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僕の部屋には小さな窓が一つついているけど、時々なにげなく天使が通りすぎていく。ほんの一瞬の間なので通りすぎた後にいつも気付いている自分がいる。天使は僕のことを知っているのだろうか。用事のついでに通りぬけるだけで僕のことなんて気にしてもないのかもしれない。でもそれにしては窓に近づきやしないか?まがりなりにも天使なのだから僕に関心ないのならもっと用心深く敏感でいるはずだ。もしわざと僕に気付いて欲しくて近くを通りすぎているなら、それは何のためだろう。天使は僕が好きなのか?それとも単にからかっているだけか。
今度聞いてみよう。後ろからぽんと肩を叩いて「こんにちは,羽根の具合はどうですか?」
 
水が好きだ
もともと青が好きだというのもある.
透明な物に愛着がある傾向もある.
ガラスだとか,ゼリーだとか,水晶だとか
水母やプランクトンなど生物なんかでも水の中にすむ比較的単純な作りのものなんかは透き通っているのが多い.小さい頃池の中にゼリー状になった蛙の卵の帯びを見つけたとき、なんとなく神秘的な感じがしたものだった。透明であることで、この世界にまだなじみきれない命の柔らかいガラスのカプセルといった感じ。
生き物の形は水の形が基本原型だ.人にしても耳たぶは滴が落ちていこうとする様子そのまんまだし,鼻の形、指先や女性の乳房,腰のあたりの美しいカーブ,とくに女性の体なんかは水が固化した姿そのままといっていいんだろう.実はこれはソローの「森の生活」やノヴァーリスにも書かれてある.妊娠した女性の場合は体内に水そのものを宿すわけだし.彼女らはずっと生命に近い存在なのだと思う.水と生命は切り離せない.絶えず滑らかに動き形を変えていきたい衝動と、波が静まろうとするように落ち着き安定していたい力とが攻めぎ合うなか、やわらかでやさしい生命の.カタチを私たちに与えてくれている.
 
パソコンってよく考えれば不思議な機械だ.それ自身具体的な用途が決まってるわけじゃない.むしろ特定の用途に徹することを嫌う風にも見える.何にでもなって見せますよ、オーディオ機器にでもテレビにでもワープロにも、という風に自由に役柄を演じて見せる役者のようにも見える.でもパソ自身は何にでもなれると思ってるしいつも可能性を自分の中に残していく.
でも実際にパソの箱の中でなされていることといえば、ただ計算したり0と1の数字をあちこち動かしているだけならしいのだ.単なる数字の羅列が映像になったり、音楽になったり文書になっていくのだから不思議といえば不思議である.人はずいぶんと科学技術のおかげで5感における操作性を大きくさせてきたといえるしこれからもそうさせていくのだろう.その最終的な帰結はバーチャルリアリティ、もう一つの世界ということになると思う.5感を完全に欺いた、現実となに一つ変わることの無いもう一つの世界.そんな世界が出来あがれば人はみな現実など放り出して夢の世界でひたすら個々の願望充足に明け暮れるに違いない.それどころか現実と夢の区別さえ出来るかどうかさえ疑わしい.世界のあらゆる場所で巧妙にバーチャルな領域が挿入され、ハワイにリゾートに行ったつもりが実は自宅から一歩も出ていなかったとかいうことが十分ありえるだろうし.
でもそんな風には案外ならないんじゃないかと思っている.なぜなら仮に5感の操作性が完璧であったとしても、そこには存在が持つ実在感が欠けているからだ.樹齢数百年の樹木なんかは独特の存在感を持っていたりする.たんに5感で感じられる以外の何かがそこには付与されているように思える。よくいわれる気や気配といってもいいのかもしれない.テクノロジーでは決して再現できない何かが、近代科学が意識的に排除してきた実在感みたいな物を信じていきたい.
 
冬の夜空に輝く星星は美しい
一つ一つの星がまるでガラスの箱に収められてるようで

先日、夕暮れ時の空を眺めていると不思議な感覚が訪れた
何か星と自分とが細い糸でつながっているような感覚
繊細でデリケートな星の光の糸が、自分の体の中にある核(コア)みたいなものと結びついてぼくを自在に操っているような.
操られることにある種の心地よささえ感じている自分がいる
占星術の体感感覚といって良いんだろうか

 
消しゴムを2つに切って分ける.それをまた二つに分ける.それを何度も繰り返して行くと最後にはそれ以上分けられない粒にいきつくらしい.その粒は普通の粒とは違うらしい.特定の場所に存在するのでなくていろんな場所に同時に存在するという.でもそれじゃ粒とは言えない.粒は特定の場所にあるから粒なんだから.どこにあるのかは誰かが観測するまで決まっていなくて、観測という行為が行われたとたん粒として存在することになるという.つまり誰かが観測するまではモノとしての形をなしていなくて、そこにモノがあるとは言えない.普通モノといえば硬くて輪郭もはっきりしていて、確かな安定感があるもんなんだが、一番大本をつき詰めていくとどうもそうではないらしい。曖昧でぼんやりしていて掴みどころがなくいつも迷っていて、そのあり方は私たちの観測行為にも左右されたりするらしい.モノが人の感情に反応したりするのを実験で確かめられたら面白いだろうな.怒っている鉄、ハイテンションな岩、ご機嫌斜めのプラスチックとか.
 
よく心は意識と無意識で構成されている、といわれる.意識とは、いつも感じている自分という物で、無意識とは、自分には違いないんだけれど普段は気づくことのない部分で夢や尋常でない境遇にあるときにかろうじて姿を現すもう一人の自分らしい.しかも意識的な自分、よりも無意識としての自分、のほうが大きな存在らしいのだ.普段自分だと思っている自分、はとても限定された一部でしかないのかもしれない.思えば夢なんかは何処からともなく豊かなイメージとして意識としての自分、などが決して思いつかないやり方で紡ぎ出されていくのだからより大きな何かが私の中にはあるのかもしれない.それは時には太古的なイメージの源泉からくみ出されたかのような鮮烈で導きを与えてくれるような物であったり、シュールで奇妙奇天烈な何処から来たのかわからないような気まぐれなイメージのキャラクターだったり、暗くおぞましい恐怖の具現化された物だったり.もう一人の創造主としての神が私の中には鎮座しているようだ.
インドの神話などでは世界は神々の夢から出来ているという説明がなされてたりする.今のように娯楽があふれていず日が暮れてからは眠りにつくだけの素朴な生活だったろう当時の人にとって夢というのはより鮮明で現実の世界とも十分比肩しうるほどの手触りを感じたに違いない.彼らにとって夢はもう一つの世界だったろうしそれどころか現実よりもずっと自由で神々や天使たちとも交流できるようなより内的な決して無視できない領域だったのだろう.翻って現実に目を転じた彼らは絶えず生起しつつあるこの世界の現れの根底に夢と何一つ変わることのない同じ衝動を見たのだ.