「失踪少年・疾走少女」

 彼が消えたことを気にしたのは、たった二人きりだった。

 少女が走る。何もかもを背後に置いて。ただひたすら自分の欲するものへ向かって。
「一番乗りーっと!」
 二段飛ばしで階段を駆け上がると、彼女は身軽にジャンプした。着地の瞬間、靴底がキュキュっと鳴る。
「やあ、新井木さん。おはよう」
 廊下の手すりに片手をかけた青い瞳の少年が、その様子を眺めてにこりと微笑む。
「速水君、はやいね」
 速水と呼ばれた少年は、新井木に歩み寄った。
「ここから、みんなが登校してくるのを見るのが好きなんだ」
 プレハブ校舎の二階。廊下の手すりにもたれて、速水が遠くを眺める。
「ここからだと、みんなの顔がよく見える。たとえば、田代さんは朝が弱いからいつも俯いてるし、田辺さんは何度転んでもすぐに立ち上がって歩き出す。見てると飽きないよ」
「ふぅん」
 新井木も速水の真似をして、手すりにもたれ校舎裏方面を見た。
「あ、茜とモリリン。朝っぱらから喧嘩してる」
 新井木の短い髪が爽やかな髪に逆立つ。慌ててそれを直して、
「やだもー、まだ先輩に朝の挨拶してないのに」
と言った。ふと思い出したかのように、速水に尋ねる。
「そうだ、速水君、先輩は?」
「先輩?」
 速水の少し困ったような顔に気づかず、新井木は重ねて聞いた。
「来須先輩だってば。もう来てるかな」
 期待で輝く新井木の顔とは裏腹に、速水の顔はさらに困った度を増していた。
「ん、その、来須さん、たぶんもう来ないよ」
「えっ、何で?」
「もう、やるべき事が終わったからどこかへ行ったんだ、と思う」
「何、そのやるべき事って!」
 困った度120%の速水に詰め寄る新井木。
「僕に聞かれても困るんだけどな」
「何よ。ボクに言えないっての?」
「そうじゃなくて。僕も知らないんだ。ただ」
「ただ?」
「そんな気がするだけだから」
 そう言って、速水はうつむいた。
「・・・信じない。絶対信じない!先輩がボクを置いてどっか行っちゃうなんて」
「そんな」
 新井木の語調に驚いて、速水は顔を上げた。
「絶〜っ対!信じないもん!」
 新井木はそう言うと、一組教室に駆け込んでいった。

「先輩!」
 がらんとした教室に新井木の声が響く。誰もいない。
「よっす。何だ新井木か」
「あっ、バカゴーグル!あんた先輩見なかった?」
「んだよ、そのバカゴーグルってのは」
 ふくれっつらの滝川に新井木が迫る。
「そんなの、どうでもいいから。早くいいなさい!」
「知らねぇよ。お前、二組だろ。自分の教室行けよな」
 滝川はそう言うと、被っていた白い帽子を脱いで自分の机にぽんと置いた。
「ちょっと、それ先輩のじゃないの?」
 新井木が帽子をひったくろうとする。が、一瞬早く滝川の手が伸びた。
「やめろよ。これオレんだからな」
「答えなさいよ。それ、どこにあったの」
「昨日貰ったんだよ」
「ウソ」
「ウソじゃねえよ」
「ウソだもん!先輩、それ大事にしてたんだもん!あんたなんかにやるわけないじゃない!」
 新井木の目から、涙がぼろぼろとこぼれる。滝川は、訳が分からないといった様子で肩をすくめた。
「信じようと信じまいと、どうでもいいよ。どっちにしろ、これはオレのもんだ」
「先輩は?」
 流れる涙をそのままにして、新井木はまた同じ問いを滝川にぶつけた。
「知らねぇって言ってるだろ、しつこいな。オレ、そんなことより新型が動くトコが見たくてさ」
「そんなの、勝手に見なさいよ!あんた、あんた『そんなこと』ってどういうことよ。昨日まであんなに先輩先輩って騒いでたくせに」
「うるせぇっつってんだろ!」
 滝川が拳で机を叩く。その拍子に机の破片があたりに飛び散った。
 新井木は、駆け出していた。

 探さなくちゃ。早く、探さなくちゃ。先輩が消えてしまう前に。
 新井木は走った。心当たりの場所全てをくまなく探した。しかし、誰一人として来須銀河の行方を知っている者はいなかったし、その居所を気に掛けている者もいなかった。

