黄色いハチマキ

部室のドアを開くと、目の前にはグランドが広がる。
まだ暖められる前の少しだけひんやりとした空気が肌に心地いい。
夏の練習はここから始まる。
ドアも全開、窓も全開。夜のうちに湿り気を含んでしまった空気をさっと部室から追い出す。

うーん、と背伸びをしていると「おっす」「おはよー」とみんながやってくる。
長いようで短い夏が始まる。夏休みになるとワクワクしてしまうのは一体なぜだろう?


「山本―、今日のメニューはぁー?」
七瀬くんがあたしに間の抜けた声で聞いてくる。これもいつもどおり。
今日はササゴンは休みだ。中学生の県大会に役員で呼ばれて行ってしまった。めぼしい有力選手を探すのも目的の一つに入っているようだった。
昨日、夕練の後に、ほい、とササゴンはあたしにノートを渡した。翌日からいないのは分かっていたので、別に驚きはしなかったけど。
「明日はロングのJOGだけだから、そんなに手はかからんと思うがな。いくら朝早いといっても、8時過ぎたらすぐ気温は上がってくるから。ロングになると汗がじわじわ出てきて水分の不足に気付きにくい。脱水にだけは気をつけてくれよ。」
はい、と返事をしてメニューを見ると、「朝、LJ 120分、ペースはフリーで」と記入してあった。

ササゴンはマメだ。毎日の練習の記録をびっちりつけている。選手一人一人を見て、気になったことをしっかりと書き込む。ときどき会議や出張で来れないときがあるが、その時、それはあたしの役目になる。
夏休みに入って一週間。みんな順調に練習をこなしていた。

『7/21 好スタート切る。榊原、吉田、七瀬が意欲的。牧、小村、1年は体力不足が感じられる。まだまだ走りこみ必要。』
『7/22 スピード練習。全て設定をクリアしたのは榊原のみ。吉田は最終セットあと3本。あと少しの力が欲しい。後のものはまだまだ力量不足。これからの練習の取り組み方にかかっている。』

ササゴンはその外見からは分からないけれど、とても繊細である。普通なら見逃しそうなところも必ずチェックし、選手に伝える。
あたしは3年かけてゆっくりササゴンから選手の練習の見方を教えてもらった。
昨日と比べて足の上がりが悪いとか、走りにきれがないとはこういうことだとか、あいつは疲れると腕がぎゅっと上がって抱えたような走りをする、とか一人一人の特徴も少しずつわかるようになってきた。
それから、貧血のときはこんな走りになる、とか足の故障についてはこういうことを注意しろ、だとかいろんなことを教わった。おかげでササゴンがいなくても、走りがおかしかったらチェックができるし、故障についてもある程度なんでも答えられるようになってしまった。

「俺がいないときは山本が一番えらいからなー。」
いつもササゴンはみんなに言う。
「先生―っ、キャプテンはー?」誰かが尋ねたことがあった。
「キャプテンは、マネージャーの次―。」ササゴンはそう言って笑っていた。
だからかもしれないが、みんなあたしのところにメニュー、その他練習に関することをよく聞きに来る。
ササゴンがいないときには質問攻めに合うので、あたしは部室の黒板にメニューを書いておく。ゆっくりと、大きな文字で。
「7/28 朝、平常アップ後、120分JOG ペースはフリー。」

「はい、七瀬君、黒板見てね。」
そう言ってあたしは水分補給の準備に行く。
みんなはわらわらとグランドへ向かって部室から出てきた。
時計を見るとあと少しで7時になるところだった。


スローのJOGからアップは始まる。先頭は、タク。その横には吉田君。
映画に行った翌日は少し気まずかったけど、いつもどおりの吉田君でいてくれたので、あたしもほっとした。

