ぬるくなったオレンジジュース

 入道雲が少し形を崩しかけている。
 空の青さも心なしか薄くなってきた気がする。
 高校生活最後の夏休みも少しずつ終わりに近づいてくる。

 一回目の夏合宿。あの事件をきっかけに3年生の団結は強まった。
 それからの夏の練習も、2度目の合宿も、みんな自分にも他のメンバーにも厳しかった。
 誰かがペース走や距離走から脱落しそうになると、後ろに付いて背中を押したり、それでもダメなら手を掴んで引っ張って走ったりしていた。落ちそうになると容赦なく怒声が飛ぶ。

“みんなで最後までやるんだろ!”

 それはいつしかあたしたち3年生の合言葉になっていた。

 いつもは寡黙なタクも、この夏はよく声を出した。
 先頭でペースを作るばかりでなく、後ろからみんなが脱落しないようにしっかりとペースをキープする。誰かが落ちそうになったときには、“ほら、前に行け”と背を押す。キャプテンとして、後ろから全体を把握する。…吉田君や峰岡君がササゴンの要求するラインを8割方、クリアできるようになったからだ。
 もし、先頭のペースが速すぎたり、遅くなったりしたとき、タクは一言、声を掛ける。大きな声で。
「ほら、ペース!」
 吉田君が腕時計で確認する。峰岡君は左手を上げる。
 いつの間にか、元のペースで黙々とみんなは走っている。
 カーブを曲がるたびに汗が飛び散る。地面で弾ける。光を反射する。

 タクだけじゃなく、みんながまぶしい。

 そんなことを繰り返しながら、夏休みはどんどん、過ぎていった。


「…ハル、今年はまた、黒くなったねえ…。」
 まじまじと遥子があたしの顔を見る。
 確かにこの夏、あたしの鼻の頭は3回、脱皮した。
 元々色が白いせいか、そこまで“真っ黒”にはならなかったが、それでも去年の倍は黒くなっていると言う自信が(?)ある。
「仕方ないじゃん。今年は2部練だし、合宿も2回あったし…。」

 今日は遥子と夏休みの課題をやっつけようと市立図書館に来ていた。
 この夏、遥子ともほとんど会わないくらいあたしの毎日は陸上漬けだった。
 それでも、今日も5時から夕練が入っている。
 合間の短い時間をなんとかやりくりして、あたしは遥子との約束をなんとか守ることができた。

 あたしの得意は、古典。遥子は英語。お互いに約束の品を取り出して交換する。
「よし、やりますか。」
 遥子の声を合図に、あたしたち2人は黙々と「写す」作業に取り組む。
 とりあえずはお互いの得意分野をやってくる、というのが今回の約束だった。

 1時間ほどしたところで、ふう、と一息つく。横を見ると、遥子も同じように顔を上げた。
 結構進んだようだ。お互いあと、5分の1、というところ。
「ちょっと休憩しよっか。」
 あたしが声を掛けると、遥子も、そうだねえ、何かのど乾いた、と返事をした。

 財布を握って学習室を後にする。ジュースでも飲もうと近くのコンビニに足を向ける。
 遥子はペットボトルのお茶。あたしは紙パックのオレンジジュース。
 まとめてあたしがお金を払ってビニールの袋に入れる。
 コンビニを出ると、夏の暑さがむうっとあたしたちを襲う。


 あっつー、と遥子が声をあげる。

 少し、秋の気配が見え隠れするようになったが、日差しの鋭さは変わらない。
 あたしたちは図書館の前のちょっとした公園まで戻り、木陰のベンチに腰を下ろした。

 遥子がうーん、と背伸びをする。
 アスファルトを見ると、熱気が揺らいでいる。
 それでも、その暑さも緑の下では少し和らぐようだ。
 あたしはコンビニの袋からがさがさとお茶を取り出すと、背伸びをして、目を閉じている遥子のほっぺたにぴたっとくっつけた。
「わっ!冷たっ!」
 遥子のびっくりした顔がおかしくて、思わずあははは…、と声をあげて笑ってしまった。
「もう!このイタズラ者!」と、遥子は受け取ったペットボトルでゴン!と頭を叩く。
 500mlの重さは結構頭に響いた。ジンジンした。

「あたた…ゴメンゴメン。」


 そう言うと、あたしは頭を押さえながら自分の買ってきた紙パックのジュースを取り出し、ストローをぷちっと取った。そして、上の銀色のところにぎゅっとストローを押し込んだ。

