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国虎まにあっくへようこそ!


  潮さんスキーのあまり、こんなページをつくってしまいました。
 題して、国虎まにあっく!(笑)
 こちらのページは史実の国虎さんについて、調べあげてみました。その研究結果をどうぞ!

史実の安芸国虎ってこんなひと。

できごと
1541?(天文10年) 安芸城主安芸元泰の長子として誕生。
1544?(天文13年) 父、元泰死去。わずか4歳にて安芸家当主となる。
橘元盛(元綱)・土与松女(元泰夫人)が後見人となり支える。
1557?(弘治3年) 正式に安芸家当主となる。(数え年17歳)
長男、千寿丸(のちの安芸飛騨守弘恒)生まれる
1561?(永禄4年) 次男、鉄之助(安芸三郎左衛門家友)生まれる。国虎21歳
1563
(永禄6年)
長宗我部元親の留守中に岡豊城を攻める。
夜須城の吉田重俊の奇襲で、安芸軍の背後を衝かれ、敗戦。
一条兼定、調停に乗り出し和睦斡旋。これを受け入れ停戦成立。
国虎23歳
1569
(永禄12年)
4月始め、長宗我部元親からの来城催促を拒絶。これにより、安芸と長宗我部の戦争勃発。
7月10日、長宗我部軍7200の軍勢安芸へ進軍。安芸軍5300で迎え撃つ。
戦いの末、籠城戦となる。
安芸城へと籠り、長宗我部軍を迎え討つも、横山民部の裏切りにより、城中の井戸へ鴆毒を入れられ、自らの命と引き換えに兵たちの命を助けるという条件にて開城。
8月11日、安芸家の菩提寺、浄貞寺にて切腹。享年29歳。法名円海心覚居士


と、まとめてみました。ただし、このひと年齢については諸説ありまして、享年28歳説、38歳説など…。
ここでは、長男千寿丸が1569年(永禄12年)に13歳だったということで、28歳説(数え年29歳)で逆算してみました。
国虎さん自身には、おっそろしく資料がなく(涙)、しかも資料によって書いてあることがバラバラで困っちゃうよ〜、という状態なのですが、とりあえず、わかっていることなどをちょこちょこ上げていきます。

国虎さんの家族のこと。(その一)

奥さんは、一条房基の息女、峰子さん。
一条兼定の妹だそうです。
しかし、浄貞寺由緒書には「国虎内室幡多一条兼定の息女」と書かれていたり、父一条康政説もあります。
一条家出身にはまちがいはなさそうですけれども…。
軍記物語「土佐物語」によると長男千寿丸、次男鉄之助のほかに、安野姫という息女がいたらしいです。
安芸城開城の折、国虎さんは家臣の黒岩越前に頼み、峰子さんと安野姫を一条家に帰しています。
後に、浄貞寺に墓詣りにきた峰子さんは、自分の袂に入れてあった杉の苗木を、自分の身代わりとしていつまでも亡き夫の側にいて、その御霊を慰めてくれるようにと植えています。今、浄貞寺にある「袂杉」は二代目です。


国虎さんの家族のこと。(その二)

土佐物語より抜粋したかったのですが、昔の文章なのでかなり読みづらい…。
ので勝手に超意訳しました。(原文にはない記述も混じってます)潮さん口調でお読みください。

長宗我部に八流の砦を破られ、安芸家の旗色が悪くなってきた頃、国虎さんは長男千寿丸を呼んで、
「畑山兄弟(親戚、いとこの間柄)を連れて阿波へ行って、矢野備後ってやつを頼って、時を待って俺のかわりに長宗我部を倒してくれよな」
といいました。
それに対し千寿丸は
「武士の家に生まれて、5つや6つないし10歳に足らない歳ならば力及びませんが、もう13歳なので善悪の区別ぐらいつきます。父の討ち死を見捨てて、何処に行って誰を頼れというんですか。顔をあげて歩けません。もし、どんな果報があって後で栄華を極めても、人に指差されたら生きがい無くなります。最期までお供して、三途の川で手を引いて一緒に歩いてあげます」
と、全然落ち延びようとする気配がないので、国虎さんはそれを聞いて
「そうだよなー、さすが俺の子だよな。…でもな、心を静めてしっかり聞けよ。姫倉・金岡・八流の城はなかなか破れなくって、穴内・新庄の両城は堅固で、みんなで立てこもれば負けるとは限らないんだ。でも戦で生き残ろうなんて思うのは駄目だ。もしも俺たち親子が同じ所で討ち死にしたら、馬鹿みたいだろ?誰が安芸家再興すんだよ?!俺のうっぷん誰が晴らすんだよ!俺のいうこと聞かなかったら、七回生まれ変わっても勘当だぞ!」
と、一度は怒り、一度は諌めて言えば、
「仕方がありません…。どんな仰せにも随います」
千寿丸は泣きながら納得しました。

