福永武彦評伝2
昭和九年四月に福永は、「一高」こと第一高等学校文科丙類に入学する。高校時代、福永は理科の下級生を熱愛するが受け入れられず悩んだ。これが『草の花』につながる体験となっている。昭和十一年には『交友会雑誌』三五五号に、『草の花』「第一の手帳」の原型である小説『かにかくに』を発表する。
また、同じ号に福永は「水城哲男」の筆名で亡き母を慕った詩『その昔』も発表している。筆名の「水城」は、母の墓がある地名「水城」が由来となっている。
福永の所属部は弓部と弁論部であった。入学したての頃、嬉しまぎれに父と禁酒の約束をしたのだが、弓の部という体育会系の部活でそれが守られることは難しく、三年の夏にはとうとうその約束は破られた。
ちなみに中村真一郎は、浦和高校を不合格となり一年間浪人し、翌年一高に入学する。その際、福永は中村に日本史の講義ノートを回していた。
大学受験。福永は東京帝国大学の法科を受験する。文科を受けるか法科を受けるか悩んだ末の結論であった。しかし、気乗りはせず、フランス語の小説を読み耽っていたことや、卒業試験が危うかったこと、更には東横グリルのレコード係の「メッチェン」に恋をしたことなどで、結局、落第してしまう。浪人しているときは、早稲田大学演劇博物館や東京外語のロシア語講習会に通う。
そして翌昭和十三年四月、中村とともに東京帝国大学仏蘭西文学科に入学する。
昭和十四年には、一高時代に懸賞評論に入選した雑誌『映画評論』の同人となった。ボードレール作品の訳なども行っていた福永だが、大学時代、特に熱心に執筆していたのは映画評であり、『映画評論』には、ほぼ毎号掲載された。
昭和十六年の三月に、大学を卒業。卒業論文のタイトルは『詩人の世界――ロオトレアモンの場合』である。福永の卒論の全計画では、『詩人の世界』というタイトルで、第一部がロオトレアモン、ランボウ・マラルメと続くはずだったらしい。しかし、それは無謀な計画であり、実現せずに終わっている。当時、大学を卒業すれば徴兵検査を受けなければならず、不合格になろうと一ヶ月間で十五キロの減量を行ったが、第一補充兵第二乙種合格となった。また、戦時中で就職難の中でありながら日伊協会に勤めるが、召集を逃れるために、翌年退職し、参謀本部第十八班で暗号解読に従事する。
それでも、その年の十二月には召集を受ける。しかしながら、盲腸の手術後であったことが幸いして即日帰郷となった。ただ、良いことばかりではなく、肺炎を患ってしまう。福永の長い闘病生活の序章である。