に予選を通過した。記録もまずまず。この調子だと、決勝でもいいところに入れるかもしれない。予選のタイムをノートに記録し、あたしは自分のチームのテントへと戻って行った。
テントに戻ると、後ろからポンとシューズ袋が飛んでくる。
むっとして後ろを見ると、吉田君だった。
汗に光った顔でまぶしい笑顔を見せて彼が言う。
「ほら、言ったとおり、山本のために頑張ったろ?」
あたしはそういう彼を軽くあしらう。
「はいはい。よく頑張りました。でも、まだ決勝があるでしょ。油断大敵。ちゃんと時間見ててよ。また探しに行くのは大変なんだから。」
そう言うと、彼のシューズ袋を投げ返す。それをキャッチした吉田君は分かったよ、といってにこにこと笑っていた。
彼はいつもこうだ。何かと言うとあたしに絡んでくる。といってもいやな感じではない。むしろ、楽しげに、嬉しそうに話し掛けてくる…それが何を意味するのか、あたしもわからないわけではない。
吉田君は優しい。そして、明るい。ほんとにいい人だ。タクとは全然違う。こんな人を好きになったら楽しかっただろうな、って思う。でも、あたしはどうしてもタクを諦めることができない。それがなぜかは分からないのだけれど。
だから、吉田君を傷つけたくないから知らないふりをしている。…でも、もしかしたらそれは残酷なことなのかもしれない。そう思う。
午後の決勝、彼は5位に入賞し、ブロック大会出場を決めた。記録も自己ベストを更新した。レースが終わった瞬間、ゴール近くのスタンドにいるあたしにきらきらした笑顔でガッツポーズを見せた。…あたしは素直に嬉しかった。手を振った。「やったじゃん!」と声をかけた。でも、それはマネージャーとして、3年間一緒に頑張ってきた仲間が、目標とした大会で最高の結果を出す…それが嬉しかった。それだけの感情だった。
その日はいつもより早く目が覚めた。目覚ましで起きるのが当たり前なのに、ジリリリリ、…とベルが鳴る前に目がパッチリと開いた。大体昨日もあまり眠れなかったと言うのに。理由は自分でも分かっている。緊張してる。今日はタクの試合だから。試合のときはいつもそうだ。前の日から眠れない。朝は早く目が覚める。…あたしが緊張したところで、タクにはまったく関係ないんだけど。
競技は9時に開始される。とすると、1次コールが30分前だから、7時には競技場についていないとまずい。テントの確認、選手の水分補給の準備、今日のレースのコール時間の確認…マネージャーは忙しい。ササゴンに、「お前、俺の車に乗っけてってやるから。6時15分に学校な。」と言われている。
外はまだ暗い。父さんも母さんもまだ寝ている。ごそごそと起き出しクラブジャージに着替える。マリンブルーの鮮やかな色。選手たちと同じ、うちの部活のクラブジャージ。あたしがこの部活のマネージャーである証だ。
中学の頃までは、遅刻ぎりぎりの朝寝坊だったあたしが、「陸上部のマネージャーをする」と言ったときに、一番驚いたのは母さんだった。
「あんたみたいな寝ぼすけにマネージャーなんかできるはずないでしょう。」
第一声がこれだった。母さんは、自分も高校時代に野球部のマネージャーをしていたことがある。だから、マネージャーがどんなにきつい仕事かよく知っていた。
「例えばね、選手が8時に試合開始だとすると、その前にウォーミングアップするでしょう?だったら1時間以上前には試合会場に行かないとならない。マネージャーは当然選手の世話をするわけだから、その30分前には会場に入ってないといけないわよ。…とすると、何時に行けばいいの?」
「…6時半…。」
「そうでしょう?そしたら何時に起きないといけない?」
「多分…5時くらい。」あたしの声はだんだん小さくなっていく。
「大体、いっつも遅刻ぎりぎりまで寝てる人が…できるわけないじゃない。」
あきれた顔で母さんはあたしを見ていた。
「でも、やりたいの。それに遥子も一緒だし。」
“遥子も一緒”というのはあたしの奥の手だった。中学時代からの親友である遥子はうちの母さんから絶大な信頼を得ていたのだ。まあ、あたしがぼんやりしている方だったから、しっかりして見えたのかもしれない。
