■Fell On Black Days
■Diary
■Fell on July 24
バイト遅刻. 素ヘコみ.
カバコフ展カタログ購入.
●卒論「記憶論(仮)―記憶の外在性をめぐって―」目次(仮)
序章:過去という巨人 ―イリヤ&エミリヤ・カバコフ「私たちの場所はどこ?」展
第1章:物語としての記憶
a.記憶とはいかなる概念か
1)記憶の心理学モデル
2)記憶の社会学モデル―M.アルバックス「集団的記憶」
3)記憶モデルへの哲学的懐疑―健忘症事例と永井均「開闢の哲学」
b.物語としての記憶
1)記憶の構築性―W.ベンヤミン「歴史の天使」
2)記憶の現在主義―シュッツ「現象学的社会学」
3)自己論からの展開―Symbolic Interactionism
4)歴史化する記憶―戦争・<声>・証言
第2章:記憶の生成論
a.外在する記憶
1)記憶術―F.イエイツ「記憶術」
2)記念碑
3)証言と〈声〉
4)健忘症事例における<他者>
b.内在する記憶―H.ベルクソンの<生>の哲学
1)記憶と知覚の合一
2)持続とはなにか
3)記憶の逆円錐モデル
第3章:<私>と記憶
a.<私>という記憶
1)統覚―直観にともなう「私は考える」
2)「生きられた現在」―現象に立ち会う<私>
3)<私>という再認―「<死>の哲学」現象学
b.<生>という記憶
1)「反省」と空間化
2)生きられる記憶
3)根源なる記憶―<生>と<持続>
終章:身体の哲学へ(仮)
(概略:まずは記憶の心理学モデルをとりあげ、それへの社会学的見地からの批判を試みる。次に、哲学的見地からのさらなる批判を加える。記憶を自我を支えるデータベースとみなす心理学モデル、記憶を語ることで自己形成=社会化を達成するとする社会学モデルそれぞれに、永井の「開闢」の思想と健忘症事例は懐疑を投げかける。なぜなら記憶を主体に先行すると見なす限り、主体が記憶を制御する可能な根拠は見つからない。記憶とは、常に〈私〉に対して“たまたまそこにあった”ものではなかったのか?)
■Fell on July 23
気分転換する理由がみつかったので,
卒論のための読書ノートがわりに日記を再開することにする.
第一回.
ジル・ドゥルーズ(平井啓之訳)『差異について』(1992年)青土社
・「傾向tendances」について
「本性において異なるものは、事物でも、事物の在り方でもなく、正確でもなくて、傾向tendancesなのだ」(p.22)
「それ自体としてまたその真の本性において一つの事象とは、一つの原因の結果である以前に一つの傾向の表われである」(p.23)
・「持続」について
「つまり、持続とは、自己に対して差異を生ずるものである、ということである。物質とはこれと反対に、自己に対して差異を生ぜず、くり返されるものである」(p.40)
「要するに持続とは差異を生ずるものであり、差異を生ずるものはもはや他のものとの間に差異を生ずるのではなくて、それ自らとの間に差異を生ずるのである。差異を生ずるものがそれ自体一つの事物(もの)、一つの実体になったのだ」(pp.41-42)
「持続、傾向とは、自己に対して自己のもつ差異である。そして自己に対して差異をもつものとは直接的に実体と主体との一致である」(p.43)
・「分化」について
「持続は二つの傾向の一つにすぎず、二つの半分の一方である。しかしそのすべての存在において持続はそれ自身との間に差異を生ずるということが真実であれば、持続は他の半分の秘密をも自分のうちに含んではいないだろうか」(pp.49-50)
「単一のものは分割されず、それは分化[差異化]する。分化こそ、単一のものの本質そのものであり、あるいは差異の運動である」(p.50)
「持続、すなわち不可分なものは正確には分割をゆるさぬものではなくて、分かたれることによって本性を変えるものであり、このように本性を変えるものが潜在的なものあるいは主体的なものを定義することになる」(p.53)