教行信証ノート
第一回 証りとは何か
証巻を学ぶことは、私自身が真宗の教え、南無阿弥陀仏に
出遇えてよかったと死んでいけるかどうか、ということではないか。
証りとは、程遠いわが身を知ることが証りに近づくことかもしれない。
証りを得るには程遠いわが身の自覚
わからないことばかりのわが身の自覚
証りを得たとうぬぼれてもいけないし、証りを得ることが
できないと落ち込んでもいけない。
「我が国に生まれんと欲え」という仏(欲生)の声を聞く
欲生というは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの
勅命なり (信巻 岩波P164・聖典P232)
彼の国に生まれんと願う心が生ずる (願生心)
如来招喚の勅命を聞くことができなければ、願生心はわからない
浄土論註引用
菩薩、阿毘跋致(不退の位)を求むる(行巻 岩波P56・聖典P167)
往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり
一心の大行 即時入必定・入正定聚之数(岩波p96)
教巻 信巻 行巻(大行) 証巻 真仏土・化身土巻(平野修)
世尊 我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生 安楽国
(岩波P133・聖典P214)
『論註』に曰わく、「如実修行相応」と名づく。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。(信巻 信楽釈 岩波P163・聖典P232)
念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般
涅槃を超証す。
…・・これすなはち往相回向の真心徹到するがゆえに、不可思議の本誓に藉るがゆえなり
(信巻 岩波P190・聖典P250)
大涅槃を証することは、願力の回向に藉りてなり…・・
仰ぎて奉持すべし、特に頂戴すべしと。(証巻終わり)
証りとは、信心をいただく、頂戴することができるかどうか
第二回 必至滅土の願
証巻(十一願) もし私が仏になる時、私の国の人たちが、この世では仏になるに定まった位に
住し、かならず迷を離れて滅度に到ることが出来ないならば私は仏になりません。
浄土の世界に人・天の差別もないが、あえて仮として『人・天』で表現した。
みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり(岩波P245・聖典P281)
往生というは、大経には皆受自然虚無之身無極之体とのたまえり。
(真仏土巻 岩波P320・聖典P323)
唯識の大家であった天親は、なぜ浄土論を書いたか。
試解 仮に由りて我法ありと説く (唯識三十頌)
広由本願力回向(広く本願力の回向に由って)岩波P119・聖典P206
往還回向由他力(往・還の回向は他力に由る)岩波P120・聖典P206
如来回向によって開かれてきた世界が仮としての浄土であり、
大経から浄土を感じとったのではないか。
この報身より、応化等の無量無数の身をあらわして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまうゆえに、尽十方無碍光ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、無明のやみをはらい、悪業にさえられず。
身をあらわしたひかりが、なぜまた形や色がなくなるのか
摂取不捨の利益をいただくことが「ひかり」であり、この利益をいただいた状態を「ひかり」で表現した。だから、ひかりが消えても摂取不捨の状態は変わらない。
検証一 一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取し
て捨てたまわず。 (『観経』聖典P105)
検証二 「不捨」というは、信心のひとを、智慧光仏の御こころ
におさめまもりて、心光のうちに、ときとしてすてた
まわずと、しらしめんともうす御のりなり
(一念多念文意 聖典P538)
タスカッタヒト (竹部勝之進)
タスカッテミレバ タスカルコトモイラナカッタ
無上仏ともうすはかたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめて弥陀仏とぞききならいて候う。みだ仏は、自然のようをしらせんりょう(料・手だて・方便)なり。(末燈鈔 聖典P602・P511)
あなたは浄土という問題を考えただけで救われていく。
たとえ、浄土など信じない、仏など信じないと思って
いても、信じないということが既に浄土を問題として
いるのです。死んでからの浄土なのか、生きている今
往生浄土が定まるのか、それは面々の御はからいで
よいのです。如来回向によって開かれた浄土は、
たとえまちがった浄土(化土)を思い描いていたとしても
自然と真実なる浄土に転じられていく本願力の用きが
あるのです。ただ念仏に帰していきましょう。
第三回 浄土の声を聞く
もし邪定聚および不定聚は、かの(涅槃の世界に到る)因を建設せることを了知することあたわざるがゆえなり (岩波P245・聖典P281)
荘厳妙声功徳成就(浄土論註の引用)
もし人ただかの国土(浄土)の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生まれんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなわち正定聚に入る」これはこれ国土(浄土)の名字仏事をなす(岩波P245・聖典P281)
往生を願う者、本はすなはち三三の品なれども、今は一二の殊なし
(岩波P247・聖典P282)
●邪定聚(十九願) ・不定聚(二十願)の問題も考えてみましょう
十九願
この願文は、すなわち三輩の文これなり。『観経』の定散九品の文これなり。(化身土巻 岩波P327・聖典P327)
阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得ん。一つは音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆえに、本願力のゆえに、満足願のゆえに、明了願のゆえに、堅固願のゆえに、究竟願のゆえなり(岩波P327・聖典P327)
二十願
『無量寿如来会』に言わく、もし我成仏せんに、無量国の中の所有の衆生、我が名を説かんと聞きて、もって己れが善根として極楽に回向せん。もし生まれずは菩提を取らじ(岩波354・聖典P348)
三経往生文類の配置
浄土のみ名を聞くということができなければ救い(証り)はない
● 成就ということを考えてみましょう
言うところの不虚作住持は、本法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とに依る。願もって力を成ず、力もって願に就く。願、徒然ならず、力、虚説ならず。力・願相かのうて畢竟じて差わず。かるがゆえに成就と曰う。(行巻 岩波P109
真仏土 岩波P308)
聖典P198 聖典P316)
荘厳主功徳成就
かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり(岩波P246)
「成就」は、いわく自利満足せるなり (行巻 岩波P100・聖典P193)
「成就」は、いわく回向の因をもって教化地の果を証す。もしは因、もしは果、一事として利他にあたわざることあることなきなり。
(行巻 岩波P101・聖典P193)
大経・下巻に本願成就文がある。下巻には衆生往生の因果が
説かれているが、あなたは本当に大経の教えに出遇い、往生し
て本願の教えが成就しているのか、問いかけられている。
本願の教えの深さは、たとえあなたがまだ成就してなくても
法蔵菩薩が迷えるあなたと共に生きていて下さることである
覈にその本を求むれば、阿弥陀如来の増上縁とするなり。…・
おおよそこれ、かの浄土に生まるると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行は、みな阿弥陀如来の本願力に縁るがゆえに。何をもってこれを言わば、もし仏力にあらずは、四十八願すなわちこれ徒に設けたまえらん。
(行巻 岩波P102・聖典P194)
この中に仏土不可思議に二種の力あり。一つには業力、謂わく法蔵菩薩の出世の善根と大願業力の所成なり。二つには正覚の阿弥陀法王の善く住持力をして摂したまうところなり(真仏土巻 岩波P307・聖典P315)
住持楽とは、謂わくかの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なきなり(証巻 岩波P265・聖典P293)
光明寺の『疏』(玄義分)に云わく、「弘願」と言うは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生を得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなしとなり(証巻 岩波P248・聖典P283)
(行巻 岩波P72・聖典P176)
