福永武彦評伝4
昭和二十八年三月に療養所を退所した福永は、翌月より学習院大学文学部の講師となる。以後、なくなるまで在職する。五月には岩松貞子と結婚し、杉並区方南町に居住する。ただし、この「五月の結婚」ということに関しては異論もある。これは福永の「五月十五日に結婚した」という、前婦人にあてた手紙によるものだが、実際に戸籍上の届け出がされたのは十二月一日である。
五月二十八日には、堀辰雄が浅間山麓で死去したが、このとき福永は病床の身で信濃追分に駆けつけることができなかった。最晩年になってから福永は堀に共感したことの内容を「純粋小説の方法」、「形而上的な死者の眼」、「日常的視点としての病者の眼」、「人生は常に芸術より尊いという観点」、「生きることを愉しみつつ味わい、その愉しみの上に収斂する生き方」、「数少ない作品を吟味し彫琢しつつ、入念に書くこと」の六つに挙げて述べている。新潮社から堀辰雄全集が出ることになり、中村真一郎等とともに編纂委員となった福永は、夏に信濃追分の油屋に滞在し、その仕事のかたわら、「草の花」の執筆を行った。
昭和二十八年十二月には、福永と同じ大正七年生まれで友人の劇作家加藤道夫が世田谷区若林町の自宅で自殺した。加藤の自殺は、福永に多大なる影響を与えた。「冥府」、「深淵」、「夜の時間」そして「死の島」へと続く福永作品における「暗黒意識」は、ここから始まったといっても過言ではないだろう。