●第七章 さわりなき人生●



 「歎異抄」第七章は、念仏の信心をいただいた人は、さわりなき人生を送ることができると
説かれています。最初に「念仏者は」とありますが、「念仏を称える者」と解釈するのではなく、
「念仏なるものは」と解釈した方がいいと思います。つまり、念仏なるものは、さまたげること
のできない一すじの道であると、始まっています。
 

 念仏の信心をいただいた者は、天地の神々も敬服し、悪魔や異教徒も、念仏の教えを妨
げることはできないのです。私たちは、よく縁起をかついだり、大安や吉日を選んだりします
が、念仏の信心をいただけば、そのようなことにとらわれる必要はないと説かれているので
す。しかし、私たちの生活を振り返ると、そのような風習にとらわれ、なかなか離れることの
できない凡夫の生活が浮き彫りにされてきます。また、煩悩から離れられない凡夫にとつて
さわりなき人生を送ることは非常に困難であると思えます。
 

 親鸞は、この七章の中で、「罪悪深重も業報(過去の行為の報い)も感じる必要はなく色々
な善も念仏には及ばない」と述べられています。第一章にも、「本願を信じさえすれば他の善
も必要ない。念仏にまさるべき善はないのです。悪も恐れることはありません。
 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪はないのです。」と、非常によく似たことを言っています。
 

 ここで使われている「善悪」は、弥陀の本願の上に立った「善悪」で、私たちが自分の意志
で行う「善悪」ではありません。また、何をしてもいいと解釈して悪いことをするのは、自分の
意志がおおいに働いているので、弥陀の本願に立っているとは言えません。このような念仏
の信心をわが身にいただいたのが、清沢満之です。彼は、明治時代に親鸞の教えを身をもっ
て広めた人で、大谷大学の初代学長です。人間にとって最小限必要なものを見極める禁欲生
活をしたため結核にかかり、四十一才という若い生涯を閉じました。また、歎異抄をかたときも
離さず読み、世に広めたのも彼です。清沢満之の絶筆である「わが信念」の中に
    
    いかなる善悪も、如来の前には毫も障りにはならぬことである。私は善悪邪正の
    何たるを弁ずるの必要はない。何事でも、私はただ気の向かう所、心の欲する所
    にしたがうてこれを行うて差し支えはない。その行が過失であろうと、罪悪であ
    ろうと、少しも懸念することはいらない。如来は私の一切の行為について、責任
    を負って下さることである。


 と、書かれています。これは、この歎異抄の文章をわが身を通していただいた結果、生まれ
てきた言葉だと思います。何をしてもいいと言うことではなく、自分の意志を超えて出てくる罪悪
に対して、すべて阿弥陀如来が罪を引き受けて下さるという、他力に乗託した中から生まれて
きた言葉なのです。自分はどこまでも善を尽くそうと努力するにも関わらず、自分の意志を超え
て罪を犯してしまうわが身をどこまでも仏に懺悔していく中から「わが信念」は書かれていると
思います。

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