現代の聖典 観経入門
●観無量寿経とは
★観経に問うていくのなら、どのような人間の問いでも、決して解けないものはない。(広瀬 杲)
★宗教を求める心というものは、解答のない問いを持つ心である。
答えの望みのない問いを持つこと、それが宗教を求める心である。 (金子 大栄)
人間の生きる問いに対して、決まった答えはありません。それぞれの人生に対して、いろいろな
答えがあり、その様々な答えを見つけていくのが念仏の教えです。今、ここに生きていることへの
感謝と(苦しみの人生ではありますが)、煩悩から離れられない罪深き自分に対する懺悔(さんげ)の
気持ちを持ったとしたならば、答えはおのずから決まるはずです。後は、みほとけの示されるまま
生きるしかないのです。一つの答えに縛りつける教えならば、それは自力です。
●父母を害する子
インドのマカダ国にビンバシャラ王という国王がいました。王妃であるイダイケとの間に
子供がなくて、占い師に占ってもらったところ、「近くの山に住んでいる仙人が、三年後に
天寿をまっとうして死に、それが貴方たちの太子として生まれ変わってくる」といわれ
ました。しかし、三年も待ちきれない王様は、無道にも仙人を殺させてしまったのです。
その仙人は死ぬときに、「私が太子として生まれ変わったら、必ず仇を討ってやる」と
言い残して死んでいきました。やがて予言通りに夫人は懐妊されました。王様は再び
占い師に占ってもらうと、「りっぱな男の子がお生まれになりますが、王様に生まれる前
から怨みをもっているので(未生怨)、生まれたら必ず仇をなすでしょう」と答えました。
王様は不安になり迷ったあげく、いよいよ生まれようとするとき、高い階段の上から
誤って産み落としたふりをして殺してしまおうと企てました。しかし、生まれてくる運命に
あった太子(アジャセ)は、不思議にも小指一本怪我しただけで(折指)この世に生を受け
たのです。
釈尊の教団を乗っ取ろうと野心に燃えるダイバダッタは、その太子であるアジャセの
教育係となり、このような過去のいきさつを打ち明けることによって、アジャセは父親を
七重の牢獄に幽閉して殺そうとします。親を信頼していたがゆえに憎しみも倍になった
のです。(父親は不安を抱きつつもアジャセを非常にかわいがっていたそうです)
そのような状況の中で、アジャセもやがて改心してくれることを望み、母親のイダイケは
こっそり食べ物を牢獄に運んでいました。しかし、アジャセにばれてしまい、逆に怒りを
かい殺されそうになりました。家臣に助けられましたが、宮殿の奥に閉じ込められて
外出を禁じられてしまったのです。これでビンバシャラ王の死は決定的になったのです。
ビンバシャラ王は、牢獄で自業自得の結果このようなことになったとわきまえて、
釈尊の弟子である目蓮尊者に八戒を授けてもらうように頼み、自分を律していました。
また、釈尊は王様がもとめていなかったにも関わらず、説法第一といわれた富楼那
尊者をつかわして王のために仏法を説くように命じました。これは、戒律よりも仏法を
聞くことの大切さを表わしているといえます。しかし、イダイケが監禁された今となっては
目蓮も富楼那も牢獄に入ることはできなくなったのです。
この物語を通して、ビンバシャラ王もイダイケ夫人も被害者のように思われるかもしれ
ませんが、危害を加えたアジャセこそ未生怨・折指と呼ばれた被害者であるのではない
でしょうか。私も観経を読み始めたとき、イダイケの救いこそすばらしいと感じましたが、
最終的にはアジャセも救われていかなくては、イダイケの救いもありえないのです。
親鸞は、アジャセの救いそのものを教行信証・信巻で問題にされて、イダイケの救いを
あまり取り上げていません。しかし、回心(えしん)の状態を表わすとするならば、観経の
イダイケの回心はもっともわかりやすいといえます。私たちも、この世に生を受け、
本当に祝福されて生まれてきたか考え直すと、意外に未生怨・折指という問題をかかえ
て生まれてきた場合があるのではないでしょうか。「今、ここにどうして生まれてきたのか」
