大悲心に生きる 幡谷 明 大谷大学名誉教授
ただ今、瀧君から御紹介頂きました幡谷でございます。現在島根県の浜田市というへんぴな所で、住職の真似事をさせて頂いております。瀧君とは大学で御縁を頂きまして、私は平成六年の三月に定年退職で田舎に帰りましたが、その後も頻繁に便りを頂いて、いつも強烈な刺激を受けております。「老いては子に従え」という言葉がありますが、彼は何と言いましょうか、渇ける者が水を求むるが如く、真実の教えを尋ねて行っておられ、何時もこの書物を読んだ、お聖教のここがわからない、どう読めばいいのかと、頻繁にお便りを頂き、私には余りにも刺激が強すぎて、とてもついていけないという状態です。そんな懈怠な身を思い知らされている体たらくでございます。今日は歎異の会に御縁のある方がお集まり下さり、そして私が大学で御縁を頂いた卒業生の方も何人か集まって来て下さっています。
歎異の会ということ自体が応に瀧君の会である。末法濁乱の世としか言いようのない時代の中で、真実の教えを頂いて生きるということが、どれほど容易でないか。その中で、自信教人信の歩みを続けることがどれほど容易でないか。たまたまお合いした親鸞聖人の御教えを、一人でも多くの人々に伝達して、共に喜びあい、励ましあいながら、人生を生きて行きたいという、深い熱い思いの中で、歎異の会が結成せられて、十年近くの歩みが続けられて来たということです。そして、その記念として、この度『歎異抄・正信偈特集』がまとめられ、皆さん方の手元に配られて、私もそれを読ませて頂いて、実によくまとめられていると、驚嘆するばかりでございます。
私は瀧君の上に在家の菩薩と言いましょうか、僧侶であるに違いないけれども、在家止住の身として、世俗のただ中に身を置きながら、真摯に歩んでおられる、そういう姿を何時も拝んでいます。瀧君が大切に学んでいる曽我量深先生の教えは、一言で言えば、自証の教学と言われます。我々は仏様によって救われると教えられてきておりますが、救われるということはどういうことなのか、そのことを曽我先生は、如来われを救い給うやと問うて下さった。救われるというけれども、本当に救って下さるのか。救って下さるにしては、余りにも救われてないわが身の現実があるではないか。この救われざるわが身を仏様はどうして救って下さるのであろうか。
それを先生ご自身の宿業の身の事実の所に、深く問うていかれたのが曽我先生です。
それは「救済と自証」という言葉で表されています。救いというものが、わが身の事実の上に、人生の生き様の上に明らかに証明せられていく。そのことを曽我先生は、「如来果たしてわれを救い給うや」という根本の問いを提起して、そして、その実験の果てに、「如来われとなって我を救い給う。」と言われたことです。高い所から私共を引き上げるということではなくて、如来がこのわれとなって、宿業の凡夫である私自身となって、私を救って下さるのだと云われました。
では、私の身となって下さるということはどういうことなのかと言って、それが法蔵菩薩
誕生の事実であるとおっしゃいました。如来として高く仰がれる方であるだけではなくて、
如から来たると、覚りの世界から来り給うということです。どこに来たるかと言えば、この宿業の身にです。宿業の身というのは流転を重ねている我々です。その我々の身の所にまで来て下さる。その働きが法蔵菩薩であると、先生は感得せられました。菩薩というのは求道者です。如来は覚れる方でございますけれども、菩薩は覚りを求めて歩む者が菩薩です。しかもそれは覚りを開くことの出来ない、むしろ覚りからは全く縁遠い者を背負って、その者の救いを以て、自らの救いとして道を歩み続けて下さる。阿弥陀如来は、その法蔵菩薩となって、我々を救い給う。それが曽我先生の教えであると、私は頂いております。
瀧君はその曽我先生の教えを、親鸞聖人の教えを学ぶ拠り所、立脚地として、親鸞聖人との出会い、真宗との出会いを尋ねていかれています。私はそういう瀧君の求道の姿勢に畏敬の念を感じますし、在家の菩薩として歩んでいらっしゃるなあと思います。私はその瀧君の御苦労を思い、それを励みとして遅々たる歩みを続けている者でございます。そういう御縁がございまして、この度、参った次第でございます。十周年ということは始め電話を頂いた時の話にはなかったので、チラシをもらって十周年という記念すべき会であることを初めて知ったわけで、そうであれば、不定聚の機としか言いようのない私がお邪魔すべきではなかったと、自分のうかつさに驚いている様なことでございます。
皆さんは、瀧君と共に道を歩んでいらっしゃる、瀧君にとっては善き師であり、善き友である方々ばかりであろうと思います。瀧君も皆さんにお育て頂きながら、真宗の道を学び続けておられるのだろうと思います。『華厳経』に「入法界品」というのがございまして、善財童子という方が五十三人の師を尋ねていかれます。人生は修行の旅と言われますが、『華厳経』の「入法界品」は、真理の道の遍歴です。法界と言うのは、真理の世界、真実の世界です。「入法界品」はその真実を求めての旅ですが、瀧君もいろんな書物を、あれを読み、これを読みました、古本屋であの本を見つけましたと言っては、その都度知らせてくれます。すごい読書力だと感嘆しておりますが、それも少しでも自分自身が広く深くお聞かせ頂いて、それをまわりの有縁の人々にお伝えしたいという、悲願から出てきていることだろうと思っております。
