●●第ニ章 往生の信心●●
「歎異抄」第二章は、関東からはるばる京都まで親鸞聖人に「往生極楽の道」を聞こうと、命がけで来た人々に説かれた内容が書かれています。鎌倉時代に関東から京都まで来ることは並大抵のことではなく、親鸞の息子である善鸞に特別の教えを説いたことが本当であるか、問いただすために命がけで来たのであります。また、当時関東では日蓮が「念仏を称えるものは地獄に落ちる」と広めていたので、その不安を取り除こうと親鸞のもとに集まった人々もいたかもしれません。しかし、我々が命がけになるときは、相手に対して憎しみを抱いていたりするときが多いように思われます。命がけで京都に来た人々の心の中には「もしかしたら親鸞は私たちをだましていたのではないか」という気持ちがありその不信感にささえられて、京都までたどり着いた人もいたのではないでしょうか。しかし、その不信感の裏には「極楽浄土に生まれたい」という一心があり、そうさせていたといえます。 親鸞は、そういう人々の心の中を見通して、「念仏よりほかに往生する道があると思われるなら、奈良や比叡山にいるすぐれた高僧に聞いて来て下さい」と突き放したような言い方をしています。そして、「親鸞においては、ただ念仏して弥陀に助けていただけと、法然上人(よき 我々が真宗の教えに出遇うには、自らの限界(自力無効)を知らなくてはなりません。「いづれの行もおよびがたき身」といえるかどうかが、一番の問題であります。しかし、我々は自力から逃れることがなかなかできません。親鸞のように他力の教えに救われて、少しの力みもないような境地にはなかなかなれません。そのためには、まず自力を徹底的につくすことが大切です。そして、自分自身をどこまでもごまかさない態度が必要です。 我々は、どこかで自分自身をごまかし、自力が及ばないときに自分を慰めて生きているからこそ、生きていられるのかもしれません。しかし、真実の宗教は「苦しいときの神だのみ」ではなく、どこまでも自分自身をごまかさずに現実を直視していく力を与えるものです。多くの人は、「宗教は現実からの逃避だ」と思っておられるかもしれませんが、それは大きな間違いなのです。大半の人は、自分をごまかすことがうまいので、宗教を必要としないのです。自分自身をごまかさずに見ていくなら、人間は自らの力を越えたもの(仏)に触れずにはいられないのです。親鸞の宗教観は、自分自身をどこまでもごまかさない厳しいものであり、その中から「いづれの行もおよびがたき身」の自覚が生まれてきたのです。 |