長距離の3年生は7人。みんな仲がいい。その中心は当然のことながら吉田君。めんどくさがりだけど、練習のときは勢いのある七瀬君。ササゴンに言わせると「あとは本番で力が発揮できればいうことない」選手らしい。牧君は部のムードメーカー。いつでも面白いことを言ってみんなを笑わせている。専門は800mなので今から走りこみが必要。小村君はおとなしい。でも、すごくまじめだ。いつも黙々と練習をしている。2年生から陸上部に入ったのでまだまだ発展途上って感じ。タクと同じように5000mを専門にしているのは峰岡君。タクの陰に隠れてしまっているが、粘り強いレースをするのでササゴンは彼を買っている。長谷君は3000障害専門。すごくばねがある。いっつも牧君と峰岡君とトリオ漫才をしている(ような気がする)。
2年生は5人。1年生が8人。陸上部の長距離にしては大所帯だと思う。


タクが入るまではうちの長距離はそんなに強くなかった。
タクは中学から高校に上がるときに特待でいくつもの高校から話が来ていたらしい。
それを全て蹴って、この高校に入学してきた。周りの友達は「あんないい条件なのに」とか「楽に高校に行けるのになんでー?」と不思議がっていた。
陸上部の顧問の先生も大分説得したらしいが、タクは折れなかったそうだ。
あたしも不思議だった。絶対長距離の強い私立高校へ進学すると思っていた。
・・・でも、タクはあたしと同じ県立普通高校を受験し、また同じ学校で3年間を過ごすことになった。誰にも言わなかったけど、嬉しかった。

タクが入学して、陸上部に入ったことで次第にうちの長距離は選手が集まりだしたらしい。
それだけ「榊原 拓」の力は大きかった。同じ学年にもやる気のある選手がそろっていた。
「榊原が行くなら、俺も」と言って、試合で顔見知りになった選手が入学してきたのも一つの理由だ。
タクが入学して3年目。環境は整った。ササゴンは本気で駅伝の上位入賞を狙っている。

体操、ストレッチ、ラダ―、流し…。今日、全体で動くのはここまで。あとはフリーになる。
120分・・・2時間のJOG。ササゴンは「学校の敷地内だけだと飽きるから、危なくない範囲で外に出てもいいぞ」と言っていた。
流しが終わって、あたしはみんなに声を掛ける。
「10分後から120分JOG、始めてねー。給水はここに準備してるから、好きなときに取って。」
おう、わかった、と声をあげたのはやっぱり牧君だった。吉田君はこっちを見てにこっと笑って手を挙げた。タクは…相変わらず無表情にこっちを見ていた。


みんなが120分を走り出すと、あたしはすごく暇になる。
短距離の練習とは時間帯が違うので、他にすることがない。初めてしばらくは給水も必要ないのでキーパーのチェックをも必要ないし…。
ふと、ササゴンのノートのことを思い出した。今日の朝錬の様子を書いておかないと。

部室の前のベンチに腰掛けぱらぱらとページをめくる。
視線を上げるとみんなは各々のペースでゆったりと走っている。
ふっと笑顔が浮かぶ。それからあたしはノートに目を落とす。
前から順番にページを送っていく。「6月」のところに目が止まる。
高校総体の日。ササゴンはなんて書いているのだろう。気になった。
ページをめくる指の動きがゆっくりになる。「高校総体3日目」の文字が目に飛び込んできた。

「高校総体3日目
5000m 1組 榊原 15′05 決勝進出  峰岡 15′30 自己ベスト
決勝 榊原 4位 14′57 ブロック大会出場決定
峰岡…自分のペースをしっかり守ったいいレースだった。今回の課題「冷静な走り」については合格点をやることができる。ラスト1000mでのロングスパートが必要だったかもしれない。元々スパート力が不足しているので、駅伝に向けてスピード練習に取り組ませる必要あり。
榊原…調整失敗。いつもの力であれば十分に優勝できていたはず。榊原はメンタル面が弱い。精神面の動揺がすぐに練習に現れる。榊原の動揺の原因は何か?優勝へのプレッシャーか?他にもあるのかもしれない。予選後、足が張っているため山本にマッサージを頼む。山本のマッサージが効いたのか、決勝はそれほどの崩れがなかった。今後は話をしながらメンタルの強化に取り組む。」