それで、本日の会の講題を出すようにということで、「大悲心に生きる」という題を出しておきました。昨年の暮れに、二十一世紀を迎えました。来るべき二十一世紀はどういう時代なのか。我々が生きてきた二十世紀はどういう時代であったのか。また我々が迎えるべき二十一世紀はどういう時代なのか。そういうことにそれぞれが、思いを致されたであろうと思います。そして、共通するのは、明るい展望がどこにも見出せない、どこにも出口が見当たらないという暗い思いの中で、二十一世紀を迎えられたのでないかと思います。誰一人、明るい未来を二十一世紀に期待して、年を迎えられた方はいらっしゃらないのではないかと思います。案の定、二十一世紀に入って、もう四ヶ月ですが、その間、毎日テレビや新聞などを通して伝わってくる報道は、ただ一つのことを除いて、みんな暗いニュースばっかりです。その唯一つの明るいニュースは、アメリカン大リーグで日本選手が活躍しているということだけです。後は何処を探しても、明るいニュースが入ってこない。まさに日本丸は沈没しつつあり、誰も舵を取ることができない。そういう状況の中で、どう生きるのか。それは、外に向けて時代が悪いとか誰が悪いとか、そういうことで収まる様な、そんな浅薄なものでは決してないと思います。我々はその様な時代を作ってきた者として、我々の共通の業として受けとめなければならない事柄だと思います。
共業という言葉があります。業というのは働きです。仏教の基本にあるものは、身口意の三業という事です。その中で、殊に人間の働きの根源にある人間の心を中心に捉えます。我々はそれぞれに業を抱えて生きております。業を抱えて生きると言うよりも、実感から言えば、業を背負えきれないで、むしろ業に引きずられて生きているというべきかも知れません。そして業を果たし尽くし得ない所で、毎日を生きているというほかはないという思いが致します。『大無量寿経』下巻の悲化段に、三毒五悪段という人間の罪業に依る生死流転の姿が極めて詳細に説かれています。生死流転の痛ましい姿。今、痛ましいと申しましたけれども、痛む心すら我々はそれを持たないのです。その衆生の生死流転をどこまでも痛まれるのは仏の大悲です。仏が痛まれてあるのであって、我々はただそのことを聞かせて頂く中で、痛むべき身であり、痛むべき社会であるということを、初めて知らして頂くのが事実でございます。そのことが三毒五悪として説かれていますが、生死流転ということの一番元にありますのは無明と云われる人間の無知です。それによって業がなされ、苦を引き起こしていく。これを仏教では業感縁起と言います。業によって感ぜられる世界です。業を通して始めて知らされる世界です。
四月の始めに本山で春の法要がありまして、私の婿養子と、高校に進学しました孫娘とがお参りして、同朋会館で研修を受けました。その時に、班の指導の方が最初に、人間が生まれつき持っているものは何かと質問されたそうです。そしたら、命とかお金とかいう答えを出され、私の孫は煩悩と答えたそうです。孫が煩悩と答えたのは、寺で生まれ育って、どこかでその言葉を聞いたのだと思います。
私は直接教えた覚えはないけれど、どこかで聞いて耳に残っていたのでしょう。命、そして煩悩。その命は煩悩にまみれた命です。八万四千の煩悩と言われますが、煩悩の内実と言うのは無明、無明というのは愚痴です。わが身知らずと言う愚痴です。愚かさです。これは年と共に痛感します。愚かさとは、本当に自分が見えない。見えているつもりであっても、見えてないということを、年と共に痛感します。そしてそういう見えないということと同時に、自分を叱って下さる方が欲しいという思いを強く感じます。この年になれば、お世辞なんかは要らない、本当に自分を叱って下さる方にお会いしたいという思いが非常に強いのです。「わが身知らず」ということをわかりやすく言うと、私の目は皆さんのお姿を見ることはできます。しかし皆さんの姿を見ているこの眼は自分の顔を決して見ていません。外の世界しか見えてない、そのわが身知らずということが人間の愚かさです。わかったつもりですましているという、そういう愚かさです。そこから出てくるのが、あれが欲しい、これが欲しいという貪りや、それから憎しみや怒りです。そういう心の働きによって、様々な業が出てきます。そして朝から晩まで、出てくるものは様々な苦しみです。そういうことを繰り返している。それが生死流転と表される人間の生き様です。そういうことが、わが身の業を通して、響いてくる仏の教えによって、知られてくる世界です。
現代という時代を、先日ある方がこう言っていました。二十世紀は人間の知性を絶対視し、知性によって生み出されてきた科学を絶対視して来た時代である。その科学によって人間が求めて来たものは、豊かで便利な生活、文明と言われるものです。それは豊かであることが如何にも幸福であるという、一種の予定概念の上に成り立っています。そのように人間が決めた理想を掲げ、その理想を求めて追求し生きてきたわけです。事実豊かであり、すべてにわたって恵まれた社会ができあがってきました。けれども、ある人が、これ以上豊かで、これ以上便利であることは御免だと、つぶやきの様に語っていました。もう充分で、これ以上豊かさを必要としないということ、それが現代人の共通の感覚ではなかろうかと思います。
