「歎異抄」第十章は、非常に短い文章であります。「念仏においては、はからいなきを
もって本義とする。言葉に表すことができない(不可称)し、説くこともできず(不可説)、
心で思いはかることもできない(不可思議)から」と書かれています。つまり、念仏は
力を超えた他力の教えなので、表現できないことを「無義をもって義とする」と説かれて
いるのです。
私は、ある僧が「人間は無になれても空にはなれない」と言った言葉を思い出します。
「空」とは、「般若心経」などに説かれていますが、よく色紙などに「とらわれず、かたよらず、
こだわらない心が空である」と書かれています。私たちは、とらわれず、かたよらず、
こだわらないようにしようと心がけても、とらわれないと思う心がすでにとらわれてしまったり、
こだわらないようにしようとしても、こだわらないことにこだわっている自分を発見したり
します。だから、意識的に無になろうとしても、結局は無にこだわっている自分があり、
空にはなれないと悟ったのではないでしょうか。
念仏も、「はからいなきことを本義とする」と言われても、はからわないようにしよう
と思う心が、すでにはからいであるという矛盾にぶちあたるように思います。人生の中で
完全にお手上げ状態にならない限り、「はからいなきことを本義とする」という教えは響
いてこないのではないでしょうか。もうどうすることもできないという状況に陥った時、
不思議にも念仏の教えが響いてくると思いますが、やはり、日頃から仏の教えを聞くとい
う姿勢がなくては念仏の教えに出遇うことはないと思います。清沢満之も、「わが信念」
の中で、
これ(人倫道徳の教え)を実行することは決して容易なことではない。
もし真面目にこれを遂行せんとせば、ついに「不可能」の歎きに帰す
より外なきことである。私はこの「不可能」に衝き当たりて、非常な
る苦しみを致しました。もしかくの如き「不可能」のことのために、
どこ迄も苦しまねばならぬならば、私はとっくに自殺も遂げたであり
ましょう。しかるに、私は宗教によりて、この苦しみを脱し、今に自
殺の必要を感じませぬ。即ち、私は無限大悲の如来を信ずることによ
りて、今日の安楽と平穏とを得ておることであります。
と、苦悩の人生の中で仏の教えに出遇ったことを述べています。
そして、第十章までは、唯円が親鸞から直に聞いたことが書かれていましたが、第十一
章からは、親鸞の教えがどのように異なって伝えられているか、異議編として展開されて
いきます。
|