「波瑠が遅刻すれば、遥子ちゃんだけじゃない。選手みんなに迷惑がかかるのよ。もう高校生になったんだからお母さんに頼らずにできるって約束するなら、OK。ただし一回でも遅刻したり、みんなに迷惑かけるようだったらそこで辞めなさい。」
母さんは本当に大事なところであたしを絶対に甘やかさない。大切なことは自分で選択させる。いつも、「自分で決めたことはきちんと自分で責任をとりなさい」そう言っていた。
そして、「約束を破ることは、信頼してくれた人を裏切ること。だから絶対に破ってはいけない。」ということも繰り返し繰り返し、あたしに教えてくれた。
…母さんはあたしにマネージャーができると思ってくれているはず。信用してくれている。だから大丈夫。母さんがそう思っているなら。
自分にそう言い聞かせて、あたしは答えた。
「約束する。絶対にみんなに迷惑かけない。」
あれからもう2年以上が経った。あたしはちゃんと母さんとの約束を守って、遅刻せずに練習に行き、試合の世話をしている。
肩掛けのついた白いスポーツバックに水筒と弁当を入れる。必要なものは全て昨日の内に準備した。
小さい声で「いってきます」と家の中に向かって呟き、あたしは玄関のドアをカチャリ、と閉めた。
朝の競技場はこころなしか寒い。冷たい空気がぼおっとした意識にぴりりと刺激を与える。
朝7時。ササゴンの車に乗り、あたしは競技場へと到着していた。うちの学校のテントに向かう。救急箱、ナンバーカードの予備、水分、クーラーボックス…必要なものを抱えて。テントに着くと、黒いスポーツバックが一つポン、と置いてあった。タクのだ。
今日、朝一番でタクは5000mの予選を走る。こういう日のタクはすごく神経質で、人に話しかけられたりするのを嫌う。9時に競技開始だから、召集開始が30分前。終了が20分前。試合の前はいつも少し余裕を持ってきている。多分、散歩にでも行っているのだろう。試合のときはいつもそうだ。
キーパーに水を入れてスポーツドリンクを作っていると、タクが帰ってくる。ゆっくりと歩いてきた。やはり朝の散歩だ。
「おはよう。」そう言うと彼はこちらを見ずに「おはよう。」と返す。
それ以上別に何も言うことがないのであたしは黙々と作業を続ける。タクはバッグを開けてごそごそと何かを取り出そうとしているらしい。神経はタクの方へずっと向けられているのに、あたしは興味のないふりをしながら家から作ってきた氷をキーパーの中へ入れる。スポーツドリンクを小さな台の上に置き、その横に紙コップを置いていると、すっと横からユニフォームが視界に入った。ひょっと横を向くと、タクがユニフォームを差し出している。
多分、あたしは驚いていたと思う
タクの細くて、長い指。それがあたしの視界に入る。ドキドキする。胸の音が聞こえるんじゃないかと思った。
何も言えずに固まっているあたしとは目を合わせず、タクは、「マネージャー、ナンバーカード、つけといて。」それだけ言ってユニフォームを押し付け、スパイクを持ってサブグランドへと歩いていってしまった。後には固まったままの、でもユニフォームとナンバーカードをしっかりと手にしたあたしだけが残される。
ときどき、タクはあたしの予想外の行動に出る。タクは試合の準備に関しては非常に神経質で、ユニフォームとかスパイクとかは焦らなくていいようにきちんと前日に確認している。…他の選手は緊張していろんなことを忘れて、ばたばたしているときが良くあるが、タクに関しては一切そういうことがなかったと言っていい。
ただ、1年のうちに何回か、あたしに何かを頼む。それは今日みたいにナンバーカードをユニフォームに付けることだったり、スパイクのピンを換えることだったりする。それは大抵レースが朝早いときだ。
…多分、朝早いから、自分でする時間がなかっただけよね。
自分の心の中に浮かんでくる小さな期待。でも、膨らめば膨らむほどパアン、と弾けたときの衝撃は大きいはず。あたしはその衝撃を受けるのが怖い。だから、期待は持たない。ただ、側にいられるだけでいい。
靴を脱いでブルーシートの上にペタン、と腰を下ろす。ユニフォームを広げる。この3年間、タクが着てきたユニフォーム。もう大分薄い緑の色も褪せてきている。ナンバーカードの色は黄色。あたりを見回しても、まだ、うちのメンバーは誰も来ていない。5000mに出場する者でも、集合は7時半、それ以外は、集合は8時だから。