そしてそれと共に、現代人はそのために、余りにも大きなものを失ってきたことをどこかで感じているのだと思います。よく言われるのは、人間としての心情です。知性というだけではなくて、人間としての深い心情です。別な判り易い言葉で言えば、ぬくもりのある心という言葉で表されるでしょう。何もかもが恵まれすぎていて、あることが難い、有り難い、もったいないこと、或いはお陰様でという、そのように命を受けとめてきた親たちの生活感情です。それが我々の祖先たちを生かしてきたエイトスであったと言っていいと思います。そういうものが、現代では無残に破壊されてきたということを、我々は知っているわけです。あまりにも便利さに慣れてしまって、もったいない、有り難い、お陰様でと言う様な、これは命を頂く言葉ですが、その命を頂く言葉が聞こえなくなってしまったし、我々の口から発せられることがなくなってしまいました。そういう豊かな文明の繁栄の中で、深い心情が破壊され、失われてきた。そこには現代人の持つ不安がある。豊かさの中にあっても満足し切れない。どこかに空虚さ、埋め合わすことのできない虚しさ、虚無感。皆それぞれにそのことを感じて生きている。心底から豊かさを喜べないということを、抱えている様に思えます。
私は、読売新聞と朝日新聞を読んでおりますが、読売には、健康医学の欄がございまして、いろんな知識を得ております。私は内蔵のどこに何があるのか知りませんが、よく七十年生きてきたものと思います。大腸癌の手術をしてから、大腸はどこに、どういう形であるというのはわかりますが、ほかの肝臓、腎臓、膵臓はどこにどのようにあるのかは知らないままで来ました。この年になって、よく働いて来てくれたものと思います。一度もお願いもしたこともないのに心臓も動いていてくれます。よく黙って働いて来てくれたなあと思うのです。
ところで、常々命を大切にということを口先で言って来ましたが、その言ってる本人が命を粗末にして来たということを痛感しておる今日です。それはこの三月に肺気腫と診断を受けました。気管支の末端の肺胞が崩れていて、現在の医学でもそれは治療できないということです。五十年間吸ってきたタバコをやめ、毎日運動をし、腹式呼吸をやれと言われました。そんなことで四苦八苦しています。人には命を大切にと口先で言いながら、自分で命を粗末にしてきたことで自業自得です。その中で人間は無明、愚痴と言われるものを根源にしながら、そこに様々な業を、身で行い、口にして生きています。『大無量寿経』を見ましても、衆生の生死流転の姿を克明に説かれている悲化段は、大悲の眼に於いて透視された人間の姿を表されたものであり、暁烏先生のお弟子であった前田周一先生は、それを釈尊が自分について説かれたものと云われていました。そこには人それぞれに重い業を背負って生きる姿が描かれています。そして業を背負って生きる人間は誰に代わってもらうことも、代わってあげることもできない、まさに自業自得という厳粛な自己責任的の人生を生きる者であることが説かれています。
しかし人間には同時に共通の業というものがあります。我々は個人で生きてるわけではないので、歴史的社会の中で生きてるわけです。歴史的社会は我々が作り出してきたものです。今自民党の総裁選挙で、橋本氏が間違ったことをやったと、本人もそう言っています。だから橋本氏が悪いということで、事が終わる問題では決してない。そういう現代社会を作り出してきた我々の共通の業として、受け取らなくてはならない問題だろうと思います。それは共通の業としてあるけれども、それぞれ一人一人の受けとめ方があります。今の時代をどう感じ、どう受けとめるか。そこには共通の業として、相互に関連し合いながら、人間は業を作っているんだろうと思います。
昨年の暮れから、二十世紀はどういう時代であったのか。そして来るべき二十一世紀はどういう時代であるべきなのか。私なりに新聞や色々なものを通しながら、考えさせられました。現代は科学の時代ですから、科学者、あるいは政治家はそれをどう捉えているのかと言いますと、二つのことが云われます。一つは、バイオテクノロジー、生命科学の時代です。高度な生命技術の世界。その最たるものが今問題になっている遺伝子です。何百兆という遺伝子のゲノムが解読された。それがどう医学的に正しく適用されればいいのでしょう。
科学そのものは本来無記です。善でもなければ悪でもないということで、科学そのものは無記です。原子そのものは無記です。しかし、人間は原子を利用して、原子爆弾を作り上げました。そうなると、原子は無記でもなければ、善でもありません。もう最大の悪に化します。それをどう使うか。科学を取扱うのは人間ですから、人間がどういう目的で、どういう方法でそれを使うか。そこに善悪の問題が出てきます。その中で今の環境汚染でもそうですが、人間が地球を破壊してきたわけでしょう。遺伝子についても人間がそれをどう活用して行くのか。そうなると様々な問題が発生し、決して単なる善だけで、事は済まなくなるのでしょう。善の裏には悪があります。悪のない善は決してあり得ない。そういう中で、どのようになっていくのか。それについて色々なことが予測されています。
遺伝子にはそれぞれ違った遺伝子があり、それによって人の将来がある程度決定付けられていくということがありますけれども、その遺伝子を持った人間はすべて環境社会を生きています。人間が生きていく上で遺伝子が非常に重い意味を持つことは明らかですが、遺伝子の占めるパーセンテイジをどれ位に見るか、遺伝子の占める率を比重的には非常に重いと見る学者もありますし、軽く見る学者もいて、学者によって違い、それは様々です。私にはわかりませんけれども、はっきりしていることは、どんな遺伝子も環境との関わりの中で生きていくわけです。まさに遇縁性です。