 ストローの中をオレンジ色の液体がぎゅーっと上っていく。
 冷たくて少しすっぱいのが喉に心地いい。
「ハル、…よく3年間続いたねえ。」
 ペットボトルの蓋をぎゅっと回しながらしみじみと遥子があたしに言葉を投げかけた。
「あたしがやめるって言ったときハルも一緒にやめるって思ったのに。ホント3年間よく続いたよねえ。」

 ・・・何か、年取ってから縁側でひなたぼっこして会話しているみたい。

 そう思いながら、あたしもしみじみと「うん。」と答えた。
 遥子がお茶に口をつける。ぐいっと持ち上げて、ごくごくと喉を鳴らす。
 水滴がポタリ、と遥子の手元から落ちる。ベンチの縁に当たる。木製のベンチはそこだけ色が濃くなった。

「あー、おいしー。」と言ったあと、遥子はペットボトルを手にし て俯いたまま何も言わなくなった。
 遥子はとても端正な顔立ちをしている。真剣な顔をしているときには、思わず見惚れてしまうほどだ。
 ついついじっと見つめてしまった。でも、いつも能天気な遥子がいつまでも黙っているので、あたしは不思議に思った。

「…どうしたの?」
「あのさ。ハル。」
 ん、と遥子の横顔を見ながら、返事をすると、遥子は地面を見たまま、こう言った。
「あたしに、何か、隠してること、ない?」

 あたしと遥子は中学2年のときに同じクラスになってからの友達。
 何をするにも気が合って、いつも一緒にいるようになった。
 何でも相談したし、何でも話した・・・タクのこと以外は。

 遥子に隠してることはたった一つ。あたしがタクのことを好きだ、っていうこと。
 だから、この間の映画のときのことも話せなかった・・・話せば、タクのことまで話さなくちゃいけなくなるから。

「別に・・・。遥子に隠してることなんか、ないよ。」
 ジュースを握る手が少しじっとりと濡れている。それは水滴だけではなく、あたしの汗も混じっているようだ。じわじわと額に汗が吹き出る。でも、それは暑さのせいだけではない。
・・・焦っている。

「じゃ、聞くけどさ、夏休み前、映画に行ったでしょ。あの時なんでハル、先に帰っちゃったの?」

 どきっとした。来たと思った。
 やっぱり。
 あの後は練習練習で忙しくて、ゆっくり遥子と会う暇もなかった。・・・だから黙ってた。自分の中に「言いたくない」って思ってる自分がいるのも分かっていた。・・・ずるいっていうことも。

間髪いれずに遥子は言葉を続ける。
「あの時、ハルが帰ったあと、妙に雰囲気おかしくてさ。・・・もともと榊原はしゃべらない人だし、別にいいんだけど、吉田まで何か黙っちゃってさ。で、解散しようか、ってことになったんだ。
何でか知らないけど、いつの間にか榊原、パンフレット持ってるし、吉田は解散した後に、あんたのメルアド聞いてくるし。あたしが寝てる間になんかあったんじゃないの?」
 遥子は足をブラブラさせながら、地面を見つめたまま話し続ける。

 きっと、ずっと聞きたかったんだ。遥子は。

 遥子に真剣に尋ねられたら、あたしはきっと隠し通すことができない。
 それだけ、遥子は大切な友達だった。
・・・でも、本当のこと言って、「何で今まで言わなかったんだ?」って言われたら?

 それでも、ずっと黙っているよりは、いいのかもしれない。

 そう思ったあたしの口からは「ゴメン」という一言がこぼれていた。

 あたしの「ゴメン」を聞いて遥子は「やっぱりね」と言ったあと、フウ、と溜息をついた。

「ずっとおかしいって思ってたんだ。ハルがあんなに突拍子もないこと言い出すはずないし。もしかしたら、あたしが急にあんな計画立てたから、怒っちゃったのかな、っても思ってたし。でも、男どもも何か雰囲気変だし。…いろいろ悩んでたんだからねっ!」
 そう言って遥子は半分くらい飲み干したペットボトルでまたあたしの頭をゴツン、と叩く。
 少し軽くなったそれは、今度はそんなに痛みを与えなかった。