という問題を突きつけられているように思います。
●母・仏に出遇う (回心)
宮殿の奥に閉じ込められたイダイケは夫に食べ物を運べなくなり、彼も自分のことを
心配するだろうと思うと不安が募りました。また、閉じ込められて仏にも遇えなくなり、
今まで真に仏に遇っていないわが身を知りました。自分もいつ死ぬ身かわからないこと
にも初めて気がついたのです。イダイケはそのような不安から身も心もやつれはてた
のです。
そのような愁憂憔悴の状況の中で、イダイケは釈尊に「お釈迦様に来ていただく
には、あまりにも偉大すぎてもったいないので、弟子の目蓮と尊者阿難をつかわして
どうか私を慰めて下さい」と涙を流してお願いしました。しかし、釈尊は彼女の心を
察して目蓮尊者と阿難を空からつかわすと同時に、自らもイダイケの前に隠れて
現れました。
イダイケは、自らわざわざ来ていただいた釈尊を見ると感謝するのではなく、身に
つけていた飾りを捨てて、地面にひれ伏して泣き叫びながら(自絶瓔珞・挙身投地
号泣向仏)愚痴を言ってしまいます。
「世尊よ。私はむかし何の罪があってこのような悪い子を生んだのでしょうか。ましてや
何の因縁でわが子をそそのかしたダイバダッタは世尊の身内なのでしょうか。釈尊の
責任でもあるのです」
このように、お釈迦様ではもったいないと言っていたイダイケが、釈尊がわざわざ
現れて下さったにも関わらず、愚痴を言い出したのはどうしてでしょうか。
真の仏との出遇いとは、自分の思っていることをすべてさらけ出して、単なるきれい
ごとですますことのできない現実を直視する中でしかありえないことを物語っています。
イダイケの心の中には、「家の子にかぎって」という思いもあり、アジャセをそそのかした
ダイバダッタと従兄弟である釈尊に対する怨みのようなものまで潜んでいたのです。
そのような心まですべてさらけ出して、地面にひれ伏して号泣しました。これは正しく
懺悔です。懺悔することによって仏に出遇った瞬間が自絶瓔珞・挙身投地・号泣向仏に
表されているのです。この状態を真の仏との出遇い(回心)と言います。
釈尊は蓮華の上に座って現れましたが、これは阿弥陀仏の本願を説かんがために
現れたことを意味します。やがて、イダイケが阿弥陀仏の世界(浄土)に生まれたいと
願うことを暗示しているのです。イダイケが自分のすべてをさらけ出すことができたのは、
自分の力を超えた本願力に触れたからです。我々人間は自分の力を超えた本願に
触れなくては、自分をすべてさらけ出すことはできません。もし、自分の力だけで醜い
自分を直視したとしたのならば、自殺するしかないのではないでしょうか。普段は、
我々には我執がありますから、見栄をはって、よく見せようとしたり本当の自分を
さらけ出すことはできないのです。また、自分の醜い姿など恐くて凝視することも
できないのです。しかし、徹底的にその醜い姿を凝視していかなくては仏に出遇えない
ところに求道の厳しさがあります。自分をごまかすことなく見つめることは、仏に出遇わ
なければできないし、自分だけでそれをしようとしたら危険なことなのです。自力の心を
ひるがえして棄てる中にこそ宗教との出遇い(回心)はあるのです。
そして、仏さまではもったいない、もったいないと言いつつも、うまくいかないと仏を
怨むような信仰のあり方も考え直さなくてはいけません。我々の願いとは多くが自分の
都合でしかなく願いが強ければ強いほど、うまくいかないと「こんなにも拝んでいるのに」
と仏を怨んでしまいます。我々の願いを超えた阿弥陀仏の本願に触れることこそ
大切なのです。阿弥陀仏の本願に触れると、我々の苦しみや悲しみの中にもその意味を
見出し、阿弥陀仏が法蔵菩薩という姿を表わして、本来は苦しみ、悲しみを引き受けて
いくことができない私に代わって引き受けて下さろうとしている願いが自覚されてきます。
そして、法蔵菩薩と共に生きる中から、私たちの苦しみ、悲しみに大切な意味が与え
られてきます。人智では納得できない意味が与えられてくることが「弥蛇の誓願不思議に
たすけられまいらせて」いくことなのでしょう。