メンタル面が弱い。タクがいつもササゴンから言われていることだ。
180を超える身長。すらっと細い体、足。長い腕。本当にタクは長距離向きの体型をしている。
みんながある程度のスピードをあげて走るインターバルでさえ、タクの走り方はひどくゆっくりに見える。
ただ、いらいらしたときのタクはがっくりと崩れることがある。もちろんトップの座を空け渡すことはないのだが、練習を見ていると今日の機嫌がよく分かってしまう。


「山本、見とけよ。今日、榊原きっと前半むちゃくちゃなペースで来るぞ。」
ササゴンが一度、にやりと笑ってあたしに教えてくれたことがあった。
確かにその日のタクは変だった。いつもならササゴンに言われたペースをしっかり守っていくのに、その日に限って400mのインターバルの設定、200mを予定よりも2秒も早く入った。
タイムを読み上げているあたしの目から見ても、あきらかにオーバーペースだった。
1セット目、2セット目、3セット目と次第にタクのペースが落ちていく。
そのタクを見て、ぼそっとササゴンが呟く。
「やっぱりな。機嫌悪いと思ったらこれだよ。まあったく、長距離ランナーには冷静な判断力が必要なのになあ。」

お前の課題はメンタル面だ。その後、ササゴンに呼ばれたタクははっきりとそう言われていた。
「いくらいらいらしていても、走り出したら忘れろ。走ることに集中しろ。それができないと気持ちに左右されて出る記録も出なくなってしまう。結果を出したいと思うんだったら、気持ちの切り替えをうまくやることだ。」
はい、と返事をした後の悔しそうなタクの表情をあたしは決して忘れない。

以前からタクはポーカーフェイスだったが、それからは前にも増して感情を表に出すことが少なくなった。
高校に入ってからは同じクラスになったことはなかった。でも、1年のときに同じクラスだった子から2年になってこう言われたことがある。
「ハル、榊原って何考えてんの?ほとんど表情変わんなくてさあ、何か話し掛けづらくって。あんた陸上部のマネージャーだから何か知ってるでしょ?」

「いくらあたしがマネージャーでも部員の考えてることまではわかんないよ。」
そう言って笑って返した。だって、ほんとうにタクの考えてることはあたしには分からなかったから。

精神面の動揺。一体何がそれを指すのかはあたしにはわからない。ただ、高校総体のタクを思い出すと「絶対優勝したかったんだろうな。」そう思った。

あの時、タクが地面に叩きつけていったハチマキ。
拾ったあと、持って帰って洗濯した。まだあたしのカバンの中にある。
なくなったのをタクは気付いているのだろうか。
それとも、優勝できなかったことを思い出すから、もう探したくもないのだろうか。
返さなくちゃ、と思いながらいつも躊躇してしまう。
返すべきか、返さざるべきか。
まるでハムレットみたいにあたしは悩んでいた。

しばらくぼーっとしていたらしい。手元に太陽の光がじりじりと当たっている。暑い。
はっと気付いて時計を見た。8時30分。
いつの間にか60分が過ぎようとしている。給水ももう一度チェックしないといけない。ノートはあとで記入しよう。


あたしはササゴンのノートをパタン、と閉じ、ハチマキの入っているカバンに放り込んだ。


8時を過ぎると、気温は急激に上がってくる。
グランドには陽炎がぼんやりと浮かんでくることも稀ではない。
部室の横には大きな手洗い場。そこの蛇口にホースをつなげて勢いよく水を出す。
いきなりキュッと蛇口をひねったせいか、ホースの先が暴れ出す。
まるで、生き物みたい。
そう思いながら暴れまわっているホースを捕まえる。
跳ねて身体にかかる水滴が気持ちいい。
先を小さく絞ってシャワーのように、雨のようにグランドに水をまく。
これだけで随分体感温度が違うようで、選手たちはこの下をよく通り抜けに来る。

「おー、天国天国!」と言いながら峰岡くんがシャワーの下を潜り抜けていく。


「ちゃんと水分取ってる?」
峰岡君は放っておくとすぐ水分を取るのを忘れてしまう。それだけ走るのが好きだ。夢中になる。
あたしの質問に、「それなりにー」と言いながら峰岡君は走り去っていく。
ササゴンがいないときはけっこうみんなのびのびしている。
別にササゴンか怖い、とかそういうわけではないんだけど、「先生」がいないことは一種の開放感を生んでいるのかもしれない。