「ゴメンね。言わなくて。ずっと。」
 正直に謝ったら、何か気が楽になった。
「いいけどさ…。で、何があったの?さっさと白状しなさい。」
 よかった。いつもの遥子に戻った。あたしはそう思った。
 それでも…言いづらい。恥ずかしさが先にたってしまう。
「う、うん…あの、吉田君がね…。」
 多分、あたしの顔は真っ赤に違いない。自分でも熱を発しているのが分かる。
 決して夏の暑さのせいではない。

 それを聞いて遥子がちらり、とこちらを見る。意味ありげな視線で。
「吉田ねえ…。ハル、気付いてるんでしょ。吉田があんたのこと好きだって。」
「・・・なんで遥子、そんなこと知ってるの?」
 あたしは目を丸くして大きな声を出してしまった。
「…見てれば分かるじゃん。吉田、クラスであたしと話すとき、いつも陸上の話かあんたの話だし。」
 そういって思い出したようにくすくすと笑う。
「分かりやすいよ、吉田。」

 うっ、と詰まってしまった。かあっと顔がさらに熱くなるのがわかる。
 要するに吉田君の行動は、遥子にはバレバレなのだ。・・・遥子はこういうことには非常に鋭い。

 真っ赤になって黙っていると、また遥子はあたしに催促する。
「で、吉田と何があったの?」


「あ、あの…映画見てるときに急に手、握られちゃって…それで、どうしていいかわかんなくて…。」
「逃げ出したって訳か。」
 こくん、と頷く。
 納得、と遥子は言って、あたしを見た。
「ハル、こういうことに免疫、ないもんねえ。」
 そしてこう付け加えた。
「ハルさ、吉田のことどう思ってんの?」

 どう思ってる・・・いい人だとは思う。こんな人を好きになったら、すごく楽しいだろうな、って思う。でも。
「いい人だとは思うけど・・・。一緒にいて楽しいけど、でも、”好き”って言うのとは違うの。」
 遥子に嘘をついちゃいけない。あたしはそう思う。
 あたしは顔を上げて、遥子の目をしっかり見て答えた。

「“好き”かあ。“好き”って一体どんな気持ちなんだろうね。」
 遥子はふと顔を上げて空を見上げる。枝々の緑の間から、光がこぼれる。木漏れ日はキラキラと輝きながら、白い筋を作って地面まで流れてくる。

 あたしは遥子の言葉の意味がよくつかめない。

「遥子は、キャプテンのことが好きなんじゃないの?」
 ふとこぼした遥子の言葉に、あたしはおずおずと質問を投げかける。
 遥子は中2の頃から、ずっとタクのことが好きだった。競技場まで試合を見に行ったり、陸上部の男子を捕まえて、いろいろな情報を手に入れたり、とにかく積極的だった。
 高校に入って陸上部のマネージャーに最初なったときも、それはそれははしゃいでいた。
・・・マネージャーを辞めても、いつでも陸上競技場に応援に来てたし、「榊原が好き」って言うのを公言していたから。

 そんなあたしの頭の中をよそに、遥子は上を向いたまま言葉を続ける。
「うーん、最近考えるんだあ。“好き”って言うのとはちょっと違うかもって。あたしは、ただのファンかも。」
「なんで、そんな風に思うの?」


「吉田。あいつ見てたらそう思った。」

・・・吉田君の行動が一体遥子に何を考えさせたのだろう。あたしは黙って聞くことにした。

「だって、吉田さあ、ずっとハルのこと見てるじゃん。ハルの話ばっかするじゃん。時々、あたしの知らないハルの一面を話したりするんだ。あたし、ハルのこと誰よりも知ってるって今でも思ってるけど、でも、あたしには見えないハルを吉田は見つけてる。話ししてて、ああそうか、って思うこともあるんだよね。…部活でいつも一緒にいて、話して、ハルの内面を知って、どんどん好きになってるんだなあ、って思うんだ。吉田見てると。あたし。」

 そう言うと、遥子は上を見上げていた顔をゆっくりと正面に向けた。
 さっきまで自転車で走り回っていた小学生もいなくなった。
 公園は静かだ。

 遥子も、静かに言葉を紡いでいく。遥子特有の、透き通った声で。
「そしたら、あたしはどうだろうって。榊原の一体どこを見て好きになったんだろうって考えたんだ。・・・で、結論。結局は外見とか、走ってるところがかっこいいとか、そんなところしか見てないって。榊原が一体何考えて、どんなことしたいのか、どういう性格なのかって、ほとんど知らないなあって思ったら、本当はあたし、榊原のこと好きじゃないのかも、って思った。」