●母・浄土を願う
人間追いつめられて 初めて本音を吐く
その時どんな本音を吐くか それが大事 (相田 みつを)
イダイケは釈尊に出遇い、思わず本音をもらしました。そのような愚痴を言い終わると
「どうか私のために広く苦しみのないところ(無憂悩處)をお説き下さい。私はそのような
世界に生まれたいのです。この世の中は、アジャセやダイバダッタのような悪人ばかり
です。もうそのような悪人は見たくありません。今、私は世尊に向かって、五体を地に
投げて(五体投地)地面にひれ伏して、心から慈悲を求めて懺悔(求哀懺悔)しました。
どうか私に汚れのない世界(清浄業處)を見せしめ教えて下さい」とお願いしました。
愚痴を言っていたイダイケが、なぜ「懺悔した」と言ったのでしょうか。
イダイケは、思わず本音をもらして、その愚痴を黙って聞いていて下さる釈尊の慈悲の
心に触れたからこそ、愚痴を言ってもどうにもならないことを知ったのです。このような
愚かな本音をもらした私をも包み込もうとしている釈尊に出遇い、この世を本当に厭う
ことができたのです。しかし、イダイケ自身も悪人であるという自覚は乏しいように
思います。悪人は、アジャセでありダイバダッタであり、自分は善人のような気がして
なりません。また、「懺悔したから浄土を見せて下さい」と回心を一つの条件にしている
ようにも思います。私自身も、「回心して入門を許された」という心の裏には、「入門を
許されない人は学んでいてもどうにもならない」と入門の条件にしながら悩んできた
歴史がありました。イダイケは、私たち凡夫の代表者だからこそ非常に身近な存在なの
かもしれません。いつも善人を目指している私の姿でもあります。
我々は「世の中が嫌になった」と言いますが、嫌になったと言いながらも、いざ死ぬと
なると「死にたくない」と執着してしまうものです。本当に厭うことができた鍵は、釈尊が
眉間より放った光(光台現国)にあります。その光を放つことによって十方無量の世界を
照らし、自分の頂に光を戻して、無量の諸仏を見せました。数々の仏の国を見る中で
イダイケは、「世尊よ、もろもろの仏の国々は清らかで光輝いておりますが、私は極楽
世界である阿弥陀仏の国(浄土)に生まれたい[別選]と願います。どうぞ、浄土と一つに
なる方法(思惟)をお教えて下さい。また浄土を思い浮かべること(正受)をお教え下さい」
と釈尊にお願いしました。浄土を願う心は、阿弥陀仏より与えられた心(信心)であると
いえます。
イダイケの浄土を願う心は、釈尊の光台現国によって、この世が嫌になったから
あの世ではなく、いのちのある限り苦しみと共に生き、やがていのちの尽きたときこそ
浄土に生まれたいという願いをおこしたのです。阿弥陀仏の本願に触れ、本来は
この世に執着し続けているイダイケが、この世を厭うことができたのでしょう。
阿弥陀仏の本願に触れて、私に代わって苦しみを引き受けて下さった法蔵菩薩と
共に生きる自覚の中で、やがてはアジャセもわが子であると引き受けていく力を
いただけるのではないかと思います。
聖道の諸師は、教我思惟は散善を表し、教我正受は定善を表すと解釈しました。
しかし、善導大師はイダイケは錯乱状態の中、教我思惟、正受ともに定善(精神統一)を
求めたと解釈しました。王舎城の悲劇に出遇い、アジャセに殺されそうになったイダイケは
何が善だか悪だかわからなくなり散善(廃悪修善)は求める必要がなくなったのです。
善悪に破れてしまったのですから、釈尊の意志で散善は説かれたと解釈されました。
私は、親鸞の正信偈の「五劫思惟之摂受」は、観経の「教我思惟・教我正受」を指し、
イダイケは無意識の内に法蔵菩薩の本願を触れたのではないかと思います。
やがて、釈尊は浄土に生まれる方法として三福(散善)を説かれます。散善に破れた
イダイケには耳の痛い話です。まず初めに「親孝行し、生きものを殺しない」と世間的な
道徳を説かれるのですが、イダイケ自身もアジャセを殺そうとしていますから、
その罪悪性が問われてきます。ここで、過去の悪業がフラッシュバックして、アジャセや
