| 04/11/28
タイから無事帰還。
外国から帰ってきたときのいつものギャップは
馴れるまで時間がかかる。
「ああ、日本という国はどうしてこうなんだ!」
このキケンなぼやきを徐々に押しこめていく作業が
必要になる。
社会適応のための必要悪の自己矯正。
これで少しはあいまいで当り障りのない日本人の演技ができるだろうか。
日本はいい国だ。電車も時間どおりやってくるし、
接客も愛想がいいし、治安も安全。
ただもう少しいいかげんになって欲しいんだよな。
ゆったりとかまえて。
でないとますます小さな国になっていく。
小さな人間たちの小さな国に。
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| 04/10/1
三週間ほどタイに行くことになった。
もちろん自費で。こんな時期に三週間もタイをうろつく
ということだけで、まっとうな会社勤めではないことが
ばればれだが(笑
そんなときに便利な言葉が「自営業」だったり。
いつも人生という名の細い綱渡りに神経を尖らせている
ぼくは哀れで孤独なピエロなのさ・・・?
ともあれ「自営業」なる肩書きに少しでも信憑性を持たせる
ささやかな努力の一端として、タイに雑貨あさりに
行こうというわけだ。
タイに行くのはこれで4度目だったりする。
内向的でひきこもりのくせに結構似非ヒッピーだったりするのだな。
インドも行ってるし。
なぜ行くかというとそこには自分の同類がいっぱいいるからなのだ(笑
非生産性を何一つ恥じ入ることのない図太い神経の持ち主の
居場所なのである。
生産性にせかされて息苦しい日本の日常が一気に相対化されていく。
そんな快感がアジア来訪にはある。
しかしアジアは皮肉なことに日本をモデルにして日々発展している。
アジア的なるものは日々消滅しつつあるのだ。
そんなまったりとしたアジア的自然意識をモノに凝縮した
民族雑貨を探しまわろうと。
熱帯のむせ返る空気と褐色のつぶらな瞳をした女たちと
の果てることのない値段交渉。
「いくら?」「いや、君じゃなくてこの編み籠のこと・・・」
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| 04/8/10
自転車に乗っていると擬似的に重力から開放された気分になる。
ペダルを漕がずに滑らかな道を走っていくのは気持ちいい。
鳥たちも翼を動かさずに空を滑空するときは、似たような気分なんだろうか。
ところで同じ距離を、歩いていくのと自転車でいくのとでは
自転車のほうがずっと労力が少なくてすむ。
ペダルを漕ぐという行為が回転運動に変換され慣性力も手助けして
効率良く 移動できるからだ。一方、歩くという行為は足を上に持ち上げ
体全体を傾けて少しずつ移動していくという、結構な重労働だ。
同じ重さの物体を同じ距離移動するには、同じエネルギーで
すむはずなのに、道具一つ使うだけでこんなにも労力に差が出て
しまう。
理屈ではわかっていてもなんだか不思議な感じだ。
きわめて短絡的な結論として重力から開放されることとは、
如何にエネルギーを効率良く目的のために使うことができるか、
ということかもしれない。
UFO乗っている宇宙人たちはその方法を知っているんだな(笑
重力とは愚鈍さの反映なのかな。
重い人生を歩む事勿れ、ってことかも。
もし重いと感じているなら、効率良くエネルギーを使いなさいとな(笑
そもそも重さとは物質そのものの本性だ。
つまり物質自体が非効率なのだ!
光になれということだよ。
重さのない光に。
無時間で空を滑空できるさ。
なんちゅう結論だ!
