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ジャンル タイトル 著者
小説 デミアン ヘルマン.ヘッセ
津軽 太宰治
ファンタジー、童話 銀河鉄道の夜 宮沢賢治
インドラの網
十力の金剛石
思想 ツァラトゥストラはこう語った ニーチェ

 


                       

銀河鉄道の夜  作 宮沢賢治

よく知られた賢治の代表作なんだけど、ほんとに不思議な作品だと思う.世界中探しても類縁性のあるものってほとんどないように思える.この作品が稀有なのは何よりその感覚の触手を宇宙の果てにまで、できるかぎり伸ばそうとしていることだろう.鉱石の内部にまでその感覚を行き渡らせ、鉱物自身が感じ取る世界を掘り起こし描いて見せている.人間とは180度違った世界.”立派な地層もあるいはただがらんとした空に見えやしないか.”人間的な物の見方から離れることで見えてくる物がある.鉱物自身の視点、あるいは植物の視点、動物の視点、賢治はこうした視点を大事にした.このような視点を取り入れることで、社会的存在である以前の素のままで宇宙と向き合った人の姿が浮き彫りにされる.その様な存在認識を通してはじめて人は健やかにこの世界に根付くことができるのだろう.自然とのバランスの取れた関係が築けるのだろう.
作品のいたるところで”水”が流れている.街の中にも、銀河鉄道が走ってゆく銀河にも流れ、カンパネルラはその水の中でおぼれてしまう.水はあの世とこの世も、生きている人と死んだ人もお互いに結び付けている.水を通して世界と結ばれている.水というのは溶けた鉱物といっても良いだろう.あるいは鉱物の感情的表現.宇宙に遍満する水.水に触れたとたん宇宙の果てまで波は届いて行くよ。                                  

  

インドラの網  作 宮沢賢治

この作品も「銀河鉄道の夜」に負けず劣らずイマジネーションの純粋さを極めつくした感がある。読んでるだけで大気圏外の冷たく希薄な空気の中で昏倒しつつある自分に気づく.これは幻視の中でのチベット高原なのか、とにかく幻視の中にもう一つの幻視を組み入れた入れ子構造になっている.透明な鉱石はみな内部に宇宙の火を静かに燃やしている.その火はたぶん冷たくて、なにも焦がすということの無い非物質的な炎.ますます浄化し、透き通らせてゆく浄福の炎.
「インドラの網」の風景がこれほどまでにビビッドに強烈なイメージを私たちに掻き立てるのは、この作品が単なる気まぐれな一個人の幻想ではなく人の集合無意識の底からしっかりと汲み上げた、いわゆるこの現実が絶えず希求してやまないイデアとしての夢だからだ.現実だって夢を見る、というより現実だけが夢を見るのだろう.それが世界そのものの主動因なんだろう.完成された世界には時間は存在しないに違いない.

 
十力の金剛石  作 宮沢賢治

夢の中から香りだしたかのような、童話の中の童話、イメージのエッセンスが詰め込まれたような作品.妙なリアリティというものが感じられ3D的な実在感を持って言葉によって掻き立てられたイメージを味わい尽くすことができる.読んでるとき、目覚めている夢としてありありと視覚が甦ったことを覚えている.
周りの景色すべてが宝石へと変容していくさまは、意識の変容に伴って世界が変わって見えるという向精神性物質による体験を思わせるものがある.
しかし、すべてが宝石で出来た世界、完璧だけれどどこか非人間的な冷たさがある.所詮その中で生きていくことは出来ない.そこに想像世界の悲しさがある.現実との埋め難い裂け目がある.そこで十力の金剛石として水が登場する.柔らかくどんなものにも染み渡るいのちの宝石、栄養になり育んでくれる宝石、あらゆるものと一つになり溶け込んでゆく宝石、愛としての宝石、水.

  

デミアン  作 ヘルマンヘッセ

ヘッセは愛読している作家の一人だ.流動食のようにこの人の文章はすんなり入っていくし、昔からずっと知ってたみたいに自分のHOMEとしてこの人は自分の中に位置づけられている.彼が紡ぎ出す登場人物はけっこう似ているものが多い.そのことは読んでいて安心感ももたらすし、幾重にも重ね描くことでより深みと広がりを増していったのだろう.その分世界が狭まるというのも否定できないかもしれない.限定された領域での深い掘削作業のように.
ただしデミアンというのは唯一無二という感じがする.突然ヘッセワールドに乱入して驚かしてくれたあとその力強い翼で大空の永遠の住処へと帰って行くというような.
デミアンは現実の人間というより、物語や詩の中にしかその姿を現すことがない神話的人物のような気もする.この作品はユング心理学の影響もあるといわれている.ヘッセもユングの精神分析や夢分析をやったりしていたようだ.ヘッセが夢などを通じて心の世界を探っているうち突然デミアンが心の淵から浮かび上がったのかもしれない.おおいなる自己への導きてとして.
デミアンは善悪に縛られた凡庸な心の営みを克服して、鳥のように俯瞰図として自由に、とらわれず世界を眺めるよう促す.それはまた賛同者の少ない異端視されることもある少数者の道であり、個としてたった一人で立つ孤独の試練を通過しなければならない.戦争中客観的な立場を貫いたためしばしば非国民扱いされたヘッセ自身の姿が重ねられている.
作品の中にはデミアンの家庭の話も出てくるが特にデミアンの母親はデミアンに劣らず神秘的で魅力的な人物像だ.ヘッセは母性の持つ魅力みたいなものを結構掘り下げていった人なのだが、デミアンの母親はそれがより聖性を帯びた秘教的な終着地とでもいったような雰囲気さえ感じさせる.デミアンも母の庇護の元で暮らし、時折謎めいた自己潜入を行う一人の息子でしかない.多分母というのはユング心理学でいうところの成長の終着地ですべてを知っている時間を超えた存在、セルフなんだろう.そしてデミアンは現実存在の自分へのセルフからの使者なんだろう.ヘッセの作品には登場人物全員がお互いに補完しあいながら人まとまりの全体を目指していく場合が多い.
デミアンにはいろんな秘密が詰まっていて、彼方からのこだまを上手く封じ込めほのめかしている.  

