大きな夕日と長い影

梅雨の晴れ間。だんだんと強くなった夏の日差しが容赦なく照りつける。
「暑―い。」遥子が下敷きで扇ぎながら独り言を言う。
「しかたないじゃん。もう7月だもん。」
あたしたちは期末テストも終わり、残された1学期をのんびりと過ごしている。


結局、タクはインターハイへは進めなかった。あたしたちのいるブロックは全国でも強豪の集まっている地区で、決勝に残るのもどうかなあ、とササゴンは言っていた。

それでもタクは決勝までコマを進め、決勝では自己ベストで走った…それでもインターハイまであと一歩の7位だった。
「今年の榊原はそういう運気なのかもなあ。」
レースが終わったあと、ササゴンがぼそっと呟いた。
県の総体も4位。ブロック大会は7位。あと一つなのにな、と。
吉田君は決勝に進めなかった。ササゴンが言うには、「あいつはブロック大会に出場するのが目標だったからな、気持ちが切れてんだよ。」ということらしい。
それでも、タクも吉田君も、終わったあとはすっきりした顔で帰ってきた。
タクが県の総体のときみたいに胸の痛い思いをしなくて済んだ。
それだけであたしはほっとしていた。


放課後の教室はあたしたち2人しかいない。
珍しく今度の土曜日はササゴンが休みをくれた。
4月からほとんど練習に休みを入れてなかったから、1日くらいは休んでリフレッシュしろ、ということらしい。最後の一言は「ま、夏休みもないからな。これくらいはしておかんと、あとで恨まれるし。」だったが。


「久しぶりだねー。波瑠と出かけるの。」
そうだ。遥子がマネージャーを辞めてから、あたしはほとんど部活部活で遊びに行く暇すらなかったのだ。中学のときはよく2人でつるんで出かけていたのに。

「ねえ、どこ行く?」そうあたしが尋ねると、遥子が、
「そうねえ、波瑠、めったに出かけられないから、波瑠の行きたいところでいいよ。」と
珍しく優しいヒトコトをくれた。
「へえ、遥子がそんなこと言うなんて珍しいじゃん。じゃー、わがまま言っちゃおー。」
そう言うと、遥子はどうぞどうぞ、と笑っていた。
「じゃ、映画に行きたい。」
前から見たかった映画があったのだ。来週末までの上映予定だった。
「よし、わかった。お嬢様の言うとおりにしてしんぜよう。」
何か時代劇がかった言葉で了解する。
あははは、とひとしきり笑った後、じゃあ、何時にしようか、とあたしたちは待ち合わせの時間の打ち合わせに入った。
外は早めのミンミンゼミが少し控えめな声で鳴き始めていた。



土曜日。遥子との待ち合わせは10時半だ。
遥子と映画に行くとき、待ち合わせの場所はいつも決まっている。
駅前のMACでね。
中学のときは大抵あたしが遅れるのが普通だったが、高校生になってからは遥子の方が来るのが遅くなった。部活のおかげであたしは「集合時間」の10分前には目的地に到着するような体質になってしまったらしい。
今10時20分。あと5分は遥子は来ない。あたしはスケジュール帳を取り出すためにバックを開けた。その時、ケータイの着信音が鳴り出す。
「OVER THE RAINBOW」メールの着信音だ。ケータイのメールを開くと、遥子からだった。
“ごめん、5分ほど遅れる。それと、あと2人来るから。詳しくは後で  ヨーコ”


後2人…?誰だろ。同じクラスの佳子かなあ、それとも中学の同級生の裕美かなあと考えながらスケジュール帳を開く。陸上部には夏休みなんてほとんどない。特に長距離はこの後駅伝に向けて2部錬が組まれている。

あたしはササゴンから、「お前ももう最後だから、今年の夏は長距離の面倒だけ見てくれ。短距離は1・2年のマネージャーで大丈夫だから。」と言われている。
・・・タクがいる、今年が最大のチャンスなのだ。
10qをしっかり走れる選手なんてそうざらにはいない。それに加えてことしは吉田君を筆頭にけっこういい選手がそろっている。都大路、とまではいかなくてもササゴンは県駅伝上位入賞を目指しているらしい。
 スケジュール帳は陸上部の予定でびっしりだ。夏休みは3日間。お盆だけ。あとはしっかり練習が入っている。
 ほんとに、最後だよねえ。文字がたくさん書かれたページを見てそう思っていると、「オス」と聞きなれた声が耳に飛び込んできた。顔を上げると、そこには吉田君が立っていた。