結局、阿弥陀仏の大願業力(本願力)であるが、法蔵菩薩の
出世の善根と大願業力の所成と言われるように、法蔵菩薩
のはたらきが成就した時、大願業力(本願力)になる。
●参考例 法蔵菩薩の本願力(真仏土巻 岩波P306・聖典P315)
あなたは、阿弥陀如来の大願業力に乗じていますか。
法蔵比丘から本当に阿弥陀仏にしてますか。形で表された
阿弥陀仏(法蔵菩薩)に出遇っているか、どうかという問いが
大切なのではないでしょうか。
『教行信証』における還相回向説明の序文
もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火に生まるといえども、無上菩提の種子
畢竟じて朽ちず (証巻 岩波P246・聖典P282)
ただねんごろに法に奉えて、畢命を期として、この穢身を捨てて、すなわちかの法性の常楽を証すべし、と。(岩波P249・聖典P283)
この引用文の後に、「還相回向に生きる菩薩を感じなさい」という親鸞の声が
聞こえてくる感じがします。
大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物(衆生)を利すること、等しく殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る (岩波P249・聖典P283)真仏土 岩波P317
● なぜ還相回向の説明の前に、既に還相を意識した引用があるのか
三経往生文類には、親鸞が八十三歳に書いた略本と、八十五歳に書いた広本があります。最初の略本には往相回向だけで、還相回向に触れられていません。広本だけに還相回向が記されています。これは、略本の後に『如来二種回向文』が書かれた流れでしょうか。
広本は親鸞が書いたかは確かではありません。
(浄土三経往生文類試解 幡谷 明著)
証巻の還相回向の説明に入る前に、既に還相を意識した引用文があります。また、行巻の「成就」の問題で取り上げたように還相を意識した引用文は、それまでにもありました。ということは、往相回向の中には、必ず還相回向も含んでいるということではないでしようか。だから、三経往生文類の略本で還相に触れなかったのは、既に往相に還相が含まれていたということではないでしょうか。
同一に念仏して別の道なきがゆえに。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり(証巻岩波P247・聖典P282 真仏土巻岩波P320聖典P324)
すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得
(証巻 岩波P247・聖典P283 ・ 真仏土巻 岩波P304・聖典P314)
●憂歎の声、聞けますか(岩波P249・聖典P284)
第四回 還相回向
往相回向の帰結文
それ真実の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。かるがゆえに、もしは因もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざることあることなし。
因浄なるがゆえに、果また浄なり。知るべしとなり。(岩波P250・聖典P284)
しかれば、もしは往・もしは還、一事として如来清浄の願心の回向成就したまえるところに
あらざることなきなり。知るべし
(浄土文類聚鈔 聖典P408)
教行信証の中でよく似た文章を探してみると
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。
(信巻 三一問答の初め 岩波P150・聖典P223)
「知るべし」とは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄の願心の荘厳せるところなるによって、因浄なるがゆえに果浄なり。因なくして他の因のあるにはあらずと知るべしとなり。
(証巻 岩波P260・聖典P289〜290)
「菩薩は第五門に出でて、回向利益他の行成就したまえりと、知るべし」「成就」は、いわく回向の因をもって教化地の果を証す。もしは因、もしは果、一事として利他にあたわざることあることなきなり。「応知」は、いわく、利他に由るがゆえにすなわちよく自利す、
これ利他にあたわずしてよく自利するにはあらざるなり、と知るべし。 (行巻 岩波P101・聖典P193)
『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じおわりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに、と言えり」(論)、と。(証巻 岩波P251・聖典P285
信巻 岩波P165・聖典P233)
(岩波P62・聖典P170 行巻では前の往相だけ引用)
往相の行人は、すでに還相の菩薩になっている
謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。
(教巻 岩波P29・聖典P152)
謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
(行巻 岩波P37・聖典P157)
謹んで往相の回向を案ずるに、大信あり
(信巻 岩波P128・聖典P211)
なぜ往相の説明しかしていないのでしょうか
「まず浄土を目指せ」という如来の声を聞くことが大切であるからではないでしょうか。浄土を目指す行人は、おのずから還相の菩薩になることを示しているように思います。すべては如来回向です。
最初は、自分の力で浄土を目指していた私。如来回向により
すでに浄土が私たちに開かれていた驚きと共に南無阿弥陀仏
( 還 相 回 向 )
教行信証を読む心得
なかなか難しいことですが、わかろうという心を捨てましょう。教行信証からの問いかけを
聞くことができるようにして下さい。私から、理解して読もうという心を捨てることです。
教行信証を読んでいくと、知らぬ間に曇鸞の『浄土論註』、善導の『観経疏』などに触れているのです。
印度 中国 日本
曇鸞
龍樹・天親 善導 源信 源空
道綽
学問として読むのではなく、どのような気持ちで書かれたか、
親鸞の心を知っていただきたいと思います。
教行信証は、数々の引用文から成り立っていますから、引用文がどのようなつながりを
持っているのか、親鸞の心を知ることが大切です。
「ひそかにおもんみれば」(岩波P29・聖典P149)「つつしんで…案ずるに」で始まりますが、
「ひそかに」「つつしんで」とか素直に思えることは、なかなかできないのではないでしょうか。
何かを発見したら、大声で叫びたくなる私ばかりです。
「敬いて一切往生人等に白さく」(岩波P111・聖典P200)ともありますが、
念仏の信心を得た人を敬うことはできますか?自分の方が上だとか、いつも人と比べている私がいます。他人よりも優れた自分でありたいと思い、いろいろ他人に対して批判的に見てしまう私もいます。
共に敬い合える世界は尊いのではないでしょうか。
教行信証を自分で読むのではなく、教行信証からのアプローチ、
声なき声に耳を傾けていただければと思います。
● 『正信偈』の中で証を探してみよう
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり。
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 (龍樹)
大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と。
未証浄心の菩薩の問題(証巻 岩波P251・聖典P285)
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 (天親)
蓮華蔵世界に至ることを得れば すなわち真如法性の身を証せしむと。
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 (曇鸞)
惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 (道綽)
道綽、聖道の証しがたきことを決して ただ浄土の通入すべきことを明かす。
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむと、いえり。
与韋提等獲三忍 即証法性之常楽 (善導)
韋提と等しく三忍を獲、すなわち法性の常楽を証せしむ、といえり。
真宗教証興片州 選択本願弘悪世 (源空)
真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。
第五回 未証浄心の菩薩
かの仏を見たてまつれば(観仏本願力)、未証浄心の菩薩も必ず平等の法身を得証する。 (岩波P251 後七行・聖典P285)
未証浄心の菩薩―いまだ純粋清浄の身となっていない菩薩
初地から七地以下のもろもろの菩薩(岩波P252)
平等法身―八地より上の生死を超えた身体を持った菩薩
「八地巳上法性生身の菩薩なり」(岩波P251 後四行)
初地―真理の発見(願を立てる)
