窓円アパート : 2F > 200号室 : ドアだけの部屋
「ミス・カーテンの紅茶」
2階の突きあたりにあるドアだけの部屋。
運がよければ、誰かが迎えてくれるかも。
あたたかな紅茶と上品なクッキーでもてなしてくれるのは、美しくはかなげな淑女、ミス・カーテン。
* * *
3.
ミス・カーテンは薄く瞼を開き、壁掛け時計に目をやった。
午前0時。
時刻を確認するとゆっくりとベッドを抜け出し、姿見の前へ立ちこう言った。
「わたしはミス・カーテン」
するとミス・カーテンの透き通った肌に、血が通い始めた。ふわりと飛んでしまいそうな体に、重みが戻る。不安定だった足下は、体重を支えしっかりと床に立っている。
ベッドの下にしまっておいた靴を履き、ドアを開ける。そしておそるおそる、部屋の外へ足を踏み出した。
廊下を歩き、つきあたりの階段を降りる‥‥ここを通るのは一年ぶりだ。相変わらず、階段は一段多いのね。ミス・カーテンは声を出さずに笑った。ロビーを通り過ぎ、さらに奥の部屋へ。ドアをノックする。
誰、と、眠そうな目でドアを開けたのは窓円千鳥。
ミス・カーテンの姿を確認すると、はっと驚いた。
そして「どうして、」と言いかけてやめた。
「今日は嘘なの」
それだけ告げると、彼女の手を引いて外へ連れ出した。そんな強引な行動をしたのも、彼女がわからないなりに納得している様子を悟ったからだ。そう、今日はエイプリルフール。全てが嘘なのだ。
公園はもう、ひっそりとにぎわっていた。
いくつもの顔なじみが声をかけてくる。年に一度だけ会う懐かしい人々と、短いけれど気持ちのこもった挨拶を交わす。
千鳥と別れると、ミス・カーテンは人の波をするすると抜けて、奥へと進んだ。そしてトリネコの木の前へたどり着くと、そこにはもうすでに懐かしい後ろ姿があった。
「サイ」
呼ばれて振り返った青年は、ミス・カーテンの姿を認めると、ほっと気を緩めた表情を見せた。
「一年ぶり、ね」
「ああ。会いたかった」
「わたしもだわ」
そう言うとミス・カーテンは彼の体へと身を寄せる。そしてしばらく何も語らずただ抱きしめ合った。お互いの温度を確かめるように。
「今日がずっと続けばいいのに」
「そんなこと言ってはいけない」
「だけどわたしにとっては、こちらが本当だわ」
ミス・カーテンの瞳から、一筋の涙が落ちた。
「いいかい」
サイは彼女の涙を指先でぬぐいながら言った。
「これが本当になる日がいつかやってくる。きっとやって来る。ぼくらの『心残り』が見つかりさえすれば、きっときみはあのアパートを出ることができる」
「ええ。ええ、そうね。きっとそうだわ」
だけどそれはいつ?
だってあれから一体どれくらいの月日が流れている?
しかしミス・カーテンはそう口にはせず、ただ頷いた。
「あ」
「?」
「ねえ、新しい管理人さんがやってきたの」
「新しい?」
「ええ、チドリよ。チドリ・マドカリ」
「チドリ・マドカリ!」
「そうよ。彼女はとても、チドリに似ているの。うまくやっているわ」
「そうか。彼女なら、力になってくれるかもしれないな」
「ええ」
そう言うと、ふたりは再び黙り、お互いの体温を確かめ合った。
そうしてどれくらいの時間が経ったろうか、円い月が、ぼんやりと輪郭を緩めはじめた。
「そろそろ、行くわね」
「ああ」
「次は”本当”で会いましょう」
にこりと笑うと、ミス・カーテンは振り返らずにそのまま去って行った。
中央広場で再会した千鳥は、少しぼんやりとした表情をしていた。きっと、懐かしい誰かに会ったのだろう。千鳥はなにも言わないし、ミス・カーテンも何も聞かなかった。
部屋につくと再び鏡の前に立ち、わたしはミス・カーテン、とつぶやいた。
窓の外から、光が差し込む。
空はゆっくりと太陽を運ぶ。
夜が空けて、嘘がとける。
彼女にとっては、本当であってほしい嘘が消える。
ミス・カーテンは消えてゆく嘘を、じっと見つめていた。
* * *
2.
