魚薫の森

後編 (1)

 十月の下旬ころにしてはめっきり冷え込んで冬の兆しを感じさせる秋の朝、山手のバス道は銀杏並木がほんのり黄色に色づき始めていた。毎年秋の深まり行くころに決まって彼は感傷的な気分にとらわれる。ことに秋の夜更けに寂しさはいっそうつのった。そんな長い夜が明けて秋のもの悲しさをひとしお感じながら河原竜二は病院までのなだらかな坂道を足早に下っていった。
 今日は新聞配達の足音を聞きながら目が醒めた。遠い昔、遠足の日の朝にまだ明けやらぬうちから目覚めてしまった子供のころのあの昂ぶった感触が竜二に蘇ってきた。その朝寝る以外には使いものにならない殺風景な部屋はまだ薄暗かったが、竜二は胸騒ぎを覚えて一時間も早く研修医寮を出た。
 白衣を羽織って五階の研修医医局から飛び出した竜二は北病棟四階の詰め所に向け階段を駆け下りた。だらしなく膝下まである長い白衣を脱ぎ捨ててこの日彼は最近流行りのジャケットの白衣に衣更えしていた。それを着込むとなんとなく気障な気がして照れくさかった。
 忙しく深夜勤務の看護婦が配膳の片づけやら最後の検温に立ち回る廊下をすり抜けて詰め所に入ると休憩室のソファに竜二は席を陣取った。
「あら先生、お久しぶり。中四階でなかったの」
看護婦の金田が相変わらず屈託のない声で挨拶した。コーヒーカップを奥の水屋から取り出し深夜の看護婦の分だけ木目に似せた安っぽいセンターテーブルに無造作に並べた。
「今日はこちらに用事なの」
「ここのコーヒーに里心がついて寄って見た」
彼女は頷いて余分にカップをもう一つ取り出した。それを振ってみせながら可愛げに眉をあげて顔をかしげたが、どうしたってブスはブスだった。
「なにかお目当てでもあるじゃあな〜い」
竜二はぐさりと的を射ぬかれて心中穏やかではなかった。
「古巣の北病棟に足を向けたらあかんか」
彼は胸の高鳴りを知られないように落ち着き払って言った。金田が俺と京子のことを知っているはずがない、まだ煙は立ってはいないのだ。山崎や森田は女が出来るたびに派手に噂がたって、無節操な女関係が病院を退廃させていると言い出すものさえいた。もとを正せば彼らの別れ方に不手際がある。別れを持ち出された女の方が恨みをつのらせてあちこちに言いふらすから、とっくに生理のあがった総婦長は眉を吊り上げてかんかんに怒り出す始末だ。竜二の場合は捨てられる心配はあっても、捨てる方の心配はないから総婦長を怒らせることはまずありえないと彼は妙な自信を持っていた。
 美味しそうに湯気をくゆらせるコーヒーの匂いとは別に、ほのかに芳しい香りがどこからともなく彼の鼻をくすぐった。それは淡い香水の香りと甘酸っぱくしっとりあたたかい肌の匂いが織りなすいとしい女の香りであった。竜二に京子の姿がありありと蘇えった。
休憩室の仕切り壁の向こうで看護婦が深夜から日勤への朝の申し送りを始めているのだ。京子が頷くたびにその気配が竜二につたわり、小声で話す澄んだ声が耳にとどくと胸をしめ付けられるような重苦しい緊張を感じた。金田と話す声が京子にも聞えているはずだ。彼女には今の僕と同じもの狂おしいほどせつない思いがつのっているだろうか。彼は金縛りにあったようにそこに釘付けになって、金田の話を上の空で受け流していた。
 彼がものにとりつかれた虚ろな目つきでコーヒーを無意識に啜っていると院内放送が甲高い声で流れた。中年の鶯嬢の声が〜察するところ彼女はまだ色気ムンムンで男の一人や二人は一ころなのと思い込んでいる若作りのお姐さんだった〜京子に話し掛けるきっ掛けを掴もうとをハイエナのように窺っていた竜二の出鼻をすっかりくじいてしまった。その鶯嬢は河原先生とご丁寧に二度繰り返してから彼を中四階の詰め所まで来られたいと脂のこってりのった声で呼び出した。それも今すぐにお越しくださいと念押しに強調していた。
もし北の詰め所の休憩室で微かにしていた男のかすれ声が誰のものとも気づかなかったのであれば、鶯嬢が今それは竜二の声だと京子にはっきり知らせたはずだ。もし彼女が竜二のことを忘れようと今日まで努めていたのであれば、その声が懐かしい男の記憶を思い起こさせてくれるように願った。