二地―現実世界にかえり、道徳の基本的な訓練を始める
三地―聞法、禅定、観察の修練を重ね、智慧の光を発見
四地―悟りの涅槃と迷いの生死を凝視し、人格の練磨
五地―真理追求(自利)と社会活動(利他)に踏み出す。人格磨く
六地―大悲心に基づき、現実の姿を凝視、空を体得
七地―諸仏の世界は我々自身によって無功用に実現。沈空 方便
八地―すべての努力からの解放、無功用の本性に目覚める 願
九地―善、悪、無記の区別、煩悩と煩悩を超えた区別 力
十地―菩薩の境地の最高点 智
畢竟(必ず)というのは、ただちに等しくなるということではない。必ず上地の菩薩と
等しくなることが間違いないゆえに、等しいというのみである。(岩波P253初・聖典P286)
雪だるまを作るとき、まず小さな雪の玉を作ります。それを
転がしていけば、自然と大きな玉に膨らんでいきます。
初地とは、小さな玉ができたということではないでしょうか。
後は転がしながら、(聞法しながら)大きく形を整えていくことが必要です。
最初の玉が、これ以上小さくはならない、しっかりとした玉に
なるという状態が不退の位も指すのではないでしょうか。しかし、
たゆまなく聞法していかなければ大きな玉(仏)にはなれません。
大海に似た煩悩の苦しみがなんら滅びることがないのに、二、三滴の煩悩を滅ぼすことが
できたことで、心が大いに歓喜する(岩波P47)
平等法身―仏も法も僧もおわしまさぬ無数の世界にさまざまに相
をあらわし、さまざまに一切衆生を教化し度脱して、
つねに仏と同じ働きを行うのである。別の国土に行っ
たという思いも、一切諸仏を供養したという思いも一
切衆生を度脱したという思いもない。(証巻 岩波P252・前二)
聖典P285・後七)
度無所度―済度しても済度していない(岩波p274後五・聖典P297)
未証浄心の菩薩―よく応化の身をあらわして、あるいは百、あるいは千、あるいは万、あるいは億、 あるいは百
千万億の仏のいない国土に出現して仏事を行う。
しかし、心をはたらかせて三昧に入っている。無心の状態ではない。
阿弥陀仏に会えば、上位の菩薩と必ず身も等しくなり法も等しくなる。
(岩波P252 前六行・聖典P285後四行)
二十二願
もし私が仏となることができれば、他方の仏国土に住む菩薩たちが、私が造った国に来生すれば、仏道を究めさせて必ず一生補処にいたらしめる。ただし菩薩たちが、みずから衆生を教化しようとする本願をいだいて、弘大なる誓いの鎧を着て徳の本を積み、一切を度脱したあとで諸仏の国に遊行し、菩薩の行を修めて、全宇宙の諸仏如来を供養し、恒河沙にひとしい無数の衆生を開化して、
無上の道を立たしめようとするものたちはのぞく。
一生補処の菩薩たちは通常の菩薩たちを超え出、菩薩の初地から十地までのさまざまな境位を即座に実現してしまい、最高の働きである普賢菩薩と同様の利他行を習い修めることであろう。
もしこの願いが実現しなければ、私は仏にならない。
(真継信彦訳)
(岩波P253後一・聖典P286後七行)
二十二願にも、なぜ除かれる者があるのか?
本願に出遇った者は、衆生を教化し続けていく使命があるからではないか。聞法しながら、この世で苦しみ、悲しみを持ち続けて生きていく姿こそ後人に何かを示していく働きがあるのではないでしょうか。ただ、その時「私は何かを伝えようとしている」作心があってはいけません。すべては本願力に
よって与えられたものであり
除かれた位置にいることを知ることが大切なのです。
第六回 如実修行
国土の荘厳―十七種
仏 の荘厳― 八種
菩薩の荘厳― 四種
国土の主→仏→座→座主(法蔵菩薩)→身業→口業→名聞(得名)→
心業→人天の大師(大衆の上首)=仏→荘厳不虚作住持
●空しく過ぎない
回向を首として大悲心を成就する(岩波P251・聖典P285)
浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火の中に生まといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず(岩波P246・聖典P282)
法蔵比丘のご苦労
たとい、身をもろもろの苦毒の中に止るとも、わが行、精進して
忍びて終に悔いじ。(大経・聖P13)
法蔵菩薩の因位(法蔵比丘)の時を感じることができるか。
第十五願―その本願、修短自在ならんをば除く
二十二願の「除く」も自由に教化していく意味?
私個人として読むのであれば、私は法蔵菩薩ではないので
自由に教化できるわけはありません。
法蔵比丘が四十八願(本願)を成就して阿弥陀仏になられた
ご苦労を「除く」に感じることができるか。
私個人の立場として読むのであれば、私が菩薩という誤った
解釈をさけるためにも、教化者意識を鎧につけた鼻持ちなら
ない人間として、あえて「一生補処から除かれた者」と
読むことも、末法という時代において必要なのではないか?
●現代人は、菩薩の名のりも自ら名のることは許されない時代になった。私たち衆生の側からは
二十二願も本願から除かれた者と機の深信を徹底化するために読む必要があるのではないか。
真如はこれ諸法の正体なり。 (岩波P257・聖典P288)
如実修行―行のまま不行、不行のまま行じている
如実修行とは、常に修行すといえども、実に修行する所なし(論註)
一、 仏・法・僧(三宝)を受け継ぎ絶えないようにする
一仏土において身動揺せず(不動)十方を遍す
座―仏・菩薩はどこにいるか?
高原の陸地には、蓮華生ぜず。卑湿の汚泥に、いまし蓮華を生ず
(岩波P258・聖典P288)
いちばん悲しいことが、あなたを輝かせる肥料となるのです。
―泥多ければ仏大なりー 泥を捨てたら美しい花は咲かない
(青山俊董)
私の泥んこの底が浄土の入り口になっていた (榎本 栄一)
私の一生は傷だらけであるが、この傷から
しみじみ手を合わされるような後光がさしてくる(榎本 栄一)
しぶ柿はしぶがあるとて捨てるなよ。そのしぶゆえに甘くなる。
二、 応化仏のはたらきに時間的に前後なし。
一念一時無前無後 (岩波p258・聖典P289)
三、 仏・菩薩のはたらきが、無余(あますところなく)一切世界、
一切仏会に至る
形を超えたものが形となって現われる。声なき声が教えとして
用くということです。そういうことによって応化身として
菩薩の用きがある。 (幡谷 明)
四、 無仏(仏・法・僧なき)の国へ行って、衆生を救う
浄入願心―浄土の三種(国土・仏・菩薩)の荘厳もバラバラでなく
共に法蔵菩薩の願心におさまる
第七回 一法句
広 方便法身 修 俗諦 有 生死 方便 三厳二十九種荘厳
略 法性法身 性 真諦 空 涅槃 真実 一法句(清浄・真実)
法性法身(略)に由って方便法身(広)を生ず。
仏によって法蔵菩薩を生ず。
◎方便法身(広)に由って法性法身(略)を出だす。
法蔵菩薩によって仏を出だす。
● 法蔵菩薩は、方便法身から法性法身に深められていく(法蔵菩薩果位時・無上仏)
因位時―法蔵比丘
獲字は因位のときうるを獲という。得字は果位のときにいたりてうるを得というなり。名字は因位のときのなを名という。号字は果位のときのなを号という。
(末燈鈔 第五通 聖P602)
信楽を獲得(因果)するというは、如来選択の願心より発起す
(信巻・別序 岩波P127・聖典P210)
この三種の成就は願心の荘厳したまえるなりと、知るべし(浄土論)
(証巻 岩波P260前三行・聖典P289)
清浄句
一法句
真実智慧無為法身
一法句によって清浄句を生ず。清浄句によって一法句を出だす。
この三句(一法句・清浄句・真実智慧無為法身)は展転して相入る
(証巻 岩波P261前二行・聖典P290)
器世間清浄(十七種の荘厳仏土功徳成就)
衆生世間清浄(八種の荘厳仏功徳成就・四種の荘厳菩薩功徳成就)
一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべし
(証巻 岩波P262後六行・聖典P291)
真実智慧無為法身によって、清浄句が顕れ、すべて一法句に帰す
凡夫の出家の者を(持戒・破戒もみな)また比丘と名づくるがごとし
(証巻 岩波P263後六行・聖P291)
●親鸞は、持戒・破戒という言葉を論註から引用する時省きました。
無戒名字の比丘(化身土巻 岩波P381・聖P363)
無戒と言ったとき、まだ戒を意識している自分がいる。
戒に対する無戒であるから、無戒という言葉は戒を離れてない。
私たち凡夫には、比丘という言葉が大切なのではないか。
自ら菩薩と名のるよりは、比丘という言葉を大切にしたい。
無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 聖P509
舎利弗目連にひとしくて 供養恭敬をすすめしむ(正像末和讃)
人生に無駄なものはない
無駄という言葉そのものが、無駄を克服していない。
まだ無駄だと思う自分がいる。
あえて「無駄なことはない」と自分に言い聞かせている。
人生には無駄という言葉すらない。
仏の世界には、プラスもマイナスもない。あるのは事実だけ。
しかし、この世ではプラス・マイナスと分別している私
衆生清浄と言えるは、すなわちこれ仏と菩薩となり。
この国の人間や天上の神々たちも、この清浄な人の数に入れるか?
