福永武彦評伝3

 昭和十六年に、福永は中村の紹介で堀辰雄と会う。堀は、中村と福永の間接的な師匠(というと語弊があるかもしれないが)とも呼ぶべき人物である。福永は昭和五十三年十一月に、堀のことを論じた長編エッセイ『内的獨白』を出版している。その内容は、<堀の作品や堀についての年譜などの、きめの細かい引用・分析によって追跡されている風変わりな作家論で>あった(当時の新聞記事より)。また、昭和十七年には、中村や加藤周一らと文学研究会「マチネ・ポエティック」を結成し定型押韻詩をつくる。
 昭和十八年、参謀本部を退職し東京帝大仏文研究室でフランス文学辞典の編纂に従事していた福永だが、翌年二月には日本放送協会国際局に勤務するようになった。また、同年九月には山下澄(原條あき子)と結婚する。この二人の間に生まれたのが、後年『スティル・ライフ』で芥川賞を受賞した、作家・池澤夏樹である。
 その夏樹が生まれたのは昭和二十年七月だが、その年の二月に福永は急性肋膜炎で東大病院に入院する。四月には北海道帯広市に疎開。秋には帯広から岡山までを放浪し、冬、東京にて『塔』を執筆する。翌年、再び帯広に戻った福永は、日本放送協会を四月に退職し、五月から帯広中学校の英語教師になった。しかしその後、肺結核と診断された福永は帯広療養所に入所。一旦は回復するものの冬に再発し、翌三月には胸郭成形手術を受けるため東京都下清瀬村の国立東京療養所に入る。これ以降、福永は足掛け七年にも及ぶ療養生活を余儀なくされるのであった。
 療養生活中に刊行されたものは、中村と加藤周一との共著『一九四六文学的考察』や『ボオドレエルの世界』、『塔』、『風土』などである。また、昭和二十二年には「近代文学」の、翌年には「方舟」の同人となっている。
 福永自身は、この療養生活のあいだ、「殆ど仕事らしい仕事をすることができなかたった」という。「群像」に持ち込まれたが採用されなかった中篇「慰霊歌」、病床で呼んだヘミングウェイとフォークナーの影響を受けたという短編「遠方のパトス」の執筆のほか、ジュリアン・グリーンやマルタン・デュガールの翻訳なども行ったが、本来、福永が考えていた執筆活動はなされていなかったといえる。
 そして、徐々に健康が回復してくると、今度は生活の問題が生じ、確実に収入が見込める翻訳や、NHKのラジオドラマや音楽番組の台本を書くくらいで精一杯だったのである。
 昭和二十五年十二月に妻澄子と協議離婚をする。