オーブンからハチミツの甘い匂いが漂う。ある日の午後、ミス・カーテンは可愛い管理人のためにハニー・マフィンを焼いていた。
「できたわ」
焼き上がりは上々である。トレーをテーブルに乗せたところで、ミス・カーテンは妙な物音に気付く。
どすん、どすん、どすん、どすん。
重みのある、それでいて乱暴で野蛮な足音。
このアパートの住人にゾウはいないはずだ。
それから、もう一つの気配が後から追いかけている。困ったような、めんどくさそうな。ーああ、これは、チドリね。
ミス・カーテンはとりあえず、素早く隠れることにした。そしてドアのほんの隙間から、そろりと覗き込む。
ぎゃあ、という悲鳴の後、視界にはいったのはドアから落ちそうになっている体の大きな女性、それをあまり気持ちの入らない感じで引き上げようとしている管理人チドリ。そして最近入居した、品の良い紳士T氏。
T氏が次々とやって来て、なんとか女性は這い上る。そしてチドリが声をかけると、女性は慌てて逃げるように走って行ってしまった。
いなくなった女性の後ろ姿を見て、チドリはいたずらっぽく笑う。ミス・カーテンも思わず笑ってしまった。その反動で、扉が音を立てる。
「ミス・カーテン」
「ああ、ごめんなさい。今の人、怒っていたわね。わたしのシャワーが原因かしら」
「いいえ、気にしないで」
「そんなわけにはいかないわ、これからは遅い時間は使わないようにするわね」
「ううん、いいの。だってわたしも夜中のシャワーは大好きだもの」
2人は同時に笑い合う。ひとしきり笑った後、チドリが思い出したように言った。
「それにしても」
「?」
「ミセス・マーブルパンの顔ったら」
チドリは押さえきれないといった様子で再び笑い出した。
「悪いわよ、そんな」
そう言いながら、ミス・カーテンも笑いが漏れる。
ねえ、じゃあ、続きはマフィンでも食べながらどうかしら?ええ、是非。ミス・カーテンはチドリを部屋へ招き入れた。この後、200号室にはマフィンの匂いと笑い声で、とても明るい時間が訪れた。
* * *
1.
その日はまるで、真冬の日々に突然訪れた春休みのようなあたたかな日。
めずらしく穏やかな日差しの中、めずらしくドアーがノックされた。
ドアーを開けるとそこには一人の少女。
20歳前後だろうか?
黒い髪に黒い瞳。短めの前髪の奥に覗く、薄いけれどしっかりと意志を持った眉。切れ長な瞳をぱちぱちとさせて、薄く唇を開いた。
ミス・カーテンは思わず息を飲む。「ミス、」と言いかけて、口をつむぐ。そしてにっこりと、微笑む。
「こんにちは、わたしはカーテン。200号室の住人よ。よろしくね」
「200号室?」
彼女は一瞬考え込むような仕草を見せたが、すぐにそれも放棄した。
きっと、今まで他にも「信じがたい色色なもの」を散々見て来たのだろう。
今、彼女の頭はバターよりも柔らかくなっている。
立ち話もなんだから、と、ミス・カーテンは彼女を部屋へ促す。彼女は素直に部屋へ入っていった。
今しがた焼いたばかりのクッキーと紅茶をテーブルに並べる。彼女は目でお礼を言うとそれらを口に運んだ。
「おいしい紅茶をありがとう、ミス・カーテン。わたしの名前は窓円千鳥」
「チドリ・マドカリ!まあ、素敵な名前ね」
「母の、母の、母が、付けてくれたわ。変でしょう?会ったこともないのに。
自分の娘の娘の娘には、自分と同じ名のチドリと名付けるように。それが遺言だったらしいの。
もっと他に言うことってあったと思うんだけど」
「まあ」
ミス・カーテンは思わず吹き出した。
「チドリらしいわ」
「母の、母の、母を、知っているの?」
「もちろんよ。わたしがここへ来たのもその頃だから」
「そう。母の母の母は、いえ、『チドリ』は元気でした?」
「ええ、一番気があったわね。そう言えばあなたに、よく似ている」
「そうですか」
「ねえ、ここのアパートはもう全て見てまわったの?」
「1階の部屋を掃除したわ。左の部屋のベッドを使ってる。
ラウンジは鳩時計の鳩がうるさいからあまり長居しないことにしたの。
カウンタには見たこともないたくさんのカラフルなジュースやリキュールが置いてあった。
階段は時々数が減ってる。2階の部屋も片付けた。
ああ、そう、1階でメリィに会ったわ。一言二言話したら彼女、寝てしまったけれど」
「メリィは寝るのが大好きなのよ」
「そのようね」
「屋上へは行ったの?」
「え?」
「このアパートには屋上があるのよ」
「屋上」
「以前はよく屋上から人が行き来したしたものだわ。
だけど変な客が訪れたり、住人が消えてしまったりするものだから
あなたのお母さんのお母さんあたりがいつの間にか封鎖してしまったみたい」
「面白そうだわ」
「あなたはそう言うと思った」
ミス・カーテンと千鳥は、ふふ、と笑い合った。
「ミス・カーテン、よかったらあなたに案内して頂けないかしら」
「そうねえ、だけどわたしはここを出られないのよ」
「何故?」
「だってわたしは。いいえ、だってあなたはここの管理人だわ。自分の目で、確かめてほしいの」
「そうね。わかったわ」
千鳥はゆっくりと立ち上がり、ごちそうさま、と丁寧にお礼を言った。
「また来ても、いいかしら」
「ええ、いつでも。いつでも紅茶とクッキーを焼いているから」
「マフィンも?」
「ええマフィンも」
ミス・カーテンはふわりと笑った。それを確認すると千鳥は部屋を後にした。
真冬のすきまに間違えて落ちてきたような、あたたかい冬のある日。
ミス・カーテンと『チドリ』の再会を紅茶の香りが祝福した。
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