ダイバダッタを悪人呼ばわりしていたイダイケも、同じように悪人であるという自覚を
促す作用があるのかもしれません。そして、光台現国で自覚した時よりも、よりいっそうに
アジャセもわが子であると引き受けていこうという自覚が深まっていくのです。
●母・仏弟子となる
釈尊はにっこり笑って(微笑して)口より五色の光を出して、ビンバシャラ王の頂きを照らし
ました。彼はこの光によって初めて救われたのです。イダイケが阿弥陀仏の浄土を別選し
法蔵菩薩と共に生きていくことを自覚して、仏よりアジャセもわが子であるとやがては
引き受けていく力をいただき、ビンバシャラ王も安心して死ねる境地に定まったのです。
そして、「お前にはよくわからないだろうが、きっとわかってくれるであろう。阿弥陀仏は
そんなに遠くにいるのではない。そなたは念じて浄土を完成させた阿弥陀仏を見つめ
なさい。我はそなたのために浄土を見る方法を説きましょう。また、未来世の一切の凡夫が
清らかな道を求めるのなら西方極楽国土に生まれさせましょう」と、釈尊はここで初めて
イダイケに語りかけました。法蔵菩薩と共に生きることを自覚したことが、イダイケと
阿弥陀仏を結びつけたのです。
釈尊は、まず浄土に生まれるために三福を修することを説かれました。この三福は世福・
戒福・行福で、世福とは親孝行や慈しみの心をもって生きものを殺さないことなど世間的な
善を尽くすことを説かれました。ここで、アジャセを生まれる前に殺そうとしたイダイケの
罪悪性が問われてきます。また、戒福とは仏、法、僧に帰依して戒律を守ることによって
心を正しくたもつことを説かれました。最後に行福とは仏になろうとする心(菩提心)を発し
物事には原因と結果のあることを深く信じて、大乗の経典を読み、他の人々も仏道に
入れることを勧められました。そして、諸仏が過去、未来、現在に渡って三福を行じることに
よって仏になっていったのです。私たちがこの諸仏の行をどうとらえるかと言えば、
法蔵菩薩の修行と再確認することが大切だと思います。
釈尊は、今度は阿難とイダイケに「あきらかに聞け。あきらかに聞け。如来は今未来世の
煩悩に害された一切衆生のために清浄の業を説きましょう。イダイケよ、よく阿弥陀仏の
浄土を見たいと問うてくれました。阿難よ、そなたはまさに仏の言葉を正しく受けて、広く
多くの人々に伝えなさい。如来は、いまイダイケ及び未来世の一切衆生の人々に、浄土を
観ずる方法を教えましょう。仏の力をもって清らかな浄土を見ること、すみきった鏡をとって
自分の顔を見るように、かの浄土のすぐれたすがたを見ることができるのです。そして、
歓喜の心がおこってきて、不生不滅の道理(無生法忍)が明らかになるのです」とお告げに
なりました。
また、釈尊はイダイケに「そなたは凡夫であり、心の力も弱く劣ったものですから、物を
正しく見る力もなく、遠くを見ることもできません。諸仏如来の様々な方便によって仏を
見ることができるのです」と、実業の凡夫こそ救われる道を説かれていることを明確に
しています。
そして、イダイケは世尊に感謝の心を込めて、「世尊よ、私は今、仏力をもってのゆえに
浄土を見ることができました。しかし、仏滅後の諸々の衆生たちは、非常に汚れた世の中
を生きなくてはなりません。そのような人々はどのようにして阿弥陀仏の極楽世界を見る
ことができるのでしょうか」と問いかけます。この言葉は、イダイケが仏に出遇い、回心した
中から出てきた言葉です。自分一人の救いにとどまらず、全人類、ましてや未来世の人々
の救いをも願った言葉なのです。イダイケが阿弥陀仏の本願に出遇い、仏弟子となった
姿を表しているといえます。
参考文献
『観無量寿経講話』 金子 大栄著 『観経疏に学ぶ』 広瀬 杲著
『観無量寿経に聞く』広瀬 杲著 『藤 秀すい選集』 第一巻
藤氏の『観無量寿経講話』は、よかったです。なぜ釈尊は三福を説いたか?イダイケ自身の
罪を知らせるためであった。過去の数々の悪業がフラッシュバックしている、ということを
藤氏のものを読んで感得できました。