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04/6/28
最近永遠なものにひとつ気がついた。
それは太陽
なんと当たり前な、と思うかもしれない
しかも46億年の寿命が星にはあるではないか
小学生でも知ってる初歩的な科学知識
その点、詩というのは便利だ
何書いても許される
ランボーの海と溶け合う太陽が、、、
そう永遠なんだ・・・
詩的な意味合いで、というのではなくて
事実として、実存的な体験として、太陽は永遠だぞと
時々、日常の鈍感な感覚のバリアが破れて「体験」に出会うことがある。
それが意味なんだよ。
世界は昼が思うよりも深いんだ・・・ |
| 04/5/03
一連の人質事件での日本国民の反応は実に興味深かった。
被害者であるはずの彼らに、非難が浴びせられ「自己責任」という
まやかしの言葉によって集団同調的な圧力が加えられたのだ。
これは逆に考えるならば、集団主義的なはみ出すことのない
生き方をしていれば「自己責任」を免除されるのに、バカな奴だ。
と、言っているのに等しい。
普段から「自己責任」をとらないような生き方が、何よりもこの島国では
推奨されているのだ。
「自己責任」を取れない人たちが「自己責任」と連呼しているのも
なんとも滑稽ではある。
みんなと一緒のことしていれば、無難だろうとか。
ほんとは正しくないんじゃないかと思っても、周りに波風立てるのも
気が引けるから大人しくしていようとか。
いろんな場面で私たちは日本的な条件付けにいつも縛られている。
そのことの先鋭的な表れが今回の事件だったと思う。
私にもそういう側面がある。
そして人質を非難した人たちの中にも、彼らに対する負い目があるからこそ
強い反応を示したのだといえる。
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| 04/4/9
最近の世相を見て思うのは、不安や恐怖から生じた行為は
必ず失敗するということだ。
北朝鮮が何をするかわからないから、アメリカ様に守ってもらうために
アメリカのイラク侵攻を支持し、自衛隊を派遣したり
とりあえず強い国の後についていけば、安全なんじゃないかとか。
そこには積極的な動機に基づいた行為は何もない。
行為者不在の行為なのである。
いうなれば意識が朦朧とした夢遊病者とあまりかわらない。
不安や恐怖に突き動かされる人間の状態とは
操り人形と何一つ変らないのだ。
そのような人間は外部の影響力にたえず翻弄され
いつのまにか自分の意思は果たしてどれなのか、
それさえもわからなくなる。
そのため目先の不安や恐怖を取り除くことだけを
第一に考えるようになる。
その結果なりふり構わず、理不尽な侵略戦争でさえ
支持することになるのである。
不安におびえた人間ほど御しやすい者はない。
それを一番よく心得ているのは「テロリスト」ではなかったか。
そういう意味では、もうすでに日本国は「テロ」に屈しているのである。
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| 04/3/2 しばらく書いてなかった。今年はまめに更新して日記代わりに
誰にともなく奇妙な電波発信しようか。
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| 03/11/24 最近オークションをはじめた。
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| 03/7/13 最近、幽体離脱のサイトを見たりしている。
自分は幽体離脱はしたことはないが、世の中には気軽に幽体離脱ができる人たち
が存在するらしい。彼らは体から抜け出して自由にいろんな場所へと徘徊したり
できるらしい。体から抜け出すといっても肉身以外にどこに自分の体があるんだ
という疑問が出てくるはずだが、オカルト思想を少しでもかじった人なら肉身以外
にもエーテル体、アストラル体、コーザル体などを人間は持っていて、どの体に
意識の焦点を合わせるかによって異世界を認識できることになる。
よく幽霊などが見えてしまう人は意識の焦点があちらの世界に向かいがちな人だと
いう説明も成り立つ。
幽体離脱という現象はオカルト思想に基づいて考えるなら、肉体から意識的に他の体に
意識の波長を合わせることで、通常の肉身に備わる感覚器官によっては認識できない
別位相の世界が現れることになる。
そして通常の意味での幽体離脱とは、肉身から第2身体であるエーテル体への移行の
ことを指すようだ。エーテル体によって認識できるエーテル世界は現実世界とそんなに
変わらない。いわば現実世界の青写真のような世界だ。幽体離脱することでエーテル世界
を体験することができるということらしい。
もちろんこんなのはみな幻覚に過ぎないのかもしれない。脳科学の専門家なら既知の領域
からすべての現象を説明付けようとするいつものやり口で幻覚の一種と断定付けること
だろう。しかし今ある現実でさえ、いったん脳というバイアスを通過させることなしに
認識できないのだから、この現実の根拠も決定的なものは何もないのだといえる。
現実世界の重層性、通常の感覚によっては認知できないが別位相に存在するであろう
さまざまな世界。その可能性を探求していくことがあってもいい。
そして多層世界の認識によって、この現実世界の本来の意味、存在理由なども明らかに
なってくるのだともいえる。全体的な俯瞰図が得られるのだ。
さて幽体離脱の練習に励むぞ!って周りから見たら引くな…
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| 03/7/8 3年使い込んだAPTIVAが動かなくなった。
以前から動作が遅くなっていたので、そろそろ寿命かなと思っていたが、
動かなくなる前日に見た夢でも、パソコンがその終わりを迎えんとする
ちょっとした予知夢だった。夢のシーンでは、パソコンが寿命を終えるときに
特別に用意されたプログラムが画面上に展開されて、延々とシステムのリストが
映画の終わりのテロップのように流れていくのだった。
一方現実のパソコンでは、画面がフリーズするだけのそっけなさだった。
素人ユーザーの最後の対処法としてリカバリーを行うことにした。
3年間一度もしたことがなかったのだ。部屋の隅っこから3年放置プレイのCDを探し出し
CDドライブに挿入。何の反応もなし。やはり壊れてたか。IBMのサポセンにリカバリーCDの交換
について尋ねてみる。すると電話でオペレーターの声の指示に従いもう一度リカバリーすること
に。お姉さんのきれいな声の言うとおりにハイハイと頷きながら、淡々と指示に従う。
パソのスペックに詳しいお姉さんというのも、結構魅力的だ(笑。パソの方もお姉さんの指図
にはさすがに抵抗できず?リカバリー成功!