黒いTシャツにジーンズ。そして青い帽子。
ぽかんとした顔のあたしを見て、にやっと笑い、コーラのカップを持ったまま、あたしの目の前の席に腰掛ける。
「・・・何してんの?」
「あれ?大島から聞いてない?今日俺たちも来るって?」
「・・・聞いてない。」
さっきのメールはこういうことか。ん?俺たちって?嫌な予感がした。
「ねえ、俺たちってことはあと誰か来るの?」
眉をひそめて質問するあたしに吉田君が答える。
「ああ、あと少ししたら榊原が来ると思うけど。」

・・・絶句した。遥子の奴・・・。まあ、積極的な遥子のことだから、考えられないことではないが、よりにもよってなんで吉田君とタクなんだろう。ああもう、見たかった映画なのに、きっと頭の中には入ってこない・・・。
あたしはむっとした顔をしていたらしい。吉田君がこちらを覗き込みながら、「山本、怒ってる?」と聞いてきた。
「いや、別に怒ってないよ。」
「大島から誘われたんだよ、昨日。山本と映画に行くから、俺に榊原連れて来いって・・・。ま、アイツの目当ては榊原ってのは分かってるだろうけどさ。」
吉田君と遥子は同じクラスだ。遥子は明るい性格なので誰とでもすぐ打ち解ける。吉田君も気さくで人懐っこいので2人は気が合ってよく話をしているらしい。そのことは遥子から聞いていた。遥子はマネージャーを辞めても、相変わらずタクの追っかけで、よく陸上競技場にも出没する。タクの情報も吉田君から仕入れているらしい。あたしが知らないようなことも遥子は時々知っていることがある。
「・・・キャプテンはさ、遥子とあたしがいるって知ってるの?」ふと思いついて尋ねてみた。
「いや、言ってねえ。」
「なんで?」
「だって、アイツそんなこと言ったら出てこないじゃん。そういうの嫌いだし・・・でも、この映画前から見たいって言ってたんだよ、榊原。」



ふと、思い出した。
今日見に行く映画はSF物で、あたしが小さいときからシリーズ化されているものだった。
小学生のときはいつもタクと2人で、どちらかの親に連れて行ってもらった。帰りは二人で興奮して、あの宇宙船かっこよかったね、とか、あの宇宙人怖かったね、と話をし、映画のまねをして走り回っては「静かにしなさい」とよく怒られていたっけ。
あれから、あたしはこのシリーズは大好きで、毎回欠かさず見に来ている。前作から3年ぶりだ。

「ごめん、今日ここで偶然会ったことにしてくれない?そうしないと、榊原怒って帰っちゃいそうだからさあ・・・。」
手を合わせて「この通り!」と頼む吉田君を見て、あたしはふう、と溜息をついた。
吉田君は片目をつぶり、もう片方の目で上目遣いにこちらを見ている。
「仕方ないねえ。遥子とは打ち合わせ済みなんでしょ。」
乗り気ではなかったが、仕方ない。
「ありがたい、恩に着る!」そういうと吉田君は少し安心したのか、持ってきたコーラを一気に飲み始めた。

遥子は待ち合わせから5分ほど遅れてきた。少しむっとしたあたしに気付いたらしい。
「波瑠、聞いた?吉田君から。」茶目っ気たっぷりの顔で遥子が言う。
「き・き・ま・し・た!なんでそんなこと早く言っとかないのよ!」少し膨れて文句をいってみる。
「えー、だって言ったら波瑠来ないじゃーん。せっかくいい機会だって思ったから吉田君と示し合わせて・・・」
全然悪びれずに遥子が言う。こういうところは相変わらずだ。
「おいおい、大島、示し合わせてって、人聞きの悪い・・・。」
吉田君が慌てたように遥子の言葉を遮る。

