「正義の味方」インターミッション

「黄昏の国」

マンションの廊下で、彼とすれ違った。
向こうはこちらにはまったく注意を払わず、まっすぐ前だけを見て通り過ぎる。
自分も振り向いたりはしない。
だがすれ違った瞬間、左沢(あてらざわ)は口元に笑いのようなものを微かに浮かべた。

…そうか、あれが黒羽 高(くろはね こう)か。

確かに綺麗な子だ。
皮一枚の美しさに、自分は興味はないが、それでもあれだけ綺麗なら、それなりの価値があるというものだろう。
少なくとも、一般にアピールする、という価値が。
なにせ世の中の殆どの人間は、馬鹿だ。
見た目に左右される。
だから、そういう人間達に自分の実験をアピールするためには、見た目の良さというものは、大切だった。
そう、何にでもそれなりの価値はある。
肝心なのはその価値に気付く事だ。

あの子は冬馬のマンションに何をしに行くつもりなのだろう。
冬馬涼一(とうま りょういち)は、もうあの部屋にはいない。
今は僕の手の中にいる。
黒羽夫妻の研究も、彼らの残したフロッピーとノートも、全てここにある。
自分の手の中に。
とても面白い玩具。
全部僕が手に入れて、好きなように遊ぶ。
 


  冬馬涼一と最初にどこで出会ったのか、もう覚えてはいない。
どうでもいい事は全て記憶から消す事にしている。
余分なものが無くなれば、そこに開いた空間に、僕は自由に新しい書き込みをする事が出来る。
だから古いもの、いらなくなったモノはどんどん消去する。
出来るなら自分自身のパーソナルな記憶も消して、空白にしてしまいたかった。
だが、人を構成しているものは、そういう『古い記憶』を消し去る事を、簡単には許してくれない。
だから子供の頃の些末な記憶は、まるでこびりついたカスのように、いつまでも自分の中に沈んでいた。


今でもぼんやりと覚えている。
何故か昼も夜も好きじゃなかった、そんな子供の頃。
日が落ちた後、暗くなるまでのほんの僅かな瞬間。
幽界が開く逢魔が時。
ぼんやりとした境目の時間。
そんなものが好きだった。

生命維持装置を体中につけ、延命措置をとらされているもの。
それは、自分の祖父だったのか、父だったのか。
多分忘れてもいい事だったのだろう。
姿は今でもくっきりと頭に浮かぶが、それが父なのか祖父なのかは、いっこうに思い出せなかった。
どちらでもいい。
もしかしたら、両方だったのかもしれない。
体中からチューブが伸びたその姿は、とても人間とは思えなかった。
かつて話した事があるのかすらも定かではないが、その口は何も語らない。
食物を摂る事も出来ない。
瞳も開かず、本当なら呼吸さえも自力で出来ない。

これは『生きている』のだろうか?
それとも『死んでいる』のだろうか?
子供の僕は、その事だけに非常に興味があったように思う。

これは『境目』だ。

彼はいま、境目の住人なのだ。
彼がどういう状態にあり、何を夢見ているのか、誰にも解らない。

「明日、死んでしまうかもしれない」
そんな大人達の言葉を聞いて、なんとなくわくわくした事も覚えている。
もしも『これ』が、今にも死んでしまうと言うなら、その瞬間を見逃したくなかった。

どこまでが生なのだろう。
どこからが死だろう。
その瞬間が来るというなら、僕は見たい。
どこまでが生で、どこからが死なのかこの目で確かめたい。
僕はそれを強烈に望んだ。
だから病室から出る時は、いつでも名残惜しかった。
出来るならずっとここにいて、その瞬間を見逃さないようにしていたい。
もしも自分が去ってしまった夜のうちに、ひっそりとそれが訪れたら…。そう思うといても立ってもいられない気持ちになったものだった。


だが、実際の臨終の場というのは、思ったよりつまらないものだった。
生命維持装置が引き抜かれ、呼吸と心臓が止まる。
医師が死亡を宣言する。
そんな、単なる儀式だった。
死の瞬間が見られると思ったのに、それは人が勝手に自分の判断で決めるものだった。
医者が死んだと言った。
だから今からが、死なのだ。

そんなものだったのか。
失望感が胸をえぐる。
だって、まだきっと体の細胞は生きてる。
心臓が止まって、呼吸をしなくなったと言っても、今の状態は、機械があった時と少しも変わらないじゃないか。
喋らないし、食べない。多分思考もしていない。
その状態から、単純に心臓が止まった時が死だなんて。
やはり納得できなかった。
心臓だって、細胞の一つだろう。他の細胞が生きているのなら、まだその個体は生きているのではないのか。

