2000年版香焼町紙芝居
絵・西 都さん
お話・村井憲一郎さん



オランダ船を引き揚げた村井喜右衛門



 このお話は、今から200年程前、私達の住む香焼でおこった本当のお話です。
 その頃、日本は鎖国といって、外国と貿易や交流をしていませんでした。ただ日本でも一つだけ、長崎の出島を通じて、オランダと中国との貿易をしていました。
 当時の香焼は島で、海岸では松の木やアコウの木が繁り、白い砂浜が続き、人々は貝や魚をとったり畑を耕したりして暮らしていました。


 その頃オランダの船は、夏に長崎の出島に来て、銅や臭い消しに使われていた樟脳などを日本から買って、秋頃には帰るきまりがありました。
 10月17日のことです。
 オランダの船エリザ号が、明日の出発を前に神崎(こうざき)というところで錨をあげ、とまっていました。船長のスチュアートは「何とか今度も事故がなく無事にバタビアにつけばよいがなあ」と思っていました。



 ところが夕方より、強い西風が吹きはじめ、波は高くなり、船は上下左右に揺れ、雨も恐ろしいほど土砂降りになってきました。乗組員一同あれよあれよと思うまに、夜中にはとうとう大嵐になりました。そしてエリザ号は浅瀬に乗り上げてしまいました。


 この高い波と風雨の中、スチュアート船長は、このままでは積荷がダメになり、乗組員の命も危ないと考え、水夫ウウノスに「オランダ商館に助けを求めてきてくれ」と命じました。
 水夫ウウノスは、もうこれで自分は死ぬかもしれないと、心の中で決心し、雨風の吹きすさぶ中、必死で出島をめざし、小船を漕ぎました。そして命からがら、出島のオランダ商館にたどりつき、船長の命令を伝えたのです。


 一方、残されたエリザ号は、風向きがかわり、大きく傾きそうになったので、スチュアート船長は、仕方なく3本のマストを切り倒すように、水夫達に命令しました。
 そして全員で船の中に滝のように流れ込む海水を汲み上げました。船が今にも沈みそうになった時、やっと長崎奉行所の役人達が到着しました。
 そして大事な荷物を一部運び出し、水夫達を助け出しました。それを待っていたかのようにエリザ号は、海の底へと沈んでいったのです。



 あくる日、長崎奉行所の役人達は、沈んだ船の引き揚げについて話し合いました。いろいろ相談した結果「船の引き揚げについては地元の長崎の者でしよう」ということに決まり、お札を出しました。さっそく田中正助、山下兵衛という知恵のあるものが選ばれ、作業を始めましたが、船を引き揚げることはできませんでした。それを見たオランダ人からも「私達が引き揚げます」と申し入れがあり、海に潜りましたが、樟脳のガスが出て事故がおこり、これも失敗に終わりました。


 その頃、香焼に村井喜右衛門という山口県徳山市から来て、地元の漁師のとったイワシを方々へ運ぶ廻船業をしていた一人の男がいました。
 喜右衛門は廻船という同じ船を扱う仕事柄、エリザ号の沈んだ状態や、他の人が引き揚げ、結局失敗した作業などをずっと見ていました。そして「今まで仕事でお世話になった長崎の人達に恩を返すつもりで、エリザ号を引き揚げよう。費用は自分で出します」と奉行所に願い出ました。


 年も明けて、1月4日「喜右衛門でやってよろし」と奉行所より引き揚げの許可が出ました。早速、1月17日より、引き揚げの準備を始めました。
 沈んだ船にまず、大きな綱をかけ、しっかりと結ぶことから始めました。6本の太い長い綱をオランダ人から借り、数ヶ所のはりに巻き付け、その綱に滑車を仕掛けたのです。この日仕掛に働いた人は1日で600人といわれています。
 作業している漁師達は、お互いに「オーイ気をつけろ」と声を掛け合い、はげまし合いながら、つらい基礎の仕事を続けました。喜右衛門も自分の人生の中で一番大事な仕事になるのではなかろうかと思い、いっしょうけんめいでした。



 引き揚げるための仕掛は、喜右衛門の知恵の見せ所です。まず、何百本もの柱になる木、杉板、長い竹、綱、滑車を用意しました。沈んだエリザ号の前方に喜右衛門の船、西漁丸がつき、そしてエリザ号を囲むように百艘の小船が用意されました。それぞれに柱を立て、滑車を取り付け、綱で引っ張り、浮かそうという仕掛なのです。この作業だけでも半月かかったのです。


 とうとうこの仕掛を元に、エリザ号を引き揚げる時がやってきました。陸の方では、まだかまだかと、奉行所の役人達を始め、見学者がいっぱい、見守っています。
 喜右衛門は、潮が一番満ちてくる時期を待ちました。船が浮かびやすいその時がくるや否や、喜右衛門の号令が飛びました。綱はいっぱいに張り、滑車が凄いスピードで回り始めました。
 そして少しづつ少しづつエリザ号が海面にゆらりゆらりと浮かび上がってきたのです。そうすると、この時を待っていたとばかりに、にわかに沖の方から強い風が吹いてきたのです。
 そこで小船は帆を一斉に張り、風の力で一直線にオランダ屋敷のある浜へ向かい、エリザ号を引いて走っていったのです。


 岸では、スチュアート船長を始め、エリザ号の乗組員、長崎奉行所の役人達、他の見学者達は目の前のこの光景を見て、一同「バンザイ、バンザイ」をくり返しました。その喜びようは大変なものでした。条件の一番悪い、この時期に、喜右衛門の滑車を使った仕掛け、潮の満ちた時を利用した浮かし方、風の力で浜へ引き寄せたことなど、まさしく喜右衛門の知恵の勝利でした。誰かが喜右衛門ではなくて知恵門だというのは納得のいくことでした。このお話は、オランダはもちろんのこと世界中に広まり、有名になりました。



 翌日から早速、オランダ商館によって修理が始められました。喜右衛門の知り合いの船大工たちもこれに加勢しました。また、同時に、船底にあった積荷の銅や樟脳が次々に引き上げられました。
 そして完全に修繕が終わった5月23日、エリザ号は長崎を出発し、バタビアに帰っていったのです。


 喜右衛門は、オランダより酒入りフラスコを、長崎奉行所からは、褒美を貰いました。また、ふる里の徳山に帰ってから、毛利の殿様より、今まで武士でしかつけられなかった苗字を使うことを許され、村井喜右衛門になり、刀をさすことも許されたのです。


 喜右衛門には亀次郎、音右衛門という弟がいましたが、香焼の今の里にある岩立神社には弟亀次郎寄進の石灯籠があり、亀次郎の墓が浦上にあります。また、となりの町、深堀神社にも石灯籠が2ケ、深堀円城寺に弟音右衛門の墓があります。
 香焼でも喜右衛門は男の子一人と三人の女の子を育て、今なお子孫の方がこの地におられるという話です。


おわり