吉田君も多分遥子と同じ考えだったんだろうな。その焦りようを見てそう思った。
まあ、確かに聞いてたら来なかっただろうな。特にタクが来るって聞いたら。
時計を見ると10時38分だ。タクは時間には結構正確なのにまだ来ない。
「ねえ、吉田君、待ち合わせ、何時にしてたの?」
「あ、山本にちゃんと言っとかなきゃと思って、俺、早く来たんだ。榊原には10時40分にって言ってある。」
ふと、外を見ると、緑色のシャツが見える。少し立った前髪。短くて固いので自然にそうなる。細い、切れ長の目。周りの人より少し大きな背丈。タクは荷物を持たない。いつも財布一つポケットに入れている。昔から外出するときはいつもそうだ。すっと顔が上がる。こっちを見ている

目が合った。心臓がどくっと音を立てた。
タクは少し怪訝な顔をしていた。多分、あたしが吉田君の前に座っていたから。
吉田君は、あたしの視線に気付いたのか、ふと通りを見下ろした。タクに気付くと、こっちこっち、というように手招きをする。それを見て、タクは店内へと入ってきた。

「よお。」ぶっきらぼうにタクが吉田君に言った。
「おう、時間ぴったり。いつものことながら時間に正確だよな、お前。」
その言葉には返事を返さずにタクは吉田君の横に座る。そこしか席は開いてなかったから。
あたしの横には遥子。当然のことながら、遥子はタクの前に座っている。
ドキドキしながらも、少し遥子がうらやましかった。
吉田君に視線を向けながら、単刀直入にタクが質問する。
「・・・で、吉田、なんで大島とマネージャーがここにいるんだ?」

タクは絶対にあたしを「山本」とか、「ハル」とか呼ばない。いや、呼ばなくなった。だって、小さいころはいつも「ハル」って言ってたのに。
あたしを呼ぶときはいつでも「マネージャー」だ。もう名前も呼びたくないんだろうな。そう思っている。

「いや、偶然ここの前で大島に会ってさ、聞いたら映画に行くって言うし。何見に行くの、って聞いたら同じのだったからそれなら一緒が楽しいかなって。」

・・・焦ってるなあ。吉田君。
きっと昨日から考えてたんだろうなあ、この言い訳。タクはこういうことにけっこううるさいから。気の毒に。
タクのあの切れ長の目でじっと睨まれると、1・2年生なんかはかなりびびる。タクが次に何を言うのかを身体を固くして待っているくらいだ。すごく、厳しい。同級生もけっこうこの目つきにはやられている。
タクは無言でじっと吉田君を見つめている。そしてぼそっと言った。
「・・・早くしないと、あと15分しかないぜ。」
時計を見ると10時45分。あたしたちは11時からの上映を見るはずだった。

「そしたら、行こうか。」
タクに拒否されなかった吉田君はほっとしたみたいだった。
あたしたちはがたがたと音を立てて立ち上がった。あたしは自分のトレイを返却場所に返そうとそっちへ向かう。遥子と吉田君は大きな声でしゃべりながら先に降りていった。あたしがトレイを置いてふと振り返ると、階段の前でタクがこっちを見ていた。思わず足が止まった…が、目が合った瞬間、タクはくるっと向きを変えて階段を下りて行った。
あたしは、ふう、と息を吐きながら、もう一度、
「今日の映画、楽しみにしてたのになあ…。」
と小さく呟いた。
それから、あたしは三人の待つ階段の下へとゆっくり降りていった。



もう、あと1週間で上映が終わるからか、映画館はそんなに混んでいなかった。あたしたちはそれぞれチケットを買い、真ん中ぐらいの席を確保した。
「あ、まだ時間あるから、パンフレット買ってくる。」そう言うとあたしは荷物から財布を出して席を立った。あたしの席は遥子の隣。4人の一番端っこ・・・のはずだった。

このシリーズのパンフレットはすべて集めている。もう4作目になるが、あたしの本棚の隅っこに今までの分はきちんと収まっていた。
小さいころは、戦闘シーンや、宇宙船が出てくる場面が大好きで、身を乗り出して夢中で見ていたらしい。一緒に来ていた母に「落っこちるわよ、椅子から」と何度も注意されたのを覚えている。そんなあたしの隣には、必ずタクが座っていた。やっぱりあたしと同じように身を乗り出して。