おかげでまたサポセンに電話したくなる誘惑に駆られてしまいそうです(笑。
で、リカバリーの場面が展開されるとこれが面白いことに、夢に出てきた映画の
テロップのようなシステムファイルのリストの羅列がスクロールされていくのでした。
まあ夢の中ではもっとカラフルでしたが、実際はモノクロのDOSモード画面でした。
パソコンは他の電化製品と違って、使用者とよくシンクロ現象を起こすことがあるのでは
、という気がします。
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| 03/5/13 少し前に戦争があった。
それから世界は何か変わったのだろうか。
何かもやもやとした得体の知れない澱みのなかに、はまりこんでしまったような感じがする。人間というのはバグなんだろうか。今だ進化の途中にできた試作品でしかなく、そう遠くない未来にお互い同士の破壊によって姿を消してしまうのだろうか。二千年紀の始めに、この出来事があったということが何かを暗示しているのかもしれない。今世紀中に全ての決着がつくのだと思う。
人類が存続していくか、それとも進化途上の一里塚程度の試作品として、神の絶滅生物のリストに加えられていくのか。
そしてワタクシという存在は、より自覚的に生きることに専念していかなければならないようだ。
ヘッセ「内面への道」を読んでいるところ。
他のヘッセ作品とはだいぶ趣が違っている。
第一次大戦中の著作だけあって、苦悩に満ちた個人の内面心理が描写されてて正直読むのが苦しいときもある。ヘッセの新しい側面を発見した感じ。でも苦悩から高揚へ到る場面はさすが、決してニヒリズムへとは向わない健康的なスタンスは健在。
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| 03/3/06 ギリシャの哲学者プラトンの哲学にイデアという考え方があるが、この世に存在するありとあらゆるものの理想形というものがイデア界と呼ばれる別世界に永遠の姿のまま存在し、その不完全な姿が地上に投影されたものを私たちは現実と呼んでいるのだという。つまり現実と呼ばれるものはイデア界の不完全な模倣でしかないのだという考えだ。そして私たちの魂はというと元々イデア界に存在していたらしい。しかし地上の欲望に目がくらんでなのか、アダムとイブのように堕落した存在になり地上に降下することになった。それ以来地上に住む事になったけれど、時々美しいものや、高貴なものや、恋をしたりすると、憧れにも似た切ない気持を胸に抱いてしまうのは、イデア界に住んでいたときのおぼろげな記憶が魂の中にまだ残っているからなのだという。この話しが本当かどうかはしらないが、最近思ったのはこの現実が時間軸にそって絶えずうごめき運動を繰り返しているのにもしも理由付けをしてみたならば、イデア界に対する絶え間ない希求だと言えるのではないかと思った。生の動機付けとは何かというと何よりも一般凡夫にとっては欲望であるが、欲望は必ず実現したいと思えるイメージが先行する。イメージはできるだけ現実離れしてより美しくより完璧なものであればあるほど、欲望をかき立てる。そのイメージの出所はまさにイデア界に存在する理想形だ。この現実は絶えずイデア界を希求しているのだ。しかもイデア界には決してなれない不幸を内在させながら。というのも時間は全てを不完全なものへと変えてしまう作用を持つから。イデア界には時間は流れていないから。逆に言うならこの世界の本質は時間なのだ。
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| 03/1/13 この世界は実は連続性を持たないパラパラ漫画みたいな構造をしているんじゃないかという、考えが浮かんだ。目の前のコップを動かすとき、いかにも連続して滑らかに動いてる感じがするけれど、ほんとはこの世界はいくつもの映像でできていて私の意識がこの映像を時間的に横切るとき、映像がつなぎ合わされてあたかも動いているように見えるだけなのかもしれない。それほど極端でなくともこの世界はドット絵のようにデジタルな最小単位の組み合わせで成り立っていて多少ともぎこちなくて
その埋め合わせを脳の中で行い連続絵として見えてるような気がする。
現の代物理学は連続の概念に基いて理論を構築して、現実世界に当てはめようと試みてきたが、いろいろと矛盾を含み行き詰まっていることが多いという。
連続的な世界というのは多分頭の中にしかないのではないか。
もうひとつ
透明性というのは光が物質のなかで戯れるときの光の色なのだと気づいた。
