iモード版利菜 1
『 五月十二日金曜日 早朝は雨、午後は晴れ、洗濯物が、乾いてよい
あれからもう二十年以上たっているのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、あのとき何があったのかは、いまだに覚えていないらしい』
利菜は娘にもらったうずまき鉛筆を紙から離し、コクヨの大学ノートをパラパラとめくり返してみた。例によって仕事机に向かっていると、ようやく考えがまとまってきた。彼女はここ数日――いや、もう二週間近くになるが――眠りをむしばみつづけてきた悪夢の正体を、つかみかけているところだった。
机の上には、パレット絵の具に筆が、乱雑に置かれている。筆記具は、最近になって上等なのを購入した。絵は、もう十年以上描いていたが、それが仕事になったのはごく最近のことだ。彼女は今年のはじめから、絵本の仕事を始めていた。
目を閉じ、親指と人差し指でこめかみを挟むようにしながら、固くこわばった額をもみほぐす。近ごろは文章を書くより、絵を書く方がずっと楽な気がしている。もっとも、絵につまれば、文章を書く方が楽だと言い出すに決まっているけれど。
かけだしの絵本作家としては、画家でも小説家でもない身分は、一つの救いのような気がする。
ページをもどしながら、デジタル式の時計を見ると、もう六時近くになっていた。
『らしい、とはわれながらあいまいな言葉だが、最近は思い出すことすらなかったのだからこれはいたしかたあるまい。いまだに千葉県にいるとはいえ、わたしはもう坂出市には住んではいないし、おかげで両神山に出向くこともなくなった。はたしてあの小学五年生の事件以来、両神山に近づくことがあったのか、なかったのか、それすらも疑問だ』
1.戻る 2.次へ
3.目次 4.TOP