その瞬間解った。
死は、人にとって『儀式』なのだ。
とりあえず決めて、先に進むものなのだ。
だから…。死は面白くない。生も面白くない。
夜も昼も好きじゃない。
面白いのは『狭間』だ。
どこまでも曖昧な境目を歩いていく。
どちらにも落ちないように。
それが一番面白い。
この出来事が、今の僕を作ったわけではないだろう。
だがそれでも、切り離せない一部なのは確かだ。
ずるずると引きずって、歩いていくのも、きっと悪くはないだろう。
 


  ぴくりとも動かない冬馬の体を撫でる。
どう見ても死体だ。
ひんやりと冷たい体。脈をうつ事のない血管。
しかし不思議な事に、肌だけは生きているかのような張りを持って、なめらかに輝いている。
リビングデッド。生きている死体。
死と生の狭間に存在するもの。
この遊び場を提供してくれた冬馬には感謝している。
そして彼の体は、いま一番楽しい玩具だった。
一つしかないからメスで切り刻む事は慎重に避けているけれど、本当は開けてしまいたい。
しかし金の卵を産むガチョウは切り裂いてしまったら、ただの肉の塊に過ぎない事も知っている。
だから大切に、大切に、今はとっておこう。

冬馬は生きているのだろうか。
それとも死んでいるのだろうか。
今は死んでいるように見える。
休眠時間に入っているからだ。
だがこれが過ぎれば、彼は歩き、しゃべり、呼吸のようなものもする。(生存を維持するためのものではなく、喋るための空気の摂取らしい)
彼は狭間の住人なのだ。
何故彼は狭間に居続ける事が出来るのだろう。
ジャンクは生きていないと言われるが、それならば何故生き物のように動くのだろう。
そして、冬馬もジャンクも、何故生きているものを摂取する事が必要なのか。

解らない。
まだ解らない事だらけだった。
まあ、それが楽しいんだけどね。
左沢は冬馬を見下ろして、にっこり笑った。
すぐに終わってしまう遊びなど、つまらないさ。


「永遠に生きたくはないか?」
冬馬はそう言って鮮やかに笑った。
「君のね、不老不死に関する論文読んだよ。面白かったなあ。君は不老不死になりたい?」
「いえ、全然」
そう答えると、冬馬は爆笑した。
「じゃあ何で研究しているんだ?」
「面白いからです」
ああ、そうか。そう言って、もう一度冬馬は笑った。
「それはいい。うん、面白い事。それは一番大事だな」
力を手に入れたい訳じゃない。
長生きをしたいか、と問われれば首を傾げるだろう。
もっとも長く生きれば、余分に遊んでいられる。
そう言う意味において、早く死にたいとは思わない。

「だけど、大抵の奴は、ずっと生きていたいんだよ。不老不死に興味のない奴なんていないさ。生きていたいんだよ。生存する事に意味も意義も本当はない。ただ、生きていたいんだ。それが生物の欲。欲望に意味なんて無い」
自分が生存し続ける事。
その欲を持っていないと、生物は己を維持する事が出来ない。
人だって例外ではない。
自分。自分だけが。自分一人が永遠に存在していたい。
自己愛の塊。
だが人は、そんな風に自分だけが大切なくせに、そのくせ一人でいる事に耐えられない不完全な生き物だ。
だから、冬馬。君も誰かが欲しいんだろう?
だから君は聞くんだ。
不老不死に、興味はないかと。

面白いね。
ジャンクはたった一体きりの存在で、同じものは決していない。
なのに、君と同じ存在を、君は作りたいんだ。
生き続けて、増える事。
それは君の、生物部分の欲なんだろう。
だったら、死者の部分に欲はあるのかな。

僕は知りたい。
僕は見たい。
それが僕の唯一絶対の欲望のような気がする。
別に長く生きたくはない。
増える事も望まない。
ただ知りたい。
生とは何か、死とは何か。
狭間には何が存在するのか。


生と死の明解な区別はどこにあるのだろう。
話して動く冬馬涼一は、生命維持装置に囲まれた『あの男』より、ずっと生きている。
きっと誰もがそう思うだろう。
心臓は止まっているのに。
呼吸をしていないのに。
彼は話し、動き、思考し、セックスすらもする。
だったら彼はいつ死んだんだ?
誰も彼にそれを宣言していないから、だから彼は動き続ける事が出来るのか。