純粋さは光の属性なのだと気づいた。
アインシュタインが光の絶対性にこだわったのも倫理的な純粋性を光に重ね合わせたからなのかもしれない。
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| 8/3 暑い日が続いている
何もかも腐敗していくような暑さ
夏は、自然界にとって生命力が外面的にはピークに当たるのだろうが
同時に衰えが始まる季節でもある
腐敗というのは生命個体にとっては死を意味するけれど
細菌や蛆虫の立場に立ってみれば生命力の発露の
過程の真っ最中なのだろう。
私たちが忌み嫌う腐敗や悪臭などは他の生命体にとっては
素晴らしい美の光景として映るに違いない
そう考えればこの世に汚いもの有害なものなんて何も無いのかもしれない
私たちの生命の存続にとってのみ有害であり醜いのであり
それはただそのままの姿なのだ
最近地球環境が壊されていることが懸念されているが
もちろんこれは人間にとってという意味であり
地球は決して壊れることがないのだ
地球がアブナイのではなくその上で暮らしている人間の生活環境が危なくなるので
ある
人間はそのようにして問題回避したがる
まるで自分の責任ではないかのように
でももしかすると工業化による環境破壊はなにか人間に代わる
新たな知的生命体にとってはとても快適な環境を用意しているのかもしれない
大体この2,300年における急激な科学技術の発達や都市化には
何処か唐突なところがありはしないだろうか?
それ以前は何万年にもわたり、人間は同じような生活をしていたのだが
ここに来て突然、自らの環境に積極的な改良意識をもちだして
工夫し出したのはどういうわけなんだろう
自然界には存在しない化学物質を作り出し、丈夫で長持ちし
安価に大量生産できる製品が作られていったが
そのモチべ−ションとしては生活環境の改良意識だけでなく
金儲けという側面があるようだ
つまりここ2,300年の間に、何かのせいで人間の欲望の歯止めがきかなくなって
しまったようなのだ。
それ以前には多分宗教が歯止めの役割を果たしていたように思える。
しかし近代以降,人々は宗教を信じるだけの素朴さをもはや持ち合わせて
いなかったのかもしれない
”神は死んだのだ”
とても難しい時代に人間は入りこんでしまったようだ・・・
人間どものジレンマなどお構いなしに蝉たちは元気に命を燃やし尽くしている
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| 7/19 カンディンスキー展に行ってきた。
7,8年前にも同じ美術館で開催されていて、そのとき以来だった、生カンディンスキー。展示品のレベルは前回のほうがよかった。
それにしてもカンディンスキーの絵は抽象画というにはあまりにもぬくぬくしている。
暖かい。色彩の音楽、と形容されるのがふさわしい。
確かに抽象には2種類あるように思う。
一つは近代工業化による没個性的な生活形態や理念、画一的な都市の外観から強く影響を受けたと思われるいわゆる抽象絵画。
具象的なもの、気まぐれな感傷から超越した視覚における法則の純粋な抽出。
色彩と形の平面における必然的配置。
もう一つの抽象は、南アメリカ文明やアフリカ大陸の様々な民族の呪術信仰などとも結びついた土着的なアートのなかに見られる抽象性だろう。
カンディンスキーの抽象画はこの二つの抽象が統合されてなおかつ未来性さえプラスαされているように思う。時代はいまだに追いつくことができないでいる、彼の絵画の前衛性に。
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| 6/29 幸福よりも自由の方がより上位の概念であるように思える
幸福というのは目標というよりもなにかの副産物として
私たちにもたらされる受動的に享受される贈り物
結果としての幸福は私の過去がそれに値するものであったことの証
私は幸福のために何かをするという考え方は本末転倒だ
なぜなら幸福は私たちよりも大きいから
無理やり引き寄せたり、掴み取ったりする類のものじゃない
実際のところ何かをすることと幸福とはあまり関係が無い
自分の心に幸福のためのスペースを上手く作ることに長けている人が
幸福に向いている
自由はもっと主体的だ
存在自身が一番欲しているものだから
この世のありとあらゆる生ある者、無い物は自由を欲している
幸福よりも欲している
生きる事自体が自由に対するあがきでもある
私たちが自由を求めるのは、もちろん何か自分を縛り付けている物があると思うからだ
社会的な制約、生物的な制約、個人性としての制約など?