という経緯で千寿丸は阿波(徳島)の三好河内守長治の家臣、矢野備後の許に行きました。矢野備後には男の子がいなかったので、養子に迎え、自分の娘と結婚させて家を継がせました。矢野叉六郎と名乗ったそうです。


国虎さんの家族のこと。(その三)

さて、その後の千寿丸がどうなったかというと…。
矢野叉六郎と名乗り、矢野家を継ぐことになった千寿丸。しかし、安芸を攻め落とし、土佐を手に入れた長宗我部元親が次に狙うのは、もちろん阿波。千寿丸も戦うことになりました。
激戦といわれた中富川の合戦に出たのですが…。

ここで説が二通りに分かれます。

@土佐の資料
この戦いで義父矢野備後と共に討ち死したと伝えられている。(「土佐物語」「安芸家由緒覚書」等)
A阿波の資料
矢野備後の紹介で赤沢信濃守宗伝の娘婿となり、安芸飛騨守弘恒と名乗り、板西北城主となる。中富川で義父赤沢信濃守は戦死したが、安芸飛騨守は落ちのびて、彦左衛門と名乗り、農民になった。(阿波史料集等)

どうやら長宗我部の追及を逃れるために、戦死したことにして、阿波で生き延びていた説が一般的らしいです。阿波の資料では赤沢さんの養子となっています。
Aの説ではその後、阿波に入国した蜂須賀家政に仕官を勧められたのですが、
「安芸では父国虎が長宗我部元親のため自刃し、阿波では中富川の戦いで岳父赤沢信濃守宗伝が戦死しました。その経験から、武士をやめ農業をし安らかに暮らしたいのです」
と断り、開墾耕作をなし、寛永14年(1637)3月21日に没したようです。お墓は徳島県板野町蔵佐谷にあります。
なお、徳島県板野町には千寿丸の子孫(本家安芸氏)だという人たちが住んでいるらしいです。


土佐をめぐる争い(1)

国虎さんの時代の土佐はいくつかの有力な豪族により、支配されていました。

一条氏     幡多中村    所領 1万6000貫
津野氏     高岡郡半山   所領 5000貫
大平氏     高岡郡蓮池   所領 4000貫
吉良氏     吾川郡弘岡   所領 5000貫
本山氏     長岡郡本山   所領 5000貫
長宗我部氏  長岡郡岡豊   所領 3000貫
香宗我部氏  香美郡香宗   所領 4000貫
安芸氏     安芸郡安芸   所領 5000貫

これを土佐の七守護と呼び、特に国虎さんの奥さんの実家一条家は御所と呼ばれるほどでありました。
しかし、長宗我部氏が土佐を平定しはじめ、次々とこれらを責め滅ぼしました。
安芸領である馬ノ上と長宗我部領である夜須は隣同士にあり、境であったのです。
そして、その夜須と馬ノ上をめぐる戦いから、両者の戦いが火をあげます。


土佐をめぐる争い(2)

夜須はもともと安芸家のものだったのですが、いつの間にか長宗我部家に取られてしまい、長宗我部の家臣吉田重俊が治めていました。ある日馬ノ上の安芸軍の若い兵が、退屈まぎれに夜須の柿や栗を取って荒らしまくったので、吉田はこれを捕らえて、とりあえず安芸家に送ってみました。
国虎さんは
「若いときは、みんなやんちゃするもんなー。これは窃盗や強盗の類じゃないし。そらよ」
といって吉田重俊の使いの前で縄を解いて許しました。使いは非常に驚き、急いで立ち戻りこの事をいいました。吉田重俊の嫡子重康がこれに激怒。直ちに兵を出して馬ノ上城を占拠してしまいました。(……)
それに怒った国虎さん、長宗我部元親が本山氏攻略のため留守なのをいいことに、長宗我部の本城岡豊城を、一条から援軍3000名を送ってもらい、総勢5000名余で攻撃しました。岡豊城は出払っていて兵がほとんどいません。しかし周囲の一領具足たちが集い、500人で必死に守ります。そうこうしているうちに、夜須の吉田重俊と重康の軍が到着。安芸軍の背後を突き、安芸軍は敗北しました。元親は、この機会に安芸家を攻め滅ぼそうとしますが、一条兼定が土佐の動乱を恐れ調停に乗り出し、両者和睦します。


土佐をめぐる争い(3)

しばらく平和が続いていましたが、永禄12年4月初め、元親は使者を送ります。
「前の戦さで、お互い確執に及んでしまった。戦国の習わしといっても必ずしもずっと怨敵というわけではない。どうか一条殿の前で和解すると誓約しようではないか。近日中に岡豊城へ来てほしい。対面して、お互いに過ちを正そうではないか」
という内容に国虎さんは
「お互いに領土を離れて誓約しようっていえばわかるけど、俺に岡豊城に来い、っていってるのは降参しろってことじゃねーかっ!一条の顔を立てて和睦したけどもう我慢ならねえ!戦ってやるッ!」
家臣の黒岩越前がなだめましたが、頑として聞かず、使者を追い返しました。
こうして再び戦いの火蓋が切られました。