じっとあたしはユニフォームとゼッケンを見つめる。一つの考えが頭を掠める。
しばらく考えていたあたしは、バックの中から筆箱を取り出し、そして、黄色のペンを出してタクのゼッケンにこう書いた。
「ガンバレ」
隅っこに小さく。きっとこんなところ後からでもタクの目には入らない。
あたしはペンを直し、安全ピンを道具箱から取り出す。一つ一つ、丁寧に付けていく。前と、後ろに。
「おはよう」とひとりの選手がテントにやってきたとき、あたしはちょうどナンバーカードをつけ終えて、黒いスポーツバックの上にそっと置いたところだった。「ガンバレ」の文字と一緒に。
「位置について」数秒の後ピストルが鳴る。一斉に選手が走り出す。
タクは1組目に出場する。予選は4着取り。間違いなく決勝には進めるはずだ。
ストップウォッチに目をやりながら、あたしはタクの姿を追う。薄い緑のユニフォーム。それには、学校名が入っている。タクはいつものゆったりとしたフォームで先頭集団に難なく付いていく。1000mの通過は2分55秒。そんなに速いペースではない。たぶんこれなら楽勝だろう。
思ったとおり、タクはラスト一周の鐘と同時にすっと前に出て、後続に10m以上差をつけてゴールした。
でも、何かがおかしい。理由も根拠もない。でも、何か変だ。
そう思った。ゴールの後にタクはササゴンに呼ばれている。頷きながら何か話しているようだ。ササゴンがポン、とタクの肩を叩き、「ハイ」と返事をしてタクはその場を去っていった。
ササゴンがスタンドに目をやる。そういうときは大抵あたしを探しているときだ。
「先生!」最前列から乗り出して声を掛けると、ササゴンは急いでこちらにやってくる。
「そこにいろよ。ちょっと頼みがあるんだ。」
頼み?何のことだろう、と頭をひねっていると、ササゴンが走ってスタンドに上がってきた。
「山本、お前、今日の榊原、どう思う?」
「どうって…タイムは悪くないんですけど…何か変です。」
「やっぱりそう思うか。」
そう言ってササゴンは何か考え込んでしまった。次の組は幸いうちの選手はいないが、この後タイムもとらなければいけないし…。
「先生、頼みって?」
「さっき、榊原にも話したんだがな、あいつ3日ぐらい前まで結構練習を重く入れてたろ。」
はい、とあたしは答える。そうだ。確かにあのときからタクはいらいらしていた。ササゴンの立てたメニューよりも多め多めに練習をこなしていた。
「どうも、足、まだ張ってるんだよ。お前、マッサージしてやってくれないか?」
は?とあたしはもう一度ササゴンに聞き返す。「先生、今、何て…。」
「だから、榊原の足をマッサージしてくれって言ってるんだよ。」
あたしはまた固まった。本日2度目である。ということは、タクの足に触らないと…。
考えただけで頭はパニックになりそうだった。話さえまともにできないのに。
「先生、他の選手にしてもらっちゃダメなんですか?」泣きそうな顔であたしはササゴンに訴える。
「男の力だとなあ、ちっと強すぎるんだよ。もう、榊原には言ってあるから。」
え、タクはもう知ってるの?またまた頭はパニックになる。
「そ、それでキャプテンは何て…?」
「何てもくそも、俺が言ったら『はい、わかりました』って言ってたぞ。お前、ときどき俺の足マッサージさせてるだろ。やり方は分かってるな。少し軽めでいいから。榊原がテントに戻ってきたら、すぐ頼むぞ。」
そう言うとササゴンは仕事があるから、といってまた走って戻っていった。
あたしは重い足を引きずりながらテントに帰った。もうタクはジャージに着替えてテントの中に座っていた。…やるっきゃないのか…。そう思って、おずおずとタクに話し掛ける。
「あの、先生がマッサージしてやれって…。」
タクはああ、と言うと「どうすればいい?」と聞いてきた。
「ジャージ脱いでそこにうつぶせになって。」
タクの身長は180pぐらい。長距離ランナーにしては背が高いほうだ。うちのテントの中にタクが寝そべると、もう一杯一杯になってしまう。
仕方ない。意を決してタクの足に触れる。もう、高3にもなるとみんな結構毛深くなっているが、タクの足はつるっとしている。女子部員の誰かが、「榊原君の足、綺麗だよねー。取り替えて欲しい。」と言っていたくらいだ。