いいや、そうではなくて本来ある場所に私の魂はいない、という自覚
私の今ある心身状態は本来の状態ではなく、より大きな広がりを持った
自由な生き方に憧れつづける衝動が、DNAの何処かに組みこまれている
のかもしれない
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| 6/13 私たちの目の前にある現実は既に過ぎ去ったものだ
今この瞬間を私たちが認識することは決してできない
見えるもの聞こえるものなんであれ私たちが認識した瞬間過去になってしまう
というのも認識すること自体が時間を生み出すから
時間は認識のために不可欠な構成要素だから
時間なしには認識は不可能だから
瞬間と認識は相容れない
もし世界がモノでできていると考えるなら,認識作用が世界をモノ化しているから
そのように見えるだけ
本当の世界の姿は今この瞬間に存在する
でもわたしたちには今この瞬間に存在する世界の姿を決して認識することはできない
世界は私の目の前にいつもありつづけるのに、世界に目を向けたとたん冷たく固い
姿に変じてしまう
世界はとても恥ずかしがりやで、見つめられると冷たい彫像に変わってしまう厚い
ベールに身を包んだ女神のようだ
女神がその厚いベールを脱ぎ捨てて、そのありのままの姿を私たちに見せては
くれないのだろうか
一つだけ方法がある
私が世界であり世界が私であることに気付いたとき
世界を対象化せず世界をそのままにあらしめ、自分をそのままにあらしめるとき
女神はその荘厳な美を私たちに開示してくれる、私たち自身の姿として
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| 6/5 一月前に植えた瓢箪と朝顔とラベンダーの種から芽が出て、順調に葉が伸びて成長してきた。瓢箪はあのユニークな形が好きで植えた。加工して中に酒なんか入れて仙人気分に浸ろうかと思っている。(笑
朝顔は小学生のときに植えて以来、何度も暑い夏の思い出の片隅に可憐に咲いてくれる馴染み深いパートナーだ。青やら赤やら次々と手品みたいに咲いてくれるから楽しい。夏の花火みたいに咲いたと思えば夕方には萎れてしまう。水を遣り忘れたりすると、すぐに葉っぱがだらんとしてしなだれて、その様子が「水が欲しいよ−ん」って言ってるみたいで、ある種の庇護本能みたいなのを人間から引きだしてるかのような気がしてくる。ラベンダーは初体験。あの紫色の花に惚れて富良野に行かずにぼろアパートで拝めるかどうか試してみようというわけ。植物がゆっくり伸びていくのをみてると、なんか癒されるね。生命の基本形だもんね。伸びていくことがワタクシの使命といわんばかりの。ただただ素直です。なんて伸びやかで健やかな自己実現。人間さまみたいにひねくれてはいません。まさに癒し系とはこれのこと,かな(笑
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| 4/27 水晶を買った。
ずいぶんと透き通っていたので手元に置きたくなった。
硬くてつるつるしていて石というより、UFOの一部を切り取ってきたかのような
未来的な素材感。
地球はいうなれば巨大な石みたいなものだから、この水晶も地球の体の一部
みたいなもんだ。
小さな透き通った地球を眺めながら、思いは宇宙のかなたへと馳せ巡る・・・
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| 4/26 とうとうマジックマッシュルームが麻薬指定原料植物に指定されるそうだ。
世界を裸のままに私たちの前に開示してくれる、極めて強烈な作用を持つこの植物が,表面的なせわしない現代社会にとって大きな不安感をもたらすことは大体想像できる。
うわべだけ何とか取り繕って,表面的には明るく、物も豊かになり便利なこの社会の上っ面の表皮を剥いでしまえば、未解決の対処法も知らない無秩序の闇がぽっかりと口をあけていて薄っぺらな現代生活者をたやすく飲みこんでしまう。
闇こそが本当の私たち,であるのに。
マジックマッシュルームを禁止するということは私たちの本当の姿に出会いたくないという現代生活者の心の深部への探索に対する臆病さの現れだといえる。
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| 3/10 最近はどうもメランコリックな気分になることが多い。
鬱になる、というのとはちょっと違って失恋したときに感じるような
切ない喪失感といったようなものだろうか。
過去に経験したかもしれない忘れられない思い出が
具体的な形を取ることなく、ただ感情だけを伴って展開していくため
よけい心もとなくまるで霧の中をあてどもなくさ迷っているようだ。
実際にはこの感情の出所は現実世界の過去の出来事とは何の関係もないのかもしれない。感情それ自身で成り立っている世界があってもおかしくないだろう。
