簡潔・速読『真宗入門』
現代音楽に聞く真宗の心
♪誰かを愛すること それは悲しみに似ている
痛いほど私のすべてが こぼれていく♪ 「見えない星」中島美嘉
私たちは真宗というものを知ろうとする時には、まず第一に佛様とはどういうものか、ということを聞く道が
一つあります。「佛心者大慈悲心なり」とありますから、大きな悲しみが佛の心である。それは人間のある
すがたをあるべきすがたでないと感ずるこころでありましょう。悲しみということはそんなはずがないという
感情であります。親が子の病んでおるのを見て悲しいというのは、これはあるべきことではないということでしょう。
佛が大慈悲だということは、人間を御覧になって、それは人間のあるべきすがたではないと感ぜられることで
あります。したがってその御悲しみの裏には大きな智慧があります。その智慧は、人間の真にあるべきすがたを
知っておられるのであります。それで佛心の慈悲には智慧が具わっているのであります。そこからあるべき
すがたにおらない人間を、あるべきすがたにしたいという御本願が現れたのです。しかれば佛とは何ぞや、
大慈悲である。大慈悲とはいかなるものか、智慧を具えたものである。その慈悲と智慧とから本願が発起せられた。
こういうことで真宗はいただけることであります。
しかしもう一つの道がある。それは人間というものはどんなものであるかという、自覚から出発するのであります。
これはどなたも御承知のことであり、いつでも聞いていることではありますが、ともすればうっかりすると忘れている。
しかし外の宗旨とは違い真宗の教えは、愛と憎しみより外にない人生である、邪見憍慢の離れない自分である、
疑いの心と愚かさの離れない我が身である、ということを忘れては真実にいただくことはできません。自身の罪障を
感じてこそ、本願真実が信ぜられるのであります。これは正しく人生の絶望から浄土の教えということになるもので
あります。 (『尊号真像銘文講話』上巻 金子大栄著 P25〜6)
♪記憶が星座のように 輝きながらつながる
バラバラに見えていたけど 今ならわかるよ WOWWOW
記憶が星座のように ひとつになって教える
偶然のしわざじゃなくて 選んだのは 僕のWILL 「WILL」中島美嘉
さらに本願を説明しなければなりません。「本」は本源または原初を意味します。「願」はふつうVOW(誓い)と
訳されますが、それは適切な相当語ではないかもしれません。〜もっと哲学的に考えれば、本願を「原初の意志」と
いった場合のように、WILL(意志)と言うほうがよいかもしれません。
(『真宗入門』 鈴木大拙著)
♪明日になればきっと君を 今よりもっと好きになる
そのすべてが僕のなかで 時を超えてゆく 「ラブストーリーは突然に」小田和正
●「時を超えてゆく」ということはどういうことでしょうか?
今、君のことがすごく好きで、僕の気持は時を超えて永遠に変わらない、と永遠の愛を誓う気持が含まれています。
現在・過去・未来を超えて一念に恋人を想い続ける、時を超えて僕の気持は永遠に変わらない一念に生きていく
ことを憶念といただいてはどうでしょうか。
♪恋する気持が僕を変えていくよ 君がそばにいてくれるから
僕はきっとどんなことも乗り越えていける 君と同じ気持で歩き続けたい
「レモネード」岡野 宏典
仏との出遇いは、恋愛に似ています。阿弥陀仏がそばにいて下さるからこそ、どんなことも乗り越えていける。
たとえ乗り越えていけなくてもいつもそばにいて下さるのです。阿弥陀仏と同じ気持、信心をいただきながら歩んで
いきたいと思います。
♪信じることをやめてしまえば 楽になるってわかってるけど
「DON’T YOU SEE」ZARD
仏も神もいない、と信じることをやめてしまえば楽になれるかもしれません。ニーチェは「神は死んだ」と神を捨て、
二十世紀は神を捨てた人間の悲惨が始まりました。真宗のこころは、私が信じていくのではなく、仏から信ぜられて
いる我が身を知ることにあります。
♪リスクがあるからこそ 信じることに意味があるのさ
「wait & see」宇多田 ヒカル
疑う気持があるからこそ、信じるという気持もあります。疑と信は一つと捉えてもよいでしょう。
ただ人に裏切られたりもするからこそ、信じあえた時の喜びもひとしおです。親鸞の「信順を因として疑謗を縁として」
信ずる心を深めていくことにつながる言葉だと言えます。
♪ちゃんとあなたに伝わってるかな?
ア・イ・シ・テ・ルって 伝えられてるかな?
ふたりの今が 明日に変わる時も
「ア・イ・シ・テ・ルのサイン」〜私たちの未来予想図〜 ドリームカムツルー
あなたに「ア・イ・シ・テ・ル」と伝わっているようにナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツも伝わっていますか?