長いホースをもってうろうろとあっち、こっちに水をまいていると、みんなその下を潜り抜けに来る。通り抜けた後は汗なのか、あたしが撒いている水なのか分からなくなるくらいみんなシャツをぐっしょりと濡らしている。
「おー、気持ちいいーっ!」今度は牧君がそこだけスピードを緩めて走り去っていった。

それでも、タクはほとんどシャワーを浴びに来ることはない。
多分、走っている間に1回だけ。


それはいつも必ず、あと20分、というところ。やってきてすっと通り抜けていく。
ササゴンには「フリーのロングの時には、みんなに『あと20分』を言ってくれよ。時計見忘れているバカもいるからな。」と言われている。


タクがあたしのところに向かって走ってくる、ということはあたしの中でみんなに声をかける時間だ、という目安になっている。

今日も同じ。タクの姿が見えたので、ふと時計を見るとあと、2・3分で100分になろうとしていた。

すっと伸びた背。長い手足。ゆったりとした動き。
走っているときのタクはほんとうに「キレイだ」と思う。
ついつい、見とれてしまいそうになるのを押さえて、時計を見る。
「あと、20ぷーん。」
大きな声であたしはグランド中に聞こえるように叫んでいた。
その横をタクはやっぱり無表情に走り去っていった。
後に残されるのは、元気のいいセミの鳴き声と、サアァァァァーッという水の音だけだった。



朝練が終わると、みんな夕方まで一旦帰宅する。
あたしはみんなが帰ったあとに戸締りをして帰ることになっている。

部室で朝錬の片付けをしていると、がたがたとロッカーの中から荷物をまとめて帰る準備をしていたタクが、ふと吉田君に声をかけた。
「…吉田、お前、おれのハチマキ知らないか?」


ドキッとした。だってタクのハチマキは、あたしのカバンの中だったから。

「いや、わかんないな。・・・どうした、無くしたのか?」
「ああ、高校総体の後から見当たらなくなってさ。きっと自分でどこかに紛れ込ませてるって思うんだけど、見つからなくて…。」
どうしよう。返したほうがいいのはわかってる。でも、どうやって返せばいいか、わからない。
片付ける手が止まりそうになる。いつの間にか手のひらには汗をかいている。
「もう一回よく家も探してみろよ。シューズの袋とかさ、試合用のユニフォームとかに紛れ込んでるかもしれないぜ。」
そうだな、と言ってタクはパタン、とロッカーを閉める。
さて、と荷物を持った吉田君があたしに向かって声を掛ける。
「じゃ、山本、お疲れ。また4時にな。」
「うん。じゃ、また後でね。」
二人が帰ってくれそうなのですこしほっとした。
タクはチラとこっちを見た。が、何も言わなかった。これもいつものことだ。
それから2人は部室を出て、自転車置き場へ向かったようだった。

2人が話している間、あたしはずっとドキドキしていた。
何か悪いことをしているような気がして。
タクが知っているわけはないのに、あたしの視線はずっとカバンに向けられていた。
そして、2人が部室を出て行ったあと、一人残されたあたしはふう、と溜息をついた。

一息ついたところで、ササゴンの日誌に今日の記録をしなければいけない、ということに気付いて、あたしはカバンを手に取る。
ファスナーを開けると、隅のほうの黄色に目が行った。
タクのハチマキだ。
そっと取り出す。広げてみる。


あの時、地面に叩きつけられたハチマキはタクの汗を吸ってぐっしょりと濡れていた。
あたしはどうしても、その日、手にしたハチマキを返せなかった。
あんな苦しい思いは汗と一緒に洗い流しちゃえばいい。そう思って持って帰った。
お風呂場で、洗面器にお湯を入れる。少し水を足してぬるめにする。
そこに洗剤を入れる。ハチマキを浸す。じわりと水が染みて、洗面器の底に沈んでいく。
手を洗面器のぬるま湯にそっと入れ、力をいれ、丁寧にハチマキを洗った。
染みこんでいた汗は少しずつ石鹸水の中に溶け込んでいくような気がした。
タクの苦しみと一緒に。