清浄と名づくることを得るは、実の清浄にあらず。
(証巻 岩波P263前五行・聖典p291)
みな大乗正定の聚に入りて、畢竟して当に清浄法身を得べし。
当に得べきをもってのゆえに、清浄と名づくることを得るなりと。
(証巻 岩波P263後一行〜264・聖典P292)
人・天は清浄ではあるが、真実の清浄とはいえない
第八回 仏との出会い
かくのごときの菩薩は、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就して、柔軟心なり」(浄土論)とのたまえり。(岩波P264前三行・聖典P292)
奢摩他―精神統一(止) 毘婆舎那―浄土の荘厳を観察(観)
柔軟心とし、いわく広略の止観、相順し修行して、不二の心を成ぜるなり。(岩波P264前四行・聖典P292)
● 柔軟心とは何か?
◎仏教用語の応用―生活に即して表現してみよう
腹が立った時、少しこらえて奢摩他(精神統一)してみよう。そして、自分はなぜ腹を立てているのか、自分の心を毘婆舎那(観察)してみよう。そこから、何が見えてくるか?
腹を立てさせてくれて有難う。思い通りにならなくて有難う。
憎い奴、長生きしてくれて有難う。
人間の常識では、考えられない眼をいただく。本来、憎い人は早く死んでほしいのでは
ないでしょうか。しかし、もし亡くなってしまったとしたら、普通の神経では
「そのようなことを思っていた自分が嫌になる」のではないでしょうか。
二、三滴の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余の未だ滅せざる者のごとし。
二、三滴のごとき心、大きに歓喜せん。
(行巻・岩波P47・聖典P162)
◎ なぜ苦は大海の水ほどあるのに、二、三滴の楽で満足するのか?
人生において、無駄なことに出くわすと腹が立つ。「人生無駄なし」
などとても言えない。しかし、数々の無駄だと思うことの中に、二・
三回でも、私の人生に意味があったと思えればよいではないか。
実相を知るをもってのゆえに、すなわち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄の相を知れば、すなわち真実の慈悲を生ずるなり。(証巻・岩波P264後五行・聖典P292)
衆生、虚妄(偽り)なるがゆえに、いつも無駄なことに腹が立つ自覚
善巧摂化―あらゆることを巧みに善きことに変化させて摂める
無駄なことも善きことに変える智慧・転じていく智慧
如来の巧方便回向を感じる(実相を知る)―成就
無上菩提心―願作仏心―度衆生心―願生浄土―無上菩提心
証巻の論註の引用文(岩波P265前四行・聖P292後四行)は、信巻
横超の菩提心の説明後(岩波P170後三行・聖典P237)にもある。
自分だけが救われればいい、というのはありえない。必ず一切衆生の苦しみを救いたいという、如来の本願の心(横超)に触れる。そこから仏道を歩む者となる(ともに仏道に向かえしめたまうなり)
(岩波P266・前二行・聖典P293前四行)
私たちは、燃えにくい(救われにくい)草木なのかもしれない。仏は、その草木を燃やそう(救おう)と
願われたが、先に燃え尽きてしまわれた。その願いをいただくことが大切なのではないか。
かの仏国(浄土)はすなわちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。
(証巻 岩波P266後五行・聖典P293)
安楽仏国に生ずるは 畢竟成仏の道路にて
無上の方便なりければ 諸仏浄土をすすめけり(高僧和讃 聖P493)
念仏の行者は、浄土に向かう道のりを楽しんでいる。
もちろん、苦しみもたくさんあるが、その苦しみに
少しは意味を見出し、それを楽しむ。思い通りにならず
腹を立てている自分を観察しながら楽しむ。
真諦(略) 俗諦(広)
無分別 無分別の分別
プラスもマイナスもない −をすべて+に転じる
無駄という言葉もない 何一つ無駄なものはない
あらゆる必要のない世界 願い、信ぜずにはいられない
既に救われている 迷いながら浄土に向かう
往生・成仏も一つ 往生を認識し、成仏を待つ
第九回 菩提のさまたげを離れる
三種―智慧門・慈悲門・方便門
智―進むを知りて退くを守るー自楽を求めない
慧―空無我を知るー自身に執着することから遠ざける
慈―苦を抜くー一切衆生の苦を抜く
悲―楽を与えるー安らぎのない心を遠ざける
方―正直(素直)―一切衆生を憐愍する
便―外己(自分のことは除外する)
わが身を供養して、慎み敬う心を遠ざける
何が浮き彫りになるか?
わが身の現実は遠ざからなくてはならないのに逆ではないか?
自分の楽しみだけを求め、わが身に執着している。
人の苦を抜くこともできず、心も安らかではない。
正直で素直になれず、人の気持ちもわからず、自分がかわいい。
そのようなわが身が見えてくるのが、大悲の智慧ではないか。柔らかな心が芽生えてくる。
(還相の徳)
『浄土論』に曰わく、「出第五門」とは、大慈悲をもって一切衆生を観察して、応化の身を示す。
生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して教化地に至る。
本願力の回向をもってのゆえに。これを「出第五門」と名づく、と。(証巻 聖P284・岩波P250)
もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海に渡せんがためなり。
このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに、言えり」(論)と。
(証巻 聖P285・岩波P251)
たまわりたる信心とは、遠ざからなくてはならない自己愛を
徹底的に否定していくものである。しかし、真証の証に近づく
ことを拒み続け、自己愛から遠ざかることができない。
第十回 菩提に順ずる
無染清浄心―自身のために諸楽を求めない
「菩提はこれ無染清浄の処なり」
安清浄心―自力の心を用い(作心)ないで、一切の衆生を救い生死の
苦しみを離れさせる
「菩提はこれ一切衆生の安穏する清浄の処なり」
◎ 注意 もし作心して一切衆生を抜きて生死の苦を離れしめず
は、すなわち菩提に達しなん。(聖典P294・岩波P268前五行)
作心は悪い意味ではないか?