現実によってしか感情は引き出せないとは限らない。感情生活が現実世界での単なる付随物に過ぎないという見方はどちらかというと本末転倒の感じもする。実際のところ感情こそが生命活動を動機付けている第一のものであって、弱肉強食や子孫を残すための命を賭けた営みなんかを無感動に淡々と命あるものはこなしているとは思えない。その目に見える様々な生命の営みを動機付けているエンジンは感情生活なのだ。
よく、生きる意味は何なのかとかという問いが出されるとき、善人になるためだとか、幸福になるためだとか、快楽のためだとか、世の中のためだとか、その意味自体を探しつづけることが意味だとか、無意味なんだとか、考えるのをやめたらわかるとか、いろいろあるけれどそれらはすべて口実であって本当はただ自らの感情生活により深く気付くことこそが豊穣な、有無をいわせない生きる事そのものへと私たちを導くのではないかと思えた。
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| 2/20 最近強烈な映画を見た。
インド映画『ムトゥ 踊るマハラジャ」のことです。
すっかりやられたという感じ。映画がこんなに楽しいと思えたのは子供以来かもしれない。喜び踊る一体感の楽しさ。しばらく忘れていた。
この映画は閉鎖的な自分のハートを、どうやらこじ開けてしまったようだ。
もう元には戻れないかもしれない。(笑
そういえばインドの最高神シヴァは踊りを舞うことでこの宇宙を創り出した。
そしてこの宇宙はいまだに踊りつづけている。コズミックダンス・・・
終わることのない永遠のダンス。
星屑たちの渦巻く乱舞。
宇宙は踊り,神々は踊り、太陽や月が踊り、鹿たちは輪になって踊り
そして人が踊りのなかで、宇宙と一つになる。
ところで映画で主人公のラジニが歌うフレーズに「ご主人様はただ一人・・」というのがあるが、その深い意味は私たちの心の中に住むアートマン=本当の私のことをいってるんだと思う。本当のご主人様がふさわしい位置につくならば、幸せがやってくる。この映画のストーリーがほのめかしているのは、そのようなインド思想だったりするんだろうけど、すこし深読みし過ぎか。
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| 1/22 目で音を聴くことはできないし耳で物を見ることもできない。
当たり前といえば当たり前だけど、必ずしも当たり前というわけでもなさそうだ。
というのも元はといえば同じ一つの細胞から分化したものだからだ。視細胞も聴覚細胞になる可能性を秘めていたし、聴覚細胞も視細胞になる可能性を秘めていた。
脳内のニューロンも腎臓も神経もたった一つの細胞からすべて分化したものだという知識は中学生でも知っていることだろう。しかし目がもはや耳の役割をどうあがいても果たせないという事実を自分の意思では絶対に覆せないことと、元は同じ細胞であったことの間にある架け難い断絶は何なのだろうかとも思う。
この思いはこのように考えれば実は解決する。
私自身が実はまだ分化する以前の細胞そのものであり、わたしにとっては見ようと思えば見ることができるし聴こうと思えばいつでも聴くことができる立場なのだ。
私にとっては分化する以前に有していた細胞の持つ可能性は、いささかも減じてはいない。
しかし、目で聴く事はできないし耳で見ることもできない。
これは束縛なのだろうか。て言うか、もしそんなことができたとしても多分とても頭の中かが混乱することだろう。体中のあらゆる細胞からあらゆる味覚聴覚視覚がいっせいに脈絡なく脳内に押し寄せてくるのだから。何が何だかわからなくなるのではないか。ある程度の制限がなければ秩序は保てないもなのだ。
夢というのはそのような制限の枷がある程度緩められたことから、自由で楽しく感じるのかもしれない。夢はやはり胎児におけるまどろみなのだ。
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| 1/15 私たちの5感はいつも表面にだけ生じるように思える。例えば皮膚の触感は内部の細胞の新陳代謝や血液の流入などはぜんぜん感じないで、ただ外界の物との接触や温寒などを皮膚の表面においてのみ感受している。
味覚,聴覚,嗅覚においても、感受器官の表面が外界の何らかの刺激に反応して私たちに情報を送っている。感覚が生じるのはいつも外部と内部が接している境界だということになる。
では視覚はどうだろう。詳しいことは知らないが光が視細胞を刺激して何らかの化学反応が生まれ、その変化が電気的に神経細胞によって脳にまで伝わるようだ。
光を感受する場所はやはり視細胞という表面においてだといえる。
しかし私たちの視覚によって作られる空間把握は立体的だ。これはなぜだろう。
どうして触覚は立体的に像を結ぶことがないのか。確かに物に触れることでそれが立体であるかどうか知ることができるが、それは立体とは何であるかの概念があらかじめ視覚情報によって頭の中にインプットされているから、そう理解できるって事はないだろうか。でも生来の視覚障害者は立体という概念を知らないわけじゃないし。