洗濯した後に、ゆっくりとアイロンをかけた。
アイロンが「優勝」の文字の上を往復するたびに何回も胸が痛くなった。

きれいにたたんでいつでも返せるようにしておいたはずなのに。
タクの思いがこもったハチマキ。…だから手放せなかったのかもしれない。
返せない、なんて言い訳なんだ。返す機会はいくらでもあったんだから。
返さなかったのは、あたしがずっと持っていたかったから。
多分、それだけ。

やっぱり、あたしはずるい。


そう思った。
返さなくちゃいけない。
そうも思った。

・・・何度もどうやって返そうか、と考えた…が、結論が出ないので、あたしはとりあえず日誌を書くことにした。


「7月28日 朝練
みんな無難に120分を走ってました。牧君、長谷君は少し給水が多かったような気がします。ペースもなかなか一定では走れませんでした。峰岡君、吉田君、七瀬君は適宜給水を取ってました。小村君はいつもどおり黙々と。一定のペースでしっかり走れていたと思います。」

ここまで書いてペンが止まった。
あとはタクのことを書けばいいだけなのに。
いつもここであたしは悩む。キャプテン、と書くべきなのか、榊原君と書くべきなのか。
「榊原君」とタクに面と向かって言ったことは今まで一度もない。多分生まれてこの方一度も。
他の3年生は全部苗字で呼んでいる。
でも、タクだけはいつも「キャプテン」それも一週間に一度言えばいいほうだ。

1・2年のときはタクに直接話しかけることはほとんどなかった。
他の部員と話していても、タクの話題が挙がることはほとんどなかった。
…多分あたしとタクがほとんど話さないから、みんなお互い嫌っているんだと思っているらしい。
タクに用事があるときには、ほとんど誰かに頼んでいた。
タクがキャプテンになってからは接触する機会も増えた…でも、名前で呼ぶことは、もうありえなかった。


多分、これからも。

結局いつもどおり「キャプテン」と書くことにした…それでも違和感はぬぐえない。
だって、あたしの中では「タク」はいつも「タク」でしかない。
「キャプテン」と呼ぶことが、あたしとタクの今の距離を示しているみたいだな、と思う。
よそよそしい、何の関係もないあたしとタクの。

ちょっと心の中が重くなった気がしたが、とりあえず先を続けることにした。
「キャプテンはいつもどおり、少し速めの自分のペースで走ってました。給水は2回。少ないほうだと思います。距離もみんなより多くこなしているようでした。」

ここまで書いてあたしはペンを筆箱に直した。1・2年生のことは口頭でいいから、と言われている。ノートを閉じ、横に置かれている黄色いハチマキに目をやる。

返さなくちゃ。でも、どうやって?
考えているあたしの目にふと「榊原」の文字が飛び込んでくる。
タクのロッカーはあたしの視線のまん前にある。
部室のロッカーにはカギはかからない。
直接返すなんて勇気は今のあたしにはとてもありそうにない。
ロッカーに入れておこう。このまま。
ちょっと卑怯かな、と思ったけど、他にいい方法を思いつかない。
ロッカーの一番上、棚になってるとこに置いておこう。

そう思って、黄色いハチマキを持って立ち上がったとき、部室のドアがバタン、と開いた。

驚いて視線をそちらへ向けると、タクが立っていた。



いつも思う。なんで?
映画に行った時もそうだった。
なんでこんな時にこっちを見ているんだろう。
なんで何も言わないんだろう。
なんでパンフレットを持って家まできたんだろう。
タクの行動には驚かされることばっかりだ。

…なんでこんな間の悪いときに入ってくるんだろう。

しばらくあたしはその場から動けなかった。手元にはタクのハチマキがあったから。
この黄色が目に付くだろうか。あたしはそればかり気になっていた。
心臓はどくどくと音を立てて鳴っている。冷や汗が出てきた。

タクはどうもロッカーに忘れ物をしたらしい。
あたしには見向きもせずロッカーを開けてがたがたと何か探している。
それからすぐ、あった、と呟いてシューズ袋を取り出す。
バタン、とロッカーを閉めるとくるりとこちらに身体を向けた。