作心をもってのゆえに、名づけて「未証浄心」とす(聖典P285・岩波P252)
もし自力の心を用いて一切衆生の苦を抜こうとして、生死(迷い)の苦しみを離れさせなければ、
すなわち「さとり」に達せない。
楽清浄心―常に変わらない楽しみの境界を得ることができる。
「菩提はこれ畢竟常楽の処なり」
衆生を摂取してかの国土(安楽仏国土)に生ぜしむるをもってのゆえに(聖P294・岩波P268)
畢竟常楽を得る。
論註の引用文が続いていますが、菩提心の展開、他力の信心を得た人、
菩薩はどう展開していくのか、証明せられているのではないか。
柔軟心を得る(聖典P292・岩波P264)―無上菩提心―願作仏心
―度衆生心(衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり)
―願生浄土(安楽浄土に生まれんと願ずる者は、必ず無上菩提心を
発する) (聖典P292・岩波P265前六行)
信巻でも、同じ引用文があるので確認(聖典P237・岩波P170後三行)
横超の菩提心の展開を探りながら証巻を読む
信巻では、菩提心は源信の菩提心義(華厳経・入法界品引用)から
始まっている(聖典P222・岩波P149後七行)
我またかの摂取の中にあれども…・・大悲無倦常照我
源信の菩提心義―善財童子が弥勒菩薩に教えてもらった菩提心
についての引用の抜粋
菩提心を得るーすべての煩悩も悪魔も怨敵も害を加えられない。
生死(迷い)の海に入っても沈むことはない。
いかに長時間煩悩の迷いの海に沈んでいようと
煩悩の業に打ち砕かれることも、傷つけ損失させ
られることもない。(聖P222・岩波P149後七行)
至心 法蔵菩薩は、和顔愛語にして、相手の意思を察した上で
質問を受けられる。勇猛精進にして、志願倦きことなし
(聖典P225・岩波P153後三行)
法蔵比丘…・広くかくのごとき大弘誓を発しき。みなすで
に成就したまえり。…・威徳広大清浄仏土を荘厳せり。
(聖典P226・岩波P154前五行)
信楽 『涅槃経』仏性の問題を受けて華厳経・入法界品の終り引用
この法を聞きて、信心を歓喜して疑いなき者は速やかに
無上道を成らん、もろもろの如来と等し(聖典P230・岩波P160前四)
次文 華厳 入法界品 第一善知識 文殊の言葉引用
初め
次文 華厳 賢首品―信心の徳を説く
もし諸仏の為に護念せらるれば、すなわちよく菩提心を発起
―仏の功徳を勤修―如来の家に生まれるー善巧方便―大悲心
(聖典p231・岩波p162前四行) 証巻へ(岩p264前三行)
欲生 証巻の還相回向の論註引用と同じ
信巻(往相含む)―聖典p233岩波p165前六行
証巻(還相だけ)―聖典p285岩波p251前三行
次文 浄入願心の初めだけ引用
信巻―聖典p233・岩波p166前二行
証巻―聖典p289・岩波p260前一行
次文 「出第五門」引用 遊煩悩林現神通 還相の生活
信巻―聖典p234・岩波p166後七行
証巻―聖典p284・岩波p250後三行
道俗時衆等、おのおの無上心を発せども、生死はなはだ厭いがたく、
仏法また欣いがたし。共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。
正しく金剛心を受け、一念に相応して後、果、涅槃を得ん者と云えり
(聖典P235・岩波P1674後一行)
真心徹到して、苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣いて、永く常楽に帰すべし。
(聖典P235・岩波P168前四行)
「菩提は畢竟常楽の処なり」証巻(聖典P294・岩波P268後六行)
テーマ ●横超の金剛心(浄土の大菩提心)
無上菩提心―願作仏心―度衆生心―願生浄土(論註引用)証巻・岩P265
金剛の信心獲得―現生十益(心光常護の益)
論の註に曰わく、かの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、発無上菩提心を要す、
とのたまえるなり(聖典P242・岩波P177後六行)
真の仏弟子―金剛心の行人(聖典P245・岩波P182前二行)
設い我仏を得たらんに、十方無量・不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が光明に触るる者、
身心柔軟にして人天に超過せん。もし爾らずは、正覚を取らじ、と。(三十三願)
聖典P245・岩波P182前四行
摂取不捨の願
一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。(観経 聖典P105)
やわらかな心・柔軟心
「おおよそ浄土に往生せんと欲わば、発菩提心を須いるを要とするを源とす」云何ぞ。
「菩提」はすなわち無上仏道の名なり。もし発心作仏せんと欲わば、この心広大にして
法界に周遍せん。 (聖典P247・岩波P183前六行)
九十五種みな世を汚す、ただ仏の一道、独り清閑なり。
菩提に到って慈悲の心がつきることなく、火宅の世界に還って来たりて人天を済度する。
(削除している) 聖典P251・岩波P192前五行
愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、
真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。
●他力の信心(菩提心)をいただくとどうなるかー証明
ただお念仏というやわらかな心(柔軟心)が身についてくる。
自分だけの楽しみを求め、わが身に執着していることから離れようとする心が発こる。
人の苦しみをどうにかして抜き、心安らかに勤めようとする心が発こる。
正直で素直に他人の気持ちを理解しようとする心が発こる。
浄土が明らかになることによって、どこまでも自己満足に陥ることなく、
いつも自分中心のわが身が照らし出されてくる。
私の心の根底(至心)には、法蔵菩薩(阿弥陀仏)が、私の代わりに
あらゆる人を救おうと願って下さっていることを知る。
私の悲しみには限界がある。あらゆる人を悲しむことのできない底に、
如来の大悲心がかけられていた。
阿弥陀仏のひかりの中に、柔らかな心が芽生えてくる。
その柔らかさはふにゃふにゃしたものではなく、ダイアモンド(金剛)のように
堅いものでもある。私の分別を超えた柔らかさがある。
しかし、他力の信心を拒み続けている私がいる。
死んでも死なない、永遠のいのちをいただきます。
腹は立っても、憎しみは消えていきます。
人生で迷うことがあっても、安心して迷える立脚地をいただく。
嫌なこと、辛いこと、悲しいことに出くわしても、全部が全部有難いこととはいただけませんが、
悲しくて嫌なことも有難いことに転じていきます。
愛しても、「愛した」なんて恩着せがましいことは一切言いません。
逆に「まだまだ愛が足りない」と無限の愛を注ぐことが可能になります
第十一回 菩提をまとめる
名義摂対―離菩提障・順菩提門の二つは別々でなく、一つにとりまとめる。
自分の楽しみだけを求め、わが身に執着している(智慧)
人の苦を抜くこともできず、心安らかでない(慈悲)
正直で素直になれず人の気持もわからず、自分がかわいい(方便)
↓
そのようなところから離れる
自身のために諸楽を求めない(無染清浄心)
自力の心を用い(作心)ないで、一切衆生を救い生死の苦しみを離
れさせる(安清浄心)
衆生を摂取して浄土に生まれさせて、常に変わらない楽しみの
境界を得ることができる(楽清浄心)
智慧・慈悲・方便―般若を摂取する。般若、方便を摂取す。
般若―如に達するの慧の名―心行寂滅
方便―権に通ずるの智の称―備に衆機に省くの智―無知
動、静を失せざることは智慧の功なり。
静、動を廃せざることは方便の力なり。
(聖P295・岩波P269後七行)
もし智慧と方便とに依らずは、菩薩の法則、成就せざることを知るべし
(聖P295・岩波P269後四行)
もし智慧なくして衆生のためにする時んば、すなわち顛倒に堕せん
もし方便なくして法性を観ずる時んば、すなわち実際を証せん。
(聖P295・岩波P269後二行)
●実際を証せんー実際(コーティ・限界)を定めてしまう。それ以上はどうに
もならないのだと、そこが人間の限界にしてしまう(平野修)
歎異抄四章を受けて、「人間は愛することができない」愛するのは
自力と、勝手に限界を定めてしまっているのではないか?