確か哲学者のカントは時間と空間の概念はあらかじめ人の中にインプットされた、外界からの情報から作られる経験知とは性質の違う先験知、として考えるべきだと言ってたようだ。その本は読みかけのままほこりを被ってるけど・・・
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| 2002/1/5 最近のマイブームは山下達郎と竹内マリヤだ。
前から好きだったけど改めて聴くといい。
生きることってやっぱり楽しいんだなって
すごく単純なことで楽しくなれるんだって思える。
楽しく生活していくのも才能なんだろう。
ごくありきたりなことに楽しみを見出す,か。
それにしてもマリヤは達郎のどこが気に入ったんだろう。
達郎の長髪の写真を見つめながら考えていた。
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| 12/31 昨日読んだ本には『トカトントン』という短編も収められていた。
どちらかというと、こちらのほうがより根深い問題を提示しているように思えた。
もうその先には何もない、という風ないかなる手だても対処もできない虚無思想。
太宰といえば、普通柔弱なめそめそしたイメージが先行しがちだが,そのなかにはなにか破壊的な、叙情性そのものも否定しくすような虚無を孕んでいる。
やはり彼は危険なダダイストの顔も持っている。戦争そして敗戦という時代背景なしに彼の文学は切り離せないんだと思う。
さて今という時代は太宰を必要としているんだろうか。
もはや彼が必死に悩んだ問題はすべて解決しただろうか。
いや,何もかも先延ばししただけだろう。
太宰が提示した問題は、今という道の行く手をふさぎ解決されることを待ち望んでいるようだ。
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| 12/30 昼頃起きて、太宰の『人間失格』を読了
戦後の混乱期にすっかりタイムトリップ
無頼派の酒池肉林の世界
よく考えれば女遊びばかりしてるよ、この主人公
毎晩盛り場に入り浸ってるは、酒代は女に払ってもらうは
それで生きててすみません,かよ。
まあ面白かったからいいんだけど。
一方でこの人のずる賢さというのは、自称ダメ人間と称しながら
自分の自堕落と不甲斐なさを世の中に投げかけることで、
対照的に世の中の矛盾や強欲さ,エゴイズムを際立たせようとする
企みがあったことだろう。
そう,ダメなのは世の中なんだ,自分よりダメなのは。
殉教のキリストになって最後は自分で逝っちゃったし
本当のダメなら、カッコ悪くじじいの醜態晒すまで生に執着しなきゃ。
カッコ悪く、笑われるぐらい自己中になって生きなきゃ。
それが本当のダメの中のダメ。
ダメでどうしようもない奴は自殺なんて無私な行為に及ぶはずがない。
でもどうしようもないカリスマがある太宰
平成の文学少女を相変わらず虜にしてる幸せ者だ。
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12/10
最近やっとネイティブの話す英語が聴き取れるようになってきた。今までどうしても聴き取れなかった。かといって英会話学校に行くだけの余裕もないし,英語の猛勉強をするだけの動機も必要性もなかった。ただメルマガで定期的に届く英文を読んだりする程度だったし、それがヒアリングに貢献したかどうかはわからない。
それよりもヒアリングのための鍵,みたいなものを自分なりに考えてみるとどうやら右脳の活性化と深く関係しているんじゃないかと思う。受験生時代よりもあきらかに今の方が右脳が活性化してると思う。すっかり30を過ぎ去った今になってである。
どうしてそういえるかというと、物事に対する感受性がずいぶんと増したからだ。10年前の自分を振り返ると、ちょっとしたことや人に言われた一言にとても傷つきやすかったと思う反面、その他の多くについてはほとんど閉じていたといってもいいぐらい鈍感で無関心だった。自分の周囲を巡る小さな円の中で私は一生懸命だった。それに較べると今見ている外側の世界はずっと幅広くより豊かに、多層的になっている。それと同時に失ったものもたくさんあるが。
このサイトでは現実とは何なのか、現実とはたった一つなのか、現実なるものとどう対処していけばいいのかが主要なテーマとしているが、ここでまた右脳が見ている現実と左脳が見ている現実の違いについて考えてみるのも悪くないかもしれない。
さて,英語のスキルアップして金髪碧眼のお姉さん口説いてみっか(笑
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11/25
あの9月11日から数ヶ月がすぎようとしている。
