窓円アパート : 2F > 203号室 : ドクター・ジルの部屋

「ドクター・ジルの憂鬱」

小さなレディ、ドクター・ジル。
彼女はまだ9歳という若さで一流の医師。
彼女のオペはまるで魔法のように見事な手さばきでどんな病気も怪我も治してしまう。 ただひとつ、彼女の悩みは奇病を抱える自らの体をオペ出来ないこと。


* * *

3.

薄暗い部屋の中、ソファの上でドクター・ジルはじっと動かない。まるで人形のように黙ったまま。部屋の外では雨が降り続け、容赦なく窓に雨粒が打ちつけられる。

ーちくしょう。

昨日、彼女のクランケが死亡した。
容態に異変が起きたのは午前0時。彼女に知らせが入ったのは午前3時。連絡を受けて、急いで駆け付けた頃にはもう患者は息を引き取っていた。死亡が確認されたのは午前0時23分だった。死亡してすでに、3時間余りが経過していた。

ーちくしょう、ちくしょう。

どんな深刻な状態であっても、生きてさえいれば助ける術はあったはずだ。しかしいくら彼女だって死んでしまった人間を生き返らせることはできない。
すべては連絡の手配が遅れたせいだ。そしてその原因をドクター・ジルは知っている。
以前から彼女に過剰なライバル意識を持った外科医の男。
クランケの異変時、病院にはその外科医が居た。
すぐさまドクター・ジルへ連絡をしようとした看護士を止め、自分が処置をすると言い出した。おそらく、自分の手柄のために。そして患者は亡くなった。

ーちくしょうちくしょうちくしょう。

ドクター・ジルはもちろんその男に腹をたてている。しかしそれ以上に自分が、自分のクランケを死亡させたことに腹をたてている。

音井は亡くなった患者の家族のもとに行っている。彼女にも一応声はかけていた。しかし決して行かないことを音井は知っていた。ドクター・ジルは死亡した患者に興味を持たない。死亡した瞬間、もう患者ではないのだ。

外ではごうごうと雨が降り続ける。ドクター・ジルは部屋を動かない。

* * *

2.

今朝、病院から荷物が届いたという電話が入った。今日はドクター・ジルが休患日だったため自分も休みだったが、取り急ぎ必要な荷物だったので取りに行くことにした。そしてベッドでまだ眠っているドクター・ジルに書き置きを残し、部屋を出た。
ほんの、1時間程度の間である。

お土産に彼女の好きな『ハローチーズ・ハローベリーパイ』を買って帰り、ドアを開けた瞬間、信じられない光景がそこにあった。 部屋が水浸しで、泡だらけ、そしてあちこちに自分の洋服が浮いている。そのプールの中央に優雅に浮いているのはドクター・ジル。
呆気にとられるも水が廊下にあふれだすのに気付き、音井は慌ててドアを閉める。そのはずみで、『ハローチーズ・ハローベリーパイ』を落とした。

「あら、お帰りオトイ」

「ドクター・ジル、あなたは一体」

「うん、そうね。どこから話そうかしら‥‥つまりは洗濯をしようとしたのよ。そうしたらあいつ‥‥あ、あいつって、洗濯機のことね‥‥あいつがいきなりバクハツしたの。もうびっくりよ」

「びっくりするのは、こちらの方です」

「まあまあ、最後まで聞きなさい。それで水は溢れるわ、泡は噴射するわ、あんたの大事な洋服は飛び出すわでもう大変。だけどほら、ちょっと楽しいじゃない。だからあたしはこの事態をポジティブにとらえて水着に着替えて泳いでるってわけ」

「ジル、あなたはほんとうに、私の想像の遥か上をいく」

「まだ終わりじゃないのよ。どうしてこんなことになっちゃうのかしらって洗濯機を調べてみたの。そうしたら、洗剤を入れ間違えたのよ」

そう言ってジルは洗濯機の上を指差す。
ジルの指の先には、洗剤。そしてその隣に置かれてるのは。

「‥ジル」
「そうなの、バクハツ粉だったの」

ドクター・ジルはけらけらと笑い出す。
バクハツ粉はドクター・ジルが作った薬品だ。病院にあるさまざまな薬品を拝借して、「新薬の開発」とまじめ顔で言ってはどうでもいい薬を作って暇つぶしをする。彼女が本気で開発に取り組んだら、ほとんどの病気が回復するだろうに、変てこなものばかりを作っては、薬と時間を消費している。それが彼女の趣味でもあった。
彼女の笑い声が響く部屋の中、音井は、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせた。ひとつふたつ深呼吸をした後、いたって平静な声でこう言った。

「掃除をしますので、しばらく部屋を出ていってください」

ドクター・ジルは不満そうにえー、まだ泳いでいたいわ、と言ったが、音井の無言の視線にしぶしぶ部屋を出て行った。

水浸し、泡だらけの部屋にひとりきり、音井はとりあえずキッチンからバケツを持ち出し、窓を開けた。


* * *

1.

「ねえオトイ、リボンを結んでちょうだい」

まぶしい光に包まれた朝、少々苛立ちを含めた声でドクター・ジルは言った。
オトイ‥‥音井、と呼ばれた長身の男は、彼女のドレッサーから赤いリボンを二つとりだす。

「あああ、それじゃないわ。今日は赤は駄目。白がいいの」

今度は明らかに苛立ちをあらわにして言った。
男は、すこし口元を緩め、言われた通り白いリボンに持ち変える。

「白?めずらしいですね、ジル」
「ええ、今日は特別な日だから」

そう、今日は特別な日。全国予防注射、の日だ。
それもいつもなら「する」方だか、今日は受ける方。
9歳にして医療界のトップに立つ天才医師のジルだが、治療を施される側というのにどうも慣れない。
どんな壮絶なオペでもいたって冷静の彼女も、自分自身の血にはめっぽう弱い。
だからいつもはお気に入りの赤いリボンも、今日だけは血を想起させるのでNGなのだ。

「オトイ、あたしやっぱり今日」
「だめですよ、ずる休みは」
「ちぇ」

白いリボンを結ばれながらドクター・ジルはぷうっと頬をふくらます。

「私と一緒に受けましょう」
「わかったわよそのかわり」
「なんでしょう」
「終わったら、超豪華デートよ」

白いリボンを髪にふたつ揺らして、ドクター・ジルは部屋を出て行った。
音井は財布の中身を確認し、重めのため息をひとつついてジルを追った。