●第五章 諸仏供養●


 「歎異抄」第五章は、「親鸞は、父母の死後の追善供養のために、念仏を申したことは
一度もない」と、仏教において画期的なことを述べています。
 

 私たちは、従来、亡き人の霊がさまよわないように、お坊さんに読経してもらい布施を
修めて善根をつみます。法事や葬式などは、このような形で行われているといっても過
言ではありません。
 

 しかし、親鸞は「念仏はそのような追善供養のために称えるものではない」と言い切っ
ています。親鸞にとって、生きている者すべてが生まれ変わり、父母、兄弟であったの
です。 念仏は、わが父、母、子といった特定の人だけにかけるものではないのです。
 

 念仏が、我が力にて励む善であるならば、自己の修めた善根や功徳を亡き人の追善
にふり向けて(回向して)、父母を助けることもできるでしょう。しかし、我々は自力をつく
し、善根を積むことはできないのです。どんなに善根を尽くしても、我々の善根は少善根
(阿弥陀経)でしかありません。
 親鸞は、ただ、自力を棄てて、ただちに浄土に生まれるべき身と定まるならば、六道、
四生の苦しみに沈んでいても、自由自在にまず身近な者から救うことができると述べられ
ています。
 

 前回にも説明しましたが、本来、形のない阿弥陀仏が、我々衆生を救うために法蔵
菩薩となって現れたことを、真宗では還相回向(げんそうえこう)と言います。また、その
法蔵菩薩が四十八の願いを立てて、その願いが成就することによって阿弥陀仏になる
ことを往相回向(おうそうえこう)と言います。
 この第五章の中に「急ぎ浄土のさとりを開きなば・・・有縁を度すべきなり」とありますが、
これは還相回向をさしています。親鸞は、阿弥陀仏が我々衆生を救おうと法蔵菩薩となっ
て現れて下さったご苦労を感じ、「親鸞一人がためなりけり」と受け取っておられたのです。
私が念仏して仏になるのではなく、法蔵菩薩のご苦労を通して、「法蔵菩薩を阿弥陀仏に
する」ことこそ、本来の念仏の意味があります。私が浄土に行って、還ってきて衆生を救う
という解釈をすると自力になってしまいます。
 

 また、真宗では、「供養」を身内の者の供養ではなく、諸仏を供養するというように理屈
をつけますが、この解釈はまちがっていると思います。そもそも讃嘆供養と言われ、仏に
対して讃嘆する中から供養は生まれてくると言われますが、親鸞の立場からするならば
我々凡夫は供養などできないということになります。私は、日本人の民族意識に根ざした
法事などの形式を真宗も採り入れ、行っていると解釈した方が自然であると思います。
そして、法事などの儀式は、死んだ人のためでなく、生きている私たちのための儀式だと
理屈をつけるのでなく、その民族意識を認めたうえで、聞法しながら念仏の教えに出遇う
道を求めていくことが大切であると思います。

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