例えば、私はタバコによって肺気腫になりました。遺伝子で私はタバコを吸うということが決まっているのか、よくわかりません。こういう病気になる人間だということは遺伝子の解読でわかるということで、だから、養生するということが求められる。しかし、私は意志が弱くて、タバコを吸うように運命付けられている、そういうことまで決まっているのか、それはわかりません。環境は種々様々です。思いもかけない縁に出会って、縁に翻弄されながら、生きているのが我々でしょう。これは相乗関係にある。相互に関係し合うわけです。その中で人間が生きていくのでないのでしょうか。もしも戦争という危機的な状況に追い込まれた時に、遺伝子はどのように動いていくのか。
命をモノとして扱っていくことを物象化と言います。東大の多田という、科学の最先端をいかれる先生が言っておられました。現代社会の抱える問題として、現代は人間の体を工学的なシステムとしてとらえる様になった為に、生の人間にはほとんど目が向かない。医療の診察に於いても、コンピューターに表れた数値だけを見て、患者さん自体を見ないで診断を下すということが行われて来る。その結果、数値に表れない多くのものを見落としてしまう。だから患者さんを間違えて、別の人を手術する事故というものが起こって来る。現代の問題は、人の顔を見ないということが社会全体の有様である。顔を見ないで、物質として人間の細胞が捉えられていく。だから、人との出会い、関わりというものが全く行われない。そこからいろんな治療ミスも出てくる。現代社会に於いては、そのことが問われなくてはならないと云われています。
もう一つ、学者の言われていることをまとめますと、二十一世紀で強調されるのは生命科学ということと、もう一つは今盛んに言われているIT革命です。グローバルな情報社会です。殊にインド人は記憶力がすぐれた民族で、優れたIT技術を持っていることが取沙汰されています。経典でもそうです。釈尊が書物に書いて下さったのではなくて、それを聞いた御弟子達が憶えていて、それを伝えて来た。インド人の記憶力というのは抜群と云われます。だからITについても優れていると言われています。
私は機械は全然ダメな人間です。全然ダメな人間ですけれど、わからなくても否応なしに目に留まります。毎日、新聞に目を通すと、いろんな所でグローバルに、世界的にそれが行われていく。そういう中でスピード化されて、情報が飛び回っている状態です。本でもすぐ取り寄せることができる。銀行も直接銀行へ行かなくてもいいとか、いろんなことができるそうではないですか。それはすごいことだけど、それと同時に、それによって情報は盛んになっても、そこに人間の問題があります。人間はそれぞれ秘密を持って生きていますが、その秘密まで暴露されてくると、弊害が出てきます。学者はよい所だけを指摘します。政治家や学者はよい所だけを強調します。だけど、現実はそうではない。弊害のほうが非常に大きいわけでしょう。生命科学とIT革命によって、二十一世紀は大きく変わると言われているわけです。しかし、その時代の流れの中に流されて、命とは何かということも見えなくなって、生命を見失いながら、時代の激流に翻弄されて生きる。こういう実状ではないだろうかと思います。
そういう中で、科学者はこう言っています。私は物忘れがひどくなりました。本を読んでも、すぐに頭に入らない、サイドラインを引いても、片っ端から忘れていきます。物忘れがひどくなりました。自分で自分に呆れるほかないのです。現在の医療では、アルツハイマー病は治療の方法がないと言います。ところが、十年の間にはアルツハイマー病も治せるだろうと学者は予言しています。ただ、こうも言っています。アルツハイマー病の薬は十年の内に出来るだろう。けれども、それを作り出す科学は、人間の心までも動かすことは出来ない。アルツハイマー病を治す薬は出来るであろう。しかし、人間の心までも科学は左右するわけにはいかない。これは科学者の良心だろうと思います。科学者が科学を絶対視する余りに於いて、科学者が落ち込む傲慢さというのは救いようがないものを感じます。けれども、今の様な発言を聞くと、科学者の良心というものを感じますし、そこに、人間の限界ということを感じます。心まで左右するわけにはいかない。心というのは一人一人の業であります。そういうことが問われている時代ではないでしょうか。
こういう問題を抱えて、今世界は動いていますが、そういう中で、人類は一体どこへ向かって行こうとしているのか。『クオワアデイス』という小説があります。何処へ行くのかということです。我々一人一人が、生死の中を流転しています。生きるということは否応なしに老いていく。そして病んでいくことです。どれだけ神仏に祈祷しても、老病ということを背負いながら、その全体が死に向かっているということです。その生死の中で、生きていることにほかならないのです。その中で人生に流され、欲に振り回されて、生きていくということです。欲に流され、振り回されながら、自己中心、自我という所に立って私は生きています。
自我そのものが無明です、愚痴です。無明愚痴である自我によって生きる限りは、自分が見えないままです。そして欲に支配されて、流されていく生き方。そういう形で煩悩の業によって、出来上がっているという業熟体というものがあります。これは古い経典に出てくる言葉です。人間というものを業熟体として捉える。カンマヴィカーパという言葉で教えられます。人間は業の蓄積、業の総体としてあるということです。その業の総体として、歴史的な面と社会的な面、その二つの面を持ちます。歴史的には親から子へ、子から孫へと、こういう長い歴史を我々は背負っています。皆さんもそうです。皆さん一人一人が、長い遠い歴史を背負って、その歴史の総体として、ここにあるということです。それを仏教で言えば三世という言葉で表されます。無限の過去から現在する無限の未来へということで流転を表します。
