| 城門 博物館前の小道を山側に向かうと城門がある。鳥取城で唯一現存する建築物。現在はこちらが城の正面入口のようになっているが、江戸時代は裏門であったのだろうか、「鳥府志」にはこの門の記載はない。「中仕切り門」が通称?。門の向い側、現在、博物館の駐車場の所は「鳥府志」に云う「御城代屋敷」の地であろうか。岡嶋正義は博物館前の小道が吉川氏・宮部氏の頃の大手通りではないかとしている。 |
![]() |
| 城門の裏側 昭和五十四年の台風で損傷し、有志により修復された。 |
![]() |
| 仁風閣(上) 大正天皇を迎えるため建設された。江戸時代には右手には御馬場があり、左手の庭園部分には各代ごとに様々な邸宅があった。仁風閣の向こう側の植え込みの所には米倉があった。 |
![]() |
|
三階櫓石垣 おさごの墓:天球丸から中坂口を少し上ったところにある。最近、この禿倉(ホコラ)を喬松院が寄進された。「因幡民談記」によるとこの「おさご」というのは、池田長吉(備中守)の息子、次兵衛(長幸)殿が、美作(岡山県北部)の森美作守の家から奥方を迎えた時に付いてきた上臈である。その頃は、年齢は三十余才に見えた。容色は美しく、智恵、才覚は尋常でなく優れていた。段々、主君の覚えも良くなり、最後には、内外への命令の伝達までこの人が行うようになったという。鳥取城の築城の時も、髪を大吹綰に結い上げて、紅粉で化粧し、美しい小袖を着て、薄い青色の立付袴を穿き、金色の鍔の長い脇差を差して、竹杖を突いて、毎日検分に出て、あれこれ指図をした。建築現場で働く人夫などは、これに心を奪われて、その日の苦労を忘れたという。次第に主君の 寵愛と厚遇が増し、その後、次兵衛殿の奥方が死亡した時に、おさごの給仕が良くなかったという噂が立ち(毒 殺?)、森家に呼び返されて、いなくなったと伝えられている。私が考えるにもしこの伝承が本当なら、ここに墳墓があるはずがない。仮の墓なのであろうか。不審である。 「上雪」によると、天徳寺に修行に来た僧侶の話として、おさごは今も備中国鳴岩(成羽)の城内(備中高松 城)に左近大明神という社(やしろ)を建立して神に祭ってあるという。 その詳細は不明だが、きっと死後に池田(長吉)備中守に祟りなどがあって神に祭られたのであろうか。このよ うなことがあるのは普通の人では無かったからであろうと伝えている。 池田長幸と森家の婚姻については以下を参照。 |
![]() |