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「鉄(くろかね)御門 本丸の表御門である。一重の門だったという。図では、御式台から斜めになっているように見える。これも焼失した後再建されていない。察するに、この御門の、扉から柱までびっしりとの鋲・条鉄(長い棒状の鉄)などが打ち込んであったのでこの名がついたのだろう。世間で現在の二の丸御式台前の御門をこの名前で呼ぶように混同しているのは大変な誤りである。」(「鳥府志」より)
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| 井戸 |
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天球丸(鳥府志より) この郭の一名を「おふろや」という。御本丸に並んで東の上手にあった。宮部侯の時代には本丸と地続きで、中坂口と称したと思われがはっきりしない。 おそらく、池田長吉の鳥取城改築の際に、(当時のように)二の郭とされたのであろう。さて、天球丸の名称であるが、八東郡若桜の城主山崎左馬允殿の妻は池田勝入信輝公の姫君であった。普通の女性とは違い、腕力が大変強く、気性も猛々しく、以前から夫婦仲がよくなかった。 ある時、生まれたばかりの娘を連れて、側に仕える女中に長刀を持たせて若桜城を出て、鳥取の池田長吉の所へ落ち延びて来られた。 池田長吉は天球院の弟君であったからである。事の発端は、関ヶ原の戦が始まり、西軍の石田三成が諸大名の人質を大阪城に取ったときに、山崎公は愛妾とその息子を密かに摂津の三田城に帰し、兼ねてから疎んじていた天球院に大阪城に入れと言ったことを恨んでのことによるという。山崎公も道理に反したことであったと責任を感 じ、いろいろ詫びを入れたが、天球院は許さず、結局離縁になったという。私が考えるに、当時は争乱の最中で思うようにはならなかったのでそのまま山崎家に留まり、摂津の三田城から当国若桜城に国替えになったあとで、早速、鳥取城に来たのであろうか。 また、ある記録では、娘というのは、加賀守政虎の娘で天球院の養女であったという。 |
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| 天球丸石段 風呂屋御門 天球丸の入口に在る渡り櫓の名前である。今も厳然としてその遺構が残っている。これも(享保年間に)焼失して再建されていない。(「鳥府志」より) |
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| 天球丸井戸 井戸(鳥府志) |
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| 天球丸 天球丸(鳥府志) 写真の左手の方には天球丸の三階櫓があった。 |
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御櫓 昔はこの名前をなんと言ったのであろうか。今は明らかでない。その場所はくろかね御門の側で遺構がある。もしかすると、御鉄砲蔵と言われたのはこれであろうか。最近までこの周りで鉛が出たそうだ。思うに、炎上消滅のときに、鉛子(?)が溶け出て土石の間に流れ込んだものが、随分後の時代まで残っていたのだろう。 世間で鳥取城の石垣は鉛で繋いであると言う説が流布されているのはこのことからこじつけたものだろう。 ところが、最近この辺りにひどく貪欲なものがいて、毎日、生業(なりわい)にしているかのように、その鉛を採掘して、ついには掘り尽くしてしまい今は出なくなったそうだ。(「鳥府志」より) |
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