また、一緒に見るなんて、絶対無いって思ってたのに。
そう思いながら、パンフレットを持って席に戻る。

・・・微妙にかばんの位置が違う。もしかして・・・
「遥子、席、変わったの?」あたしのバックはタクの隣に置いてあった。バックの横の席には吉田君。
「うん。せっかく男2人女2人で来たんだから、いつものペアじゃ面白くないよねって思ってさ。」
どうしてこいつはこんなに余計なことを考え付くんだろう。まあ、遥子はタクの隣に座りたかっただけなんだろうけど・・・。
ごめん、と言って吉田君の前を通り、あたしは遥子に指定された席に座る。
タクも吉田君もスポーツ選手だけあってそれなりに肩幅がある。少し窮屈だな、と思ったけど、タクが右隣なので左にちょっとだけ身体を寄せた。吉田君の肩にこつん、とあたしの肩がぶつかる。
「あ、ごめん。」少し恥ずかしくなった。


「いや、いいよ別に。狭いんだから仕方ないし。」そう言うと、吉田君はいつもの笑顔で笑っている。いつもながらまぶしい笑顔だよなあ。
右は見れない。タクは一体今どこを見ているんだろう。右側だけが神経が倍あるような感じがする。あたしは今買ってきたパンフレットを開いた。心臓がどくどく言ってる。タクにも、吉田君にも聞こえるかもしれない。そう思った。
「これ、もう4作目なんだ。知らなかったなあ」と横からあたしのパンフレットを覗き込んでいた吉田君が言う。
「山本、これ全部見てるの?」一瞬ドキッとした。昔のことを思い出して。タクはどんな気持ちでこの言葉を聞いているんだろう。

「うん。小学校のときからね。」吉田君のほうに目を向けながらあたしは答える。
「へえ、誰と見に来てたの?」
・・・非常に答えにくい。
「うん、母親と近所の子と。好きだったから、いつも連れてもらって来てた。」
間違っていないはずだ。タクとあたしの家はご近所である。
ふーんそっか、と吉田君が呟いたとき、ふっと館内の電気が落ちた。
上映が始まる。

予告編の間は何にも頭に入ってこなかった。隣にタクがいるっていうだけでこんなになってしまう自分がおかしかったけど、身体の右側だけがすごく熱く感じた。
・・・これでほんとうに映画を楽しむことができるのだろうか。すごく不安だった。
予告編は5分ほどで終わった。ブザーと共に映画が始まる。外国の映画会社のロゴが映し出され、出演俳優の名前がスクリーンに順番に出てくる。
いつもこのシリーズの映画は静かに始まる。小さいころ、あたしたちはその冒頭から映画に引き込まれていっていた。ぽかあんと口をあけて見ていたので、つれてきてくれた母親たちはその様子を苦笑いしながら見ていたものだ。
やっぱり今回も静かに始まった。あれだけ集中できるかどうか心配だったのに、始まったら画面に釘付けになっていた。・・・相変わらず身体の右側は熱いままだったけど。

映画はどんどんと流れていく。いつのまにか身を乗り出して画面を見つめている自分に気付く。タクのことも気にならなくなっていたほどだ。そういえば、と思って右に視線を送ると、タクも背もたれから乗り出してスクリーンに見入っていた。あの小さいときと同じように、少し口を開けて。


その横で遥子は眠っているらしい。
だいたいこういうSFものは遥子は苦手だ。中学のときもあたしに連れられて仕方なく映画館へと足を運び、結局今日と一緒で眠っていた。・・・終わったあとで「お金、損したあ。」とぼやいていたのを覚えている。今日もまた同じことを言うのだろうか・・・でもタクが一緒だから、それはないよな、と考えた。

吉田君は座席のシートに持たれて黙ってスクリーンを見つめているらしい。最初から体勢が全く変わらない。少し静かな場面に切り替わったので、体勢を元に戻す。ふう、と小さく息をついたとき、吉田君の横顔が視界に入った。

・・・どうも「スクリーン」ではなくてあたしを見ているんだ、と気付いたのはそのときだった。
 タクの顔を見ていたのを気付かれただろうか。あたしはどぎまぎした。それと同時に、自分がうすうす感づいていたことがやっぱり事実だったんだ、と改めて確認させられる。多分、遥子の申し出を受けたのは吉田君の一存。あたしと一緒に映画に行きたかったから。