 それから、今度はこっちを見てにやっと笑いながら言う。
「ほら、アイドルとか、ジャニーズとか、騒いでる人たちと一緒なのかも。本当のことはよく知らないのに、“あたしのもの!”とか思っちゃう人たちと。」
 そして、遥子はくすくすと笑った。

「そう思ったら、なーんか今まで夢中で追っかけしてた自分があほらしくなってさ。・・・あたしも本当に人を好きにならなきゃな、って思った。」

 そこまで話すと、遥子はまたペットボトルの蓋を開け、残りをごくごくと飲み干した。
 少しずつボトルから減っていくお茶を見ながら、あたしはぼんやりと考える。
 そして漠然と頭の中に浮かんでいたことを言葉にした。

「遥子は、じゃ、キャプテンのことは好きじゃないの?」

 間髪いれずに遥子は答える。
「うん。多分ね。付き合いたい、とか思うけど、でも、あたしは榊原のことを何一つ知らない。知ってるのは外側だけ。こんな状態は“好き”とは言わないと思う。」

 あたしが自分に一生懸命な間に、遥子はすごくたくさんのことを考えていた。
 いつも一緒にいて、話をしているのに知らなかった。
・・・やっぱり、遥子ってすごい。

 何でも引っ込みがちなあたしと違って、遥子はなんに対しても積極的だ。
 考え方も前向き。遥子の前向きさにあたしも何度助けられたか分からない。

 でも、あたしが遥子のことをすごいって思うのは、こういうときだ。

 遥子はなんでもじっくり考える。頭の回転もいい。
 それに、うじうじ考えない。結論を出したら、その後の行動はすごく潔い。

 あたしは、どうだろう。
 あたしは、ずっとタクのことが好きなのに、いつまでもいつまでも何も言えずに見ているだけ。
 吉田君があたしのことを「好き」って言うのもわかっているのに、どっちつかずの態度でいる。

 高校を卒業するまで。駅伝まで。
 タクを見ていられるのもそれまで。
 そこまで終わったら、もう自分の気持ちに終止符を打たないといけない。
 だから何でも伸ばし伸ばしにしている。


 あたしがいつまでも黙っているからか、遥子は立ち上がってカラになったペットボトルをゴミ箱に入れた。そしてくるり、と振り返ってから、イタズラっぽくあたしに向かって言った。

「ハル、あんた、ほんとうは好きな人、いるんでしょ?」
 そして、あたしの鼻の頭をピン、と弾いた。

 痛かったのかもしれない。でも、それよりも遥子の一言にびっくりした。感じなかった。
え、なんで・・・と思った。絶対に分からせてないと思ったのに。
ぽかん、と口を開けるあたしを見て、遥子はケタケタと笑う。

「図星。やっぱりね。そうじゃないかと思ったんだ。」

 あたしは口をぱくばく動かすだけで声が出ない。

「何で分かるかって?だってあんたさっき言ったじゃん。『いい人だとは思うけど。“好き”って言うのとは違う』って。」

 あたしは頭の中の考えがようやく言葉になって出てきた。
「な、なんでそれで分かるの?」

 また焦っている。
 そんな短いあたしの言葉で、なんで?

 遥子はあたしの横に戻ってきて、ストン、と腰を下ろした。
「“好き”って言うのとは違う、って言うことは、ハルが“好き”って言う感情がどんなものかわかってるってことでしょ。・・・中2からいままで友達でいたけど、ハルが特定の男の子を好きになった、って聞いたことなかったし、そうなんだと思ってたけど、でも、この間から、考えてて、あ、“好き”っていうことについてだよ、なんか、ハルもおかしいよなあ、って思ってたの。もしかしたら好きな人がいるんじゃ、ってさ。今日の一言で確信に変わった、って訳。」


 ああ、ばれてしまった。目をつぶって、天を仰いだ。
 あたしは遥子の顔を見られない。だって、ずっと嘘をついていたから。
 何て言えばいいんだろう。

 その後は俯くしかなかった。
 黙っているあたしに遥子は穏やかにこう言った。

「あたしに言えなかった、ってことはあたしに悪いって思ってるってことでしょ。そしたら、もうハルの好きなのは誰か、すぐわかっちゃうよ。ハル。」

 遥子は、足元に転がっている小さな石をコツン、と蹴った。
 その石は軽かったのか、勢いよく転がっていく。コロン、コロンと。

 もうだめだ。もうほんとうに遥子の顔を見られない。
 ずっとずっと、自分の胸の中だけにしまっておくつもりだったのに。
 一番大事な友達の遥子にも絶対に言わないって心に決めてたのに。