そして、もう一つは歴史的であるだけではなくて、社会的です。この間には夫婦もある。私が家内と結ばれた。その私には両親がある。家内にも両親がある。そういう形で拡大していけば、どんどん増えていくではないですか。その無数の縁の中で、その総体として今の私があるということです。そこに『スッタニパータ』という古い仏教経典、あるいは『歎異抄』の第五条にも出てくる「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。」(聖典628)という言葉があります。どんな人も無縁でない、どこかでつながって生きている。そういう業縁性を持っています。無限の背景を持った歴史性と無限の空間性を持った社会性。そういうものの業の総体として、我々はある。原始経典には、それを業熟体という言葉で表現しています。
業熟体という言葉は、一般には聞き慣れない言葉ですが、曇鸞大師の言葉で言えば、煩悩成就の凡夫人であり、善導大師の言葉で言えば、煩悩具足の凡夫です。これは言葉が違う様に、ニュアンスも多少違います。煩悩成就と言うのは、煩悩によって出来上がって来た身。無限の過去性と無限の社会性というものを背負ったものの総体として、今のこの身があるということです。煩悩具足と言うのは、すべての煩悩がこの身に業の総体として、備わっているということです。
煩悩成就、或いは煩悩具足ということを、口では言いますが、それが思い知らされるのは、『歎異抄』の十三条に云われます様に、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(聖典634)と、縁によっては何をしでかすかもわからないということを通してです。たとえ無記である原子であっても、それが原子爆弾となりました。遺伝子でも、クローン羊、クローン牛が作り出されてきた。その時から、いつかはクローン人間が作り出されるということは当然予測されていたことであり、それがもう現に事実として迫って来ている。この前イタリアのお医者さんがクローン人間を作ることを宣言しました。そうすると、どうなるでしょう。
仮に、賢い人間だけが生きるということになれば、そういう社会は本当に冷たい極寒地獄だろうと思います。そのように人間は流転しながら生きている。それは個人的に流転しているというだけではなくて、私を包んだ歴史そのものが流転しているということです。私の一生涯を振り返っても、先は見えています。一期一会です。だから旅をしても、これまで大変お世話になった、そのお礼を言いに来たのだなあと感じます。お別れに来たのだなあと思いながら、旅をしています。人生は一期一会で、出る息は入るを待たない。一寸先もわからない所で、今の命を生きているということです。そういう人生の事実、身の事実、その身の事実をどれほど知って、生きるかということが問われる。
けれども、瞬間的にはそう思っても、次の瞬間にはもう忘れています。明日もあれば、あさってもあるということです。今日も午前中、静岡のお寺でお話して来ました。一期一会という思いで話をしましたけれども、来年も四月頃がいいでしょうかと言われますと、そうだなあ、それがいいなあという返事になってしまいます。何とも頼りないことです。自分で一期一会と思いながら、それを裏切る様なことを平気でやっている。それが流転です。自覚ということを軽々しく言いますけど、自覚ということは難しいことです。自分で覚めるというけど、わが身に覚める、そういうことです。自分で覚めるのではなくて、わが身に覚めるんです。当てにならないわが身であると。自分で自分に決めたことを次の瞬間には裏切っていく。平然とそういうことをやっていく愚かさを持っている身だということです。
人間はそういう業熟体ということで生きていますし、その全体が流転しています。私の流転であると同時に、時代そのもの、歴史そのものが激しい音を立てて流転しているという感じが致します。人類は幸福を願い続けて、追求し続けてきたのに、向上的な理想に向かって努力してきたそのままが、奈落の底へ落ち込んでいく方向をたどっているのです。それをどこかで断ち切ることが出来ないのです。そういうことを頭の中で了解しても、流れを断ち切ることが出来ない人間。仏教の最も古い経典、仏陀の教えを比較的そのままに伝えていると云われる『スッタニパータ』という経典があります。中村元博士は『ブッダのことば』と訳されています。仏陀の教えの言葉を集めたものです。その『スッタニパータ』という経典の中に、「煩悩の激流を渡れ」、「輪廻の洪水を渡れ」という言葉が屡々出てきます。
インドはヒマラヤの雪が溶け出しますと、洪水となって、牛の糞で作った家などをつぶして行きます。毎年のように洪水で家を失い、家族を失うということです。その輪廻の洪水を渡れ、煩悩の激流を渡れと言う。仏陀の最後の言葉は、無明真っ暗闇の明けることのない、真っ暗闇の人生を生きる我々。それが自らを灯火として生きる、自らを依り所として生きる。そういう者であれというのが釈尊の教えでございます。自分自身を大事に生きろと教えられた。人に振り回され、人の言葉に振り回され、世の習慣に振り回されて生きるのではなくて、自分を大事にして生きよとおっしゃった。仏陀は、亡くなられる三ヶ月前に、「私は三ヶ月したら、この世を去っていく」とおっしゃって、「すべてのものは無常である、常ならざるものである。教えを説いてきた私も常ならざる身として、人生と別れを告げていかなければならない。どんなものであろうとも、無常でないものは何一つない。その事実を正しく知って、努力精進せよ」と説かれました。これが仏陀の最後の御遺言です。すべて形あるものは滅していく。そのことを知って努力精進せよと。みんなそうです。滅びない人は一人もいません。