それは今日MACで話を聞いたときに分かっていた。もしかしたら遥子も吉田君の気持ちを知っているのかもしれない。吉田君のまっすぐな視線が、いつもあたしに向けられていることもあたしは知っている。でも、あたしはその気持ちにこたえることはできない。だってあたしは、今あたしの右側に座っている人の近くにいたい・・・それだけ。自分の気持ちに嘘をついてまで誰かと付き合おうとは思わない。

 でも、あたしはずるい。吉田君がはっきり言わないのをいいことに、彼の気持ちを知りながらはぐらかしている・・・。小さな罪悪感が身体の中に広がってきた。あたしの心の中にグレーの雲が広がるのとはうらはらに、映画はクライマックスシーンを迎えていた。タクは相変わらず小さく口を開けて画面に見入っていた。

相変わらずこの作品の宇宙での戦闘シーンは迫力満点だ。あたしはさっきもやもやと考えていたこともどこかに吹っ飛んでじっとそれに見入っていた。いつの間にかまた身体を乗り出していたらしい。最大の山場に乗りかかったときにあたしはいつの間にか座席のひじ置きを両手で無意識にぐっと掴んでいた。その時、右手に何かか触れた。タクの手だった。



うわっ、と思ったが後の祭りだった。ぱっ、と離したものの、タクの手に触れてしまった自分の手はビリビリとしびれた感覚がする。心臓はばくばくと音を立てている。顔なんかきっと真っ赤に違いない。・・・暗くてよかった・・・そう思わずにはいられなかった。チラッとタクのほうに視線を送ると、少しびっくりした顔でこっちを見ている。小さい声で、「ごめん」と言ったが、タクからは何の反応もない。そのままふっと前を向いてしまった。きっとタクにとっては別になんでもないことなのだろう。
 心臓は相変わらずばくばく言っている。顔から熱を発しながら、ああ、もう映画の中身なんて頭に入んないや、と思って、シートに身体を預けた。視線は宙に浮いている。少し落ち着かなきゃと思っていると、まだ左のひじ置きに残ったままのあたしの左手が今度は誰かに掴まれる・・・考える必要もない。吉田君の右手だった。
 あたしは固まってしまった。あたしの頭はよくパニックになる。でも、今回はほんとうにどうしていいかわからない。映画館の中だから大きな声を出すわけにも行かないし、ましてや隣にはタクがいる。さっきあたしが手を掴んでしまったタクが。
吉田君の手はぎゅっとあたしの手を握っている。手のひらが熱い。少し震えているのかもしれない。落ち着かせようと思ったあたしの心臓はさらに大きな音を立てて鳴り始める。
熱かった手のひらはいつのまにか汗をかいている。その温かい湿り気が伝わってきて、吉田君も緊張していることが分かる。どうしよう。顔なんて見られない。こっちをじっと見ていたら何も言えなくなってしまう。でも、このままにしておく訳にもいかない・・・。タクに見られたら誤解されてしまう・・・。そうこう思っているうちに、いつの間にか映画はエンディングを迎えていた。
 エンドロールが流れ始めると、館内がざわついてくる。遥子がふああ、と声をあげる。目を覚ましたらしい。その声がきっかけになって吉田君はあたしから手を離してくれた。あたしはほっとして反射的に手を引っ込めてしまった。顔はまだ熱い。何か場を持たせられなくて、遥子に話し掛けようと右を見ると、こちらを見ていたタクの視線に気付く。その視線は、あたしの手が置かれていたところに向けられていた。
・・・血の気が引いた・・・
「きっと見られていた」
その考えが一瞬にしてぐるぐると頭を回る。タクはあたしと目が合うと、さっと視線を前に向けた。そしておもむろに立ち上がってこう言った。
「出るか。」
そうだね、と遥子が言い、吉田君も立ち上がった。あたしは何も言わず、顔も上げず、バックを持っておずおずと付いて行った。タクの顔も、吉田君の顔も見ることができなかった。



時間はもうお昼を過ぎていた。「どうする?この後、何か食べて帰らない?」という遥子の提案に、いいねえ、と乗ったのは吉田君だった。タクは相変わらず無言で、あたしはさっきのダブルショックのために何か食べるという気分ではなかった。
「どうする?榊原?」吉田君がタクに尋ねる。あたしは相変わらず三人の後ろを付いていく格好で歩いていく。正直、もう帰りたい。
「どうでも。でも俺あんまり腹減ってないし。」
タクは休みの日でもきっちり朝は同じ時間に食事を取る。それはタクの家の方針でも合った。だから本当ならおなかがすいてたまらない時間のはずだった。