  

津軽  作 太宰治

太宰治といえば人間失格、が有名だと思う.何年も前に読んだことがあるけどあまり印象には残ってはいない.やたら冗長な感じがした.あまりにも人間的というか、ひねくれ過ぎだろうという印象がある.でもまた読み返すと違うのかもしれない.というのも最近「津軽」を読んで太宰節の声色がはっきりと耳に届きだしたからだ。この人の背後には何か大きな民族的な裾野が広がっているような気がした.この人はその語り部であって、彼が空の器になればなるほど、作品は完成度を増していったんだろうなと思う.ちょうど恐山のイタコのように.
彼を通して語っていたのは何だったのか.彼という器を利用したのは.
それは縄文のスピリットのような気がする.とくに「津軽」にはその色合いが濃厚だ.それが東北の辺鄙な一地方の地誌みたいな類の物ではない.それは具体的な形をなし生き生きと今でも脈打ちつづける生物としてのスピリット.縄文の精神が太宰の屈折した趣向のプリズムを通過して私たちの元に届いた.太宰の個性は邪魔者だったのではない.むしろ表面的な敗北者としてのSTYLEをこのスピリットは愛したに違いない.より融和的であり、争いを好まず自然との共存や一体感を何よりも優先したこの精神は.
競争から脱落することで、自虐的な態度をとりながらもマイナスの振り子を大きく揺らすことで、逆に太古の昔からのスピリットを呼び戻すだけの牽引力を達成したのだろう.
思えば「津軽」に描かれている情景はまだほんの5,60年ほど前でしかないのに、まるで御伽噺のような、どこかの遠い国の情景のように思えてしまうほどこの国は大きく変容したようだ.何かがごっそりと抜け落ちかみたいに.「津軽」を読むことでその何かに出会えます.いつも待っていてくれます.

  

ツァラツゥストラはこう語った  作 F.ニーチェ

全編にわたって高揚感に溢れている.こんなにハイになって大丈夫なのかとよけいな心配までしてしまう.案の定至る所でツァラツゥストラは落ち込んでいる.深い谷間からの極端な高揚.そして再び急降下.これの繰り返しだ.このようなリズムは善悪の教えや最後の審判の教えを世界ではじめて広めたゾロアスター教の開祖としてのツァラツゥストラには必然だといえる.彼の教えは分極化することであり,仮借なく峻別することで世界に秩序を与え、人々に未来への方向性を与えた.しかしこれは彼にとって本当は方便でしかなかったのだ.なぜなら本当の善や悪などというものは存在しないからだ.何かの内的達成を成し遂げるための仮の方便なのだ.善悪の峻別化によって人は物事に対して鋭敏になっていく.自分のすることにたいして逐一内的価値を考慮することになる.それ以前は多分,人を殺したければ殺し土に埋めるといったことが,何の後ろめたさもなく行われていたのかも知れない.そのことがいけないことだと教えられたとき、人はその様な行為に対してためらわずして行うことが出来ない.踏みとどまることで内的反省が求められるのだ.それが少なくともツァラツゥストラの本意だったに違いない.しかしそこでもう一つの勘違いが起こった.掲げられた善悪の観念が揺るぎ無い絶対的なものとして,為政者や宗教上の支配者が都合よく利用し始めたのだ.搾取の為の道具として.そうして人は善悪に対しては決められたものとして受け入れることで、かえって自分の行いに対しては鈍感になってしまった.はじめから決められているのだから.しかしツァラツゥストラはそう望まなかった.それゆえに彼は再びニーチェの口を借りてこの世界に帰ってきた.今度は善悪の破壊者として.善悪の彼岸を教える者として.
この作品は詩的だ.ニーチェはあるいは重厚な哲学的表現に限界を感じたのかもしれない.第3部はたったの2週間で書き上げたといわれる.まさにツァラトゥストラを彼は身ごもったのだ.ツァラトゥストラは跳ぶことを教える.彼はすべての深刻さを笑う.笑うことは超えることなのだ.善悪のくびきから開放された者に深刻なものは何一つない.すべては神々の卓上のサイコロ遊びでしかないのだ.大宇宙にあまねく厳密な唯一の法則などというものはありえない.”偶然”こそ神々が冠されることを誇りとする一番の貴族の称号なのだ.踊り祝うことこそ真の宗教性なのだ.ツァラトゥストラはそう教える.