ここにいらっしゃる方すべてが、いつどうなるかわからない命を今生きてます。一寸先はどうなるかわからない。そのことを知って、努力精進せよと教えられ、そして自灯明自帰依と言われました。私はこの世に人として生まれ、そしていろんな人生の出来事に出会って来ました。人間の業の深さということも教えられてきました。喜びもあったけれども、深い悲しみにも出会ってきた。金子大栄先生のお言葉ですけれども、「いろんなことに出会って来た人生、その善いことも悪いこともすべて私が私であることを教えられる上には必要であり、十分なことであった。何一つ無駄なことはなかった。ありがとうございました。」こういうことが、言えるか言えないかです。
もし順調にすべてが思うように運んできた人生であるならば、お陰様ということも知らないで、自分の力で生きてきたと思い上がったまで、終わってしまうであろう。けれども挫折を繰り返してきたお陰で、初めて人の情けもお陰ということも知らせて頂きました。だから逆縁が喜ばれ、逆縁が拝まれるのです。私の所は日本海に面した浜田という漁港です。浜田は昔は山陰屈指の漁港で、浜田で取れた魚を京阪神の市場に持って行けば、浜田の魚というだけでいい値がついたと云われます。今はもう全然お魚が取れませんから、二つの大きな魚の加工工場もつぶれました。魚でも、瀬戸内の穏やかな海の魚よりも、波風の荒い日本海で鍛えられた魚の方が身が締まっておいしいと云われます。
だから、順調に来た人は人生の苦労も知らないから、人間の深みがない。けれども、人生の苦労を重ねて来た人の言葉はピカリと光ります。それは胸に伝わって来ます。響いてくるのです。それは逆縁が育てて下さるのでしょう。思いがけないこと、悲しいこと、苦しいことが私を育てて下さる。私が私になるためには、自らを灯火とし、自らを依り所とするためには、それらのことが必要な事だったのです。よい事だけを喜ぶのは、誰だって出来ます。大事なのは辛い事、受け取れない事、悲しい事をよかったと言えるかどうかです。人生はよい事だけでは決してない、辛い事、悲しい事をお陰様でと言えなければ、本当に幸せとは云いません。自我を押し通そうとする所ではそんなことは言えません、人生を引き受けることは出来ません。
曽我先生のお言葉で言えば、一歩退いて、人生を生きる。わが身が見えない愚かさ。わかりやすい言葉で言えば、わが身が見えないとは、頭を下げたくない、頭が下がらないということです。誰だって、他人の頭を下げさせようとして、自分の頭が下がらない。下げようと思っても、そこに大きな抵抗が働きます。負けてなるもんかと。これだけ苦労して来たのにと、いよいよ自分を固めていきます。それを、一歩下がって、わが身知らずと教えられる。それは光に会わなければ見えないし、下がれないのです。
下がるということは南無ということです。退一歩することが南無です。南無ということで頭を下げたくない、下がらない、そのありのままを知る。そこに頭が下がる。下がらないまま下がる。下げたくないまま下がるという世界が開ける。その下がった所に見えてくるのが、我々を生かしている大地でしょう。退一歩して、そこに見えてくる世界が大地です。そうでないと、大地の上に生きていて、大地が見えないのです。大地を失って生きている、我々の命が生まれ、生かされ、そして、帰っていく、その大地が見えないままで生きていく。そうなれば、生まれたことが生きたことにならないのです。そのような存在の大地を失ってきたのが現代人です。人間は自然という宇宙の中のかすかな存在でしかない。
しかし、それが人間を絶対視することによって、自然を破壊し、人間を根底から支える大地を失ってきた。その破壊された大地を取り戻すということが、どれほど難しいことか。壊すのは早い、壊すのはいつでも簡単だけど、建て直すとなると難しい。破壊された大地を回復するというのは容易ではございません。それを人類は成さなくてはならない。そういうことを、我々は我々の業として引き受けなくてはいけない。大地を失うようなことを平気でやってきたのは我々であったと。それを共業として受けとめて、大地を回復し、大地に立って生きるかということが問われているのでしょう。
地球には、殆ど文化の恩恵を受けることの少ない原住民がいます。テレビで「地球に乾杯」という番組で、その人たちの純朴な生き方が放映されるのを見ていますと、非常に感動します。彼等にはまだ、大地に対する深い畏敬の思いが生きています。チベット、モンゴル、或いは北米の原住民。そこでは父なる天空、そして母なる大地が原住民の人々の中に、今も尚生き続けていることが教えられます。それが近代科学文明によって破壊されて、天空も失い、大地も失って来たのです。天空と言うのは父であり、厳しいものです。
自然は決して単に暖かいものではない。自然は人間を破滅する恐ろしさを持っています。一方、母なる大地は、我々を根底から支えていてくれる。その大地が今揺れ動いています。重なる地震。やがて、四国地震が来るということを学者は予知しています。大地そのものが震動している。天空は父なる天空として、厳しい。けれども、それを支えてくれるはずの大地そのものも、確かとは言えない。そういう状況の中で、我々は生きています。煩悩具足と言いますけど、さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいをもするかわからない。我々一人一人、どんなマグマが走っていて、それがいつ爆発するかは、わからない。我々を支えている大自然の大地も、決して確実なものではあり得ない。そういう人生、世界というものを見る。そういう目が今求められています。人間の幸福、自由の追求という所で大地を破壊してきた。その自然の報復を人間が今受けているのです。その中で、人間の孤独感や不安感。そして人間相互間に於ける、縦の関係も横の関係も断ち切れていくという問題があります。