遠離我心貪着自身・遠離無安衆生心・遠離供養恭敬自身心
三種の法は障菩提心を遠離するなり(聖P295・岩波P270前一)
無染清浄心・安清浄心・楽清浄心
この三種の心は略して一処にして妙楽勝真心を成就したまえり
楽―三種―外楽・内楽・法楽
↓
智慧所生の楽―仏の功徳を愛するより起こる
遠離我心・遠離無安衆生心・遠離自供養心、清浄に増進して、
略して妙楽勝真心とす (聖P295・岩波P270後三行)
この楽は仏を縁じて生ずるをもってのゆえに。勝の言は三界の中の楽に勝出せり。
真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり (岩波P270後一)
たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。
ここをもって極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり
(信巻 聖P212・岩波P129前三行)
妙楽勝真心―真実信心(信楽)―浄土の大菩提心
如に達すれば、すなわち心行寂滅なり(聖P294・岩波P269前五行)
↓
証巻の初め(聖P280・岩波P243)
しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、
即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するか゜ゆえに、必ず滅度に至る。
必ず滅度に至るは、すなわち常楽なり。常楽はすなわち畢竟寂滅なり。
寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。
一心の大行(南無阿弥陀仏)をいただくことは、いただいたと
いう心も捨て去って(寂滅)いかなくてはならない。智慧―静
私たちの器(機)に応じて、備(全体的)にはたらく。方便―動
名義摂対とは、機と法が対応して摂め合っていることを示す
法に触れた時、機が明らかになり、機が明らかになった時、
既に法に包まれている。
第十二回 願いの成就
智慧心・方便心・無障心・勝真心―清浄仏国土に生ぜしめる
他の縁によっては生じることができない。
身業―礼拝 口業―讃嘆 意業―作願 智業―観察
方便智業―回向
五種の業、和合して、往生浄土の法門に随順し、自在の業成就
柔軟心は『大乗荘厳経論』教授品にも出ているという幡谷明博士の
ご指摘により、少しく考察してみたい。
『大乗荘厳経論』は、天親よりも前の経典であり、弥勒もしくは無着が
書かれたものに注釈がつけられたと言われている。
阿弥陀仏の出現
別時の意とは、仏の「若し阿弥陀仏を見んと願わば一切のもの皆な往生することを得」と
説くが如し。
(弘法品) (新国訳大蔵経P213)
別時の意―誓願の成就について現在世にかなわずとも、それ以外に成就する機会がある
同じく弘法品には、信についてバクティbhakti(神に対する絶対的崇拝)が使われている。
この例はヒンドゥー教的な用語
(右P210)
如来蔵思想もまた、人間や人間の心を問題とするのではあるが、
その心は上からの崇高なるものの流出として先ずとらえられる(むしろヒンドゥの考えに近い)
「中観と唯識」長尾雅人著 P283
ヒンドゥの自在神は、宇宙的な行為に参加する。彼は宇宙の創造者であり、
保持者であり、またその破壊者である。しかしすべての仏教はこのような神の存在を否定し、
仏陀は宇宙の動きに介入せず、ただ精神的な師であるにとどまる。
「中観と唯識」P277
仏教の信
シュラッダー(sraddha)―仏道修行の初歩の信
プラサーダ(prasada)―浄信・澄浄、(阿弥陀仏の十八願の信楽)
アディムクティ(adhimukti)信解、とうとう智慧が開かれてくる
● プラサーダについては「浄土三部経」(上)岩波文庫P256参照
法然が善導の『観経疏』のくだりを読んだ読み方には独特なものがあったが、
彼の主張した信仰形態は、インドで古くから伝えられたバクティ(献身、献愛)と同質のものである。
チベットにおいても、浄土に住む阿弥陀仏の帰依は多くの人々の心をとらえた。
中国における浄土教の発展、さらには奈良、平安の浄土教をふまえて、法然の浄土教は
成立しているわけであるが、この浄土教運動は、ヒンドゥー教のバクティ運動の仏教版と
みることができよう。法然や後の親鸞の説く念仏の対象としての阿弥陀仏は、まさに
「人格神」そのものである。
(日本仏教の思想 立川武蔵著P123〜125)
梶山雄一氏も、回向について阿弥陀仏とヒンドゥー教のヴィシュヌ神について指摘されている。
(「さとりと回向」)
阿弥陀仏信仰は、ヒンドゥー教のなんらかの影響は考えられるが、
人間から仏・神への絶対的信は不・回向として却下される。
阿弥陀仏からの一方的な絶対信によって、私の信が浄化(プラサーダ)される。
柔軟心とは、先の不虚作住持功徳の下にいわれる浄心・浄信
(citta-prasada・心浄信)であることが知られる
(世親の浄土論 山口益著 P166)
如来に信ぜられ、如来に敬せられ、如来に愛せられる。かくて我は如来を信ずることを得る。
ほとけから信ぜられている、絶対になにもかも承知の上で信ぜられている。
このことが一番大事で、本願だの念仏だのそれはあとの問題です。
ほとけから信ぜられているということが、信ぜられないのを難信といいます。 (曽我量深)
真宗は、絶対的な信は私の方からは認めない。
私側に絶対的献身があるとするならば、それは自分の都合が
よいから信じているだけでしょう。私が信じることができない、
難信のところにこそ、わが身の姿(機)があり仏に背き続けている
わが身だからこそ弥陀の大悲がある。人間からの絶対的帰依は危険である。
柔軟心成就は、最清浄法界(浄土)からの聞薫習より生じる
『大乗荘厳経論』の柔軟心の展開
述求品 (第十二の一) 譬えば皮を柔らげて熟革を軟かならしむ
が如く…・、転依もまた爾り。(新国訳P178)
弘法品 (第十三) 柔軟声とは、現前に法を聞きて楽触を得るが故
なり 如来の不可思議なる音声 (新国訳大蔵経 P207)
教授品 (第十五) 福知を聚集し已れば 仏子は最初より浄なり。
極智と及び軟心ともて 諸もろの正行を勤修す
軟心とは、諸障を離るるが故なり。
自後に諸仏より 法流と而して教授とを蒙り
寂静と智とを増益し 広く大乗に進趣す
諸仏如来の修多羅等の法を以って而も為に之を説くを蒙る。
諸仏を供養することを因と為すに由るが故に、
更に第一の勝れた柔軟心を成就することを得。
是の如く勝れた心を得已りて、便ち諸仏に称揚せらるるを得。
(右同 P231)
供養するということは、何にもならないことをさせて
執着心を捨てさせ、柔らかな心をいただく。
柔軟心は、浄なる法界より流れてくるのではないか?