タクは気付かない。あたしの手元にあるものに。
それとも、あたしを気にも留めていないのかもしれない。
心臓がぎゅっと痛む。このままでいいのかな、そんな思いが胸を掠める。
ロッカーに黙って返すだけでいいのかな、そう自分の中で誰かが問い掛ける。

タクがそのまま部室を出ようとしたとき、あたしの口からは思いがけない一言が飛び出していた。
「あ、あの、キャプテン、これ。」
タクが振り返る。
あたしは自分で自分のとっている行動に驚いていた。
ハチマキを差し出していたのだ。
さっきまで、あんなにどうしようと悩んでいたのに。

タクは意外そうにちょっと目を瞠った。でも、すぐにいつもの冷たい視線に戻り、小さい、低い声でぽつりと言った。
「…なんでマネージャーがそれを持ってるんだ?」

その視線にあたしはひるむ。でも、差し出した説明はしないといけない。
「あ、あの、高総体のときに片づけしてたら落ちてるのを見つけて拾って…。名前書いてなかったから、誰のかわからなくて…。」

とっさによくこんなでたらめが出てくるもんだ。
あたしは背中につーっと流れる冷や汗を感じながらも、一生懸命口を動かしていた。

「で、みんなに聞くのを忘れてて…ずっと持ってたんだけど…、今日吉田君とキャプテン、ハチマキの話してたから、もしかしたらって思って…。」

おそるおそる視線をタクに向ける。タクの手がこちらに伸びてくる。
タクはあたしの手からそっとハチマキを取ると、広げてすぐ裏を見た。あの「優勝」の文字を。
そう思うと、少し胸が痛くなった。

「俺の。…もしかして洗ってくれた?」
「う、うん。汗で大分汚れてたから。」
しばらくタクはハチマキをじっと見ていた。何を思っているのだろうか。
そう思って見つめていると、ふと視線が上がった。
「サンキュ。ずっと探してたんだ。無くしてなくてよかったよ。」
そう言うと、たたんでポケットにハチマキを突っ込んだ。
「じゃ、お先。」
そう言うと、タクは忘れ物だっただろうシューズ袋を手に、やっぱり無表情で部室を出て行った。

パタン、と部室のドアが閉まる。
タクが怒らなかったのであたしは安心してふうっと全身の力が抜けてペタンと座り込んだ。
とにかく、疲れた。緊張していた。
1か月分の会話をしたような気がする。
緊張が解けて、全身から汗がどっと噴き出してくる。
…でも、返せてよかった。
タクの「サンキュ」って言う声が、あたしの頭の中で何回も繰り返されていた。

タクのものが手元からなくなる、っていうことは少し寂しかった。
でも、きちんと持ち主のところに戻ったんだから、それでいいはずだ、って自分に言い聞かせた。

少し落ち着いたところでノートをカバンに入れる。カバンのファスナーを閉める。
だれもいなくなったので、部室にカギをかけて制服に着替える。
汗をかいたTシャツが肌にはりついている。少し気持ちが悪い。
薄い夏服のシャツ。そのままだと透けてしまうのでタンクトップを着る。
何回も何回も洗濯しているので、薄いのがさらに薄くなっている。
初めて着たときにはがちがちしてて固いな、って思ってたのに。

この制服を着る、最後の夏。
タクと一緒にいられる、最後の夏。
あの、映画を見た日、夕日を浴びて帰っていく後姿を見て、考えた。
もう、あんな涙を流すタクは見たくない。笑っているタクを見ていたい。
だからできるだけのことはやろうって。
まだ、夏は始まったばかり。
後悔するか、しないかはこれから。今からのあたしの行動で決まっていく。

制服に着替えて荷物を持つ。
部室から出て戸締りをする。
「また、4時にね。」部室のドアに向かって、そう言った。ドアをポンと叩いた。
時計を見ると11時だった。グーッと大きな音がする。あたしはそこで初めて、自分のおなかが空いていることに気付いた。