私は、現代の地獄は孤独ということにあると思います。仏教では人間を衆生ということで表します。衆生と言うのは、共に生きるもので、仏教は人間だけを絶対視しません。動物も植物も命あるものです。犬山にモンキーセンターがあるでしょう。あそこにおられる京大の松沢哲郎という先生が、岩波現代文庫に『チンパンジーの心』という本を書いていらっしゃいます。その本を読んで、非常に感動しました。人類という言葉を、我々は人間のこととして使いますけど、松沢さんは人類と言うと、ヒトを含めた五種を意味する。その中で、人間は人類の一つでしかない。チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オラウータンです。これが大型類人猿ですが、松沢先生は、こう言っておられます。
来るべき二十一世紀には、人だけを特別視するような素朴な信念は大きく揺らぐであろう。人間と動物という素朴な二分法は、天動説や天地創造と同様に陳腐なものになるであろう。ゲノムの解読は、進めば進むほど、命の連続性が明らかになり、人という特別な動物が一種類だけ特別に進化したわけでは決してない。多様な種が進化の過程で、お互いを必要とする様な形で、この世界を作ってきた。まさに共生です。衆生というのは人間だけではないのです。オランウータンや、類人猿と言われる様なものまで、自然や山川草木も含めて、人類は、自然の中で共生する形で生きてきた。そういう相互に依存する性質が、生命の本質である。そして、生物はそれぞれが階層構造にある。社会の生態環境のそれぞれのレベルに命があると考えるのが正しい。人という字そのものが支え合っている。文字が立っている二人の姿を表している様に、人間という存在は本来他者の存在を契機として成り立つ。自分一人だけではない。チンパンジーという進化の隣人は、これからもきっと多くのことを我々に教えてくれるであろうと云われています。
だから、松沢先生はチンパンジーを一匹とか一頭とは言いません、一人と言われます。チンパンジー一人と言うのです。あゆみを生みましたから、チンパンジーの親子二人という風に言います。これは、命というものを共生していく事実に触れて生きている人の言葉です。それを我々は破壊して来たわけです。その結果、人間の思い上がった孤独を味わっているのです。孤独地獄からどうして抜け出るのか。これは大変な課題だと思います。孤独地獄から、どのようにして我々は抜け出していけるのか。
親鸞聖人が使われた言葉で言えば、われらと言う世界。われじゃないです、われというのはわれらの中に於けるわれです。そして、われというのはわれらという世界を阻害していくものです。われらという衆生性に対して、われというものはわれらの世界を阻害して、孤独を作っていきます。われという自我意識が崩れて、われら衆生としての大地性にどうして立てるのかという問題です。『歎異抄』の第三条では、善人悪人ということについて、善人については自力作善と言うでしょう。自力作善というのは善人です。別な言葉で言えば、私は間違っていない。間違っているのは他人だ、周りが間違っているということ。これは人間みんなが背負っている業です。間違っているのは嫁であり、姑であり、それが私の思うようになってくれたら、家庭は円満です。こういう発想です。そこにある自分を善人と決めてかかる発想。その心は自ずから、周りを悪人と差別していく心であり、そこから出てくるものは対立と憎しみの世界で、それが地獄を作り出すのでしょう。
それに対して、『歎異抄』で悪人については、煩悩具足の「われら」だと言ってあります。だから善人のほうは「人」です。自力作善の人です。これは個別的です。全部の人が持っているもの、生まれつき持ち合わせているものです。それは個別的です。人それぞれに、銘々得手勝手に持っているもの。ところが、そうではなくて、煩悩具足の「われら」といわれる。われらというのは、仏の大悲の中で、初めて明らかになってくるものです。人間の反省や良心というものでは見えないものです。人間の相対的な反省は後悔であって、真の反省ということは我々には出来ない事柄です。
我々がするのは口だけの後悔です。なんであんなことをしたのか。倫理的な良心、カントが人間の天に輝く星と人間の内なる良心こそは聖なるものだと言ったのは有名ですが、良心はそんなにきれいなものではない。人間は平気で良心を裏切っていきます。良心は底の知れた浅いものでしかありません。だから、自分で私が悪かったと言えば、後悔反省しているようでありますが、私も悪かったと、「も」が付くのです。私も悪かったという様に「も」が付きますと、相手にも同じ様に私以上の反省を求めるものです。決して自分だけが反省することでは収まらない。自分が頭を下げた以上に、相手が頭を下げないと納得しない。だから、そこにあるものはどんなに反省しても、底があるということです。
そういう人間の業の深さを照らし出し下さるものが仏の真実です。それは反省というものを破った私の身のありのままを照らして下さいます。反省というのは人間の良心、心の働きですが、教えによって与えられ開かれる深信は身の自覚です。善導の言葉で言えば、徹到して下さる。人間の我慢の厚い殻を破って、宿業の身の根底に浸透し徹到して下さる。