いつもならおや、と思うのだが、今日のあたしにはそんな余裕はなかった。もう吉田君からも、タクからも離れた場所に行きたかった。涙が出そうだった。
黙っているあたしを見て遥子が、「波瑠は?」と問い掛ける。3人が一斉にこちらを向く。
視線が集中したのを体中で受け止める。緊張する。
「う、うん。あたし夕方から用事があったの思い出して…。」
ベタないい訳だと自分でも思うが、他に思いつかない。遥子は今日一日あたしが何の用事もないのを知っているから、怪訝な顔をしていた。
「だから、今日、これで帰るね。」
え、何で−、と遥子が言ったが、「三人で何か食べて帰って。」と言ってあたしは、じゃあね、と方向を転換した。みんなと一緒にいたくなかった。どういう表情をすればいいか分からなかったから。早歩きでその場を急いで離れた。視界がぼんやりと霞んでくる。1分も歩いただろうか。あたしの目からはポロリと涙がこぼれていた。


結局、最初の予感どおりになったなあ。というのが実感だった。頭の中にははいらないだろう、という予感どおりに。
でも、タクのことだけじゃなくて吉田君のことは予想外だったけど。
あたしは電車を降りると、駅前の駐輪場から自転車を出した。
もう、乗る気力もない。明日からどんな顔して二人に会えばいいんだろう。
からからと音を立てて自転車のチェーンが回る。ほんとうにとぼとぼという感じがぴったりの歩き方で、進んでいった。
家にまっすぐ帰る気にはなれなかった。通学路の途中にある河原まで来ると、自転車を道端に止めて腰を下ろした。
初めてのはっきりとした吉田君の意思表示。それにどう答えるべきなのか、あたしはわからない。どうしよう。頭の中にはその言葉しか思い浮かばない。

そのうち、ぼおっと、タク、きっと見てたよなあ、という考えが頭をよぎる。あの、映画を見てたときの顔、あの顔はあたししか知らない、小学生のときのままのタクだった。一緒に、夢中になって見てた時の。ちょっと開いた口も、身を乗り出してみる癖も。みんなあの時と一緒。知らないうちに触れてしまったタクの手。ビリッと電流が走った。そこから熱を発しているのかと思った。・・・少し嬉しかった。・・・でもタクはきっと単にびっくりしただけなんだろうけど。
あのときのタクの表情。目を丸くしてこっちを見ていたけど、すぐにいつもの冷たい表情に戻った。もう、視線も合わせてくれなかった・・・映画が終わるまでは。吉田君があたしの手を握っていたのを見て、タクはなんて思っただろう。

吉田君の行動に戸惑いながらも、最後はタクのことを考えている。・・・少し自分に嫌気がさした。

そんなことを考えながら川面を見ていると小さな魚がいるのか、水がぴちゃぴちゃと跳ねる。ふいにそばにあった小さな石をつかんで立ち上がる。「やあっ!」掛け声と一緒にその石を川に向かって投げる。
ボチャン。けっこう大きな音を立て、石はしぶきを上げて沈んでいった。
何か少し心が軽くなったような気がして近くにあった石を手当たり次第に投げる。
ボチャン、ボチャン、ボチャン。投げ込まれた石が輝く水面を揺らす。しぶきはまるで水から飛び出てきた生き物のように四方八方に飛び散っていく。

少し、気分が晴れたところで。遥子にメールしようと思った。突然帰ったことを謝っておかないといけない。
バックから携帯を取ろうと手にしたとき、あたしはあることに気付いた。
・・・パンフレット、映画館に忘れてきちゃった・・・。
第一作目からずっと集めてたのに。あの時すごく動揺していたからなあ・・・。しかたない。YAHOOのオークションかなんかで探してみよう・・・。
あたしはがっくりしながらも携帯を見る。
「メールが届いています。」の文字がウインドウに映っている。そういえばマナーモードにしていたんだった、と思ってメールを開くと、一つは遥子。そして一つは知らないアドレス。

