●法蔵菩薩●
| 法蔵菩薩はいのちの根源に目覚める心 親鸞聖人は、「大無量寿経こそ真実の教えが説かれたお経である」と述べられています。 大経は、「無量寿経」とも言われるように、私たちにとって「はかりしれないいのち」とは何か、を 明らかにしたお経であります。 もう何年も前、ある仏教雑誌に玉城康四郎という東京大学の教授が、ダンマ(法)のことを 「いのちの中のいのち」と表現されていました。私は、大経を学びながら「いのちの中のいのち」 という言葉が、今までずっと脳裏に焼きついて離れていないことに気づきました。 玉城先生は『仏教の根底にあるもの』(講談社学術文庫)という著書の中で、「ダンマが顕わに なることが目覚めの原点であり、ダンマが形なき純粋生命であれば如来もまた形なき絶対生命 である」と解釈されています。そして、「無量寿経」など多くの大乗経典に如来という熟語が受け 継がれていると言われるのです。さらに、単なる仏教研究にとどまらず自分自身の悟りを求め る姿は、正しく求道者そのものに映りました。「さまざまな試行錯誤をかさねて、還暦近くに なってやっとブッダの目覚めに出会ったのである。形なきいのちが顕わになってくる、と。 仏教の根底がほのかに見えはじめてきたのである」という著者の言葉からうかがえます。 阿弥陀如来も、形なきいのちそのもので、いのちの中のいのちに目覚めることによって 初めて私たちの中に如来が明かになるのです。阿弥陀如来は、私たちにとっていのちの 根源体であり、私たちのいのちがなくなっても永遠にありつづけるいのちなのです。そして、 私たちに形なきいのちを知らしめんがために、この世の中に形を表したのが法蔵菩薩だった のです。 だからこそ、法蔵菩薩は私たちにいろや形を超えた阿弥陀如来の存在を知らしめる大きな 役割があります。法蔵菩薩が先か、阿弥陀如来が先かという問題は、卵が先か鶏が先かと いう問題と同様に、どちらが先とも言いきれません。阿弥陀如来に出遇ったという人も、真宗の 教えが深まっていくにつれて法蔵菩薩あってこその阿弥陀如来であると実感されていくと思い ます。 また、大経に説かれている法蔵菩薩の物語は、よく神話であると言われます。架空の法蔵 菩薩の物語など信じることはできないとも耳にします。しかし、ユングという心理学者は、 「人間というものは生きてゆくために、神話を必要とする。一体、自分はどこから来てどこへ 行くのか、という根源的な問いに対して答えうる知恵を持たねばならない。そのためにも神話を 必要とする」と述べられています。大経は正しくそれに答える神話と解釈してもよいかもしれま せん。さらに、「大経こそ真実の教えである」という親鸞の教えに基づくならば、単なる神話とも 簡単にかたづけることはできません。法蔵菩薩の物語を通して、自分自身の求道の深まりを 共に追体験していくことが大切なのです。私たちは『大経』を読みながら、法蔵比丘と名のった 一人の国王を阿弥陀仏にする作業をしていかなくてはならないのではないでしょうか。 『大経』に学びながら、私は自分の欲望を貪る国王どまりなのか、煩悩だけに満足しない比丘 どまりなのか、法蔵比丘を本当に仏にしているのか、自分の立場を明確にしていくことが 求められているのです。 明治時代、原谷とよ子という女性がいました。念仏者として生きた有名な真宗僧侶、暁烏敏に 仕えた人です。彼女は、当時不治の病とされていた結核がもとで、二十八歳という若さで亡くな っています。彼女は、臨終の際に『大経』の「嘆仏偈」というお経を称え、「私はこの世に生まれ て、いろいろな苦しみを味わいました。そして、法蔵菩薩のお心にふれました。法蔵菩薩の生活 を味わうようになりました」と信仰告白をされています。 私も、学生時代「嘆仏偈」の「たとえ身をもろもろの苦毒の中に終わるとも、我が行は精進して 忍びてついに悔いじ」という法蔵菩薩の迷える衆生を救おうとやまない心に感動しました。 さらに不思議なことに大学を卒業する時、細川巌先生より「我行精進、忍受不悔」という色紙を いただきました。 たとえ身は苦毒の中に終わるようなことがあっても、それを忍受して、 けっしてこんな苦しい目にあうならば、あんな願いなどたてなんだものを などと、後悔は断じてしない。 と、世自在王仏に誓われたのです。 原谷とよ子さんの「法蔵菩薩の心にふれて、法蔵菩薩の生活を味わうようになりました」という お言葉は、
法蔵菩薩は、私と共に苦しみ、笑い、悩み、あらゆる人の過ちを悲しまれる。 私の苦しみを引き受けて下さるのは法蔵菩薩なのです。私の心が法蔵菩薩に ふれると、あらゆる人の苦しみが見えてきます。しかし、私自身はどこまで いっても罪深き凡夫ですから、憎しみや怒りを消し去ることはできません。 そこにこそ、私の罪深き宿業が顕わになってきます。ただ、その罪業をも 引き受けてやまない法蔵菩薩と共に生き、法蔵菩薩を私のいのちと見出した とき、私の救いが明かになってくるのです。法蔵菩薩は私と共に生き、死んで いきます。いや、私のいのちがなくなっても永遠に生き続ける如来となるのです。
と、いのちの叫びとなって聞こえてくるのです。もし、私が苦しみを引き受けていくのであれば それは自力です。阿弥陀如来になるための法蔵菩薩の御苦労は、私たちの人生の苦しみ そのものを引き受けられた御苦労なのです。 阿弥陀如来の本願といわれる第十八願も、「心がいのちの根源である法蔵菩薩に目覚め る(至る)ならば、疑いなく信じて歓びを感じ、浄土に生まれようと欲(おも)う心が生ずる」と すっきり解釈できるのではないでしょうか。法蔵菩薩が、私のいのちが亡くなっても永遠に 生き続ける如来になることによって、如来の世界(浄土)に生まれることが定まるのです。 真宗では、法蔵菩薩が阿弥陀如来に私たちを導くわけですから、他宗でも「いのちの中の いのち」を知らしめる法が、いろいろ形を変えてあるはずです。法蔵菩薩を知らなくても 「永遠なるいのち」に出遇う方法はあります。ただ真宗においては「真実の教え・大経」こそが 「はかりしれないいのち」を説いているのです。
また玉城先生は、「ダンマが業熟体に顕わになる」とも述べられています。業熟体とは 宿業体であり、どうすることもできない煩悩だらけのわが身です。このダンマとは、真宗では 信心、ひかりと表現を変えることが可能であると思います.信心やひかりの元が、形で表現 された阿弥陀如来、法蔵菩薩であるのです。如来に出遇うことによって、本来は見たくない 自分自身の醜い姿が顕わになってくる、そこに罪深きわが身を救わんがための如来の本願が あったという感動が生じてきます。信心歓喜とはこのことを言うのでしょう。
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