竜二が詰め所の敷居を跨いだとき京子は廊下であわただしく点滴のボトルや静脈注射の類をワゴンのうえに準備していた。ふと予感がしたのか彼女が後ろを振り向き二人の目が合った。その刹那に看護婦帽の下に巻き上げた豊かな黒髪の一束が解けて肩に落ちた。竜二の唇は凍りついたように強張ってその一瞬声をかけることが出来なかった。京子は朝の病室から沸きあがる喧騒に促されて竜二に背を向けると足早にワゴンを押しながら廊下の端の病室に消えた。逡巡しながら竜二は彼女の背中を見送ると断ち切るように踵を返して中病棟四階に向かった。
                                        
 点滴の当番は週に一度回ってくる。それが今朝だとは院内放送を耳にしてもてんで思い浮かばなかった。切なく彼女の後ろ姿を見送って気落ちしながら歩く竜二には連想のめぐる心のゆとりは残っていなかった。
 中四階病棟の詰め所に足を踏み入れたところで刺のある冷たい看護婦たちの視線が彼を出迎かえた。病棟に来るのが三十分ばかり遅れた医者への恒例の挨拶だと彼は受け取って例のごとく気にも留めないふりを装った。その視線のなかから目だって背の低い中年のご婦人が歩み出てくると竜二の前に立ちはだかった。竜二はどこまででも転がっていきそうな丸く太った白衣の中年女性を眉をしかめながら見つめた。女性は白衣の襟を正すとさらに一二歩歩みでて毅然として竜二を睨みつけた。
 彼にはコロコロと太ったこの女性の女盛りはもうとっくに過ぎていると思えたが四十路を過ぎてますます女の魅力に磨きがかかってきたと誤認しているらしく、婦人は自信たっぷりに彼を見据えたままおし黙っていた。ここの病院では一寸自信過剰ぎみで無闇と色気を振りまきたがっている年増の看護婦が多すぎる、二十五になっても初心な竜二にはどうにも刺激が強すぎて気味が悪かった。
 いかに自立した職業婦人とはいえ女にも連れ合いがいた方がいい、冷静沈着な仕事振りと部下を束ねる指導力がこの太っちょのご婦人を婦長にまで押し上げたのだろうが四十路になっても一人身でいると自分の容姿については独善的な判断を下しがちになるものだ。竜二はたじろぐほど鋭い目つきで睨む婦長に爆発しそうな敵愾心を覚えながらも内心そう考えた。
 まん丸の婦長の恐ろしい形相がどんな理由によるものか竜二にはかいもく見当がつかなかったから、あれこれ思い巡らす気も湧かなかった。彼女が睨もうが笑おうが所詮どうでもいいことなのだ、どうせ相手が院長、婦長だろうと汲々とご意見など聞く耳を持ち合わせていないこの俺に彼らがいかほどの痛痒を与えると言うのか、そう彼は胸で一人呟いた。所詮人生すらがどうってこともない代物かも知れぬのに、ねちねちせずに婦長さん言いたいことがあるんなら、さっさと言ってけりをつけてくれ、竜二が婦長を敵意の目で見つめながらそう胸のうちで毒づいたときには、投げやりでアナーキーな学生時代の顔がのぞいていた。
「先生、今日はどう言う日がご存知」
この瞬間婦長は相好を崩し打って変わってにこやかになった。どこぞに仕舞っておいたお多福の面を咄嗟に取り出して、その顔に貼りつけたのではないかと思うほどの変りようであった。
「僕の誕生日ではないのは確か」
苦笑しながら竜二は言った。
「あら、わたくしの誕生日ですの」
張りつめた詰め所の緊張が一気に緩んだ。
「婦長さんはお幾つになりましたの」
成り行きをはらはらしながら見守っていた看護婦が機転を利かして詰め所の端から声を投げかけた。婦長はきつい目付きに戻って中年女性の年を聞く声の方を睨んだ。
「ただ今、松下参事が河原先生の代わりに病棟中の点滴をやっておられますのよ」
竜二は真顔に戻った。顔の火照りが嘘のように引いていった。彼の喉もとで声が出かかったとき婦長がまた喋り始めていた。
「参事と言っても先生にはお聞き覚えがございませんでしょうが、実は参事と言うのはついこの間出来ました役職で部長さんの前にお勤めになるそうです。部長にさせたし席はなし、そのうち病院で石を投げたら参事か婦長に当たると言うのが専らの噂ですの。おほほ」
婦長の話の終わらぬうちに、竜二の姿は詰め所から消えうせていた。
中病棟から西病棟に抜ける渡り廊下の手前で看護婦を連れて個室から出てくる松下に竜二は追いついた。いつもは下げたがらない頭を心底から下げ、駆け出しの研修医のために点滴当番の雑用を引き受けてけれた神経内科の指導医に感謝の気持ちを表した。
「いや、寝坊をしたのかね。わははは」
禿げ上がったおでこを撫でながら常からの大袈裟な笑い声を上げて松下は若い研修医を鷹揚にからかった。
「まあ、そんなところです」
思いもかけないあっけらかんとした大らかな対応に禿げた松下の頭までが竜二には人温かく光って見えた。
