●●第一章 弥陀の本願の救済●●
| 「歎異抄」第一章は、真宗の教えが全て書かれています。だから、理解するのに非常に難しいと思います。しかし、真宗の教えをよくここまで簡潔にまとめあげたと思われるほど、一字一句が大切な意味をもっています。 私たちは、弥陀(阿弥陀如来)の誓願(本願)によって、はからいを越え(不思議に)救われるのです。弥陀より信心をいただき、命が終わったら浄土に仏として生まれる(往生する)ことが、生きている今、約束されているのです。それを表している言葉が南無阿弥陀仏(念仏)なのです。 しかし、我々はどうしたら弥陀の願い(本願)に目覚めることができるのでしょうか。それは、わが身を罪悪が重くて深く(罪悪深重)、煩悩が盛んで留まることがない(煩悩熾盛)と自覚することです。このような罪悪深重、煩悩熾盛という言葉は、平気で口走るような言葉ではなく、涙と共にわが身を恥じる言葉でなくてはなりません。そのような愚かな私ですら、摂め取って捨てない弥陀の心にふれてこそ、弥陀の本願を感じることができるのです。私たちは、言葉を覚えるとき、熱いものに触れてこそ「熱い」という言葉を実感することができます。また、悲しい出来事に出会ってこそ、「悲しみ」を実感し、時には涙を流します。そのように、仏教の言葉もわが身を通して学ばなければ、ただの知識で終わってしまい、いつまでたっても弥陀の本願にふれることはできません。罪悪深重と平気で口走るようでは、実際に熱いものに触れたことがないのにも関わらず「熱い」ということはこういうものだと言うようなことだと思います。しかし、今の真宗の教えは、凡夫という言葉を軽々しく使いすぎて、凡夫だから仕方がないと、凡夫である痛みを忘れてしまっているように思われます。凡夫は救われなくて当然だと思い込み、「救われた」といおうものなら、そんなのは自力だと決めつけて「救い」そのものを明らかにしていない気がしてなりません。 私は、この世のなかでどんなに悪いことをした人間も、自らの罪を認め、心から懺悔した人間はすべて弥陀の本願に救われると思います。自らの罪をみとめ、懺悔することが南無阿弥陀仏なのです。そして、念仏を称える人は皆、自分の人生をどんなにつらいことがあっても引き受けていく力を与えられるのです。 そのように理解していただければ、本願を信ずれば、念仏にまさるべき善はなく、本願をさまたぐる悪はないという意味もわかっていただけると思います。この善悪は、倫理道徳の善悪ではなく、本願(宗教的立場)から見た善悪なのです。自らの罪の深さを自覚した人は、好んで悪をするような人ではなく、自らの悪い心を改めようと努力している人です。しかし、我々は理性とは反対の行動をとってしまうこともしばしばあります。そこに罪の深さがあります。そのような私を摂め取って捨てない弥陀の本願にふれてこそ「悪をもおそるべからず」という言葉が実感できると思います。 |