 「嘘はつかない」のがあたしたちの中の約束だったのに。
 でも、あたしは最初からその約束を破っていた。
 どんなに謝っても許してもらえないかもしれない。・・・そう思ったら、涙が出てきた。

 握り締めたオレンジジュースの紙パックの上にポタッ、と音を立てて涙の雫が零れ落ちる。
 一つ、二つ。ポタッ、ポタッ。

 その音を聞いて、遥子がこちらを見る。そして目を丸くした。
「なんで泣いてんの!ハル。」
 ほら、と遥子が急いでポケットからハンカチを出す。あたしの顔に押し付ける。

「だって、あたし、ずっと遥子に嘘ついてたから…。約束、破ってたから。もう、許してくれないかもしれないって思ったら…。」
 そこまで言うとあたしは遥子のハンカチで涙を拭いた。それでも次から次にこぼれてくる。
 あたしはその後、涙声で「ゴメン」とだけ言った。
 あとはもうしゃべれなかった。

 そんなあたしを見て遥子は微笑んでいるみたいだった。
 それから淡々とあたしに向かって話を始める。
「・・・いつからハルが榊原を好きだったか、なんてあたしにはわかんないよ。だってハルは今まで本当にあたしにそれを感じさせてなかったから。でも、吉田があんなに分かりやすい態度を取ってても、一向になびく様子もないところを見ると、どうも他に好きな人がいるんじゃないかって思った。で映画のこととか、一人でもハルがマネージャーしてることとか、何より、あたしに言えないってことは、多分そうなんだろうって。・・・あたしがあんなに大騒ぎしてたんじゃ、ハルの性格だったら言えないよねえ。『あたしに気を遣わせる』って思ってたんでしょ。きっと。」

 そこまで言うと、遥子はあたしの頭をポン、と叩いた。

「嘘つかれた、って言っても、あたしの気持ちを考えてくれた嘘だから、今回に限り、許す。その代わり、2回目はないからね。」
 そう言うとあたしの頭をくしゃくしゃとなでた。

 あたしの中でぐるぐるといろんな感情が回る。
 そうじゃない、そうじゃない。
 違う。あたしが言えなかったのは、遥子の気持ちを知ってたから、っていうことだけじゃない。
 何より、誰にも言えなかったのは、あたしがタクに嫌われてるから。
 あたしのことをタクが見てくれるはずはないから。
 他の人の口から、タクに伝わるのが怖かったから。・・・もっと嫌われるのが、嫌だったから。
 それだけなのに。

 ごめんなさい、とあたしは何度も繰り返す。涙は止まらない。
 遥子はそんなあたしの肩を抱いて、
「いいよ、ハル。もう無理しなくても。」
 そう言ってくれた。

 あたしは、もうぬるくなって水滴も乾いてしまったジュースのパックを握り締めながら、ずっと遥子にもたれて泣いていた。

 いつの間にか、時計は4時を指していた。
 結局今日の目標は達成できずに終わってしまった。

「残りは、また後日。ということで。」

 学習室に戻ったあたしたちは片付けを始める。
 5時からの練習に間に合うためには、一度家に帰って、着替えなくてはならない。
 もうタイムリミットだ。
 泣いたせいか、頭がぼうっとする。
 きっと目も赤いだろう。
 遥子があたしに大丈夫?自転車で転ばないでよ。と声を掛ける。
 うん、と頷いて荷物を持ち、あたしたちは学習室を後にした。


 階段を降りながら、遥子がポツリとあたしに向かって言った。
「ハル、榊原に自分の気持ち、伝えないの?」
 あたしは黙ってコクリ、と頷く。
「なんで?両思いになれないと、いやなの?」ぶっきらぼうに遥子が尋ねる。
「違うの。」
 あたしは、階段を降りる足を止める。
 あたしの声は思いのほか大きくなってしまった。
 遥子は足を止めて2段下からあたしを見上げている。