まるで当たり前の成り行きであるかのように,アメリカはアフガニスタンに空爆をしかけ、今やタリバン政権は崩壊しつつある。このまま事態は収束へ向かっていくのだろうか。テロリスト集団はアメリカの軍事力の前に壊滅させられ、最終的に消滅していくのだろうか。そんなにも計画通りに物事は直線を描いて進んでいくのだろうか。歴史、というのはいつも直線的な展開を画策する幾多もの権力集団同士が、お互いの足を引っ張り合うことで、いつまでたっても同じ場所をくるくる廻る愚かな円環運動をしていたものだ。今回も再びおなじみの歴史の”愚円”をまた一つ重ね描きするだけである。私たちにいま必要なのは高みへ向かって上昇する垂直の力である。怒りと憎しみと残酷さの厚く垂れ込めた暗雲を突き抜けるための。
天使よ・・翼を下さい。
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9/4
最近暗いニュースばかりだ。ニュース見ていたり報道の仕方を見ていると,悲惨だとか悲しいとかいってながら、心の底では本当は望んでたりする部分があるんじゃないか、というようなひねた見方もしたくなるような加工された報道の仕方が目に付く。もうそれは事実じゃない。映像に映るフィクションなのだ。それは人がいやな暗い世の中だとか、いい世の中にどうしてならないんだろうとか言っていながら、いざ何一つ事件の起こらない平和な世の中が実現したとしたら退屈過ぎてどうしたらいいのかわからないのがとても怖いんじゃないだろうか。私もそのうちの一人なのかもしれない。鬱だ・・・
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8/29
今ヘッセの「デミアン」を読み返している。やはりいつ読んでもいい本だ。
一つ一つの文章があまりにも的を射ている。的確なのだ。語るべきことを見逃すことなく語っている。一番言いたかったことをこんな風に完成された形で展開でき、しかも書き手はそのすべてを必ずしも自己の物として体験しているわけでもないのが、才能という物の面白さなのかもしれない。
自分という器の容量を越えた大いなるものの表現媒体として、働くことが出きる妙というべきか
人間は神々の器である時がもっとも幸福なのかもしれない。
そして自分という器に固執するときが一番不幸なときなのかもしれない
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8/20
台風が近づきつつあるらしい。
気象衛星から撮られた写真を見ると,きれいな渦巻き形をしている。
台風の目もはっきり見えていて、自分は渦巻きですとあたかも声高にアピールしているようだ。多分台風全体をエネルギーに換算すると巨大な物になるだろう。人が最新技術を駆使して電気エネルギーを生み出そうとも、台風一つ分であっという間に凌駕しちゃうのだ。
人というのはそのような巨大エネルギーに昔からずっと憧れつづけた。自然を人より偉大な存在として「神」と命名した。自然のエネルギーにはかなわないことを知っていたので、いかに自然と逆らわず折り合いをつけて生きていくかがすべてだった。
しかし最近人は「科学」という素敵なおもちゃを手に入れ不遜な思いを抱くことになった。もしかすると自然を自分たちの思い通りにできるかもしれない、という。以来、科学の力でずいぶんいろんな事をしてきた。その中の幾つかは,人にとって有益だったが,幾つかは戦争のために使われ、幾つかはつまらない小手先の欲望のために使われ,その代償を自然の中にほうりこんできた。自然がみんな受け止めてくれると思ったのだろうか。
愛する子供のやんちゃな願いを、みんなやさしく頷きながら受け入れてくれるママの様に?でもほんとはそうではないのかも。
台風に耳を澄ませば少しはわかるのかもしれない。
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8/19
春以来更新してなかった。
もう夏も翳りに差し掛かりつつある。
蝉たちの声もまばらになってきた。
あの機械仕掛けの騒音再生機は、シャカシャカと夏を盛り立てた後
圧縮された濃密ジュースのような短い生命を燃やし尽くし
ある日、地面の上にコロリと亡骸を転がしている小さなバルタン星人である。夏の星たちはそれを遠くから見つめている。
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4月21日
春がやって来た.いつものように桜が咲き、そして散っていった.
なんとなくけだるい季節だ.空気が甘ったるいかんじがして冬の間にあった温度差によるくっきりとした輪郭線が消失して、ふわふわとした中途半端なしこりがいつまでもの残っている感じ.
それにしても新緑の緑の色鮮やかさは格別だ.
光に透かされて光り輝き、春のやさしげなそよ風にゆれている若葉の向こうで小鳥たちがうれしそうに囀っている.
彼らにとっては喜びの季節なのだ.
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