 夕日が校舎の屋上を赤く染め上げている。駆けずり回って疲れ果てた新井木がビールケースに腰掛けてそれを眺めていた。
 涙はまだ乾いていない。
 と、後ろで物音がした。
「先輩!?」
 新井木が振り返る。しかし、そこにいたのは金と茶の髪をした男だった。
「どうした、元気がないな」
 男―若宮康光が新井木の側へ歩み寄り、その隣にあるビールケースに腰掛けた。
「うむ、何というか、お前にそんな顔は似合わないと思うがな」
「うるさい、この筋肉馬鹿」
 新井木が真正面を見つめたまま言う。若宮は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに顔をほころばせて大声で笑った。
「ははっ、そうそう、お前はその方がいい」
「ホント、人の気持ちを考えない馬鹿だよね!人が泣いてる横で、大声で笑うヤツがどこにいるってのよ!」
 新井木はまた夕日を見つめたまま言った。若宮は黙ってその横顔を眺めている。
「泣いている奴は、そんな目をしないもんだ」
「えっ?」
 若宮の言葉が、理解できなかった。思わずそちらを見る新井木。
「本当に悲しい奴は、そんな風に真っ直ぐに夕日を見たりしない。お前の顔は、俺の知っている男によく似ている」
「男に似てるなんて言われても、嬉しくないよーだ」
「ははっ、そう言うな。そいつは俺が唯一認めた男なんだぞ」
「へえ」
 いつしか若宮は新井木と同じように夕日を真っ直ぐ見て話し始めていた。
「俺があいつのそんな顔を見たのは、戦いのさなかだった。俺と奴と新入りの三人で薬莢か何かの回収をしている時、すぐそばのガレキが崩れた。元々一般住宅だったらしく、中は空洞だった。俺達はそこで、小学校に上がるか上がらないかの子供の死体を見つけた。新入りは、その場で吐いて泣いていた。自分たちがもう少し早く戦いを終わらせていれば、この子も死なずにすんだだろうとな。俺は、それを見ながら、この新入りにも戦争のイロハを教えなければならんと思っていた。つまり、俺は子供の死体一つじゃ泣けなかった訳だ」
「その人・・・ボクに似てるっていう男の人は、どうしたの?泣いたの?」
「いや。泣かなかった。だが、俺のように心を動かされなかったわけじゃない。あいつは子供をガレキの中から抱き上げて、片手で帽子を被り直した」
「それって!」
 立ち上がろうとする新井木を手で制して、若宮は続けた。
「まあ、話は最後まで聞け。そいつは、子供を抱いたまま―そう、その時もこんな夕暮れだったな―言った。『・・・俺は、この子に誓う。俺のやるべき事をやる。戦争を、終わらせる』とな」
「やるべき事・・・」
「そうだ。あいつは、そういう奴だったんだ。自分の役目を知っていた。それが終わったら、もう同じ所にはいられない、そういう事まで知っていて、俺達を助けてくれたんだ」
「・・・助けて貰ってただけじゃないよ」
「ん?」
「ボク達も、助けたんだ。先輩の事を」
「うむ、そうだな。俺達は、助けられただけじゃない。俺達とあいつが、一緒にやり遂げたんだ」
 新井木の目からまた大粒の涙が溢れた。若宮が片手を伸ばし、新井木の髪をくしゃくしゃと撫でる。しかし、新井木がそれだけでは泣き止まなかったからか、自分の方に引き寄せ少々乱暴に制服の胸元で涙を拭わせた。新井木が少し暴れたが、若宮は一向に気にしない様子だ。
「だから、平和であることそのものが、俺達と来須が一緒に作ったもんだと思わんか?俺達は、これからもずっと平和であるようにしなくちゃいかん。あいつのために」
「うん」
 新井木はいつしか暴れるのを止め、若宮の胸にじっと顔を埋めていた。
「でも、今は・・・今だけは泣いていいよね。先輩、怒らないよね」
 しゃくりあげながら、新井木が言う。
「あいつが怒るわけがなかろう。思い切り泣いたら、また明日元気に走ればいいさ」
「明日もまた辛くなったら・・・話、してくれる?」
「俺でよければ、いつでもつき合うぞ」
「うん・・・。先輩・・・せんぱい・・・」
 新井木は若宮の制服をぎゅっと掴むと、声を張り上げて泣いた。

 やっぱり、いなくなっちゃった。
 来須の事を思うと、涙が止まらなかった。
 もう二度と逢えないかも知れないんだ。
 自分の中の水分が全部出たような気がした。
 でも。
 新井木はそっと顔を上げ、地平線近くまで落ちた夕日を見つめる若宮の顔を見た。
 先輩の事を覚えているのは、ボクだけじゃない。
 そう思うと、明日も元気が出そうな気がした。

 明日も、きっと走れるよね。絶対。

                            おわり

 

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