足首からふくらはぎにかけて少し力を入れてさする。確かに少し張っているようだ。ゆっくり、ゆっくり。手にはサロメチールを少し取り、それを塗りこんでいくように両足をマッサージする。10分ほどすると、大分ほぐれてきた。そこにササゴンがやってくる。
「お、山本、ちゃんとやってるな。どれ」とタクの足に触れる。
「もう、いいだろ。榊原、お前調整やりすぎなんだよ。決勝、少し辛いかもしれんが行けるところまで行けよ。」
タクは「はい」と答えると、やっぱりこっちを見ずに「サンキュ。」と言った。あたしは「いや、別に、先生に言われたから…。」と訳のわからない返事をして、またストップウォッチを握り締めて記録を取りにスタンドへと向かった。胸はずっとどきどきと音を立てて鳴っていた。
その後はいつもどおりの仕事をこなした。
タクの決勝は4時15分スタート。今日の最終種目だ。スタンドには陸上部員全員が駆けつけている。あたしはいつもどおりストップウォッチを持って、ゴールの近くに陣取る。タクの姿が全部見えるように、最前列ではなく、少し上の段に。
競技者係が選手を並べる。200mのスタート地点。タクはちょうど真ん中ぐらいにいる。
「優勝候補筆頭」それが今回のタク。去年の新人戦から駅伝まで、ことごとくいい成績を収めてきた。都道府県駅伝の候補選手にも選ばれている。冬には全国大会も経験した。…なんだか、いろんなところで活躍するタクはあたしの知らないタクのような気がした。
予選では締めてなかった黄色のハチマキ。タクが気合を入れるときには必ずハチマキを締める。
みんなはバックスタンドで応援。あたしはメインスタンド。ちょっとだけ良かったと思う。だって、胸のどきどきを誰にも聞かれることはないはずだから。
「位置について」競技場が一瞬、シン、と静まる。何秒かの沈黙の後、「パン」とピストルの音が鳴る。一斉に選手がダッシュする。
先頭集団にきちんと入っているのを確認してほっと息をつく。あの足の張りはもう大丈夫だろうか。ふと午前中の心配が頭をよぎる。1周目。400mは2番手で通過する。ラップを記録する。「400m…65秒」いつものタクならこのペースで大丈夫。でも、あたしの心の中には不安が付きまとう。タクがバックスタンド前を通過するとうちの部員たちが「ファイト−、榊原−。」と全員で声を掛ける。その声がメインスタンドまで響いてくる。
1000mを2分50秒で通過。ここまでは順調だ。
祈るような気持ちでタクの走りを見つめる。ナンバーカードに書いたあたしの「ガンバレ」は神様にきちんと届いているのだろうか。2000mも2番手で通過する。この段階で先頭集団は10人ほどに絞られてきた。3000mの通過、8分52秒。タクにとってはそんなに速くない。1周進むごとに一人、また一人と選手が落ちて行く。タクはしっかり先頭集団に残っている。10周目を終えたところで先頭集団は7人に絞られた。…このままで行けば、多分ブロック大会へは進める。
あたしは知っている。タクは優勝したいんだってこと。だからあんなに落ち着きがないんだってことも。ブロック大会へ進むことがタクの目標じゃない。調整が狂ったのも、「優勝候補筆頭」なんて言われて今までにない大きなプレッシャーを感じているから、そんな気持ちの現れだということも分かっている。分かっててもあたしは何も言えなかった。だって、あたしはタクに嫌われているんだもの。
だから、ナンバーカードの「ガンバレ」があたしの精一杯。あの、小学生のときのように、大きい声で「ガンバレ」って叫べないから。
ラスト一周の鐘が鳴った。いつもならすかさず反応するタクの動きが重い。それでも必死に腕を振ってタクは先頭にくらいつく。ぽろぽろとこぼれるように2人が落ち、残るは5人。タクはなかなか前に出て行かない、いや、出て行けない。足が重い。いつものタクのラストスパートではない。バックスタンド前でタクは3番手に落ちた。「神様!お願い」そう思うと、もうあたしは目をあけていられなかった。ぎゅっとこぶしを握り、目をつぶった。
ワーッという歓声がメインスタンドを覆う。その声に反応するように目を開く。先頭はもうホームストレートに帰ってきている。タクは? 5メートルほど離れて3番手争いをしている。やはりいつものスピードが出ない。必死にもがきながら走るが、ゴール直前で横に並んでいた選手がすっと前に出て走りこむ…。結局4番でゴールした。