「ところで明日、入院させる患者がおるんじゃが、受け持ってみるかね。まだ若いのにオシッコ漏らした言いよる」
「はい是非」
竜二はあっさり引き受けた。
                                        
 朝から神経がくたくたに磨り減る一日であった。とっぷり日が暮れてから竜二はいつものように晩ご飯にありつこうと市松の暖簾をくぐった。女将は目の回る忙しさに機嫌を損ねているらしく、一方娘は艶々した顔を引き締めてきびきびと立ち働いている。中四病棟の婦長とは違ってどこからどう見ても娘の方は女盛りである。
折りよくタウンターの隅が空いていたが、直ぐには席に向かわず敷居を跨いで格子戸を閉めたところでちょっと間を置いた。石川に比べれば月とすっぽんはるかに長い月日を費やしたが最近このあたりの女将との呼吸が竜二にもやっと会得できたのである。
「河原先生、どうしたの忙しいきに、空いとるでしょうがさっさと坐ってください」
女将にこう言わせてからおもむろに席につく、これが市松で飯を美味く食べるコツである。
「そうそう、そんなとこに大の男が突っ立ったとたら邪魔よ」
むんむん湯気の立ちそうな娘がたたみかけた。湯気が立ち上らなくなったら、とうが立つのは早いと女将は肌身で知っていたから隣で働く年頃の娘が気が気でならなかった。だからこそ市民病院の研修医はどれもこれも格好のお婿さん候補に見えるのである、差し詰め無骨でなにかにつけ大雑把な竜二であってもそうなのである。
竜二には女将の娘に好意も悪意も感じなかった。そこらあたりの事情はいかに鈍感な竜二にもそれとなく伝わってくるし、情報通の石川からもたっぷり入れ智恵もされていたら地金の馴れ馴れしさでぼろを出さないようにわきまえているつもりだった。
 それに加えてそん所そこらの客には手の平を返したようにつっけんどんになるから、この女将を義理の母親にした日にはたいそう苦労をすると思っていた。娘はこれがまた英語が出来て相当鼻っ柱の強いと来ているからどう転んでも夫婦円満を期待はしにくいと、ここに通う研修医ならみんなそう思っていただろう。それでも毎晩か欠かさず通い詰めるのは出来たての温かくて家庭的な晩飯にありつけるからである。若い研修医にとっては胃袋の問題は綺麗な女に次いで死活問題なのである。
 どう言うわけか今夜はいつもの一口カツではなしに大きな一枚ものの豚カツだった。それを箸で食らうから、ちょっと出っ歯の竜二は噛むごとその歯型をそっくり残して頬張った。噛み切ると衣のうちから昇るのはホカホカの湯気、まな板を打つ小気味いい包丁の音、漆喰壁に黒い柱、着物に羽織った白い割烹着、竜二はまの当たりのほのぼのとした情景を湯気の間からしばし眺めた。
「先生、そんな慌てんとゆっくり食べたらどうね」
「ほら粕汁が上がったよ」
その前に頼んだはずのビールがまだこない。こんな間の悪い時間差攻撃に一々腹を立てていてはいけない、ここでは一にも二にも忍耐力が求められるのである。
「ビールまだかな」
「ビールは聞いてないよ」
そうかビールを注文し忘れたかと竜二は悔やんだ。それにしてもビールはいつものことと分かりそうなものを相変わらずこの親子は機転がきかんと思った。
粕汁と大瓶のビールと大盛りの丼飯を一緒くたに食ったら、胃袋は熱くなったり冷たくなったりてんやわんやであった。
「先生こんなのあるけど、どう行きなさる」
女将は棚からチケットを取り出して竜二に見せた。宝塚歌劇のエス席が、それも二枚である。ハードボイルド好みの竜二が御伽噺っぽいラブストーリーに興味があるはずがない。
「有り難う」
よく考えもせず手っ取り早く二つ返事でそう言ったのは、咄嗟に京子のことが閃いたからである。彼女と行けるなら欺瞞に満ちた御伽噺だってなんだってかまわない、華やかなタカラジェンヌの雰囲気につつまれたら二人はまた強く結ばれるだろう。竜二にはそんな予感がした。
「良かったね、麻理」
はっと気づいて竜二は自分の愚かさ加減を悟ったが、もう二進も三進もいかない。
「先生は忙しいけに、大丈夫なの」
娘の麻理は素直に喜んでいた。
「女将さん僕なんかでいいの、迷惑かけそうや」
「ちょうど麻理の友達が都合わるなってしもうて、そんな気兼ねせんといてください」
これで麻理の未来に少し明るい光が差すかもしれないと女将はほくそえんだ。
