往生と成仏
曾我量深先生のご指摘
往生という言葉には種々の使い方があることと思うのでございますが、そういうことはやはり真宗教学が完成していないからそうなる。だから今日の我々は、今まで教学は完成しておらんのでありますからして、完全にするようにみんなが手をとりあって努力していくべき時期に到達したと私は思う。今までの御聖教だけでは或はあいまいなことが事がたくさんありまして、今日やはり教学というものを決定しなければならぬと思います。そういう時期に達したと思います。そうでないと何時までたっても弁解的な不徹底なことになってしまう。そんなことで宗学が終わったら大変だと思います。今日やはり茨の道を切り開いていくという覚悟をしなくてはなりません。蓮如上人も御苦労下されたであろうが、今日の我々は蓮如上人以上の覚悟をしなければならないと思います。それをしなければ真宗は滅亡します。今までのような程度の、ここにこうあるからどうのと、そのような程度の生ぬるい研究に終わったならばわれわれの浄土真宗は滅亡します。
(昭和四十二年六月、岡崎教務所)
この「あいまいなこと」というのは、人間の分別に即して表現されているところ(広)と、分別を超えた
無分別に即して表現されているところ(略)の違いだけではないでしょうか。
結局、西田哲学の絶対矛盾的自己同一、鈴木大拙の般若即非の論理、華厳の事事無碍法界
真宗では横超という他力(無分別)の世界に触れるしかないと言えます。
鈴木大拙先生が、かなり具体的に昭和十四年に答えていたように思います。
下記に引用してみました。
虚無の体であることを体得する時に、真宗では往生ということが決定し、その往生決定せられたということがすなわち極楽である。禅ではこれを悟りをひらくというのであります。この意味からいえば、娑婆は寂光土だといい得るかもしれない。また寂光土がすなわち娑婆だということもできる。そうすると、苦しい世界だ、汚れた世界だといっていながら、そこに苦しくも、汚くもないものが見られなくてはならぬ。生死の悩みを受け入れぬもの、喜も憂もないもの、道元禅師の言葉でいえば、仏の御命(真宗では仏の誓い)というか、無心の世界というか、どうもそういう世界が、われら人間の精神的生活の上にあるように感ぜられるのです。そういう世界をどうしても一度見て来ないと無心ということの話ができない。また往生ということも言われぬのではないかと思うのです。(略・無分別そのものに触れる)
死んでから往生するということでなく、またこの世は苦しいもの、しかしこの苦しいのも暫くの間だ、これが済むと、浄土に逝くというようなことでもないと思います。ある意味ではそういってもよいかもしれぬのです。それはどうしても精神的にまた差別の境地を脱離した体験を持ち得ぬ人々のために、説くことだと信じます。(広―分別)
極楽は死んでから往くとよく申しますが、宗教的精神的立場から話しする時には、事実上、われらは今生きていると言ってもいい(広)し、死んでいる(略)と言ってもいいのだと思います。が、極楽とは向こうにあるもの娑婆はこちらにあるものというような言い方もあります。しかしこれは概念の上での話で信心はそんなことで決まるのではないと言いたい。これはまずいずれにするとしても、信心の決まるところから見ますと、苦しんでいながら(広)苦しくない(略)ところがある。娑婆に生きていて(広)しかもまた極楽に死んで往っている(略)ところがある。死ねば楽土に往く(広)といってもよいし、現に今楽土にいる(略)と見ても善い。娑婆にいながら(広)向こうの極楽がここにある、十万億土まで行かなくても、今現にここに極楽がある(略)と見てもよい。
(『無心ということ』鈴木大拙著)
無分別―略・無分別の分別―広、を当てはめて読む
広とは、私たちの分別から離れない捉え方にそくしたもの
無分別とは何か。私たちの分別が破れた時、無分別に出会える
チャンスがある。
本来、無分別とは言葉で表現できない。表現には分別が必要 (無分別の分別)
何が善であり何が悪であるか、わからなくなった時、自分の思いが
破られた時、私の分別も破られていく。
推理小説で、犯人が誰か、なかなかわからない時も分別が破られる
分別が破られ出てきた言葉
腹を立てさせてくれて有難う。思い通りにならなくて有難う。
憎い奴、長生きしてくれて有難う。
「称は、はかりというこころなり」
しかし、分別が破られたという自負心が、また新たな分別として
(一念多念文意)
私を包んでしまう。だから、無分別にとどまることはできない。
新たな分別を破る言葉
腹を立てさせてバカヤロー。思い通りにならなくてバカヤロー。
憎い奴、死んでくれて有難う。
私たちはなかなか無分別(成仏)ということがわからないからこそ
死ぬ時、初めて無分別になる(成仏)と説かれるとわかりやすい。
死んだら痛くもかゆくもなく、分別から本当に解放されるから。
往生という言葉は、浄土と穢土を結びつける、親しみやすい言葉で
もある。無分別を認識した言葉が往生かもしれない。しかし、認識
している限り、分別から離れられない。
無分別を認識した時、浄土が開かれてくる。その時、往生が決定
する。(往相) しかし、生きている限り無分別にとどまることは
できず、分別の世界に舞い戻ってしまう。これを還相という。
無分別に触れた感動は、仏からの賜りものだから生涯消せない。
悲しいことに無分別は、言葉では表現できない。
あえて表現すれば、ナムアミダブツかもしれない
念仏・成仏(無分別)これ真宗。
往生を認識して成仏を待つ。無分別からは往生即成仏。
『教行信証』の信巻に、親鸞が逆対応的な表現を取っている箇所があります。
どこでしょうか? (やはり横超のところです)
おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、
造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず、善にあらず、
頓にあらず、漸にあらず、定にあらず、散にあらず、正観にあらず、
邪観にあらず、有念にあらず、無念にあらず、尋常にあらず、臨終にあらず、
多念にあらず、一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。
たとえば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来の誓願の薬は、
よく智愚の毒を滅するなり。
(信巻 聖典P236・岩波P169)
鈴木大拙氏は、『教行信証』信巻のこの文に出会い、
「般若の論理は霊性の論理であるから、これを体得するには、
横超の経験がなくてはならぬ」と言われたと思います。
鈴木先生の「無心の世界」に深く踏み込み、論註の広略の止観の
体験的解明を表されていることに深く感銘しました。
私は、これまで浄入願心章と浄土荘厳の道理の解明とのみ了解して
それが念仏の止観の内実であることを忘れていたことを気づかせて
貰いました。
ただ、無生の生(浄土と往生の両面)、願生と得生についても考える
必要があるかと思います。 (幡谷 明 大谷大学名誉教授)
●次回は、『摂大乗論』から無分別を探っていきたいと思います。こうご期待下さい。