ふわふわ

説明しなきゃね。

注)かなりてきとうに書き綴ったから、あんまりつっこみとか批判とかしないでね。

ある日、友人と話してたらこんなことを言われた。
「哲学ってなんかふわふわした感じがしてよくわかんねぇ。」
それに対しててきとうにこんな感じで答えた。
「世界そのものがふわふわしてるんだよ。」
「世の中全てふわふわなんだよ。」

 ここから始まったのがふわふわ一元論。
つまり、世界は全て「ふわふわ」に還元されるのではないかという論。

ただ何の考えもなく「全てはふわふわ」と言ったわけじゃなくて、
一義的な世界解釈の否定として「ふわふわ」という表現は有効だと思ったの。

ふわふわって言葉からは何か確固としたものは想像しないでしょ?
むしろ、範囲の限定が定かでないような曖昧なものを連想すると思うんだよね。
だから、世界の多様性に対応できる根源として「ふわふわ」を想定したの。


じゃあ、何で世界に多様性を持たせなきゃいけないのか、って話になるよね。
これは、「世界」って言葉の用い方の問題。
物質的な世界構成だったら瞬間毎にとる様態ってただ一つに定まるかもしれないけど、
世界ってそれで語り尽くされるものじゃないんだよね。
物質的な構成が同じでも、そのものが違った存在になることってあるよね。
例えば、上り坂と下り坂。
ま、これってヘラクレイトスからの引用なんだけどさ。
でもね、ある坂が上り坂か下り坂かっていうのは物質で語っても結論がでないんだよね。
これは当然その坂を通る人の進行方向で決まるんだけどさ、
だから、世界を定義するには認識主体の介入が必要な部分もあるの。
ていうか、少なくとも僕にとっては認識主体、つまtり、僕自身によって世界は定まるの。
だってそうじゃん。
僕は世界の意味が自分の中で変化するのを自身で感じるもん。
「世界」って、精神世界ってわけじゃないよ。
だって、ふわふわ「一元論」だもん。物心の二元的な考え方しちゃだめじゃん。
だから、認識する側の内面にある「世界」のイメージが変わるとかそういうんじゃなくて、
「変化」って言葉使ったけど、「世界」が別の「世界」に変わるんじゃなくて、
「世界」は幅をもって存在してて、その幅の中で僕にとっての「世界」の妥当範囲が変わるっていう意味。
こういう幅をもった存在を可能にするのが「ふわふわ」
そもそも物質世界だって変化はするし、
そのためには変化を受け入れる柔軟な構成要素をもってなきゃいけないでしょ?
認識主体だって世界の受け入れ方が変わるってことは、
認識主体自身も変化に対応できる幅を持った構成をしてなきゃいけないよね?
そしたら結局認識主体も認識対象としての「世界」もどっちも「ふわふわ」的存在様態を必要とするの。
だから、認識主体も含めた「世界]は全てふわふわなの。

注) 「世界」を「ザ・ワールド」って読まないでね。

ふわふわって言葉に何か漠然とした幸福感感じるのは僕だけ?
実際ふわふわしたものってこちらからの接触に対してある程度の柔軟性をもって受け入れてくれるんだよね。
だから、拒絶されない安心感とか、幅をもった接触の可能性による自由とかって感じると思うんだよね。
世界がふわふわだとしたら、やっぱり世界もまたそういう性格をもってるんだと思う。
世界の中で生きてる限り「幸福」は含まれてるし、
そこにたどりつく「自由」も「ふわふわ的存在」としての僕らには許されてるんじゃないかな。


もどるよ。