『あの男』だって、体中の細胞が死に絶えてしまうその前に、細胞の一部をどこかに移して死なないように生き続けさせたら。
体の一部だけでも生き続けるのなら、それが完全な死と言えるだろうか。
どうせあの男の脳は、とっくに動かなくなっていた。
だったらあの時、もう巨大な細胞の塊だったんじゃないか。
巨大な塊が、ただ小さくなっただけ。
同じだ。思考しない、けれど生きている細胞の塊。

いや、しかし。
左沢は、ふと笑った。
細胞の塊にも、もしかしたら記憶があるかもしれない。
それが完全に無いと言い切れるほど、人はまだ自分の体の事を知ってはいない。
命の秘密は、まだ人の手の中に入っていない。
その秘密のほんの隅っこに、やっと指先が届いた程度に過ぎない。
それも掴もうとすると、あざ笑うように逃げられてしまう程度のものなのだ。
でなければ、原因すらわからない難病が、これほど多くの人間を蝕んでいるわけはないだろう。
『あの男』の体は、チューブで覆われたりはしなかった事だろう。


冬馬の体をもう一度眺め、時間を計る。
今まで何体も実験を繰り返したが、結局形を保っているのは冬馬だけだった。
最初から拒否反応を示して死んでしまったり、全然効果のないものもいる。
一時は成功したように見えても、長くて一週間で、やはり崩れてしまう。
冬馬だけが特殊だったと言う事もありえるが、何かが足りないような気もする。
もっとも冬馬とて、完全な成功とは言い切れない。
ただ長く持っているというだけだ。

僕自身としては、本当はこのまま楽しく遊んでいたい。
出来るならヒントも見たくない。
けれど残念ながら、この遊びには膨大な金がかかる。
だからその為に、時々は成果を見せなくてはならない。
僕のために喜んで金を出してくれるような、何か見栄えの良い成果を。

あの子…。
黒羽 高の綺麗な顔が頭に浮かぶ。
冬馬が執着している男。
何故彼が思い浮かぶのだろう。
左沢は、もう一度手元のノートとフロッピーを見つめた。
黒羽夫妻の残したものは、もうこれと、それからあの子供しかいない。
黒羽 高とすれ違ったあの瞬間を自分が忘れないのは、無意識のうちにその記憶が必要だと、どこかで思っているからに違いなかった。
でなければ記憶など、とっくに捨て去っている。
さて、それは一体なんだろう。
自分は黒羽 高について、何が引っ掛かっているというのだろう。

現在実験は、少々行き詰まっている。
何が足りなくて何が必要なのか、じっくりと考え直してみる段階に入っていた。
自分の頭の中に沈んでいる雑多な澱。
それをより分けて、宝石を見逃していないか捜してみるのだ。
それはそれで楽しい作業だった。

純粋なひらめきなどありえない。
無知な者に、本当に新しい考えは浮かばない。
ひらめきの全ては自分の頭の中に溜まったものから生じる。
だから自分が覚えている事は、必要な事なのだ。
黒羽 高の顔も、チューブだらけの男の姿も、黄昏の国をどこまでも歩いてみたいと思った子供の頃の自分も…。

彼が欲しいな。
左沢は薄く笑った。
冬馬が執着している、あの綺麗な青年が。
研究のミッシングリンクを埋めるものではないかもしれない。
だがそれでも、何かのキィのような気がする。
黒羽の、残された最後の資料。
フロッピーとノートでは埋まらなかった何かを、彼の体が、彼の記憶が、もしかしたら持っているかもしれない。
彼がもしも手に入ったなら、楽しい玩具が増えるだろう。

冬馬が目を覚ましたら、無心してみようか。
あの子が欲しい。
手に入れてくれたら、きっと楽しく遊べる。
きっと、ずっと…。



知りたい。
僕は知りたい。
それは人に与えられた罰だ。
知恵の実を食した時、人間に与えられた罰なのだ。
人の持つ欲の中で、もっとも業に近いもの。
たとえ毒でも、未知のものに手を出さずにはいられない。
人に与えられた『知りたい』という衝動。

知りたい。黄昏の国の秘密を。
生と死の狭間に、ぼんやりと立ち上がる陽炎のような国を。
まだ人の手には届かない、どこまでも遠い夢を、僕は見たい。

夜も昼も好きじゃない。
揺れ動く曖昧な境目を、僕は歩いていく。
どちらにも落ちないように、どこまでも歩いていく。
生と死の、その真ん中で、踊るように歩き続ける。

END