戦いは岸本月見山の姫倉城から始まり、芸西の金岡城と続いて長宗我部軍が落としていきます。そして有名な八流の戦いへと縺れこみます。この戦いで、両軍ともに大勢の死者を出しました。この戦の勝敗を決定したのは、長宗我部軍の吉田孝俊の作戦です。近くの漁船を集め、沖の方より貝鐘を鳴らさせ、時の声を挙げさせたことにより、安芸軍が動揺。後方に回り込まれたと思い、色めきたったところを一気に衝かれたためだといわれています。
矢流砦(八流砦)を落とされた安芸軍は小谷四郎右衛門の裏切りにより、もっと窮地に立たされてしまいます。新庄・穴内を捨て、安芸城に籠城することになりましたが、そこでも横山民部の裏切りに遭い、城中の井戸に鴆毒を入れられてしまいます。夏の戦いで水が無ければ地獄です。国虎さんは自分の命と引き換えに兵たちの命を請いました。元親はこれを受け入れ、ここに戦いは終結します。24日間の戦いでした。


土佐をめぐる戦い(4)

切腹をすることが決まったあと、国虎さんは奥さんの峰子さんと娘の安野姫とを黒岩越前に頼み、一条へと帰します。
その時の会話を「土佐物語」より

国虎さん、妻の峰子さんに近づきながら
(今、最期を知らせたら、別れる時気まずいよな…。後で知って罵られるほうがマシか。まず、すかして実家の幡多に送ってしまわにゃ…)
というわけで
「味方はついに打ち負けて、今日明日には決着ついてしまいそうなんだ。千寿丸は先に阿波に逃がしたから、俺も今夜のうちに忍んで逃げようと思う。お前は安野を連れて、幡多へ行って待っててくれ。何処か落ちついたら迎えをやるから」
といえば、峰子さんはしばらく返事せず黙っていましたが
「情けないです。私と貴方はどんな野の果て、山奥でも共に生きると契ったのに、今更捨てられて、誰を頼って生きればいいのですか?せめて独りならいいのに、幼い安野までどうして捨てていくのですか」
峰子さんは嘆きます。だけどもうかなわぬ道なので、国虎さんは立ち上がって行こうとします。
すると安野姫が走りよってきて、国虎さんの鎧の草摺(太股)に取り付き、
「どこ行くの?安野も参らん。お供させたもれ」と泣くので
(親が子を思う気持ちってのは…、一生の枷だよな)
と国虎さんは思い知らされたのでした。

そして家臣の有沢石見一人を引きつれ、城をでて浄貞寺に向かいます。ほどなく到着し、心静かに念仏を唱え、切腹したそうです。有沢石見はその介錯をし、その刀にて切腹しました。8月11日のことです。
峰子さんを送った黒岩越前は、途中で長宗我部元親にその力を請われスカウトされましたが、国虎さんの追善を行い、浄貞寺にて殉死しました。8月18日のことでした。


いろいろ。

国虎さんというのは、みんなに愛された人だそうで、その死に対して多くの殉死者が出たことからもその人柄が窺えますが、いくつか逸話も残っています。
その中のひとつ「国虎とお茶」を紹介します。

城から少しはなれたところに、大変お茶に適した水が湧いていた。
毎日近習の者に汲みに行かせていたが、ある日近習は怠けて近くの流れから水を汲んできた。
お茶を飲んだ国虎は
「今日はいつもと違った水の味がするな、天気の関係かな」
と、とぼけておいしそうに飲んでいたという。近くの水だと知ってはいたが、近習を責めることはなかったらしい。

また次男鉄之助ですが、実はいなかったのではないか、という説もあります。
彼は兄の千寿丸を慕って阿波に行き、一緒に中富川の戦いに出た後、土佐に戻ってきて定住しない暮らしをしていたようです。そして元親の妹養甫尼とともに(一説で叔母と甥の関係らしい)伊野で紙作りをし、土佐の名産である七色紙を生み出したといわれています。75歳まで生きたということです。


安芸家の祖先は、蘇我赤兄という由緒正しい血筋であり、その血筋には平家物語に出て来る安芸太郎・次郎がいます。
くわしい系図はこちらにて
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いかかでしたか?これで少しでも国虎さんについて知ってもらえれば幸いです。
(わかりづらい記述ですみません〜)
まだまだ国虎さんについては謎が多すぎるので、新しい事実がわかれば随時増やしていきます。
なお、参考資料として「戦国武将安芸国虎」岡林幸郎氏著、「土佐物語」岩原信守氏校注、安芸郷土史等を参考にさせていただきました。


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