金子先生は、「私共が南無阿弥陀仏と念仏を称える、その南無阿弥陀仏という念仏の声は、自我が崩壊していく音である」とおっしゃいました。非常に味のある深いお言葉だと思います。お念仏の声は、自我が崩れていく音である。人間が築き上げてきた自我の厚い殻。先ほどの松沢さんの言葉で言えば、チンパンジーと人間を区別して、人間だけがヒトだと考えてきた思い上がりです。そういうことが如何に間違っているかということを、科学者は冷静にチンパンジーと共生することに於いて、学んでおられるわけでしょう。
その中で、如来の真実が、名号を通して、私の上に浸透して下さり、徹到して下さる。わが身の事実の所に、仏の大悲が、深い悲しみの心が注がれてある。何年も生きながら、わが身が見えない。何十年も生きて、人生の様々な縁に出会いながら、その縁が素通りして、空しく過ぎ去って、わが身のことに少しもなってこない。そういう人間の業の深さというものを、深く悲しんで下さる。その仏の大悲の呼びかけが南無阿弥陀仏という名号である。われここにありという、その仏の名乗りを通して、大悲が私の身の底に至りついて下さる。
至りついて下さった時に、私が悪かったと懺悔反省するというようなことではない。徹底して煩悩具足の凡夫と信受して、その事実を引き受けて生きる外はないのです。その時、仏の大悲は、小さな憐れみの心すらも持ち合わせない我々の中に、入り来たって、私の中に生きて下さる。私の命となって生きて下さる。それは考えられない不可思議なことです。そういう考えられないことが、私の上に起こる。あることが難い、そういう出来事が私の上に起こる。
それは、私の思いを超え、私の努力を超えた所で、不可思議な出来事として起ってくる。南無阿弥陀仏と手が合わせられる、南無阿弥陀仏と称えられること自体が、決して当たり前だと言えない、不可思議な出来事です。不可思議な出来事として、私の上に起こる。歴史を超えたもの、人間を超えたものが、私という凡夫の上に、地獄一定としかいいようのない宿業の身に、頭が下がる南無という事実に目覚め、そこに大地を感じる。そこで、生かされてある大地に初めて目が覚める。そういう自覚こそ、わが身に覚めるという出来事として起こるということが、宗教の出来事である。仏の大悲が、私の命になって私を生かして下さる。
「正信偈」にありますように、「煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらしたまう」(聖典207)ということです。仏はこんな私を常に、こんな私であるが故に、仏は念じ続けて下さってあるということです。その事実に目が覚めていくということです。こんな私に対して、こんな私であればこそ、仏は倦むことなく、常に不断に私に働き、私を照らしづめに照らし、念じて下さっておる。そういう仏に出会うことが出来るか出来ないかということです。
私の孫が三つの時に、孫の母親が白血病で亡くなりました。それからどういうわけか、まんまんちゃん、まんまんちゃんということを口にするようになりました。父親一人ではやれませんから、後妻をもらわなくてはならないということで、孫に、小学校五六年の時でしたか、お母ちゃんをもらわなくてはいけないけど、どんな人がほしいかと家族で聞いたことがあります。そしたら、すぐ答えました。あのね、一つはまんまんちゃんの好きな人。そして動物を可愛がる人と、二つ答えました。
私はそれを聞いてびっくりしました。私だったら、私を可愛がってくれる人という答えを出すのではないかなあと思いました。まんまんちゃんの好きな人で動物の好きな人。それであったら、別に私を可愛がってくれる人と言わなくても、自然にそれが出てくるのではないですか。私は深い智慧を頂いたなあと思いました。そういう形で、仏の大悲は倦むことなく、わが身を照らし、私を含む命を生かして下さっている。だから、私のような人間でも、もったいないという言葉が出て下さる。お陰様でということが感ぜられるのです。
そう言わしめているものは私ではありません。私を超えたものです。その声に自分で驚くということがあります。そういうことが意味深い。そういう大悲心に生きるということ、親鸞聖人の御心を尋ねて行けば、その大悲心を生きていくんだと、親鸞聖人はおっしゃっていると思います。それは大変なことだろうと思います。それは親鸞教学の大きな問題だと思います。今瀧君が一生懸命曽我先生の教えを通しながら、親鸞聖人との出会いを求めて求道しているということを、最初に申しましたけど。曽我先生の言葉で言えば、法蔵菩薩となって、仏は私の宿業の身の根源の所に働いて、南無阿弥陀仏と名乗って生きて下さっておる。その法蔵菩薩に生かされる者は法蔵菩薩の分身として、法蔵魂を生きる者となっていくと、曽我先生はおっしゃっている。それが大事な問題だと思います。
始めに申しましたように、定年退職後は、田舎に引っ込みまして、ほとんど外にも出ない状態ですが、瀧君からいつも、老いては子に従えで、強い刺激を受けながら、お育てを頂いています。今日は十周年という大事な会であるとは、つゆ知らないで引き受け、正式な案内状が来てから、うかつだったなあと思ったようなことです。先程申しました「大悲心に生きる」ということが親鸞聖人の教えに合わせて頂いた者に与えられた道であり、そして、孤独地獄に喘いでいる我々が、われらという大地を尋ね、われらという大地に生きていく。それが真宗門徒の生き様であろうと、そう思ってお話しさせて頂きました。まとまりのないお話しか出来ず、随分お聞き辛いことであった事と申訳なく思って居りますが、最後まで御静聴頂き、本当に有難うございました。良く御礼を申し上げます。(終)