〜平成二十年一月三十日更新〜
私の中ですべてが崩れ去って南無阿弥陀仏一つになった。
ただ南無阿弥陀仏に生きる。(略)
しかし、人はそれがどういうことか知りたい。
だから、私は説明する。(広) 答えは南無阿弥陀仏しかないのに。(略)
説明している言葉は響かない。
南無阿弥陀仏に生きる姿を感じていただくしかない。
ただ南無阿弥陀仏一つに生きてほしい、と願われている。
それを一心と言う。しかし、念仏一つでは物足りない私がいる。
「私はなぜこのような人間なのか」問うところから真宗は始まる。
自分をさらけ出していける如来の教えに出遇えるかどうかが大切。
如来の前では自分をごまかすことはできない。
いつも自分をごまかして生きている私。
如来の前では自分を飾る必要はない。
善い格好ばかりしている人は偽者である。
誰にも言い分がある。いつも言い訳ばかり考えている私。
誰もが正しい道を歩んでいると思っている。
まちがってはいない道を歩んでいると思っている。
邪定聚・不定聚を知らなければ、正定聚はわからない。
元々、皆、正定聚を歩んでいると思っている。
自分は正しいと思っている。まちがってはいないと思っている。
強気は自力の生き方である。
弱気になった時こそ他力の中で生きていることに気づける。
しかし、強気も弱気もない虚心の私でいたい、南無阿弥陀仏。
不幸だと思えば不幸だが、幸せだと思えば幸せかもしれない。
●幸せは自分の心が決める (相田みつお)
〜平成十七年八月二十九日更新〜
どこまで歩んでも救われない私(機)、その私をどこまでも救う(法)
機の深信・法の深信は、私が自覚するのではない。
嫌でも自覚せしめられる。あくまで仏からの自覚である。
「至らぬ私でありました」と頭の下がる不思議な世界。
それが他力である。
左手が機の深信、右手が法の深信。
その両手を合わせて機法一体の南無阿弥陀仏。
「雑行を棄てて本願に帰す」親鸞聖人が本願に帰したのではない。
本願に帰せしめられたのである。
本願を選んだのは法蔵菩薩という名の阿弥陀仏。
あくまで如来選択である。
私が今ここで法話していることが、虚仮不実。
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし (聖典P508)
●では、なぜそのような私が法話しているのか?
伝わらなくても伝えたいことがある。
認められなくても伝えたいことがある。
それは仏からのプレゼントだから。(願に生きる)
南無阿弥陀仏を選択(プレゼント)された
仏さまのご苦労に頭が下がる。
煩悩を心から嫌だと思うのは、煩悩具足のわが身を知るからだ。
煩悩があるからこそ、清らかな心を求める。
自分の煩悩を認めながら、深めていける不思議な世界。
ただやみくもに煩悩を認めているわけではない。
煩悩から離れられないから、何をしてもいいわけではない。
「 こんなはずではなかった」と
すべて崩れ去った時こそ、南無阿弥陀仏。
しかし、私はいつも
「こうであってほしい」と思い続けている。
私の中ですべてが崩れ去って南無阿弥陀仏一つになった。
憎しみは消えないし、人を憐れむような人間ではないけれど、
ただ憐れに憶う。 (大悲心に生きる)
この世で仏に成ることはできなくても、仏を目指すことはできる。
学問や知識で求める人はいても、仏道を歩む人は少ない。
私は、ただ自分自身を明らかにしていきたい。 (得道の人)
仏から遠ざかれば遠ざかるほど、仏に近づいている。
仏に近づけば近づくほど、仏から遠ざかっている。 (慢心)
私の底を突き抜けて、逆に浄土に昇っていった。
それを横超という。
自分の至らなさは認めたくはない。
しかし、至らぬところを拝める不思議な世界、それが浄土。
人間の限界のかなたに、浄土が開かれてくる。
その限界を拝める不思議な世界。
体験は、私の独り善がりなものである。 己証
経験は、すべての人に通ずるものである。(体験を経験に深めていく)
(体験は主観的、主観的な体験を客観的な経験に深めていく)
握りしめたその手に愛は宿る…・変わらぬ気持のまま いつまでも
(♪「真夏の恋の詩」♪ウィンズ)
お互いに握りしめた手に愛は宿ったのか? 永遠を求めても永遠ではありえない。
その時感じた愛は何なのか?お互いが認識し合ったのに、幻だったのか?
仏との出遇いも、仏が私に宿るとは言えないのか?
仏を感じるとはどういうことなのか?