弁中辺論では、柔軟心とは「国土の清浄を獲得することである」
(「世親の浄土論」山口益著 P166)
●柔軟心が流れてくる場所(法界・浄土)が必要
法界は本来清浄なるが故に性浄といい、後時に塵を離れて清浄なるが故に無垢というなり
( 新国訳大蔵経 P222 随修品 第十四)
最清浄法界より流るるところの正聞薫習、種子(アマラ識)となるが故に
出世心(法蔵菩薩・柔軟心)生ず (摂大乗論) <アラヤ識の転換>
心の真如を離れて別に異心有らざれば、依他の相を説いて自性清浄と為すというは、
此の中、応に心の真如を説いて之れを名づけて心と為すと知るべし。
即ち此の心を説いて自性清浄と為す。此の心即ち阿摩羅識なり。
<随修品> (新国訳大蔵経 P223)
主に柔軟心の出ている教授品の前の随修品に菩薩の志願も記述
菩薩は慈悲もて諸々の衆生の為めに大地獄に入りて大いに苦しむを辞さず。
菩薩は衆生の為めに長時に大地獄に入ると雖も、以って苦しみと為さず。
法蔵菩薩の志願・普賢菩薩の志願?(新国訳大蔵経 P221)
凡夫に与えられた道は、清らかな場所・依止(法界・浄土)で
すべてが清められていくのではないか?
我と法との仮説が行われる場が識転変である。(唯識三十頌)
場と訳すのは、それ(我と法の仮説)は識転変においてである」から。
(講座大乗仏教・唯識思想「世親の識転変」横山紘一P126)
唯識の大家である世親(天親)は、唯識を究める中でパリナーマ(parinama)転変という
語句を独自に用いた。さらに、不思議なことは回向もパリナーマと使われている。
浄土(法界)から回向されてくることによって、我々の意識が転変し
柔軟心をいただくのではないか?
『大乗荘厳経論』にも「所依」(asraya)がよく使われている。
所依は、サンスクリットでアラヤに発音も似ていて、基体・根底・帰依所・根源・
主体・肉体・人間の総体的あり方・法界・転換されるべき存在の根底という意味がある。
(「中観と唯識」長尾雅人著 P433)
法蔵菩薩は阿頼耶識である (曽我量深)
このアラヤ識は、サンスクリットのasrayaの当て字なのではないだろうか。
アラヤ識が転換されていく場所こそ浄土であり、その法界より法蔵菩薩が出現されたのである。
曽我氏が参考にした「成唯識論」には、アラヤ識は迷いの識であり、法蔵という言語も
アラヤには結びつかない。後期の唯識は、如来蔵というものを徹底的に否定しているので、
アマラ識という清浄無垢な識も認められてはいない。
曽我氏は、世親が浄土論という唯識にしては異例なものを書かれたという精神に基づき、
如来回向として浄土が開かれてくることによって、識転変も凡夫に可能になってくる
弥陀の本願力を感じたのであろう。
初期唯識に基づきながら、これからも考察していきたい。
法然上人が、膨大な『一切経』を五回も読まれたことを考えると、
一冊くらいは読んでみてもよいのではないか。
なぜ『大乗荘厳経論』など必要か?
仏教が始まったインドの龍樹・天親が親しまれたものに
注目する必要があるのではないか?
(釈尊と親鸞の関係も大切)
あらゆる人が場所・所依・拠り処を求めている。
あなたの拠り処は何ですか?
両親・子供。夫・妻・お金・健康ですか。
この世にあるものすべてが無常であり、当てにならない。
無常なるものを依り処にしている限り、
すべてがいつか崩れてしまいます。悲しきことです。
人は誰もが場所を求めている。
すわる場所がなければ、そこに居られません。
進む場所がなければ、どこにも進めません。
場所とはスペースだけでなく、心の繋がりの中で
自分の居場所がないとも感じます。
人はいつ、いかなる時も場所を求めている。
死んだらどこへ行くのだろうかと、
誰もが最期には死に場所も求めていく。
場所を求める心は、浄土に繋がっていくのではないか。
あるとか、ないではなく、なくてはならない浄土。
天親も、自らの拠り処を仏の荘厳された浄土に求めたのではないか。
浄土に到達するまでに唯識が必要だった。
曇鸞の論註は、空の教えに基づいて説かれているが、
曽我先生は『浄土論』を唯識の立場から捉えたかった。
第十三回 自利利他の成就
近門―安楽世界に生まれることを得しむ(初めに浄土に至る)礼拝
大会衆門―如来の大会衆の数に入る 讃嘆
宅門―蓮華蔵世界に入る(奢摩他寂静三昧の行を修す) 作願
屋門―種々の法味の楽を受用(毘婆舎那を修す) 観察
園林遊戯地門―教化地に至る(遊煩悩林現神通〜) 回向
浄土が多少明らかになる→共に浄土を目指している法友を知る(まだ共に歩めない人もいる)→あらゆる人を包み込む深い浄土のあることを知る(蓮華蔵世界)→あらゆる人を法友と自覚する→一人でも多くの人にすばらしい浄土を知っていただこうと歩み始める。
大経を製作した人は何を基にしたか?