自転車をこぐ。夏の始まりの風はどことなく熱気を含んでいる。
あたしはこの朝錬の帰りの風が好きだ。
夏らしい、そんな感じがして。

道端には大きなヒマワリが日の光に向かって誇らしげに咲いている。
それを見ていると、なんだかウキウキしてくる。

タクの「サンキュ」っていう言葉があたしの中でぐるぐる回っている。
その一言を自分に言ってくれたのかと思うと、何かすごく嬉しくなってぐんぐんペダルを漕ぐ。

夏の空は高い。そして、抜けるような、それでいて強い、青。
日差しの強さのせいだろうか、キラキラと輝いているように感じる。
見上げた空には入道雲。どこまでももくもくと伸びていく。
今日はこのまま、海岸まで行こう。
こんな天気のいい日は、きっとすごく海もきれいにちがいない。
少し遠回りをして家に帰ろう。そう思った。


10分ほど自転車をこいでいると、いつもの海岸に到着した。
目の前には思ったとおり太陽の光を受けてキラキラと輝く海が広がっている。
「金色」ってこんな色を言うんだろうな、って思ったのはここで夕日を見たときだった。

小学5年の夏。
トレーニングしていたタクに付き合ってここまで自転車で来た。
夏、夕日が沈む頃だから、多分7時ぐらいだったのだろう。
暑いときは走っちゃダメよ、とタクのお母さんに言われていたので、夕方、少し涼しくなってから2人で出かけた。
自転車でタクの前を走ったり、後ろを追いかけたり。
それが楽しくて、いつの間にか海岸まで来ていた。
家からは多分小学生の足で20分くらいかかると思う。小学生のあたしたちにとっては結構遠出だった。
あたしはその時、初めてこの海に来た。海が見えた瞬間、自転車を止めた。タクの足も止まった。
海に沈む大きな夕日を初めて見た。太陽ってこんなに大きいんだ、と思った。
白でもない、黄色でもない、オレンジでもない、不思議な色。
その色をそのまま映す海。口をぽかあんと開けて、2人ともじっと海を見ていたのを覚えている。
「…あの色、いつもタクがもってくるメダルの色だね。」
ふと思いついてあたしはタクに言った。
「すごく、キレイ。メダルが海にいっぱい浮かんでるみたい。」
タクは黙ってこっちを見た。そしてにっこり笑った。
「…海が一杯になるくらい、ハルにメダルがあげられたら、いいな。」そう言って。

タクの顔は海の色を反射してキラキラ輝いている。
まぶしい、と思ったのは光の反射だけじゃなかった。


タクと話さなくなってからも、この海には自転車でよく来ていた。
ここからの夕日は、あたしのお気に入りの風景になっていたから。

夏祭りの花火大会。ここはあたしだけの穴場。
遥子には内緒で一人でこっそり毎年来ている。自転車をこいで。
海の上に打ち上げられる花火が海面に映ってなんとも言えない美しさを醸し出す。
そんな花火を静かに、一人で見るのがすごく好きだった。

…今年は、見にこれないな。
ササゴンが気合が入っているので、今年は合宿が2回組まれている。
最初の夏合宿はちょうど、この街の夏祭りの日と重なってしまった。

そう。合宿まであと1週間と少し。
いよいよ本格的な夏が始まる。
この夏が勝負。ササゴンはいつも言っている。
「夏を制する者は駅伝を制す。」

多分、みんなにとってこの3年間のうちで一番きつい夏になるに違いない。
あたしは、陸上部のみんなが好きだ。
タクのためにも、だけど、みんなのためにも、できるだけのことをしなくちゃ。
「これだけ頑張ったから、絶対結果が出るよ!」って言ってあげられるように。


夏の太陽を映す海。キラキラ光っている。反射が目に痛い。
水平線には小さな白い船が見える。
よーし、がんばるぞお!
あたしはタクの「サンキュ」の一言と、夏の海に元気をもらった。


自転車のペダルに足をかける。ぐいっと力を入れて踏み込む。すっと動き出す。
家に向かって自転車を走らせ始めると、後ろからふわっと風が吹いてくる。
その風は走り去ろうとするあたしに夏の海の匂いを届けてくれているようだっ
た。

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