仏が顕になるというより、法が顕になる。(愛の本質を知る)
〜平成17年7月30日更新〜
愚かだからこそ 仏さまの教えを いっぱい いただけるのです。
自分で愚かだと自覚できる愚かさは 真の愚かさではありません。
仏さまから見れば 私がどんなにりっぱでも 私の存在自体が愚かなのです。
天狗になればなるほど 仏さまは遠ざかり
どん底に落ちれば落ちるほど 仏さまに近づく。
真宗の生活は苦しいけれども 有難いといただける生活です。
悲しみと喜びが交わり合っているところが大切です。
いただいた教えは自分のものではありません。すべてさしあげましょう。
ご本尊の阿弥陀さまの立たれた蓮華の中に法蔵菩薩が潜んでおられる。
法蔵菩薩とは、私に真実を知らしめる方便としてのはたらきです。
そのはたらきは光となって形を超えて表われます。
光は摂取不捨そのもので、光があるのではなく、光は既にあったのです。
その光に長い長い間、気づかずにいただけなのです。
光は、過去にもあり、未来にもあるであろう、そして今も光の中にいる。
法蔵菩薩は、私の影である。しかし、その影を見ようとはしない。
光のあるところに影は強く刻まれる。闇の中には影は生じない。
闇を照らして下さる光の中に、阿弥陀さまもおられる。
有限な私は、法蔵菩薩を通してしか無限な阿弥陀さまに触れることはできない。
如来、我を悲しみたまいて 法蔵菩薩となりて出現せり。
雨が降る日は天気が悪い。(雨が降る=事実 ・ 日は天気が悪い=分別)
事実を事実と認識する中で、分別を離れた世界が見えてくる。それが他力。
他力は自力を否定するものではあらず。
他力の中では自力を尽くすことも許されている。
自力無効のかなたには他力の大悲がかけられている。
しかし、自力無効をどこまでも拒みつづけている私がいる。
本来、私は自力無効を自覚する他力の教えには出遇いたくない。
もし自覚したのならば、自殺せざるをえないほど恐いことかもしれない。
わかろう、わかろうという心、みな自力。
しかし、わかりたい心の私ばかりいる。
真宗は、わかる必要のない教えです。
しかし、いつもいつも必要とすることばかり考えている。
私の苦しみは、生きている証し。
人間は、誰もが何かを信じて生きています。
たとえば、どこかに行く時、電車やバスや車を信用しているわけです。
事故を起こすかもしれないと疑ったら、どこへも行けません。
サリンが蒔かれるとわかっている地下鉄には誰も乗りません。
安全に行けるものだと信じているわけです。
神や仏を信じていない人も、信じていないということを信じています。
人は誰もが場所を求めています。
すわる場所がなければ、そこには居れません。
進む場所がなければ、どこにも進めません。
場所とはスペースだけでなく、心の繋がりの中で居場所がないとも感じます。
人はいつ、いかなる時の場所を求めている。
死んだらどこへ行くのだろうかと、誰もが最期には死に場所も求めていく。
場所を求める心は、浄土に繋がっていくのではないだろうか。
凡夫とは、私自身が凡夫であると自覚できないからこそ凡夫である。
凡夫という言葉は、私がいちばん嫌っている。
無明とは、私の姿が見えない暗さである。
仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫(よ)とおおせられたることなれば、
他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、
いよいよたのもしくおぼゆるなり
(歎異抄 第九章 聖P629)
人間には、自分を否定することはできない。 阿弥陀さまが、私を否定する。
そして、どこまでも受けとめて(肯定して)いて下さる。
人間には絶望という言葉はない。あるのは失望。
(広瀬 杲)
仏の世界は、否定(機)と肯定(法)が一つになっている。
自分を否定できる世界は無限である。
自分を肯定する世界は有限である。
仏なくして否定できない。肯定したい私ばかりいる。
できなくても、やらなくてはならないことがある。
それが、他力の世界への目覚めである。
真宗において、議論で相手に勝とう、勝とうとする心(自分を肯定する心)は、
みな自力です。
いつも勝ちたい私が、負けることもよいと思える世界こそ、他力です。
腹を立てさせてくれて有難う。
思い通りにならなくて有難う。
これが、不思議な他力の世界である。
しかし、腹を立てさせてバカやろう。
思い通りにならなくてバカやろう、ばかりで生きている。
真宗の聞法生活は、頭でわかるのではなく、
わが身に響いてくる一言があるか、どうかである。
人間の言葉ではなく、仏の言葉に耳を傾ける。
他力の世界は〜する必要のない世界である。
浄土を願う必要もない、わかる必要もない、信じる必要もない、
わかりあう必要もない、認められる必要もない…・。
しかし、いつも必要のある世界を求めている。
自分が何かをしている、という気持ちがある限り自力。
度無所度―救っていながら救っていない
『教行信証』証巻・聖典P297
否定の中から肯定が生まれる。これが難しい。
必要ないから何もしないではない。
わかるとか、わからないに関わらず、学びが始まる。
わからないからやらないではなく、わからなくても学ぶ。
私中心の世界から、私を超えた仏の世界に触れる。
私の視点は、わかる、わからないの分別の世界であるが、
仏の視点は、私の分別、思い、はからいを超えていた驚き。
それが、ナムアミダブツである。