福永武彦評伝1
福永武彦は、大正七年の三月十九日に福岡県筑紫野市大字二日市八三五番地に生まれた。当時学生であった父は、その翌年の七月に、東京帝国大学経済学部第一回卒業生として三井銀行に入社する。父の名は末次郎。福永は、この父の転任により、学生時代転向を繰り返すこととなる。母トヨは、大正十四年に弟文彦を出産すると、産褥熱のために二十九歳の若さで亡くなった。福永が福岡市当仁小学校に通う二年生のときであった。蛇足だが、文彦も昭和十七年には養家先で他界している。
父末次郎に向けた母トヨの遺言は「武彦を教会に通わせる」ということであった。これを末次郎は徹底して行った。トヨはもちろん、末次郎もまたキリスト教徒であったが、この徹底ぶりには遺言以外の何か特別な約束が、二人の間に交わされていたのかもしれないと考えられる。しかし、この件に関しては詳しい資料がない。それは、末次郎がトヨに関するものの大半を、消し去ったことが大きな要因といえる。またこれにより福永は、母の死も葬式のことも全く記憶がなかったという。
当然のことながら、母の形見として福永に遺されたものは数少なく、それは聖書と萬葉集だけだったといわれている。その中にあった、書き込みや傍線に福永は母の面影を見ていたのかもしれない。
父の転勤のため、大正十五年六月に上京した福永は、戸越の親戚の家でお世話になっていたが、昭和二年の新学期から小石川区雑司が谷の日本少年寮に入り、学校もそれまでの東京府下荏原郡宮前小学校から、青柳小学校へ転校する。福永は、約二年ほどこの寮で生活をした。その頃、福永の面倒を見ていたのが、『幼年』の「Yさん」のモデルになった矢野安枝である。矢野は、当時二十二歳で、福永と同時期に寮へ入った。父は、何度か引っ越しをしたが、その下宿先は寮からそう遠くなく、仕事が終わると顔を出した。
昭和五年四月、福永は東京開成中学校に入学する。同期には、生涯を通しての親友である中村真一郎がいた。中村は、福永と付き合い始めたのがいつからかは、覚えていないというが、福永の最初の印象については『小説の愉しみ』で、
ぼくの最初の記憶はね、開成中学の受験のとき、ぼくを含めてほとんどが坊主刈りだったのに、きみはぼっちゃん刈りにして、紫のふろしきに筆
箱かなんか入れて歩いていたことだ。
と、話している。また、この『小説の愉しみ』は、福永が世を去ってからの出版で、中村があとがきの代わりを担当している。二人の間柄は推して知るべしであろう。
小学生の頃から夏目漱石を愛読していた福永は、中学に入ると、漱石だけでなく谷崎潤一郎や永井荷風なども読み、作家を志すようになっていくのであった。
トップページへ