●第四章 浄土の慈悲●


 「歎異抄」第四章は、慈悲(永遠に変わらない仏の愛)について説かれています。慈悲
には、聖道と浄土の二種類の慈悲があります。聖道の慈悲は、生きとし生ける者を哀れん
だり、可愛がったり、いとしく育てることでありますが、私たちが思い通りに、完全に助
けぬくことは極めて困難であると説かれています。また、浄土の慈悲は、阿弥陀仏が法蔵
菩薩となって形を表して、我々衆生を救おうと願いをかけて下さったご苦労に感動し念仏
して、何よりもまず、仏になるべき身に定まって、仏の大きな慈悲心によって、思うまま
に衆生を救うことを言います。


 ここで注意してほしいのは、私が仏になって念仏して救うという解釈をしてはいけない
ということです。「急ぎ仏になる」ということは、本来、色も形もなく、言葉でも心でも
表すことのできない阿弥陀仏が、我々衆生を救うために法蔵菩薩となって現れて、四十八
の願いを立てて、その願いが成就することによって「仏になる」という法蔵菩薩の作業を
意味しています。私たちが、その法蔵菩薩のご苦労に感動して、この世の中で法蔵菩薩を
阿弥陀仏にすることが「急ぎ仏になる」ということなのです。


 私たちの愛は、この世の中に生きている限り、どんなにかわいいとか、かわいそうだと
か思っても、思い通りに助けることは困難であるので、聖道の慈悲と言われます。私たち
が日常生活の中でかける愛は、正しく聖道の慈悲ではないでしょうか。自分が愛している
と思う限り、見返りを期待したり、恩きせがましい愛になってしまうものです。仏教では
人間の愛にはエゴが含まれているので愛を否定しています。しかし、この聖道の慈悲の中
にも、人間が仏になろうとする自力の心が含まれているので、人間がかける愛が問題とな
ってきます。本来愛とは、決して見返りを期待することなく、惜しみなく与え続けること
です。しかし、それを実践することは、私たち人間には非常に困難なことだと思います。
だからこそ、浄土の慈悲が求められてくるのです。そこに聖道から浄土(他力)への「か
わりめ」があると言えます。


 愛しても愛しきれないからこそ、そのわが身を懺悔し、念仏を申すことだけが、真に大
きな慈悲心にふれることなのではないでしょうか。所詮人間は、「愛している」といくら
思ったところで、その愛は徹底せずエゴから離れられないのです。私たち人間の愛にどこ
までも疑問をなげかけ、尽くしても尽くし足りないわが身を知らしめて下さるのが、「念
仏」なのです。「これほどまでに愛している」と思う気持ちが独りよがりで、一番恐いこ
となのではないでしょうか。私たちの現実は、愛をかければかけるほど、それ以上のもの
を望みます。また、愛をかけられれば、反対にそれが重荷になることもあります。そうい
う現実を直視し、愛を「かける」という自力の心を棄て、人間のエゴをどこまでも見通そ
うとする力を我々現代人に教えて下さる教えが、「念仏」なのではないでしょうか。

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