暗い研修医寮までの夜道は冷え込んでいた。ビールの心地よい酔いも宝塚の話で覚めそうになって半キロばかりの坂道が気落ちのせいか息が切れて妙に胸苦しかった。
                                        
翌日十時を過ぎて松下先生のいうオシッコを漏らす患者が入院してきた。待ち構えていた竜二はさっそく病室を訪れて診察を始めた。もっけの幸い部屋は個室で傍目を気にせずなんでも開けっぴろげに聞ける。患者は阪口という名の四十二歳になる男性で電気製品の部品を製造する会社を数年前に興した事業家であった。体はがっしりしていたが顔は柔和で目はいつも笑っていたから竜二はすぐに患者と打ち解けた。
 思い起こすと一度目は気を失って会社の社長室で倒れていたという。意識が戻って起き上がってみるとズボンの濡れていた、その温もりが自分の尿のせいだとは直ぐには思いつかなかった。
 二度目は家族一緒に松茸狩りに出かけたときだった。林の中で痙攣を伴って僅かの間意識を失い、やはり尿の失禁があったという。直ぐ意識は戻ったが心配した奥さんが嫌がる夫をようやく最寄の病院に連れて行った。そこでは簡単な検査を受けて経過を見てもらったが異常はなく住まいも遠いので翌日には帰してもらい、仕事に都合のついたところで市民病院の松下先生の神経外来を受診した。
「どうでしょうか、心配はないでしょうか」
失禁男の阪口は目の前のいたって頼りないげな研修医にそれでも見立てを訊ねた。
「診たところ、まったく異常はないですよ。明日検査をしても何も悪いところは見つからないかも知れませんね、うん多分」
竜二は詰め所から持ってきたステンレストレイのなかに打腱器やら針、筆、懐中電灯、眼底鏡など脳神経の七つ道具を戻しながら、得意の第六感で無責任なことを言った。
「じゃああしたの検査は要りませんか」
声には期待が滲んでいた。
「いやいや、正常だと証明するのも検査の目的ですよ」
竜二は本当に要るのか訝ったが、もう検査の予定に入れてあるから受けろとも言いにくかったし自分としては初めての脳血管撮影を経験する又とない機会だから是非受けてくれとも言えなかった。
「先生にしていただくのでしょうか」
どうも気のいい人らしく竜二の技量を疑っている様子はなかった。
「とんでもない、僕はアシスタントです。松下先生がいたします」
後刻竜二は脳血管撮影についてあらましを患者とその奥さんに説明した。奥方は銀幕から出てきたような飛びっきりの美人だったから竜二はその場で唸った。温かいうちに餅をつぶしたようなご亭主に目の覚めるほどの美人がくっ付くとはどうしてだろう、よっぽど裕福なのだろうか、それでも彼には納得がいかなかった。
検査の危険性について話が及ぶと若干の問題があると仄めかして、ついさっき松下から慌てて聞き込んだ当病院の実績も付け加えながら説明をすることにした。

「いやあ、やろうやろうと思うとってなかなか集計ができとらんの。この次はきっと出しときます。だから今日のところはそれぐらいに言うといて、大きな事故はない、血腫は十分圧迫して安静にしてたらできんから大丈夫、塞栓も今日はないと言うときましょう」
詰め所で松下はそう言いながら竜二の背中を叩いて送り出した。検査に対する説明も以前はもっといい加減なものだったが今年やってきた研修医の手前取りあえず格好を整えなくてはならなくなったのだ。最近病院のあちこちで研修医と言う生徒にじろじろ観察されて指導医の先生方は我が身を反省する羽目に追い込まれていた。
あまりの別嬪をもらった亭主が少しばかり憎らしかった竜二は検査の危険性を一寸大袈裟に言ってやろうと思った。しかしもとになった松下の統計は頭の中で大雑把にはじき出した大概いい加減なもので正確に集計されたものではない、一部のセクターを除けばこの病院のレベルはいまだこんなものであった。
しかし彼の説明は実際とそれほどかけ離れて大袈裟なものでもなかった。例えば塞栓についてはどうだろう、検査部位の頚動脈に血栓ができてそれが剥がれたとしたらどこに行く、当然それは脳に飛ぶだろう。ではその後は脳梗塞をおこすとしか思えない。今のところ塞栓は起こっていせんと言ったが、塞栓って何ですかと聞かれたら目論み以上に恐ろしい説明になってしまった。しかし事実を言えばそうなるのであっていたずらに脅かしているのではない。その場は多少梃子摺ったもものお人好しの阪口さんのお蔭で飛びっきりの厳しい質問も受けず何とか切り抜けることが出来た。