@永遠に存在する如来(阿弥陀仏)を登場させよう。
Aモデルを釈尊にして、国王が出家して修行を積む菩薩を主人公にしよう。
B大経よりも以前に製作されたものもある『華厳経』をヒントにしよう。
そして、華厳に説かれた「蓮華蔵世界」を阿弥陀仏の浄土に結びつけよう。
C菩薩が悟りを得ると「柔らかな心」が身につくことを証明しよう。
D釈尊亡き後、弥勒菩薩が兜率天で修行して、五十六億七千万年後に出現する
逸話も題材にしよう。兜率天から浄土信仰に発展させてみよう。
(大経後半の対告衆は弥勒菩薩である)
検証@ABD『摂大乗論』などの変化身
人間仏の姿を取り、言葉を用い歴史の上に現れる仏身。
モデルは釈尊。そして、理想仏は阿弥陀仏になった。
変化身とは、法身が基盤となってこの世に現れた仏身である。すなわち、兜率天Dにいること、を初めとして兜率天から没して、この世に生を受け、愛欲を享受し、出家し、外教の師に教えを受け、苦行を行い、最高のさとりを開き、法輪を転じ、完全な大涅槃を示すところの仏身であるからである。
(「摂大乗論」下巻 講談社 長尾雅人著P315)
あの時あの時分には、私は毘婆尸(過去七仏の最初の仏)と呼ばれる正しいさとりを得た尊敬されるべき如来であった、と説かれている如きである。また、別な時を意趣することによる。
すなわちもし多宝如来の名号を身に保つならば、それによって人々は最高の正しいさとりを得ることに決定的となるであろう、と説かれたり、またもし極楽世界に生まれたいと願いを立てるならば、
それだけで人々はそこに生まれるであろう (「摂大乗論」上巻長尾著 P388)
平等の意とは、仏の「往昔の毘婆尸仏即ち我が身是れなり。法身は無差別なるに由るが故に」と説くが如し。……別時の意とは、仏の「若し人阿弥陀仏を見んと願わば一切のもの皆な往生するを得」と説くが如し。 (「新国訳大蔵経」『大乗荘厳経論』弘法品P212)
末法においては、特殊な意味ではなく本当の意味で、
阿弥陀仏というモデルが一番適していったのではないか。
BD何等をか仏の摂持と為し、何等をか法の摂持と為し、何等をか兜率天Dに住する所行の
事業と為し、何等をか兜率天にて命終を示現すと為し、何等をか神を母胎に降す事を示現すると
為し、何等をか微細の趣を示現すると為し、何等をか生と為し、何等をか大荘厳と為し、何等をか
遊行七歩と為し、何等をか童子を示現すと為し、…・・何等をか捨家出家を示現すと為し…・
仏子、何等をか如来応供等正覚の大般涅槃を示現したまふと為す
(「国訳大蔵経」・華厳経 第二 P546)
B蓮華蔵世界=浄土 十八円浄(円満)
無量の功徳衆の荘厳する所、大宝華王衆(紅蓮華)の建設する所の
大宮殿の中に住したまひき(『解深密経』国訳経集部三 P14)
無量の功徳聚の荘厳する所の大蓮花王を依止と為す『摂大乗論』
大蓮花王を以て、大乗の顕わす所の法界の真如に譬える。蓮花は泥水の中に在りと雖も、
泥水の為に汚されないのは、法界の真如の、世間に在りと雖も世間の法の為に汚されないに
譬える。又、蓮花の性は自ら開発するは、法界の真如の性の自ら開発するに譬える。…・
又蓮花に四徳有り。一に香、二に浄、三に柔軟C、四に可愛なり。
(摂大乗論釈 真諦訳 国訳 瑜伽部九P443〜444)
世親の『浄土論』の二十九種荘厳を十八円浄に結びつけて考えることは、共通な事項があっても、
両者の説述の組織が全く異なっているから、似た項目を結びつけて考えることは可能てあっても、
そのことによって『浄土論』が十八円満に基づく、依る、ということにはならない。
世親は無関係に独自の浄土論を展開した。 (『摂大乗論』下巻 長尾著 P421〜422)
世親が二人ではなく、唯識の大家世親と同一人物であるのならば、
『大乗荘厳経論』『摂大乗論』などの影響を必ず受けているものだと考えられる。
切り離して考えることは誤まりだと思う。『大経』には様々な思想を含み、
大乗の教えを凝縮して書かれたに違いない。そこに、『浄土論』がある。
仏教学で認められてないことも、真宗学では認めることが可能なところに
独自の親鸞の学び方があるのではないか。
C菩薩は柔らかな心を得る検証
前回の山口益氏の「柔軟心とは浄信(citta-prasada)を受けて、
『摂大乗論』でも調べて見ると、
菩薩の思索による修習がこのように六種の意欲に包摂されていることを誰かに聞いたならば、
信の一念を生ずるであろうし、それによって彼らは、無量の福徳を起し、過去に為した諸悪の
生涯もすべて消滅するに至るであろう。 [無碍の一道] (「摂大乗論」上巻 長尾著P135)
蓮華蔵世界(浄土)には、柔軟の徳がある(真諦訳)
真如法界(浄土)より顕現された柔軟心―信の一念
「柔らかな心をいただいた」とは言えない柔らかさを身につけなくてはならない。
なぜなら、「いただいた」と言いながら、「頑固だ」と批判されたら腹を立ててしまう
私がいる。全然柔らかではない。自分をどこまでも否定できるところに無限の
柔らかさが広がる。自分を否定できる場所こそ浄土ではなかろうか。
自分をとことん否定しても立脚地がある。
Dの兜率天の検証
もし極楽に生まれれば、昼夜問わず思うままに兜率宮に往来できるし、
さらに龍華会において、新たに弥勒仏の説法の第一の相手になれるのである。
これはたとえば富貴の身として故郷に錦を飾るごときものである。
誰かこれを喜び願わぬ者があろう。
ところで、もし別に因縁があれば他の浄土を求めるのもよかろう。すべて心に
願うままにするがよい。ただし、誤った考えに執着してはならない。それゆえに、懐感法師も、
兜率天をめざしてこれを求める者は、西方浄土を願う念仏修行の人をそしってはならないし、
西方極楽浄土に往生を願う者は、兜率の修行をそしってはならない。
各自がその性分や希望にしたがって、心のままに修学せよ。そして互いに良し悪しを
争ってはならぬ。そのようなことをすれは、良い所に往生もできず、またも地獄などの
三悪道を流転することとなろう、
と言っているのである。(「往生要集」大文第三 極楽の証拠終わり)
これを読むと、親鸞の『教行信証』の信巻の
真に知りぬ。弥勒大士、等覚の金剛心を窮むるがゆえに、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は
横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終の一念の夕、大般涅槃を超証す。
かるがゆえに、「便同」と曰うなり。
(聖典P250・岩波P190)
は、弥勒の兜率天信仰にも近く、さらに横超で速くさとりを得ることができると
述べられているのではないか?
検証 作願門、これは入第三門で、奢摩他寂静三昧、奢摩他というのは止観、
煩悩の動きを止めることを言う。その時に蓮華蔵世界に入ることを得しむ、
蓮華蔵世界とは涅槃をいっている。これは奢摩他、止という、煩悩の働きを
止める、煩悩が止まる。それは死んでから。第三門からは死んでから。
第二門までは生きている時。浄土は二つある。
(「あゆみ」第349号 細川巌)
謂く若有分別の影像を説くは即ち此の中の毘婆舎那品なり。
若無分別の影像と説くは即ち此中の奢摩他品なり。
(「瑜伽師地論」第二十六 国訳瑜伽部二 P112・「解深密経」分別瑜伽品)
第三門は無分別の世界、第四門は無分別の分別の世界である。
無分別の世界は「死んでから」でもよいかもしれないが、無分別そのものに
触れた時、一念の世界でもよいのではないか?
第四門は、後得清浄世間智を表している。
『正信偈』で確認するならば、
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽
第三門は、信の一念が相応して、第四門は、その後にいただく。
無分別の世界は難しいので、死後と考えた方がよいかもしれないが、
無分別そのものに触れた時、蓮華蔵世界が明らかになり、第四門(屋門)
と共に、第五門(教化地)が始まると考えた方が、『正信偈』に即す。