ゴールラインを走り抜けたタクはそのままがっくりと膝をついて座り込んだ。ハチマキを握り締め、トラックをこぶしで何度も殴っていた。…もしかしたら、泣いていたのかもしれない。
テントに帰ると、みんな帰り支度を始めていた。あたしも何も言わずに片付けを始める。ブロック大会出場を決めた者、目標に達しなかった者…それぞれの思いが交錯している。ざわざわとした中、表彰を終えてタクが帰ってくる。一瞬、テントの中がシン、となった。
沈黙を破ったのは吉田君だった。こういうときはいつも彼がムードを変えてくれる。
「榊原、お疲れ。」そう言うと、タクの背中をポンと叩く。
吉田君は部の中で一番タクと仲がいい。あの明るい吉田君と、静かなタクがなんで仲がいいのかみんな不思議に思っているが、あたしはそうは思わない。「走る」ということに対して、2人とも一生懸命で、向いている方向が同じだから。だから、きっとあの2人は自然に一緒にいられる、そう思う。
「おう、みんな、ダウンに行くぞ。」吉田君はそう言うと、部員を全員引き連れてサブグランドに向かった。あたしは相変わらずもくもくと片付けをしていた。
タクは、テントの外に座り込んでいた。
ドン!という音がしたので、ふっとそちらを見ると、タクが地面を何度も何度もこぶしで叩いている。
「ちくしょう…。」呟きが聞こえてくる。タクの目からは涙がこぼれていた。
あたしは、見てはいけないものを見てしまったような気がした。
「ちくしょう…」が何回か繰り返された後、タクはすっと立ち上がった。そして持っていたハチマキをじっと見ていたが、ぎゅっと唇をかみ締めるとそれを地面に勢いよく叩きつけ、顔をタオルでぬぐうと、自分の荷物を持って更衣室へと向かっていった。
後に残されたのはあたしとハチマキ。
あたしは靴をはき、そっとそのハチマキに近寄る。そして、手に取った。
ハチマキはタクの汗を吸ってじっとりと濡れていた。ふと、ハチマキの裏を見ると、タクの字で何か書かれている。
「優勝」
あたしは胸が痛くなった。それだけを目指してきたのに。あんなに頑張ってたのに。何でだろう。
神様は意地悪だ。ブロック大会へ行くことより、タイムを出すより、タクが目指していたものなのに。
少し、視界がぼやけた。いつの間にか、あたしはそのハチマキをぎゅっと握り締めていた。
その日のミーティングが行われる。テントの前に並んでササゴンの話を聞く。
「高校総体もあと2日。この後レースを控えている者はしっかり気を引き締めておけ。それから競技が終わった者も、きちんとレース前の選手のサポートをするように。マネージャーに何でも任せるなよ。」
みんなの「ハイッ」という返事でミーティングは締めくくられる。
「そしたら、今日はこれで解散。あ、ただし、榊原は残れ。」
タクの肩がピクリと動く。説教だろうか。
「気をつけ、礼」 ありがとうございましたー、の声が響き渡り、みんなそれぞれに帰って行く。あたしは荷物をササゴンの車に載せないといけないので、2人の話が終わるのを待っている。
車のところでじっと待っていると、10分ほどしてササゴンがおう、待たせたな、と言って戻ってきた。荷物を積み込みながら、あたしはササゴンに聞いた。
「先生、キャプテンは…。」
「今帰ったぞ。ま、悔しかったろうけどな。今日の榊原にはあそこまでが精一杯だ。なんせ調整失敗してるからな。あいつ、昨日は完全に抜かないといけないのに、いつもと違う練習してやがる。あれじゃあな。」
試合のときは忙しくて選手一人一人を見ることができなかった。だから、あたしも気付かなかった。そうか…よっぽどプレッシャーがかかってたんだ。余裕がなかったんだ…。
「ま、とりあえず、ブロック大会には進めるしな。本人はどうしても金メダルが欲しかったみたいだが。」
メダル、と聞いてあたしは小学3年生の時のあたしたちを思い出した。あの初めてのロードレース。「ハル、いっぱい応援してくれたから。」そう言ってあたしにくれた金メダル。
タクはあのことを覚えているだろうか。
ササゴンの車の中であたしはそのことばかりを思い出していた。
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