“何急に帰ってるのよ!まったく!あとで説教!結局あのあとすぐ解散しちゃった。あー、残念。遥子”

遥子らしい…と思った。でも、理由は言えない。言うべきじゃない。言ったら、あたしの気持ちも全部遥子に言わなきゃならなくなるから。

もう一つのメール。誰かは開かなくても分かる気がした。多分遥子がアドレスを教えたのだろう。受信BOXを開き、「今日はごめん」の件名にカーソルを当てて、開く。

“今日は、ごめん。びっくりさせちゃったと思う。気、悪くしたなら謝る。よかったら連絡ください  吉田”

謝るって言う前に謝ってるじゃない。変なの。少しおかしくなった。
遥子にはあとで電話することにして、吉田君にはメールを打つことにした。だって、今、直接話をしたら気まずくなりそうだったから。

“確かにびっくりしました。でも、逃げ帰ったのはあたしがよくないです。これからもフツーでお願いします。あたしもフツーでいます。 山本波瑠”

そう。吉田君との付き合いで大事なのは「普通」でいること。それ以上でもそれ以下でもない。タクも同じ。あたしはあくまで「陸上部のマネージャー」でいなくてはならないから。そうでないと、自分の中の何かが崩れてしまいそうだから。

その後遥子に電話した。ぐちぐちと説教されたが、全面的にあたしが悪いので、「ごめんなさい」と何度も謝った。そのうち、遥子は「もういいよ。なんか事情があったんでしょ。」と許してくれた。こういうときの遥子は文句は言うが、しつこく聞かないのでありがたい。パンフレットのことは、聞きたかったけど・・・聞けなかった。


自転車を押しながら家に向かう。もう6時を回っていた。吉田君にメールを送って少しすっきりした気分にはなっていた。タクのことは心に引っかかっていたが、きっとあっちはなんとも思ってないから・・・あたしのこと、嫌いだから。と思うと、弁明は必要ないように思えた。少し寂しかったけど。

からからと音を立てて自転車のタイヤが鳴る。家々からは今日の夕餉の香りが流れてくる。
ああ、遅くなっちゃったな。
結局あの河原に3時間近くいたらしい。
あしたからまた部活が始まる。夏休みが終わるまで、もう休みはない。
高校生活最後の夏が始まる…だから、あたしはみんなが悔いの残らないようにしっかりがんばらないといけないんだ。

そんなことを考えながら家の前に来ると、見覚えのある服をきた人が立っていた。
緑色のシャツ。少し立った前髪。少し大きな背丈。うちの玄関の塀にもたれて、所在なさそうに立っている。・・・タクだ。
自転車を止めた。キッという音がした。あたしはタクを呆然と見ていた。
その音に気付いてこちらを見たタクが、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

・・・なんで?・・・

不思議に思って見ていると、何か違和感を感じた。
朝は何も持ってなかったのに、何か手にしている。
それが何かを確認することさえ忘れているほど、あたしは驚いていた。
何も言えなくて、動けなくて立ち尽くしていると、タクはあたしの目の前で止まった。

「ほら、忘れ物。」
そう言ってタクは何かを差し出した。
「え?」
よく見ると、それはあたしが映画館に忘れてきたと思ったパンフレットだった。
「座席立つとき、忘れていったから。」そういうとあたしにパンフレットを押し付けた。
高総体でナンバーカードを押し付けたときのように。
「あ、ありがと…。」
「いや、家近かったから。」
それだけ言うと、タクは自分の家に向かって歩き出した。
あたしの家からタクの家までは歩いて10分くらいだ。

・・・どれくらいここにいたんだろう。
自転車を置いてタクが歩いていった方向に目をやる。
大きな夕日が向こうに見える。
タクの細くて長い影がすっとあたしの立っている方に伸びていた。
その長い影を見送りながら、あたしは考える。
あと、もう4ヶ月しかないんだ。一緒にいられるのも。
高校総体のときみたいにタクに苦しい思いはさせたくない。
そのためには、しっかり。あたしがしっかり練習の世話をしなくちゃならない。
タクの最高のいい顔を見るために。

暑い夏の始まり。
きれいな夕焼けと長い影。
あたしは何かが始まりそうな、そんな小さな予感に包まれていた。


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