「あたしは、タクに嫌われてるから。だから、あたしの気持ちは言っちゃいけないの。」
 あたしがいつも思っていること。それをきちんと遥子に伝えないといけない。

 遥子が怪訝な顔であたしを見る。
「なんで…そう思うの?」
 あたしも遥子にまっすぐ視線を返す。

「タクはあたしと必要以上に口も聞いてくれないし、すごく冷たい目であたしを見る。…でも、それでも、あたしは中学校の頃からタクが好きだったの。」

 遥子はあたしの顔をじっと見て、黙ってあたしの言葉を聞いている。

「ごめんね。ずっと言わなくて。本当は誰にも言うつもりはなかったの、あたしの本当の気持ち。でも、もうここまでだから。高校を卒業したら、みんな違う道を選んでいくから。もうタクの近くにはいられないから。だから、これで、駅伝まででおしまい、あたしの片思いは。あとは、思い出にしていくだけ。あたしの胸の中で。」

 遥子はしばらく黙っていた。
 そしてまた、静かに言った。
「ハルは、それで後悔しないの?」

 後悔・・・するのだろうか。自分の気持ちを封印したことをいつかは。
「わかんない。でも、今はそれしか考えてない。」

 そっか。と遥子は言った。
 そしてすたすたと階段を降り始めた。
 あたしもその後に付いて一段一段、階段を降りる。
 2人のサンダルの音が、カツン、カツンと会談室の中に響き渡っていた。



 自転車置き場に着く。
 ここからあたしと遥子は別行動だ。

 遥子の自転車は玄関の近くに置いてある。
 荷物をカゴに入れ、「また連絡するね。」そう言った。
 うん、と言った後、あたしは自転車に向かおうと遥子に背を向けた。
 その時、遥子は思い出したようにあたしに向かって一言、付け足した。

「ハル、吉田のこと、まじめに考えてやってよ。あんたが榊原への気持ちをそういう風に考えてるんだったら。」
 振り向いた。遥子はにっこりと笑っていた。やっぱり、遥子の笑顔は、綺麗だった。

 それだけ言うと、遥子は、「お先!」と自転車に乗って行ってしまった。

 ・・・まじめに考える、かあ・・・。

 自分の自転車の置いてある場所に向かって歩いていく間、
 遥子の言ったことについてあたしは考える。

 はっきり「好き」と言われたわけではない。
 意思表示はあった。あの、映画のとき。
 でも、あたしははぐらかしている。
 ・・・この居心地のいい状態を失いたくないだけなのかもしれない。
 やっぱり、あたしはずるい。

 それでも、タクを好きでいながら、吉田君と付き合うっていう器用なことはあたしにはできない。
 それなら、きちんと吉田君に伝えた方がいいのかもしれない。

 でも、あと、もう2ヶ月と少しだもの。
 そこまで、そこまでこの関係ではいけないのだろうか。

 そうこう考えているうちに自分の自転車の前にたどり着く。

 自転車のカギを外す。荷物をカゴに入れる。
 ペダルに足をかけ、ぐっと踏みだす。ふわっと風がよこを通り抜ける。
 夏の風は相変わらず心地いい。
 涙でほてった顔をまるで冷やしてくれるみたいに。
 頬を撫でながら、すうっ後ろに流れていく。

 あと、2ヶ月。
 タクのためだけじゃない。
 3年間一緒に頑張ってきたみんなのために、できることを精一杯やる。

 あの夏合宿でそう心に決めた。
 駅伝が終わるまでは、あたしはそのこと以外考えない。

心 の中で何度も何度もその言葉を繰り返し、あたしはペダルをこぐ。

 腕時計を見るともう4時20分。
 急がないと夕錬に間に合わなくなる。
 今日の練習は60分のジョッグ。急いでいって水分の準備をしなくっちゃ。

 あたしはそう思った瞬間、ぐいっとペダルを踏み込み、自転車のスピードを上げた。

 いつも通る、川沿いの道。
 この時間でもまだまだ日は高い。じりじりと肌が焼かれる。
 それでも、夏の初めに比べれば、気温が下がるのが早くなった。

 川原では小学生がサッカーをしている。
 わあわあと歓声をあげながら、真っ黒な顔にきらきらと汗を光らせて。

 一匹の赤トンボがすいっ、と目の前を通り過ぎていく。

 ふと、飛んできた方を見ると、何匹もの赤とんぼがあたしを追いかけてきている。

 ああ、ホントに夏も終わるんだ。新学期が始まるんだ。

 あと、2ヶ月。
 あたしの片思いも。そこまでで終わる。

 駆け足で過ぎ去っていく時間。
 早く行ってほしいような、まだ行かないでほしいような、複雑な気持ちであたしは夏の終わりを感じていた。

          Back / Top / Next